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日蓮大聖人・池田大作

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遠州圏広布功労者追善法要 仏法は平等大慧の哲学

1977.6.19 「広布第二章の指針」第10巻

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1  御本仏日蓮大聖人は「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」とおおせである。
 われわれはとくに「別にはこれなく候」の一節を深く肝に銘じたい。一生成仏といっても、人間革命といっても、三大秘法の御本尊に祈りきっていく以外にないとのご断言である。
 身分や地位がどうあれ、この原点だけは絶対に変わるものではない。仏法は平等大慈の哲学といわれているゆえんも、この一点にあることを知っていただきたい。
 経文に「若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え」と説かれているとおり、日々の勤行は、御本尊におしたための宇宙究極の実相と深く相対する祈念の姿勢であっていただきたい。
 そのさいのわれわれの目の位置は、御本尊全体を見るのだが、焦点は「妙」の一字に定めて行っていくことが望ましい。あくまでも姿勢を正し、だれがみても”すがすがしい”といわれるような凛々しい勤行の励行であってほしい。
 「御義口伝」には「疑い無きを信と曰い明了なるを解と曰う」と説かれているが、この疑いの心が無いということこそ、信心の究極といえる。すなわち、願いが叶っても叶わなくとも、御木尊に疑いの心なく題目を唱えぬいていくことが大事なのである。
 われわれの生活環境は、日々年々に変化し、それに即応して振る舞っていくことは社会人として当然なことであるが、根底の祈りの姿勢に関しては、いささかたりとも環境に流されたり、紛動されたり、主体性を失っていくようであってはならない、と申し上げておきたい。
 御本尊には、どんなささいな問題でも、自分の生命に感じたものはすべて真剣な祈りに込めていこう。そして、その祈りが結実するよう誠心誠意の努力を怠ってはならない。勉強もせず、努力もせずして一流の大学には入れない。と同じように、実力に相応した努力を根底の祈りのうえに開花させていくことが大切である。
 人それぞれに、もって生まれた宿命が異なるように、その宿命打開の状況もさまざまである。ともかく”いかなる日でも、太陽は同じ軌道を運行しているように、われわれもまた、いかに現実が厳しくとも、御本尊への疑いなき祈りを繰り返していく”――この実践を水の流れるように、一生涯貫いていくことが、最高の信仰道であることを忘れないでいただきたい。
2  ”我”を根本にしたわがままないき方は”火の信心”であり、そこには持続性もなく、また非常識な行動を起こして、大勢の人々に迷惑をかけてしまうのである。皆さん方は、この点、互いに戒めあって、あくまでも御本導根本の和合の前進に連なって、三世十方の仏菩薩の称賛を浴びながら生きぬいていただきたい。
 信仰の同志がいてこそ、自分の信心のエネルギーが薫発され、人間革命、一生成仏を確実に推進していけるのである。この意味からも、われら同志の励ましあいこそ、宿命打開への原動力であり、この崇高な学会指導のうえに立った仏道修行こそ、末法今時における最第一の実践であることを銘記されたい。
 遠州創価学会の皆さん方は、本日から次の二十五周年を目標に”潔い信心”で進んでいただきたい。
 潔い信心とは勇気ある信心のことである。家庭、職場、社会の各分野において、どこまでも常識豊かに、愉快な人生を歩む――この粘り強い信仰の持続を、重ねて強調しておきたい。
 一人ひとりがいちだんと福運を積み、勇気をわかせ、かつ慈愛深い社会人として成長し、活躍していかれるよう心から祈っている。(要旨)

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