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第二東京壮年部勤行会 生死の二法の証拠は現世に

1977.2.15 「広布第二章の指針」第9巻

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1  私がかつて、青年室長であったころ、恩師戸田前会長の意を受けて、文京支部の支部長代理を務めたことがある。当時C級支部といわれたこの小さな文京支部を、同志とともに一躍A級支部とした活動が懐かしく思い出される。
 この文京支部の草分けとして、草創期から活躍してきた一人の功労者が、つい最近、今世の使命を終え、何ひとつ不自由のない境涯のなかで永眠された。私はともに広宣流布のために戦った同志として、その遺徳を心からたたえつつ、皆さん方とともに人間の一生というものを考えてみたいと思う。
 その文京支部の一功労者との出会いは二十数年も前にさかのぼるであろう。体が弱く、性格は頑固で、信心にも当初は徹底して反対していた。しかし、入信後の人生は、弘教に生き大勢の同志を誕生させ、その後輩同志の心の親ともなって指導の任にあたってきた姿が、私には、いまでも鮮明に思い出される。
 この功労者の逝去にさいし、全国各地から大勢の追悼の人々が集い、葬儀も盛大かつさわやかに執り行われた。残された子息もいまでは、全員が広布の庭で活躍するリーダーとなっている。おそらく故人にとっても、また遺族にとっても、なんの悔いもない心情であったことであろう。
 このように、多くの人々から慕われ、称賛されながら、今世を生きぬいてきた姿こそ、御書にある「現世安穏・後生善処」の実証であり、それは故人の遺徳であると同時に、来世の福運の生命に連結する、死後の生命の出発の実相でもあるということを知っていただきたいのである。
2  生死の問題は、古今東西の哲人が、生涯の命題として探究してきた課題であるといってよい。
 かのフランスの文豪ビクトル・ユゴーは「人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ」との有名な言葉を残しているが、これも不可思議な生命の実相をいったものといってよいだろう。
 戸田前会長もよく、日本の一億におよぶ人間も、百年後には一人もいなくなってしまう。その死後の生命はどこへ――こう思えばが愕然とする、との心情を吐露されていた。
 仏法は、こうしたすべての先覚者が志向する最重要の根本命題を、永遠の生命観から説き明かしているわけである。すなわち仏法では「方便現涅槃」と寿量品の御文にもあるとおり、生命は永遠であり、本有常住である。そして仏は、生死の理を示すために死を現じ、その死は次の新たな生命に転じゆくための方便であるとも――。
 釈迦も天台も、そして末法の御本仏日蓮大聖人も、明確に説ききっているこの永遠の生命観を、深く信じ、今世の人生を見事に総仕上げし、生々世々にわたる大果報の因を積みゆかれるよう、私は心から祈っている。
 イギリスの著名な歴史学者であった故トインビー樽士が、生前よくいっておられた話を思い出す。
 それは、死という問題から逃避した世界の指導者に対する鋭い指摘であった。為政者も、各界の指導者も、この根本命題に挑戦することなく、避けてとおる姿は、もっとも恥ずべきことであり、卑怯であるという話であった。
 そうした博士自身も、死に対する理論的な究明と思索に明け暮れておられたようであるが、高齢という現実の苦悩に直面して、いよいよ深刻にこの問題の解明にあたり、東洋の仏法思想にその光を求めておられたものと信ずる。事実、私と長時間にわたって対談したおりにも、仏法で説く生命観に深く驚嘆されていたことを、私はまざまざと思い出すのである。
 ともかく、妙法は人間が生きぬくための原動力であり、「南無妙法蓮華経」という根源の法は、生死を不二とする蘇生の哲理でもある。この法を受持することは最高の財宝であり、無上の幸せであることを確信して、地域、職場にあっても、また家庭にあっても、各部の柱たる自信に満ちみちた日々悔いなき活動であっていただきたい。
 人間の死は、一面的にみてうんぬんできるような問題ではない。その人の前世からの宿命による場合もあろうし、その他さまざまな因果関係によって生じていることは、仏法原理に照らしても明確である。信仰は一生のものであるが、その間、突然にして、親の死に直面する一家もあるかもしれない。
 しかし、私が申し上げたいことは、つね日ごろから御本尊に唱題しているならば、その親の死は”本有の死”といって、もはやその一家は、仏種をはらんだ無始無終の生命の世界となり、やがて親の遺徳とともに仏種熟益の境涯に入っていけることを知ってほしいということである。「宇宙即我」「瞬間即永遠」「一身一念法界に遍し」の原理で、題目による生命の無線は、宇宙に還元された死後の生命にも瞬間のうちに通じ、連結していく――これが仏法究極の回向となるわけである。
 どうかご自身のためにも、先祖のためにも、大切な家族のためにも、この信心の法則にのっとった仏道修行を地道に着実にお願いしたい。
3  日々の活動において、同志の助言がうとましく聞こえる場合もあるかもしれない。しかし、そうした厳しく思える助言をしてもらってこそ、われわれは一人前になり、一生成仏の軌道を誤ることなく進んでこられたわけである。いかなる道においても、助言と訓練をする人がいて、初めてその道を熟知して成長していけるものである。
 この道理からも、いろいろと同志が指摘してくれることは鍛練となり、即仏道修行となっていく。また社会的にも経済的にも、いまは平凡、地道な境遇であったとしても、じつは、一生成仏とともに子孫永遠の福運の根っこの存在となることを忘れないでほしい。ともあれ、生死の二法の厳然たる証拠を、今世に見事に残していっていただきたい。(要旨)

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