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日蓮大聖人・池田大作

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山口広布開拓20周年記念勤行会 妙法広宣はわが家の福徳

1977.5.21 「広布第二章の指針」第10巻

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1  正法流布の故郷・徳山市を二十年ぶりに訪問することができ、懐かしい思いでいっぱいである。二十年前、この徳山の大地で指導し、折伏、弘教に励んだことが、いまでも鮮明に思い出せる。
 山口広布が始まったなにもなかった当時から比べると、皆さん方の真心と努力の結晶ともいえる法城で、今日このように晴れがましく本因の勤行儀式が行われるようになったことじたい、まさしく徳山にも大福運がついた証左であると確信してやまない。
 人間の現世におけるすべての悲劇の実相というものも、その根因は、過去世における行為にあり、これを仏法では、三世にわたる生命観のうえから、鋭く説いているわけである。
 釈迦仏法においては、不幸をもたらす人間の宿業を戒めるために、五逆罪をはじめとするさまざまな原理が示されていることは、よくご承知であろう。しかし、御本仏日蓮大聖人は、その数多くの御書のなかにおいて、人間の不幸の原因をせんじつめてみるならば、妙法すなわち「南無妙法蓮華経」を誹謗した罪であると明快に結論されておられる。
 一切の不幸の根因を明確にされたことによって、では、どうずれば幸せになれるかの方向も決まるのである。この幸か不幸かの人間のいき方を決定づける究極の当体こそ、私どもが受持した御本尊なのである。
 したがって、この御本尊を離れて金剛の幸せな世界はありえない。如来の使いとして、この御本尊のためにどこまでもご奉公していこう――この一点だけは忘れないで、大福運を積んでいくための勇気ある信心を貫いていただきたい。
 日本だけにかぎらず世界的に不景気な様相となっている。この意味からも、仕事に対しては賢明に対処し、仏法者らしく堅実に努力の開花をめざしていかれるよう、重ねて要望しておきたい。現在が、たとえ上昇機運でないとしても、けっして縁に紛動されず進んでほしい。
 真実の幸福境涯というものは、いまの現象面だけではなく、信仰の深さと長い目でみなければならないものである。人によっては、子孫の代に仏種爛熟の時を迎えることも考えられる。
 ともかく、御本尊第一で「煩悩即菩提」の法理を胸中に深く確信しながら、いかなる悩みにも勇気をわかせ、苦しめば苦しむほど力強く人間革命をめざしていくことが、信仰者の根本姿勢であることを銘記していただきたい。
2  それぞれのご一家が、御本尊を受持した初代の”本家”であるとの自覚をもってほしい。そして、自分の一家一族をはじめ、子孫末代にわたって妙法の薫風を送りゆくための根を張る作業を怠ってはならない。
 根は目に見えないが、根が深ければ深いほど樹木は繁茂し、木の実は熟していくのである。この原理と同じように、後代になるほど栄えゆくようにならなくてはならない。
 皆さんは、そのための根っことなっていただきたいし、本日はその出発であってほしい。
 栄枯盛衰の流転は歴史の常である。しかしわれらは、末法万年にわたる隆昌の歴史を築く本因の旅立ちを開始したのである。本日はこの末法万年に仏法の真髄が輝き渡る、その夜明けの先駆者の集いであるということを確信されたい。
3  強盛な信心が根本
 「四条金吾殿御返事」に「弘決第八に云く「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて物をきり候か」との一節がある。
 これは、自分自身の信心の”心固き”一念の姿勢のみが、われわれを守護する諸天善神の働きを引き出すことができるのだという重要な御文である。すなわち、その人の信心が強盛であるかどうかが、一切のポイントであるとのご教示なのである。
 したがって、いくら御本尊をたもっていても、簡単に退転してしまうような弱い信心では、諸天善神の守護もありえないし、成仏もかなわないのである。
 よく、信仰をたもっているのになぜ、と疑う人の話を耳にする。たとえば、病気になるのがおかしい、といった話であるが、われわれ信仰者の目的は、病気になったかならないかのたんなる現象に惑わされたり、紛動されることにあるのではない。その病魔をいかに冥伏させ、力強い健康体を回復させるか――その強靱な生命力の鍛練と蘇生にあることを忘れてはならない。
 たしかに釈迦仏法において「少病少悩」と説いているが、現在は悪世末法であり、時代相が異なる。人間の機根も生活環境もけっしてよいとはいえない。だからこそ、たとえ病気になったとしても、その病魔と敢然と戦いぬく不退にして不屈の信仰が第一となってくるのである。
 いかなる病でも、それに勝つには生命力を強くする信仰しかない。ゆえに御本尊に直結した仏法者として、なにがあっても勇気を満々とたたえて題目を唱えぬいていくこの根本姿勢の確立が、即安穏の入生を開いていくことを知っていただきたい。
 また「弥源太殿御返事」の一節に「但し日蓮をつえはしらとも・たのみ給うべし……現世安穏・後生善処の御経なり」とある。これは、後生にあっても、結局、頼るべき根本はこの妙法しかないことを明かされたものである。
 「生死一大事血脈抄」に「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」と説かれているように、日蓮大聖人のおおせのままに、一生涯にわたって信心の血脈が流れ通う正信の仏道修行を持続していくならば、後生も安心立命の境涯を確立していけることは絶対に間違いない。
 ただひたすらに、御本尊に題目を唱えていくことにより、三世十方の仏菩薩もすべて用の仏として使いきっていく大福運の人生を築いていかれることを、心から念願している。(要旨)

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