Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

創価学園創立10周年に寄せて――メッセ… ”何のため”の原点忘るな

1977.11.19 「広布第二章の指針」第11巻

前後
1  本日は、意義ある創立十周年の記念の集い、まことにおめでとうございます。また本日まで数多くの鳳雛たちを薫育し、世に送り出してくださった教諭の皆さま、また、それを陰に陽にささえてくださった父兄の皆さまには、創立者として厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
 私は、学園寮歌の一節にある「何のため」という響きが、ことのほか、好きであります。「英知をみがくは何のため」「情熱燃やすは何のため」「人を愛すは何のため」等々、そこには、ともどもに学舎に集いあった青春の原点があるからであります。社会一般では、教育の危機ということが、大きな社会問題にまで発展してきておりますが、私はその最大の原因は、この「何のため」という原点を問う姿勢が失われたところにあると考えます。
 ゆえに、ここ武蔵野の一角に、このさわやかな歌声のこだましているかぎり、創価学園は健在であり、教育界に希望の松明を掲げゆくことができると、私は信じております。どうか、建学の精神を忘れることなく、きょうよりは、さらに次の十年をめざして、新たな伝統を築きゆかれんことを、心よりお願い申し上げます。
 その意義を込めて私は、最近、若い人たちに接しながら感じていることの一端を、申し上げてみたいと思う。
2  真実の友情は生涯の財産
 その第一は、友情ということであります。ドイツの詩人シルレルが「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」と述べているように、真実の友情は、人間としてのかけがえのない宝であります。心を打ち明けることのできる友のいない人生ほど寂しいものはない。とくに青少年時代につちかわれた友情は、生涯にわたって、人生のささえとなっていくものであります。
 社会に出てからのつきあいというものは、一部の場合を除いて、ともすれば利害や打算がからんできて、真の心と心の通いあいにまで昇華しない場合が多い。それに比べて、諸君の時代の友情は、全生命を賭けての出合いであります。
 諸君がよくご存知のように、親や教師にさえ打ち明けられないような悩みごとも、親友同士ならば、ごく気楽に相談できる場合が多々ありましょう。それほど、少年時代、青年時代にもつ友情の意味は大きいのであります。
 ところが最近では、こうした青春の証ともいうべき友情が、徐々に崩されつつあるように思えてならないのであります。学歴社会のなかで、成績も思うようにならず、さりとて喜びや悲しみを分かちあう友ももたず、孤独のなかにのめり込んでいく。その結果、自暴自棄になったり、あげくは、みずからの生命の若い芽をつみとってしまうような場合も、ままみられるのであります。
 私は、そうしたニュースに接するたびに、彼らに一人でも心から語りあえる友があったならと、胸の痛みを抑えることができないのであります。
 たしかに諸君たちを取り巻く環境は厳しい。受験に偏った現代の教育のあり方に、さまざまな疑問を感ずる場合もあるかもしれない。しかし、そうした矛盾は、多かれ少なかれ、いつの時代にもあったことであります。
 私は、前途ある諸君に「嵐に負けるな」と申し上げておきたい。そのためにも、深く強靱なる友情の絆を固めていっていただきたいのであります。
3  漢文等で習ってご存知の諸君も多いでしょうが、中国の「列子」のなかに”管鮑の交わり”の故事が出てまいります。
 春秋時代の斉の国に、管仲と鮑叔という二人の青年がおり、大の仲良しであった。鮑叔は、管仲が商売で儲けても、彼の貧乏をよく知っていたので、欲張りとはいわなかった。なんど頸になっても、人生に運、不運はつきものだから、無能呼ばわりはしなかった。また、戦場から逃げかえっても、老母のあるのを知っていたから、卑怯者とは思わなかった。後に大政治家となった管仲は「私を生んでくれたのは父母だが、私を知っている者は鮑君だ」と述べたというのであります。よく、友情の厚いことにたとえられる故事であります。
 私は、ここから学ぶべきことは、友を愛し、友を思いやる心が、いかに大切であるかということであろうと思う。もし、これがなくなったならば、学生生活は闇に等しい。真実の友情というものは、学問の知識にもまして、諸君の生涯の財産となって輝いていくのであります。
