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日蓮大聖人・池田大作

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第五東京男子部勤行会 わが生命に”妙法の勲章”を

1977.2.22 「広布第二章の指針」第9巻

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1  創価学会が今日、幾多の難を乗り越え、世界的な生きた仏法教団として存在するのも、ひとえに諸君のお父さんお母さん、そして兄姉等の広布弘教に対する挺身的な活躍があったればこそである。大御本尊の力用は当然として、”時”に応じて戦いぬいた牧口初代会長、戸田前会長の死身弘法の偉業とともに、諸先輩の活躍を忘れてはならない。
2  テレビなどの”時代劇”の一つのパターン(型)として、大勢の邪悪の人々を、無勢の主人公が、さんざんに打ち破り、正義を貫き通すというのがある。われわれの広宣流布の戦いも、次元は異なるが一面から論ずるならば、このようなバターンであるかもしれない。
 たしかに現在、わが国には一千万を超える学会員同志が厳然といる。しかし、一人ひとりが社会人として現実の社会、職場のなかに入った場合は、周囲がかならずしも妙法同志というわけにはいかない。こうした場合、数は少なくとも、青年部員が、真実の”正義の味方”となって、周囲を見事にリードし、環境を変革していってもらいたい。
 さきほど例にあげた時代劇の方程式と同じく、広宣流布の推進にあっては、”味方”が多い、少ないの数の問題ではない。少ないほうが、見事な戦いを展開できる場合もある。逆に、いくら大勢いても”烏合の衆”であっては、なにもならない。
 真実の正義の人は一人でいいのだ――こうした心構えで、自らの周囲の環境を見事に支配していける人として、今後の広宣流布の活動に奮闘していただきたい。
3  悔いなき青春を
 何ごとであれ、悩みがないという人間は、皆無といってよい。御書にも「三界は安きこと無し猶火宅の如し衆苦充満して甚だ怖畏すべし」と、あるとおりである。
 現実の社会で生活している以上、たとえ、社会的に有名になっても一歩、内面まで突きつめていくと、だれ人たりとも悩みをかかえているものである。しかも、それらは政治、科学、教育や文化、芸術等々によっても、根源的に救済できるものではない。そのことは、諸君たちも体験的に、あるいは道理のうえからも、よく知っていることと思う。そこに、一切の苦悩を転換していく原動力として仏法の必要性がある。
 この正統仏法、正法の哲理を信受し、御書どおりの実践を炭閉しているのは、日蓮正宗創価学会である。
 そして、中小企業で働く青年、あるいは寡黙で実直な壮年、名もなき婦人等々、無名の庶民によって、今日の学会の大発展が築き上げられたのである。
 諸君たちも、社会的な名声を求めるのではなく、人間として最高に尊い人生を歩んできた多くの先輩たちの跡を継ぎ、もっとも本源となる生命のなかに”妙法の勲章”を輝かせていける”信行学の大学”の優等生に育っていただきたい。
 私も、青年時代は他の多くの青年と同じように貧しく、平凡そのもめであった。しかし、私は青年期において、ひたすら広宣流布のため、なすべきことはかならずやり遂げようと心に決めて、働き、戦ってきた。その青春に、私はなんの悔いもないし、大満足である。
 青春期は、すぐに過ぎ去ってしまうものだが、その青年時代の体験こそが、生涯のもっとも貴重な財産になる。とくに、信心の思い出は、生々世々にわたって生命に刻まれていくというのが、仏法の方程式である。人生を振り返って”あのときに、こうしておけばよかった”と後悔するのと”わが青春に悔いはない”と言いきれるのとでは、壮年になり、老境に入ったときに幸せの実像はたいへんな違いになってしまう。
 ゆえに、いまこそ人生の重要な修行期と自覚し、学会活動にぞんぶんに励んで、楽しくも有意義な青春の思い出を刻んでいただきたい。
 仏法を行じていくうえにおいて難があることは、数多くの御書に説かれているとおりである。大事なことは「但し大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」で、難があればあるほど”よし、宿命軟換してみせるぞ””いまこそ変毒為薬をする時だ”との大信力を奮い起こしていくことである。
 「賢者はよろこび愚者は退く」とも御書に説かれている。仏法上の難は即悟達に通ずる――これが大聖人の仏法の極理であるからだ。
4  広布の本流に生きよ
 創価学会は仏法流布のゆえに、いわれなき中傷、批判の脚を浴びてきた。しかし、御金言どおりに前進し、経文どおりに歩んできたゆえに、事実として、今日の世界的な平和と文化の大仏法教団となったのである。こうした崇高な広布の歴史においても、日蓮大聖人ご在世当時から変わらぬ原理として違背の道に堕し、破和合僧という仏法上もっとも罪が重い生き方に身をまかせた人々がいたことも事実である。
 こうした信仰の本義から逸脱した人間の生き方というものは、往々にして非常識な”火の信心”から始まっていることに注目しなければならない。そうした人間は、ごく一部であるとはいうものの、例外なく本部の指導を無視するばかりでなく、その振る舞いはすべて我見であり、我慢偏執の”はったり的”な言動にもとづいているといってよい。この欺瞞的な非常識が社会悪を引き起こし、大勢の人々に迷惑をかけてきた。
 反逆者の傾向性というものは、大聖人ご在世当時の三位房等の例でも明らかなごとく、驕慢と臆病な生命から発している。「日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん」の御文そのままに、それは、自分こそ最高に偉い人間と思いあがった存在にほかならない。臆病で騎慢な習性は、機をうかがい、相手が弱まったとみるや、謗法と結託して派閥をつくり、社会的な事件等を引き起こし、結局、最後は敗北の姿を現ずるであろう。
 仏法違背の行く末は、かくも厳しい仏法因果の明鏡に、歴然と残されていくわけである。われわれはこれまで、こうしたいくつかの例証に対してもあえて、その本源的次元からの蘇生に期待し、慈愛の光線を送り続けてきた。ここに、世間的な次元からでは理解することのできない、真実の仏法教団としての存在意義があることを知っていただきたい。
 ともかく諸君は、正義をもっとも尊び、邪悪には一歩も退かずに民衆のために戦ってきた学会員であることに、最大の誇りをもっていただきたい。諸君には、これからの時代を担う偉大な使命がある。その崇高な前途を放棄して、恩を仇で返すような人生であってはならない。信仰の本流に生きぬく本格派の人間として、後輩とともどもに、魅力と実力ある広布の指導者に大成していくよう心から期待している。(要旨)

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