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日蓮大聖人・池田大作

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山ロ広布功労者追善法要 遺徳証明の後継者たれ

1977.5.22 「広布第二章の指針」第10巻

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1  本日、追善法要申し上げた山口創価学会の功労者は、日蓮大聖人のおおせどおりに活躍してこられた立派な地涌の菩薩であり、広宣流布の礎として、わが身を殉教にささげたその姿は、このうえなく尊い仏の姿である。
 この名誉ある道を歩んだ先覚者の遺志を継承していくためにも、残された親族の方々は、たんなる遺族としてではなく、南無妙法蓮華経という宇宙根源の法則をたもった後継者であるとの強い自覚を忘れないで進んでいただきたい。
 故人に対して、名誉称号を贈らせていただいたが、これは、世間によくみられるような権威の象徴ではない。御本仏日蓮大聖人の御聖訓のままに信行学を貫いた、仏法上の厳然たる功徳の称号である。
 したがって、妙法広布のうえに生きた尊い足跡をないがしろにすることのなきよう、故人の遺徳を、わが家の姿に証明しゆく仏法者としての大道を歩んでいただきたい。
2  人間生命の蘇生の極理
 きょうの法要にちなみ「千日尼御返事」の一節を拝読し、広宣流布に殉じた先覚の同志が、現在はいかなる境涯にあるかを推察してみたい。
 それは「されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・をはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東きにをはすと日蓮は見まいらせて候」との御文である。
 この御書は、日蓮大聖人の弟子であった阿仏房の夫人である千日尼に対し、亡くなった夫の生命は、法華経の明鏡に照らし、霊鷲山に入っていることは絶対に間違いないことを説かれたものである。
 霊鷲山とは、インドにある山の名で、釈尊が法華経を説いた場所であるが、日蓮大聖人の仏法においては、御本尊に題目を唱える者の住処ということである。また霊鷲山の霊とは「仏」、鷲とは「九界」で、仏界即九界の法理を示し、山とは「宝処」とも展開できる。「宝処」とは御本尊まします各家庭である。
 「多宝仏の宝塔」とは御本尊のことである。そのなかで「東むき」にいるとは、御本尊のなかで、仏と向かいあっているということである。すなわち、仏界に住しているということである。
 この御文をさらに広い意味に拝すれば、妙法広布に活躍するわれら地涌の勇者は、東天に朝日が昇るように生きいきとした生命のリズムで、世々代々にわたって御本尊とともに生まれてくるということでもある。
 広宣流布という未曾有の建設作業に、その尊い生涯をささげた人の生命は、宇宙のどこかに浮遊しているのではない。この地球上で、またはこの地球上と同じような国土世間に生まれて、広宣流布のために活躍しているのである。
 よく戸田先生は「亡くなった人には、題目を唱えて祈念する以外になにも通じないのだ…といわれていたが、故人の生命には、われわれが唱える「南無妙法蓮華経」のみが、回向として通じるのである。
 「妙法」とは、この大宇宙において、生命と生命をつなげていく、いわば電波のような働きといえる。この意味からも、力強い題目を唱えることが肝要である。
 生命力を満々とたたえた皆さん方の祈念が、故精霊の威光勢力を増し、これがまた、当の追善法要した妙法広布の後継者に威光勢力をもたらすのである。この不思議な生命の交流が、先祖無数の方々につながっていくのが、われわれの追善法要の真実の意味である。
 本日の厳粛な儀式をとおして、先覚の同志も心から喜んでおられるものと確信してやまない。皆さん方も、ただ感傷的に故人を回顧する生き方ではなく、強盛なる信心で、妙法の力ある生命の不可思議な交流を確信し、故精霊とともに勇んで二十一世紀に向かって進んでいかれるよう、心から念願してやまない。(要旨)

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