 あるいは、なかには、それに値するような友人が見つからないという人が、いるかもしれない。しかし私は、それは大きな考え違いであると申し上げておきたい。なぜならば、人を愛し、人を思いやる心は、相手によって生まれてくるものではなく、まず自分の心のなかに築き上げるものであるからであります。まず自分が、そのような豊かな人間性を身につけるならば、友人は、しぜんとできてくるものであります。たとえば、鏡に向かってお辞儀をすれば、鏡の自分もお辞儀をするごとく、自分自身の心が相手の心を呼び醒ましていくことを知ってください。
4  たしかに、他人の成功を嫉み、他人の失敗を喜ぶ醜い心は、だれにでもある。私はちょうど諸君の年代のころ、芥川龍之介の「鼻」を読んだことを記憶しています。
 禅智内供という非常に鼻の長い坊さんがいて、人に笑われるのを、いつも苦にしている。あるとき、よい方法を発見し、荒療治をほどこして、鼻を短くすることに成功するのですが、彼の思惑は見事にはずれてしまう。というのも、人々の笑いはいつこうにおさまらず、かえって陰にこもったものになってくる。――ここで芥川龍之介は、次のように述べています。
 「――人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、たれでも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事ができると、今度はこっちでなんとなく物足りないような心もちがする。少し誇張して言えば、もう一度その人を、同じ不幸におとしいれてみたいような気にさえなる。そうしていつのまにか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対していだくような事になる」
 ここに描かれているのは、だれでももっている人間のエゴイズムであります。若い人たちといえども、それと無縁ではない。それどころか、若いだけに、それが鋭く露出されてくる場合も多いわけであります。
 私は、若さの特権というものは、そうした人間の醜い感情を敏感に感じとれる点にあると思う。それが、社会の垢に染まっていない若者の純粋さということであります。
 どうか諸君は、へんに大人びたり、シラケたりすることなく、自分との厳しい戦いを忘れないでいただきたい。その自己との対決のなかにこそ、友の喜びをわが喜びとし、友の悲しみをわが悲しみとする真実の友情の花が爛漫と咲き誇っていくことを、私は確信しております。
5  忍耐は人生の力なり
 次に私が申し上げたいことは、忍耐ということであります。フランスのある作家の。言に「忍耐とは仕事を支えるところの、一種の資本である」とありますが、含蓄の深い至言であると思う。
 忍耐は力であり、人生の勝利の凱歌につながっていく。挫折は人生の敗北であり、精神の敗退である。いな、たとえ挫折したとしても、忍耐が貫かれ、不死鳥のごとく立ち上がっていくならば、人間のつねとしての挫折も、たとえそれが何度あったとしても、人生の最後の勝利を勝ちえていくものであります。
 諸君は、これからの長い人生をひかえた青春時代であるがゆえに、心の振幅も大きく、挫折もまた決定的とさえ映ずる場合もあることでしょう。しかしそれは、じつは、より大きい自分自身の形成のための試練であり、跳躍台なのであります。その苦難を克服するたびに、忍耐の力は増しゆくことでありましょう。
 私はここで、一人の先人の歩みを紹介してみたい。じつはそれは、私のよく知る日本創作舞踊の功労者である一婦人の祖父にあたる方の話であります。
6  いまは亡きその祖父は、和井内貞行という人で、あの有名な十和田湖のヒメマス養殖を成功させた方であります。
 いまでこそ十和田湖はヒメマスの養殖場であるとともに、美しい国立公園として全国にその名を知られておりますが、明治初期、和井内氏がヒメマスの養殖を成功させるまでは、一匹の魚も生息しない、ただ大きいというだけで、だれからもかえりみられない湖であった。
 湖畔の村々は貧しく、とくに魚介類となると、遠く青森の八戸や秋田の能代あたりまで行かなくては手に入らない状態であった。この村の窮状を見て、和井内氏は「もしこの巨大な湖に魚が育ったら、村人はどんなに助かり、そして地域が発展するだろう」と考えたのであります。
 思索を重ね、氏がはじめて湖に鯉を放ったのは、明治十七年、二十六歳のときでありました。なんとか貧しい村の活路を開きたいと願っての、この最初の試みは、見事に失敗してしまった。
 しかも、湖に一匹の魚も住まないことを土俗宗教に結びつけ、神話化していた村人は「それみたことか」とばかり和井内氏の行動を冷笑し、あからさまに批判しはじめたのであります。
