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第三東京教育部研修会 さわやかな勤行儀式のために

1977.3.30 「広布第二章の指針」第10巻

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1  本日の第三東京本部の教育部研修、たいへんにおめでとう。
 小規模な会合ではありまずけれども、私は、重要な意義をはらんだ行事としてとらえております。
 その理由は、新教育部長である末定征夫氏が、妙法の教育部の若武者として、勇躍、真の人間教育の興隆のため、教育革命の第一線に立つ意味が込められているからであります。私は心から祝福の拍手を送りたい。
2  「法妙なるが故」の仏法原理を実証
 日蓮大聖人の御書には「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」との非常に重要な仏法の極理が説かれております。
 多繁な日常生活のなかにあっては、往々にして忘れがちとなる場合もありますが、この仏法の原理は、厳然たる事実なのであります。すなわち、依正不二の原理にもとづき、妙法を根底にした人間にして初めて、現実変革が可能となるという方程式を説き示されたものなのであります。
 そこで私は、教育部員としての基本姿勢について言及しておきたい。
 皆さん方のなかには、自分はいったい、教育部員として何をすればよいのか、と真剣に考え、あるいは煩悶なさっている方もいるかもしれない。
 先師牧口常三郎初代会長も、恩師戸田城聖前会長も、人間教育の先覚者であり、教育にもつとも深い関心を寄せ、情熱をそそいでおられた。それゆえに、その後に続く皆さん方もまた、自らの使命に生きぬくことに、懸命の努力をかたむけていることであろう。
 そこに、教師とはいったい何をなすべきなのか――という問いかけがもちあがってくるわけでありますが、それは、ことさら改まって特別なことをする必要はないということを申し上げたいのであります。
 なぜなら皆さん方は、御本尊を受持しておられる。「法妙なるが故に」貴い存在なのであります。こんどは「人貴きが故に所尊し」の原理で、皆さん方の家庭も、皆さん方が活躍する教育の場も、さらに皆さん方が住んでおられる地域社会も、すべて尊い場所となり、妙法に潤う国土世間と転じていくのであります。
 したがって皆さん方は、宇宙根源の法体たる「南無妙法蓮華経」を唱えながら、地道に着実に、一日一日を自分としてなんらかの貢献と進歩をめざして努力していく――この生活を繰り返していくことそれ自体が、すべて教育革命に含まれ、この積み重ねの延長線上に偉大なる人間教育の興隆がなされていくのであります。
 妙法を受持し実践している皆さん方は、せんずるところは「南無妙法蓮華経」の当体であり、創価学会の精神の尊い体現者でもある。その皆さん方が働き、活動している教育の場や家庭、地域等は、すでに本有寂光の因種をはらんでいる真の教育革命の現場であります。
 どうかこの意味からも、妙法の教育部員であるとの誇りに燃え、自分らしく伸びのびと、かつまた人生を愉快に、生活をエンジョイしながら、教育革命の使命に生きぬいていただきたいことを、心から念願するものであります。
 ただ一点、ここで付言しておきたいことは、現実社会に即応した教育部全体の方向性、一歩前進のための未来路線に関しては、副会長室や教育部書記局等でつねに慎重に協議しておりますので、その決定事項については、それぞれの立場で思索もしながら、着実に実行に移してほしい。このこともまた偉大なる教育革命に通じていくのであります。
 ともかく、われわれは、人間教育を実現し真の教育革命を成就する根本の法を厳然と受持している。その根源の妙法を、社会に限りなく流転させ、昇華させていける創価学会という世界的な実践教団の一員であり、主体者である――この満々たる自信をもち、仏法即社会の規範にのっとった道理正しい”地道”と”平凡”と”持続”の前進をしていかれるよう、期待してやまないものであります。
3  勤行、唱題は信心の根本
 次に、この席を借りて、仏道修行の根幹である勤行の基本について、皆さん方とともに確認しておきたい。
 いうまでもなく、御本尊に向かって朝夕、五座三座の勤行をし唱題することは、信心の一切の根本であり、私どもがめざす一生成仏、即人間革命運動の原点の座であります。御書の哲理も、経文の精神も、その究極は、万法の体である御本尊に勤行、唱題することに帰着するといってよい。
 この御本尊への「信」と「行」が冥合して、さきほど申し上げた「法妙なるが故に人貴し。人貴きが故に所尊し」の原理が、初めて現実のものとなってくるわけであります。
 この重要な勤行については、日寛上人の「当流行事抄」に詳しく解明されております。
 それによれば、方便品は「所破借文」のため、寿量品は「所破所用」のために読誦するものであるが、この方便・寿量品ともに、正行である「題目」の助行とされている。
 すなわち、正行のための助行であり、正行たる唱題を離れて、寿量品、方便品をいかに読誦してもなんの意義もない。しかし、正行を根本とした読誦は、正行の偉大な功徳を顕していく助行となる――というもので、この一点からも唱題の重要性は明確でありましょう。
 「五座三座」の儀式に関しては、これは化儀の問題になりますけれども、当宗の信心修行のひとつの伝統として定着してきたものであります。もとより日蓮大聖人の御書には、そうした「五座三座」ということも、題目は何遍唱えなければならないというようなご指導も、どこにも残されておりません。どこまでも直達正観の仏法として、御本尊への唱題こそ一生成仏の要諦であると、甚深の法門を簡潔明瞭に説かれているのであります。
