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創価高校第7回卒業式――記念講演 未来に輝く才能の大建造物を

1977.3.16 「広布第二章の指針」第10巻

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1  春風さわやかなきょう、第七回の卒業式を迎え、皆さん方が、人生の新たな道への第一歩をしるすことができますことを、心より喜び、またお祝い申し上げます。
 最初に、三年間にわたって諸君の授業と人格形成のために尽力し、また奔走してくださった小山内校長先生をはじめ、諸先生方に対し、私は諸君を代表しまして、衷心より御礼申し上げます。ありがとうございました。(大拍手)
 人間にとって大切なことの一つは、帰るべき大地、原点をもっているかどうかであります。人生には悩みもあり、行き詰まりもある。もとより、それがあるゆえに、人生の醍醐味もあるのですが、ともあれ、自分を見失いそうになったときに、自分自身を位置づけていく座標軸ともいうべきものがあるということが大切です。諸君は創価学園のキャンパスで人生の揺藍期を過ごした。ここを原点、大地として、行き詰まったら、このキャンパスに思いを馳せて、また勇気を出して進んでいただきたい。
 その共通の精神に立ったとき、諸君と諸君たちをはぐくんでくださった先生方、およびいちおう創立者ということで、私を結ぶ目に見えない糸が年々太くなり、やがて壮大な友情と人間勝利の布を織りなすことになると、私は確信もし、期待もいたします。
2  自身への甘えを排せ
 よく、現実からの逃避といいますが、もう一歩深く考えるならば、それは自分自身からの逃避であり、自分を見つめることを避けているといえます。おもしろくない、辛い、苦しい等々、いろいろな理由はありましょうが、だから勉強がいやだ、だから仕事をしたくない、というのは、じつは自分に対する甘えであり、自己を見つめることを避けた敗北者のつぶやきであり、自己の成、長のためにはなんの創造的効果ももたらさないものです。”逃げ”の姿勢から生まれてくるのは、ただ、不平、不満、批判だけであり、結局、それは敗北者の人生なのであります。
 皆さん方の世代、十代後半から二十代にかけての生活のなかには、とくにこの”逃げ”の姿勢があってはなりません。なぜならば、本格的な人生の出発点であり、もっとも重要な基礎の部分の完成期であるからです。
 大脳生理学の研究によりますと、脳の発達は四歳ごろと十歳ごろに一つのピークがあり、二十歳ごろに完成するといわれています。この時期の基礎固めによって、やがて後に大きな力が開花してくるわけです。したがってこの時期にこそ、自己を励まして厳しい現実に挑戦し、将来、見事な才能の大建造物の構築を支えることのできる強固な基盤をつくっていただきたいと思います。この意味において、どうか諸君は、そのもっとも大切な大学時代、社会への雄飛に向けて勇んで挑戦していってください。
3  ルソー、ヂカルトの青春時代
 過去に優れた業績を残した人物をみてみますと、やはり若いときにたいへんな苦労のなかで、真剣に学んでいます。皆さんもよくご存知のフランスのジャン・ジャック・ルソーは、近代を開いたもっとも偉大な思想家の一人として、今日もその作品は世界的に広く読まれていますが、彼の父は時計師で当時の下層市民であり、生まれてすぐ母親を失っています。また少年期に父親が失踪して、普通の家庭生活を味わうことなく成長しています。
 ルソーは皆さんの年齢であったころは、時計彫刻師の弟子となって、酷使と虐待のなかで生活しています。彼はこの生活のなかで、社会というものを意識し、不正というものへの激しい怒りを育てていったといわれています。彼は後に、有名な「エミール」「社会契約論」等を著し、人間の尊厳を訴えていますが、その遠因をたどれば、十代後半の数年間の生活のなかにその種子を見いだせるのであります。
 また、近世哲学の祖といわれているデカルトの場合も、生まれてまもなく母を失っています。彼は十歳のときに当時ヨーロッパ一の有名校であったラ・フレーシュ学院に入学し、そこで八年間勉強し、十八歳のときに卒業しています。この期間に彼はギリシャ、ローマの古典文学やスコラ哲学など、当時のありとあらゆる学問を学びますが、彼はその結果、そうした学問がなんの役にも立たたないことを知って深く失望しています。しかしながら、この時期に、後年における学問追究の基本的姿勢が芽ばえたことを見落としてはならないのであります。
 そして彼は、失望のままに終わるのではなく「世間という書物」から学ぶのだと、ヨーロッパ各地を回り、行動と実践のなかで真理を求め続けています。「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉で有名な、そしてその後のヨーロッパの思想の転換点ともなった「方法叙説」が生まれたのも、この時期において豊かな基盤がつくりあげられていたからであります。
 ルソーも一時期には世をすねた時期があり、デカルトには深い失望の時期が、皆さんと同じ年齢のころにあったようですが、しかし、そのような悩み多く振幅の大きい時期は、また同時に自分自身というものが形成され、浮かび上がってくる大切な時期でもあります。したがって、そうした振幅のなかに巻き込まれて自分自身を見失うことなく、また落胆することなく、そこに浮かび上がってくる自己の姿というものを見失わずに、現実に挑戦していっていただきたい。
4  現実の壁に挑戦
 皆さん方は、今後かならず社会という次元において、あるいは自己の宿命という次元において、さまざまに立ちふさがる壁というものを感じることがあると思います。そしてその壁は、どうしょうもなく厚い、また高い壁に感じられる場合があります。しかし、それに負けないでいただきたい。その壁というものは、後になってみれば、なんでもない場合がほとんどです。
 こういう話があります。それは少年時代に故郷を出て、十年後、二十年後に大人になって帰ってみると、あれほど広かった川が三メートルほどの小さな川であり、広場同様に遊び回った大通りが、やっと車がすれ違う狭い道にすぎず、町全体がいかにも小さくなってしまっているというのです。これはなにも川や道や町がちぢんだわけでもなんでもない。少年時代と大人になってからとでは、判断の基準が大きく変わってしまっている結果にすぎません。
 同じように、青春時代の悩み、壁というものも、やがては小さなものにすぎなかったことが、わかるときがくるものです。もちろん、そういう壁をいいかげんに考えていいということではありません。どのような壁であっても、はいあがってもらいたい。たとえ落ちても、もう一度立ち上がってはいあがっていくならば、かならず乗り越えられるものです。手に負えない壁のように見えているにすぎない、ということを申し上げたいのです。
 どうか、これからの長い人生にあって、いろいろなことはあるでしょうが、いじけたり、逃げの人生になったりすることなく、勇敢に、たくましく自分自身に挑戦してもらいたい。そして、一人ももれなく、学園桜の大樹となり、お父さんやお母さん、そして妹や弟たちをはじめ、お世話になった方々を大きくその桜でつつんでいただきたいことを、お願い申し上げたい。
 ともかく、地によって倒れた者は、地によって立ち上がるしかありません。自分らしく、いかなる人生を生きるのも結構ですが、最後に人生の卑怯者、敗北者とだけはいわれることのないように、学園魂だけは忘れず、また、その学園の誇りを担った諸君たちであるよう心よりお祈り申し上げ、万感こめて、諸君の新たな門出への祝辞とさせていただきます。(大拍手)

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