 しかし、一度の失敗はかえって和井内氏の闘志をかきたてた。研究に研究を重ね、私財をはたいて二度目の放流を試みる。ところが、これも失敗に終わった。
 因習深い村人の非難、中傷はますますひどいものとなり、湖畔にたたずむ和井内氏を狂人呼ばわりするようになったのであります。しかし、罵倒されながらも、和井内氏は一言のいいのがれも、いいわけもしなかったというのです。”水がある以上、かならず魚を養殖することができるはずだ。もしそれが成功すれば貧しい村はよみがえる。そのとき人々はきっとわかってくれるだろう”――この思いを胸にあたためつつ、不死鳥のように己が信ずる道を歩みつづけたわけであります。
 目的成就までの途上に、一度や二度の失敗はかならずあるものです。いな、ときには絶望的な厚い壁に直面することだってあります。くわえて世評というものは厳しい。心ない非難の矢が無数に射られてくる。しかし、ほんとうに大事を成そうとする人は、そうした世間の風評に、一つひとつ自己を正当化するような弁を弄しないのがつねではないかと思う。
 事実、和井内氏もそうであった。非難、中傷に一喜一憂せず、黙々と己が信条を貫いていったわけであります。もちろん、数々の悪口雑言は、和井内氏の心を傷つけたでありましょう。忍耐の忍という字は心に刃と書くように、想像を絶する苦しみである場合が多い。ともかく、非難、中傷のなかでの和井内氏の忍耐強い戦いは、二十一年間の長きにわたってつづけられたのであります。
 そしてついに、明治三十八年、十和田湖でのヒメマス養殖に成功した。氏は四十七歳でありながら、頭髪には老人に見えるほどの白いものがあった。そして、一切の私財を使い果たしたその姿は、それこそ乞食のように見えた。しかし、村人のだれひとりとして、和井内氏の姿を笑うことはできなかったというのであります。
7  世評にこびず、中傷にも耐え、想像を絶する戦いの果てに村人を救った和井内氏の姿は、忍耐という文字にみがきぬかれた、おかしがたい人間としての風格と輝きをつくりあげていたのではないかと思う。目的成就の途上”狂人”と呼ばれたその名は、いま、十和田湖救済の人として語り継がれているわけであります。
 私が、なぜこのようなことを訴えるかというと、最近の中学生、高校生のあいだに、この忍耐という気風が、薄れつつあるようにみえるからであります。
 新聞紙上をにぎわすティーンエージャーの自殺などをみても、宿題ができない、成績が思うようにならない、教師に叱られた、受験に失敗した等々、あまりに単純な理由が多すぎる。入学試験など、受験生にとっての大問題を単純というと叱られるかもしれない。しかし、それにしても死を選ぶほどの挫折ではないと思うのであります。
 その背景には、よく指摘されるような○☓式教育の弊害も当然あるでありましょう。人生には○と☓しかない――すなわちオール・オア・ナッシングの考え方であります。
 まことに単純な生き方という以外になく、学園の諸君はそうしたものに染まってはならないと思う。
 一つの目標達成に失敗したからといって、それで人生のすべてが無に帰するようなものではけっしてありません。ほかにいくらでも選択の幅はあるものであります。その”人間いたるところ青山あり”との広い視野を支えるものこそ”忍耐”の二字なのであります。
8  私は少年時代、アレキサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」を愛読いたしました。その最後の一句は、いまだに記憶に焼きついております。それは「待て、そして希望をもて!」というものであります。もとよりこの小説は、自分を陥れたものに対する復讐をテーマにしたものですが、その最後の一句は、仇討ちという暗い印象を超えた、ほのぼのとしたヒューマニズムをたたえており、幼心に忍耐ということの重要性を学んだものであります。
 どうか諸君も、これからの長い人生において、つねに希望を失わず、雑草のようにたくましく、そして忍耐強く生きぬき、最後に人生勝利の栄冠をかちとっていくよう、心から祈るものであります。
9  偉大な使命感に立つ行動を
 ともあれ青春時代は、感情の揺れがことさら激しい時代であります。ときには劣等感にとらわれて、前途を悲観するようなこともあるかもしれない。しかし、諸君たちの内部には、自分でも考えられないような偉大な力が秘められていることを忘れてはならない。