 私はここに、一切衆生の人間性をすべて洞察され、大きく包容されておられる御本仏の徹底した人間主義者としての光源をみる思いがするのであります。ゆえに、大聖人のご指南は、まさしく永遠的であり、変転きわまりない人間の心理を鋭く読みとられ、けっして固定化されていない合理の法門でもあるということも、うかがえるのであります。
4  勤行のさいの唱題行の基本
 ところで、現実問題として、いったい五座三座の勤行のときの題目は、どのくらい唱えたらよいのかという問い合わせや質問が、これまで各地の会員から、しばしば寄せられます。遠く海外各国のメンバーからも、同様の趣旨の声がきております。
 これに対して、県長会議でもひとつの基本線を出すべきであるとの意見が出され、これを受けて副会長室会議でも、この方向にそって結論を出すことになり、これまで慎重な検討が続けられてきたのであります。その結論の内容を、次に申し上げたい。
 まず、唱題目標の基本となるものを決めるべきであるという理由は、一千数百万人にもおよぶ会員を擁するにいたった今日の学会の現状を思うとき、全会員が、より理解し納得できるよう、その基本路線を明確にすることが重要となってきたからであります。
 広宣流布の最重要基盤は家庭にあるといっても過言ではない。その家庭における家族一人ひとりの日常生活に深く思いをめぐらせるとき、勤行に対する姿勢も一律的には考えられない多次元にわたる様相をおびていることも事実であります。ある家庭には、お年寄りもいれば、青春を謳歌する青年もいる。また早朝出勤のご主人もいようし、病気で体調を崩している人もいるかもしれない等々で、人それぞれに千差万別の境遇と環境のなかで生活しているわけであります。
 こうした家庭状況のなかで、ともどもに家族がそろって勤行、唱題したとしても、なかには、ある一定の唱題をしなければ、なんとなく信心が弱いように思い込んでいる人もいないとはかぎらない。とくに仕事が多忙つづきであったり、夜遅く帰宅した場合などは、なかなかたいへんなことです。
 ともかく勤行のさい、何千遍もの唱題をしなければ信心が弱いという、きゅうくつな固定した概念は、本人の信心を阻害してしまう場合がある。信心は一生の問題であるがゆえに、淡々と水のごとくいくべきものである、と強調しておきたいのであります。”おがみ屋”みたいに掃除も洗濯もしないで唱題ばかりしていたとしたら、それは非常識であり、法を下げてしまうことも、よく留意すべきでありましよう。
 勤行、唱題行は、われわれ人間の生命を日々躍動させていくために持続していくものであります。ゆえにいついかなる場合でも、さわやかに、はつらつと、背筋を伸ばして凛々しく行っていくことが正しい。
 会議では、こうした”信心は一生にわたるものである”という仏道修行の本義に立ち、仏法即社会の道理のうえから、総合的に検討した結果、一つの基本線として勤行のさいの唱題の数は、朝の五座の場合は二百遍、夜の三座は二百ないし三百遍ぐらいが、もっとも妥当であろうとの結論に達したわけであります。
 数人で朝晩の勤行を行う場合、五座三座の勤行においては、二百ないし三百遍の唱題を朗々として、さわやかに一度終了する。その後は、各人の状況に応じて何遍唱えようとも自由にする――という原則であります。
 したがって、唱題の実践は、人それぞれの状況によって、その人自身の自発的意思を最大限に尊重するという原則ともなるわけであります。
 たとえば、入信してまもない新会員にとっては”自分はいままで題目の蓄積が先輩より少ないから、他の人よりよけいに唱題していこう”という心がけも結構なことです。
 また、重大な宿命転換の問題に直面した人には、前会長も個々に指導されたとおり、”百万遍の唱題を”というときもあります。このように、それ相応の姿勢で、自分自身の生命を蘇生させる強盛な唱題を貫いていくことが、もっとも大切なことです。
5  生涯にわたり”水の信心”
 いずれにしても自らの決意による自発の唱題が大事であるといっても、実際はたいへんな修行です。しかし、たいへんとはいっても、それが一切の根本修行ですから、持続させていくことが信心であるということを、銘記していただきたいのです。数多く題目を唱えることもたいへん尊いことでありますが、しかし、そのように数のみにとらわれて、毎日毎日が負担を感じるようであってはならないということであります。
 朝晩の五座三座の勤行、ならびに二百ないし三百遍の唱題の励行で、功徳も絶対に変わりないことを申し上げておきます。
 日蓮大聖人の御書には、一遍の唱題に無量の功徳があるとも説かれている。「南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候いおわんぬ、いとをしみ最愛の御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり」と。
 勤行は、水の流れるように間断なく、生涯にわたる実践が大切であります。日々たゆみなく実践するーこの精進行が生命の連続革命となるのであります。自身の生活環境に応じ、原則をふまえてのすがすがしい勤行の持続こそが、御聖訓に説かれている”水の信心”の結晶であることを自覚してください。(拍手)

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