Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

北海道創価学会広布功労者追善法要 草創開拓の同志を忘るな

1977.10.3 「広布第二章の指針」第11巻

前後
1  本日は、広宣流布のため、創価学会とともに草創期から戦ってきた尊い先覚の同志に対する追善法要を懇ろに営むことができ、私としてもこれ以上の喜びはない。
 いまは亡き北海広布の功労者たちも、戸田記念墓苑における今回の記念行事を見たならば、どんなにか歓喜されたことであろう。
 事の仏法の世界においては、たんなる悲観的な見方であったり、抽象的な思いで終わったのでは、仏法の真髄には伝わらない。現実に生きている遺族の方々が、唱題しながら人間としての最高の生きがいを満喫していく――この喜びの実相が即、故人の喜びの実相であり、これが生死不二の究極の原理なのである。
 したがって、皆さん方の妙法の大福運につつまれゆく姿こそ、故人に対する最高の回向であり、そこに仏法の真髄もあるということを深く確信していただきたい。
2  広宣流布の世界に名を連ね、尊い生涯を送った方々は、一人も残らず、御本尊即日蓮大聖人のもとに馳せ参じた地涌の勇者であり、殉教の仏である、と申し上げておきたい。
 大正法流布に進みゆく和合の世界が創価学会であるがゆえに、創価学会として、そうした諸精霊のために追善回向していくことは、当然のことである。また、創価学会の同志がいっしょに集い、故精霊に唱題して回向していくのも、共戦の友への同志愛からして、これまた当然のことである。
 永遠の生命観に立ち、ともに唱題しながら生死不二という仏法の真髄を共有しあっていくこの生き方こそ、私は同志として正しい追善法要のあり方であると信じている。
 この意味からも、遺族の方々は、本日からは、さらに強い一念、強い信心を奮い起こして、自分自身のため、ご一家のため、すべての環境をよりよく変革していける三変土田の実証を示していっていただきたい。
3  生死不二の仏の境涯
 きょうの法要にちなんで「上野殿後家尼御返事」の一節を拝読したい。
 「きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」
 これは、夫・南条兵衛七郎を亡くした南条時光のお母さんに対してしたためられた、日蓮大聖人の激励のお手紙である。
 そして御文の意味は――われわれが生きているあいだに、御本尊に唱題し、広布の実践に励むことじたい、総じて仏の境涯である。ご主人はすでに亡くなられているが、生前、信仰を貫いたことにより、その故精霊は”死の仏”となる。すなわち、生死ともに仏であるという、仏法の極理が明かされているのである。
 この御文に示されているごとく、ひとたび御本尊に題目を唱え、広宣流布の運動に連なったわれらは、生きても死んでも即身成仏という大事の法門に入っている。したがってこの御文は、信心の血脈があるかぎり、皆さん方は三世にわたって仏果を得、生死ともに絶対的幸せの境涯に入ることは間違いないという、まことにありがたい証文ともいえるのである。
 幸せといっても、地位や名誉などによる、いわゆる相対的な幸せがある。これに対して、仏法で説く幸せは”生命の財”を根本とする境涯論といえる。
 時とともに色あせていくような幸せの境涯ではなく、目蓮大聖人は、信仰をたもったわれわれ現実に生きる者も、また故精霊も、すべて「仏」という最高の生命的境涯に入ることをご断言なされているわけである。どうかこの】点を強く確信していただきたい。
 私が、この戸田記念墓苑を”生死不二の永遠の都”としたい旨、提案するのも、妙法に生きるわが同志が、御本尊に照覧されながら福運に満ちた尊い生涯を送ってほしいとの願いからにほかならない。
 皆さん方が、このように晴れがましく戸田講堂に参集している姿こそ、まさに”生の仏”であり、いずれは、墓苑に入る(笑い)――これは”死の仏”となる。そしてまた、この現実世界に生をうけ、波乱万丈の広布の生涯を送っていくこうした繰り返しの姿が、すなわち”生死不二の都”である。
4  身口意の三業で実践
 さらに御文には「若し能く」とあるが「能く」の一語に、重要な意味が込められている。「能く」とは、身口意の三業で日蓮大聖人の仏法を実践していくことである。これはなかなか容易なことではない。しかし、この容易でない実践の方途を正しく教えてくださったのが、牧口初代会長であり、戸田前会長であった。幾多の弾圧の嵐をくぐりぬけ、みずからの犠牲をも顧みることなく、大法弘通に殉じた先師ならびに恩師によって、凡愚の身でありながらも私どもは、広布信心の正道を歩んでこられたわけである。
 ともかく、広宣流布の途上で亡くなられた方々のために、このように法要を営み、その席に連なったという事実を、身口意の三業にあてはめるならば、これは身で読んだことになる。また唱題し、御書の講義を行い、仏法を説く姿は、口で読むことになる。心のなかで深く広布を願い、御本尊を信ずることは、意で読むことになる。
 このように、仏法流布の運動に挺していくならば、しぜんのうちに「能く持ち」、正しく福運のリズムを築いていくことができるのである。この意味からも、今後とも生命の宮殿を開き、仏界の生命を薫発しゆく一生成仏のため、勇んで実践に励んでいかれるよう、心から念願してやまない。(要旨)

1
1