Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京婦人部記念勤行会 喜悦のための人生と信心を

1978.1.14 「広布第二章の指針」第12巻

前後
1  われわれは、なんのためにこの世に生をうけたのか。それは「衆生所遊楽」と法華経寿量品にもあるように、この人生を”楽しむ”ためである。仏法の信心とは、苦渋の人生より遊楽の人生へ転換していくためなのである。
 厳密に古今東西の宗教を追究してみると、例外なく、人間を”神”のもとに隷属させたり、あるいは欲望を禁圧するなど、人間性の健全な発現をむしろ抑えてきた。
 それに対し、日蓮大聖人の仏法は、凡夫のわれわれが、大聖人の生命である御本尊に、南無妙法蓮華経とただ唱えゆくところに、喜悦遊楽の源泉が事実の生活のうえにあらわれると教えるのである。
 御本仏である大聖人は仏界所具の人界であられ、凡夫のわれわれは人界所具の仏界である。「染浄の二法」の原理で、三毒に染まったわれわれの生命も、唱題によって清浄なる仏界の生命へと転換していけるのである。まことにありがたい仏法である。
 この仏界の顕現により、混濁の社会にあって、みずからの主体性をたもちながら、つねに楽しい「常楽我浄」の人生を送ることができる――ここに、仏法の究極の人生観がある。
 ”遊楽といいながら、なぜ大聖人は難に遭われたのか”との疑問をもつ人もいよう。だが大聖人は、最大の苦難であった佐渡流罪においてさえ「喜悦はかりなし」と述べられている。まことに偉大なるご境涯であられる。つまり、人生を遊楽するもしないも、結局は境涯の問題なのである。
 このより深く、大きい境涯を開く根源が、信仰における勇猛心であり、信心の勇猛心なきところには、くずれざる遊楽はないことを知っていただきたい。信心強き人とは、なにがあっても”題目を唱えよう”と御本尊に向かう人のことである。”御本尊に唱題しよう”という強い信心と持続の実践が、深ければ深いほど、強ければ強いほど、磁石が鉄をすいよせるように福運はついてくる。
 常楽我浄の人生を築いていくためには、もはや末法においては、三大秘法の御本尊しかないのである。ともに広宣流布に向かいゆく和合僧のなかに生きぬくときに、その度は増すであろう。
 仏法で説く幸福観とは、外界の条件に依存する世間の相対的幸福でなく、御本尊への信によって自身の境涯を開く絶対的幸福の道である。また、和合僧、すなわち近代においては組織のなかで戦うことが、依正不二で水の信心となり、あるいは諸天善神となり、善知識となることを忘れてはならない。そこに、われわれの遊楽の福運の人生をささえゆく、現世即三世にわたるくずれざる法則があることを銘記すべきである。
2  ”広布の母”の使命
 自分自身と家庭を大切にしてほしい。信心といい、広宣流布といっても、自分自身と家庭の姿に、集約されるといってよい。
 とくに家庭において中心となっていくのは、やはり母親であり、主婦である。家庭をどのようにうまく運営していくかという責任は、主婦にあるといっても過言ではない。太陽が昇ればすべてが明るくなるように、母親の信心、聡明さによって、主人も子供も変わっていくという原理を知ってほしい。
 ともかく、信心強盛に、御本尊に具体的な祈願をしていくことである。願いはかならず叶う。たとえ、すぐに叶わなくても、冥益で、時とともに、所願満足となっていくことを確信されたい。
 このなかには、未入信の夫や子供をもっておられる方もいよう。夫や子供を信心させようとしてあせる必要はない。みずからの信心によって一家の福運が増したとき、柿の実が熟するごとく、いつの日か、みずから信仰を欲するときがくるにちがいないからだ。
 わが家はわが家らしく進んでいただきたい。その根本は、当然のことながら、夫を思い、子供を愛する一念で信心し、家庭をあたたかくしていくことに尽きる。
 こういう不安の社会であるだけに、いろいろなことが起こる場合がある。しかし、強盛な信心と祈りさえあれば、すべて、変毒為薬していける偉大な仏法であることを確信されたい。
 人生の勝利というものは、今世の苦と楽の総決算によって決まるといってよい。その
 楽の源泉は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せのごとく、題目を唱えに唱え、そして題目を流布していく法友のなかにいることが、最大の楽しみの人生の蓄積となっていくことを忘れないでいただきたい。これが人生の勝利であり、福運に満ちた信心の功徳であるということを確信されたいのである。

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