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滋賀文化会館開館記念勤行会 社会に模範の実証が即弘教

1977.5.11 「広布第二章の指針」第10巻

前後
1  御書にも「法華折伏・破権門理」と説かれているように、折伏弘教こそ、われら仏法者の根本精神であることは永遠に不変である。しかしながら、その具体的な実践の放軌においては”時”を知悉することが肝要となる。
 たとえば、戦前の先師牧口初代会長の時代は”罰論”を表としての広宣流布の活動であった。衰微した宗門の矢面に立ち、時の軍部権力の弾圧をも恐れず、ただ一人敢然と、罰論によって誤れる思想を真っ向から破折された。最後は投獄され、獄中において殉教の生涯を終えられたが、その尊い死身弘法の姿に、御本仏の称賛をこうむる創価学会の生死一大事の血脈もあることを知るべきである。
 戦後においては恩師戸田前会長が、不幸な民衆の声が充満する荒廃した社会に一人立たれた。その恩師が折伏実践の旗印として掲げたのは”功徳論”であり”利益論”であった。事実、戦後の日本は、総罰の法理を映すそのものの姿であったといえるし、また、戦後の歴史は”功徳論”と符節を合わせたかのごとく、いちおう物質的な面では繁栄へと向かってきたといえる。
 このように、折伏、弘教精神を根本としつつも、時代即応の実践論を銘記することが大事なのである。
 では、今という”時”はなにが必要なのか――。仏法の峻厳な法理に照らし、折伏精神、すなわち学会精神が根本であることは当然であり、そこに”罰論々も”功徳論”も一切含まれていくわけであるが、もっとも重要な時にかなった方軌は”実証論”であると申し上げておきたい。
2  戦後、創価学会の再建以来三十年――。広宣流布の歴史の流れのなかに、すでに全国的に弘教の波動は広がっている。一人ひとりの信心の年輪も、十年以上経た人々が多くたっていることも事実である。こうした現状の認識、歴史の推移からしても、もし、私どもの活動が、急速なる時代の変遷をわきまえず三十年前と同じであったとするなら、時代錯誤となってしまう。いわんや、戦前とはまったく時代相も異なっている。時代が進むのと同じく、われわれの活動もまた、前進、成長させ、賢明にして価値的な行動でなくてはならない。
 そこに要請されるのが、事実のうえでの証明、すなわち実証なのである。そこに、社会の人々に仏法を理解させ、納得させゆく弘教の方程式もある。
 実証とは、一人ひとりが、現実の生活、人生、さらには日々の学会活動のなかで、模範の人間革命の実証を示していくことである。だれからも”なるほど、さすがである”と心から尊敬され、慕われゆく実証を示すことが、即、弘教につながっていくことを、強く確信していただきたい。
 いいかえれば、広宣流布はけっして遠くにあるのではなく、自分自身の家庭、職場、生活という身近な場にあることを、よくよく心にとどめてほしい。そして、なかんずく虚像の証明ではなく、生命の内奥からにじみ出る充実感のともなった実証こそ、広宣流布の基盤をさらに一歩、盤石ならしめる重要な要件であることを忘れないでいただきたい。
3  ”祈り”について一言申し上げておきたい。
 信心の根本は無疑曰信であるが、「信心と申すは別にはこれなく候」との御文のごとく、御本尊に対し”信”を入れて祈るということが大切である。
 実証といっても、具体的、現実的な課題に対し、どう祈り、行動したかということが根本になる。それが”事”の仏法の行躰即信心の姿でもある。
 家庭のこと、健康のこと、組織のこと等、自らが直面する身近な問題、たとえ、それがどんなにささいな事柄であっても、一つひとつ目標を明確にして祈っていく――それが”信”を入れた実践であり、そこから生きいきとした生活革命の実証も輝いていくのである。
 「千里の道も一歩より」とあるごとく、また「一渧が集まって大海となる」の原理のとおり、自分の生命に感じた身近な事柄を真剣に祈り、現実の課題に一歩一歩、挑戦していってほしい。また、そのように一つひとつの願望を最後まであきらめないで祈りきっていくとき、生活のリズムも明快になり、幸せを満喫しゆく人生へと転換されていくのである。
 この地道な持続の作業のなかに、人間革命も生活革命もなされ、身近な広宣流布の基盤も完壁に築かれていくことを知っていただきたい。
 どうか皆さんが、自分を大切にし、また学会を大切にしつつ、この尊い人生を、真の生きがいにつつまれながら送っていかれるよう、心より念願してやまない。(要旨)

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