 江戸時代の中期、信州松代藩の家老に恩田木工もくという人がいました。彼の事績、人となりについては「日暮硯」という書物に詳しく書かれてありますが、藩の財政的窮迫にさいし、弱冠十六歳の藩主・真田幸弘から”勘略奉行”(これは財政整理の奉行という意味ですが)の命をうけ、艱難辛苦のすえに見事、藩財政を立て直した人物で、あるいはご存知の方もいるかと思う。
 彼が活躍した時代は、九代将軍・徳川家重の治下で、前代の吉宗時代にみられた綱紀も年とともにゆるみ、やがてかの田沼意次が頭をもたげはじめようとしたころであります。
 松代藩においても、先代真田公が人材登用の道を誤り、その結果として悪臣がばっこし、藩政を私物化していた。加えて地震、洪水等の天災がしきりにつづき、ために財政は極度に窮乏、当時としては珍しい足軽の同盟罷業(もちろん、今様にいえばストライキですが)があったり、百姓一撲なども起こって、藩政は乱れきっていたようであります。
 その昔、松代の真田家というのは、富裕な藩として聞こえていた。「貯蔵の黄金の重みで城の櫓下の石垣が傾いた」という言い伝えがあるほどであります。それが役人の乱脈、天災等によって財政が窮迫し”半知御借”といって、本来、藩士に支給すべき扶持米を半分に減らしたり、農民には先へ先へと年貢を繰り上げて徴収する”先納先々納”を強制するまでに落ちぶれてしまった。
 こうした窮状を立て直すべく、恩田木工が手がけた第一の改革は、まず自分自身と家族の生活から改めることでありました。一族郎党を集めた席で、彼はまず親類に対し「縁をきらせてもらう」といい、妻に対しては「親元へ帰るように」、子供には「勘当するから、今後は好きにせよ」、そして家来に対しては「暇を出すから、どこなりと奉公先を見つけるように」と、それぞれ言い渡したのであります。
 なぜ、彼がこのような冷徹とも思える行為に出たかといえば、人心一新のためには、それまで役人のあいだに横行していた”嘘言”や”変改”を一掃しなければならない。
 自分にそれはできても、親戚、家族にまで強要することはできない。となれば、いくら自分一人が「ウソはいうまい」と誓っても「身内の者があのとおりなら木工も同じ」と人々が疑うにちがいない。そうなっては、このたびの大任を果たすことができない――ゆえに、さきのような厳しい注文を親戚、家族につきつけたのであります。
10  ことのしだいを聞いた身内一同は、一人として彼の元を離れようとはせず「ウソをいわない」ばかりか「飯と汁より外は食べない」「木綿より外の衣服は着用しない」ことまで誓うようになるのであります。
 第二に彼は、役人や領民に対して、みずからが嘘言を吐いたり、変改したりしないことを誓い、そのうえで藩の窮状をありのまま訴え「自分だけでできる仕事ではないのだから、なんでも気安く相談してほしい」と、領民が心を一つにして財政の立て直しに協力するよう呼びかけた。
 そして、彼の人柄が象徴的に表れるのは、悪事のかぎりを尽くしてきた役人に対する処置であります。横暴な役人に対する領民の不満を書面に書き出させた木工は、死刑にしてもよいほどの役人たちであるにもかかわらず、あえて藩主に処罰の撤回を申し出て、自分の”相役”すなわち、仕事上の相談をする相手の人として遇するのであります。これに感激した彼ら役人は、木工を支えて藩の立て直しに身を粉にして働くようになる――人心の機微をとらえた木工の的確にして懸命な戦いによって、当初の目標である五か年を待たずに、藩の財政が見事に立ち直ったというのであります。
11  なにぶん、封建時代の話であり、そのまま現在にあてはめるわけにはいかない面もありますが、彼が一人、身を挺して藩の改革に立ち上がり、領民すべての力を結集させて、大事業を見事に成し遂げたという事実は、私どもにも、なにがしかの示唆を与えてくれます。それは、一念を定めた人間の必死の行動が、いかに大きな結実をもたらすか、ということであり、一個の人間の偉大さであります。
 その偉大な力を生み出したのが、恩田木工の使命感でありました。彼が死んだときは、人々はこぞってその徳をたたえ、漏れる者は一人もなかったとさえ伝えられております。藩財政の立て直しという仕事を木工はみずからの使命としたのでありますが、その結果は、それ以上の成果を生み出したのであります。
 諸君たち一人ひとりも、これからの人生において、現実社会のなかで、木工に勝るともけっして劣ることのない使命をもっていくはずであります。その使命への強い責任感に立つとき、才能の芽は急速に伸び、偉大な力が発揮されてくるものであります。どうかそのことを深く自覚し、悔いなき青春桜の道を乱舞していってください。以上をもって、私の諸君への贈言とさせていただきます。

1
1