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日蓮大聖人・池田大作

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第2回学生部最高会議 四弘誓願の行は学会活動

1977.3.31 「広布第二章の指針」第10巻

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1  妙法とは”不可思議な法”ということである。われわれ凡夫の思慮では智解することができない深遠な哲理であるがゆえに「妙法」というのである。妙法の世界においては、なにごとも巨視的にみていくことが大切である。順縁であれ逆縁であれ、あらゆる現象というものは、あとになってみると、広宣流布のために生かされていくからである。
 たとえば、先師牧口初代会長、恩師戸田前会長が獄中の身となったことは、たしかに悲劇的な歴史であったにちがいない。しかし、大聖人のご遺命どおりの実践を貫いたその崇高な生涯が、今日の学会発展の遠因となっていることはまぎれもない事実である。
 もう一面からいうならば、先師、恩師の姿は仏法正義に生きる青年部の”心の魂”となり、広布前進の発条となって今日に脈打っているともいえる。
 そうした観点からいえば、一時的には不幸にみえる現象も、歴史的な次元から判断していくならば、すべて広宣流布の伸展にとって、上昇方向となって生きている。したがって妙法の指導者は、狭い尺度でものをみるのではたく、巨視眼をもった雅量豊かな人間でなくてはならない。
 巨視の眼でみるとは、仏法の眼、信心の眼に照らして、歴史的な次元から現象の本源を見通していくことともいえる。学問、政治、経済などの領域を超越した、より本源的な視点から人類の進歩に貢献していける妙法のリーダーに成長してもらいたい。
2  人間としてこの世でなしうるもっとも尊い偉業は何か。仏法には「四弘誓願」の行というのがある。これは菩薩が初発心の時に起こす四種の誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成)であり、末法今時においては、三大秘法をもって一切衆生を救済することであり、現代においては学会活動のことである。
 「衆生無辺誓願度」――一切の衆生をすべて悟りの彼岸に渡すと誓うこと。これは全人類を幸福の彼岸に導き、いかなる人間も仏の当体であるという生命の尊厳性を知らしめていくことである。
 一切の学問、事象も人間から出発し、人間に帰着する。人間の幸福探求が本来の目的であり、それを事実のうえで、あらゆる階層の人々を悟りの彼岸に渡すことができるのは、宇宙根源の法則を説き明かした大聖人の仏法による以外ない。
 「煩悩無数誓願断」――一切の煩悩を断つと誓うこと。これは、真実の人間らしい人間として自身を人間革命しゆくことである。
 「法門無尽誓願知」――仏の教えをすべて学びとると誓うこと。これは宇宙、生命の本源の哲理をわかろうとする求道の姿勢である。
 「仏道無上誓願成」――仏道において無上の悟りをうると誓うこと。仏法とは何か、仏の生命とは、と悟達に迫ろうとする誓いである。
 この仏法の基本原理である「四弘誓願」を、日蓮大聖人の観心の立場から拝するならば、三大秘法の流布、すなわち広宣流布の誓願にすべて包含される。このことは「一代聖教大意」等の御書に明らかである。
 この「四弘誓願」の行を現実のうえで社会に展開し、実践している教団は、現代においては創価学会をおいてない。
 なぜならば、大聖人の教えの真髄は「御本尊」と「御書」であり、御本仏に直結した運動でなければ、末法の「四弘誓願」の行たる広宣流布も推進できないからである。この生き方を根本とせずして途中の人師、論師を基準としたときには、大聖人の真意はもはやわからたくなり、御仏意にかなった真の宗教革命の軌道から大きく逸脱していこう。
 ここに「御本尊」と「御書」を根本精神として創価学会の基盤を築かれた先師牧口初代会長、恩師戸旧二代会長の偉大な出発点があったといってよい。学会を守り、大切にしていただきたいというのも、この理由からである。
3  化儀の広宣流布の本義
 次に、化儀の広宣流布ということの本義についてふれておきたい。
 日蓮大聖人は七百年前、三大秘法の御本尊を御図顕された。諸君も周知のとおり、これが法体の広宣流布であった。
 この法体の広宣流布の”結晶”ともいうべき御本尊を受持し、その功力をいかに時代に即して、社会に反映し顕現させていくか――これが、化儀の広宣流布の意義なのである。ゆえに、そのためにも、われらは現実社会の時代相というものを鋭く見極め、仏法信心の方軌から、依正不二の原理で理想社会の建設に尽力していかなくてはならない。
 これまでの多くの宗派は、この”化儀”という進展段階において、たんなる”儀式”あるいは”形式”のみに陥ってしまった。しかし、それは化儀の広宣流布の本義ではない。民衆救済、幸福成就という、社会のなかの人間群の心、生命を、いわゆる彼岸――すなわち三大秘法の御本尊に到達せしめる労作業をいうのである。
 この化儀の広宣流布を盤石に総仕上げしていくには、具体的に一人ひとりがどのように振る舞っていけばよいのか。それは妙法を根本として、あくまでも社会に自らの生命を顕現させ、それぞれの職場、分野で一流の人材となり、名実ともにその実力を証明していくことである。その運動の現実の流れを化儀の広布というのである。一言にしていえば、自らの人間革命に挑戦をしつつ、そして他人をも人間革命へのリズムに乗せていく運動である。
 法華経にも妙音や観音が三十三身、三十四身の姿を現じて法を弘めるとあるが、各人の持ち味を妙法と連動させながら振る舞いゆく社会の舞台での貢献、証明の一つひとつが、壮大なる化儀の広宣流布の謂である。(要旨)

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