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日蓮大聖人・池田大作

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金舞会館開館記念勤行会 御本尊には無量の功力

1977.3.1 「広布第二章の指針」第10巻

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1  御本尊のもとに平等
 御書に「いよいよよ実なれば位いよいよよ下れり」とある。また、これとは反対に「弥弥いよいよ権なれば位弥弥いよいよ高し」とも説かれている。
 末法の御本仏日蓮大聖人は、名字の凡夫として生涯を貫かれた。それに対し、釈迦はとくに法華経以前の段階で、衆生を導引する手段として色相を荘厳し、仏という高い位を示している。一般社会においても、この原理は同じであり、実力のある立派な人間は、位などを誇示せず、かならず謙虚な生き方を貫いている。このことは、世界の識者との交流をとおして得た、私自身の強い印象でもある。
 妙法の世界に連なる私どもは、こうした日蓮大聖人の仏法の法理のうえから、御本尊のもとには真実平等の立場にあり、そこにはいささかの権威主義的な関係も存在しないことを銘記していきたい。
 一般に宗教というものは、形式、儀式というものを尊重し、荘厳なふんいきをつくりあげて、民衆を誘引しようとする傾向をもっている。これは、教低きがゆえの粉飾といっても過言ではない。しかし、現代においては、そうした”虚像”が、民衆から見放されつつある。ひとつには、人々の宗教に対する鑑識眼が確かなものになってきていることが理由としてあげられよう。しかし、それにもかかわらず、人間には一貫して”絶対的なも”に帰依しようとする生命の傾向性があることも否定できない。そこに、虚像の宗教が、民衆のあいだに根強く浸透しつづけているゆえんがある。
 御本仏日蓮大聖人は、ありのままの凡夫こそもっとも尊いと叫ばれ、大聖人ご自身、凡夫僧の姿をもって生涯を送られた。私どもは、既成の仏教のごとく、喜怒哀楽する人間を越えたところに理想の人格をおこうとするのは、聖人の仮面を粉飾した虚像であると、鋭く見ぬいていくべきである。
2  創価学会は世界一の生きた教団
 「一切法皆是仏法」との原理もあるとおり、仏法は、社会のなか、生活のなかにある。すなわち、仏法の英知は人間の振る舞いのなかにこそ躍動しゆくものなのである。創価学会は、この普遍的な宗教観を大きく先取りした、人間の集団であり、ゆえに、既成の宗教観の次元から中傷、批判があることは当然の理といえよう。
 しかし、創価学会は、そうした幾多の障害、困難にもかかわらず、世界一の生きた教団として、その基盤を不動にすることができた。
 現在は、いうまでもなく主権在民の民主主義社会である。したがって、大聖人ご在世当時における幕府体制の専制政治の社会とは、時代状況も、大きく異なっている。御書をただ教条的に読み、盲信的狂信に走るいき方は、「一切法皆是仏法」の原理にはずれるといわなければならない。
 思うに、時代、社会に合致した弘教、実践の方程式を、牧口初代会長、戸田前会長が、真の生活法、人間革命法として、万人が納得できるように、普遍化され、展開されたことは、じつに重大なことである。それゆえにこそ、今日私どもは御本尊を受持しえたのであり、この厳粛な事実をまえにして感謝の念を禁じえないのは、当然なこととなってくる。
 われわれは、日々の生活を大切にし、さらに社会、職場で模範の人となって、長寿で健康で、福運につつまれた姿を現じていく――そこに、仏法の真髄があり、信仰の結晶があると銘記していきたい。
3  信仰の過程においては、自己の宿命転換、三障四魔等との対決は、仏法原理に照らして当然といえよう。しかし、あせらず着実に、学会指導を葺暫に実践していくならば、人生の総仕上げは間違いないのである。孤独になるよりも、学会の和合の庭にいればこそ、信仰も深化されていくことを理解していただき、絶えざる「勤行第一」の姿勢を貫き、後顧の憂いなき見事な人生の結実をめざしてほしい。
 信仰というものと生命との関連について、平宗盛が、頼朝に敗れ断罪になったことについて、こういう記述がある。宗盛は観音経に帰依していた。ゆえに、宗盛の断罪は、宗盛の首ではなく、彼の信仰していた観音の首が切られたのである、と。
 これと同じ意味からいうならば、朝な夕なに御本尊と境智冥合しているわれわれは、南無妙法蓮華経の当体である。もちろん、人によって信心の厚薄はあるにしても、その尊極の当体であるわれわれを迫害するということは、大聖人を迫害するのと同じであるという御聖訓もある。生命の法理に照らして、迫害した人がなんらかの罪業を受けていくことは避けられない道理である。
4  御本尊直結の信仰
 御本尊の「分身散体の義」という原理について、一つの実話をとおして申し上げておきたい。これは、ある書にも引用されていることだが、都に”大仏”が造立されたとき、時の為政者に対し、こう訴えがあったという。大仏をつくったのは、実際は、鋳物師ではないか。鋳物師がつくったものが、なにゆえに信仰の対象になりうるのか――と。
 厳しくみていけば、多くの他宗の本尊は、彫刻にせよ、絵にせよ、同じ類となってしまう。そこには当然、その本尊をつくった鋳物師等の生命が反映しているといわなければならない。
 当宗において、代々の猊下が御本尊をおしたためになるのは、分身散体の義にもとづいているのであり、どの御本尊も、その功徳無量の力用に変わりはない。大聖人が御図顕された御本尊と等しいのである。あとは、信心の厚薄によって、おのおのの信力、行力を、いかに仏力、法力として顕現させるかである。
 われわれと御本尊とのあいだには、中間は、なにも必要としない。この御本尊に直結した信仰に、御本尊の無量の功徳をうけていける直道があることを確信していただきたい。
 真の幸福世界を築く信仰実践の正しい軌道というものは、けっしてはるか彼方にある架空的なものをいうのではない。実践の原点は、どこまでも自己自身であり、家庭であり、そして同志との交流のなかにある。したがって皆さん方は、同志と接し、激励しあい、触発しあうことによって、自らの生命の福運が大きく開けゆくことを深く確信するとともに、
 そこにこそ御本仏の命が脈打ってくることを忘れてはならない。
 最後に、本日開館した金舞会館の語義について、生老病死の原理にあてはめて一言するならば、金舞の”金”とは、わが人生を最高に価値創造し、荘厳しゆくとの意義を含むものであり、そして”舞”とは行動しゆくことである。
 どうか、皆さん方は、金舞の行動を貫き、さまざまな困難を悠々と克服しゆく、栄光にみちあふれた人生を送っていただきたいことを念願申し上げて、意義ある開館式の祝福の言葉としたい。(要旨)

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