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日蓮大聖人・池田大作

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愛媛県婦人部勤行指導会 大聖人の御本意は ”水の信心”に

1978.1.19 「広布第二章の指針」第12巻

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1  「火の信心」「水の信心」の二つの姿があると、大聖人は仰せになっておられる。
 「火の信心」は一時的には感激し、真剣に唱題し、布教もするが、永続性がない。「水の信心」は、いわゆる派手な姿はみせないが、心堅固に、生涯にわたって、不携の決意と使命感をもって、信・行・学を持続する人のことである。われわれは「水の信心」でなくてはならない。
 その「水の信心」を貫きとおすために、組織というものが要請されるのである。その理由は、一人だけの信心になると、持続ができず、我見に陥ったり、精進を忘れたり、自身の向上の基準がみえなくなってしまうからである。
 たとえば学校においても、幾十人かの級友がいてともに学びあうなかに、はじめて自分の進歩の度合いがわかるものだ。同じく、退転しかかるときがあったとしても、つねに多くの善知識の人々が、あるときは叱咤し、あるときは励まし、あるときは手をとり、肩をたたき、正しい信仰者としての推進役となってくれるであろう。また「火の信心」という狂信的な傾向性を正してもくれる。したがって、理想的な「水の信心」を持続させていくためには、どうしても組織が必要となるのである。
 その「水の信心」を貫きとおすための仏道修行の大切な場として、会合がある。その会合に、仕事等のために遅れてくる人もいる。その人の立場も理解することなく、注意したり、ただ感情的にしかってはけっしてならない。むしろ遅れても、馳せ参じたその行為を最大に包容し、真剣な信心の姿を賛嘆するのが正しいのである。
2  先輩と後輩のあり方
 やたらに人をしかってはならない。幹部だからといって、権威主義的に自分の下にみることは仏法の精神に反する。謗法とは厳しく対峙しなくてはならないが、同志の活躍に対しては、激励ならびに賛嘆すべきである。
 われわれは立場はどうあれ、全員が御仏意のままに進んでいかねばならない尊い地涌の眷属である。各人が互いに尊敬しあうことが、仏法の本義であるからである。
 信心の同志だからといって、私的なことにまで深入りしたり、迷惑を与えるようなことはけっしてあってはならない。人間としての権利をおかすようなことがあってもならないし、おかされることもあってはならない。ただし、信心と広宣流布のことについては、けっして遠慮することなく、惜しみない指導をしていかなくてはならない。
3  よき先輩は大切にすべきである。また先輩は、よき後輩を大切にしなくてはならない。それが、広宣流布への人材山脈を築きゆく原理であるからだ。
 学会は、多種多様の人々の人間共和の社会といってよい。さまざまな意見がそれぞれでるのは当然だろう。しかし、ともどもに信心を根本とし、広宣流布という大目的に心を一つにしていった場合には、そうしたさまざまな意見のなかから、もっともすぐれた考え方、
 いき方に、一致した結論を見いだしていけることを確信すべきである。
 これだけ大勢の人が信心していれば、なかには退転する人もいるだろう。しかし、退転したからといって、その人を折伏し、紹介した人の責任ではない。折伏をしたという功徳は残るのであるから、そのことを深く確信し、けっして落胆せず、再び弘教に勇んで邁進していただきたい。なお、退転した人の御本尊については、各地域の本部に大切にご返還いただければ、私がすべて代表として総本山にご返納申し上げることになっていることを、ご了承願いたい。
 最後に、大切な愛媛の皆さん方に、
  成仏の 幸の道あり 妙法の
    千里の山も 功徳といざ征け
 との一詩をお贈り申し上げ、本日の指導にかえさせていただきたい。

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