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日蓮大聖人・池田大作

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立宗記念勤行儀式 地涌千界の本眷属を自覚

1977.4.28 「広布第二章の指針」第10巻

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1  きょう四月二十八日は、御本仏日蓮大聖人がこの地球上において初めて題目を唱え、一切衆生の救済を宣言された意義深い立宗記念日である。
 これまでもたびたび申し上げてきたことであるが、大聖人のおおせどおり、そのご精神を身口意の三業で実践してきたのが、皆さんがた地涌の勇者であり、わが創価学会である。すべては御本仏のご遺命に感応したがゆえのものであり、御本仏日蓮大聖人の称賛を浴びながら、皆さん方の一生成仏は絶対に間違いないと改めて断言しておきたい。
 日蓮大聖人の仏法は「南無妙法蓮華経」という七文字の題目に、宇宙根源の法が凝結されている。「七」という字には不思議な意義がある。立宗七百年(昭和二+七年四月)の佳節を祝い、戸田前会長のもと、全国から四千余人の精鋭が総本山に集い、七百年祭の慶祝行事が挙行されたことは、小説「人間革命」等にも詳細に書いてきたとおりである。この七百年祭こそ、荒廃に瀕していた宗門を興隆し、民衆仏法の偉大なる黎明をもたらした出発であり、今日の世界宗教としての基盤を不動のものとする夜明けの儀式でもあった。
2  この歴史的事実を経文に照らしてみるならば、創価学会の出現は、まさしく「従地涌出品」の原理そのままの地涌の菩薩の出現であったといえよう。
 恩師戸田前会長は、ご存知のように、だれから教えられたわけでもなく、獄中において、自らが仏法の極理に肉薄し、悟達の境涯に達せられた。まさしく恩師は、獄中で法性の淵底をそのまま事実のうえで色読された仏法の指導者であるということを、確認しておきたいのである。
 立宗七百年にして創価学会が出現し、広宣流布の沃野を開いた実相をまえにして、私は戸田前会長の出現に深い思いを寄せてほしいと願っている。なぜなら、私どもは、そのもとに馳せ参じた地涌の本眷属であり、経文どおり、仏の使いとしての不思議なる創価教団に名を連ねているからである。
 久遠元初といっても、けっして観念的なものではない。また、架空的な論理でもない。久遠元初は今にあり――これが仏法の極理である。
 したがって、今どのように動き発展しているのか、また具体的にどのように不幸な友を救い、広宣流布に邁進しているのか、という現実の姿こそ、久遠元初の実像なのである。私はこの意味からも、創価学会こそ、日蓮仏法の真髄を事実のうえに証明している実践教団である、と申し上げておきたい。
3  立宗七百年に続く次の大きな佳節は立宗七百五十年、このときは西暦二〇〇二年となるが、創価学会はいま、この二十一世紀に明確なる目標を定めて進んでいる。
 立宗七百年から、まだ二十五年の歳月しか経過していない。しかし学会は、この短期間で世界的な仏法教団となった。この歴史的事実から考えても、二十五年後の立宗七百五十年時における学会の発展の様相が、いかに偉大な仏法流布の大河を形成し、人類に貢献しているか、はるかにうかがい知ることができよう。
 どうかこうした観点からも、皆さん方は健康には十分留意し、長生きしていただきたい。健康でなければ、健全な仏道修行も不可能となり、人間革命の成就もない。一にも二にも健康になろうということを前提においた信心即生活であり、日々の学会活動であるよう、心から念願してやまない。
4  最後に、きょうの佳き日を記念して「法華経従地涌出品」の文を拝したい。
 この涌出品は、仏滅後末法に法華経を弘めるために本化地涌の菩薩が出現することが明かされ、法華経の肝心である寿量品を説く直前にあって重要な意味をもつ品である。
 すなわち、上行菩薩等の四菩薩を上首とした地涌の菩薩が出現し、迹化の菩薩は、この無量千万億の本化の菩薩の出現に疑いをもち、代表して弥勒が質問するわけである。本日は、この文を、私たちの立場にあてはめて拝読したい。
 「無量千万億の 大衆の諸の菩薩は 昔より未だ曾て見ざる所なり 願わくは両足尊説きたまえ 是れ何れの所より来れる 何の因縁を以ってか集れる 巨身にして大神通あり 智慧思議し難し 其の志念堅固にして 大忍辱力有り」
 「巨身にして大神通あり」とは、地涌の菩薩の棟梁である上行菩薩、すなわち久遠元初の自受用報身如来垂迹上行、再誕日蓮大聖人となる。
 しかし、大聖人が、大御本尊を残されて入滅された後は、いったいだれが地涌の菩薩として広宣流布を進めていくのであろうか――こういう疑問が生ずる。
 ここに戸田前会長の、大聖人のご入滅七百年後の出現が、重大な意味をもってくるわけである。獄中において、まさに法性の淵底から生命の悟達を得、地涌の菩薩の棟梁として広宣流布の指揮をとられた前会長――。この師のもとに、陸続と地涌の同志が参集し、現在にいたっているわけである。
 また経文の「志念」とは、広宣流布をしていこう、一生成仏をしていこうとする強固な一念を意味する。学会は、この一念と「大忍辱力」によって今日を築いてきた。私どもは、この厳然たる仏法流布の会座に連なっていることに、最大の誇りと確信をもちたい。
 「是の諸の大師等 六万恒河沙あり 倶に来って仏を供養し 及び是の経を護持す」
 この文は、御本仏のご遺命どおりに実践する学会の組織とともに、広宣流布の活動を展開していくことが、いかに尊く大事であるかを説かれたものと拝せる。
 「大師」とは、仏法を実践する創価学会の指導者たちであり、幹部のことである。六万、五万、四万と大世帯を率いる指導者もいる。総B長、大B長のことも経文に出てくる。(笑い)
 これらの人々が、ともに広宣流布に励む創価学会の姿と拝すべきである。
 「単己にして眷属無く 独処を楽う者 倶に仏所に来至せる 其の数転た 上に過ぎたり」
 これは、たとえ組織から離れ、たった一人で御本尊を拝んでいるような人がいたとしても、因果の法則にもとづき、かならずや広宣流布の流れのなかへと最終的には帰ってくるとの文である。
 ともかく、集合離散を繰り返しつつ、それが広宣流布への大河の流れとなっていくわけである。
 この確固たる広宣流布のリズムをつくった人こそ、戸田前会長であり、創価学会であったといえる。創価学会の出現がなければ、御金言も、法華経の経文も虚妄になってしまうのである。
 御書、あるいは経文に説かれている根本の「法」「原理」は、あくまでも不変である。
 しかし、もっとも大切なことは、こと実践に関しては、そのうえにたって、時代相応に進めていかなくてはならないということである。この時代相応の活動を展開するために、毎日の聖教新聞等で、時代を先取りし、融合しつつ、正しい仏道修行のあり方を指導しているわけである。
 たんに伝統のみに固執していたのでは、社会に脈動した生命運動とはなりえない。衆生所遊楽の人生を満喫していく――この学会の運動こそが、大聖人の御書を実践するもっとも正しい広布のリズムであると申し上げておきたい。(要旨)

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