Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回男子部全国代表者会 愛学弘法の実践者に

1977.1.16 「広布第二章の指針」第9巻

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1  最初に御書の一節を拝読したい。「兄弟抄」に「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐ思索らせ給うべし、中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし」とある。
 激動の世にあって、私たちはこの不動の信心に立つことを教えた御文を厳粛に拝していきたい。たとえわが身にいかなる難が降りそそごうが、また世間がいかに騒ごうが、夢のようなものだと見定めて、ただ信心の二字のみを考えていくべきである、とのご教示なのである。
 大聖人の法門について、世の中の人々はたかなか信じようとしなかったが、大聖人の予言が的中し、誹謗してきた人々も内心では後悔しているであろうと、確信ある指導を池上兄弟に与えられている。大聖人のご一生は苦難の連続であったが、最後は悠々たる勝利の境涯であられたことが、この御文から拝察することができる。
 七百年前のこととはいえ、大聖人の御金言は現在においても生きいきとよみがえっている。やれ右だ、やれ左だと、世間から故なき嘲笑を私たちは浴びてきた。しかし、仏法中道こそ、真実の人間主義の道であると信じて歩み続けてきた。
 国内においても、また国際政治の舞台においても、激動に激動を重ね、混迷から混迷へと向かっている現在にあって、ようやく私たちの道が、健全かつ真実の革新運動であると認められようとしている。いままで時流に迎合して非常識な中傷を向けてきた人々の心のなかは、深刻な後悔の念がうず巻くであろうと、私は確信している。
 しかし、だからといって障魔の風がただちにやむことはないであろう。御金言に照らして、嫉妬の厳しき嵐がいやまして強く吹き荒れることも覚悟しなければならない。
 私ども妙法の強き絆に結ばれた宿縁の同志は、社会情勢がどう変化しようとも、一切の流行現象には目もくれず、また紛動されず、いかにわずらわしきことありとも夢になして、御本尊いちずに、御書一筋に、確信に満ちみちて、真実の勝利即世界平和の実現をめざして、堅固な信心の遠征を続けていきたいことを、私は訴えておきたい。
 次に私が申し上げたいことは、広布の組織の最前線で戦うということは義務ではなく、権利でなくてはたらない、ということである。
 なぜならば、広布の組織のまっただなかで精進していくところに、自分自身を真金の人に鍛えていくことができるからである。学会の組織は自らを鍛える人間革命への触発の場であり、同志はそのためのかけがえのない善知識なのである。一人だけの宗教というのは本来ありえない。組織を避けようとする人は”孤独地獄”の人生を歩む以外なく、組織のないところに生きようとすることは、原始人の生活を夢見るようなものである。
 恩師戸田城聖先生は「戸田の生命より大切な広宣流布の組織」とよくいっておられた。そして学会の組織は前代未聞の組織であると喝破されていたことも思い出す。
 「純粋な教団というものは、けっして人工的な組織ではないのだ。御仏意によって出現した教団の組織は、わかりやすくいうならば、われわれがつくるようにみえても、しょせん、御本尊によってつくられていくものだ」と。
 この御本仏に直結した尊い広布の組織を、私たちは徹底して愛し、守り、育てていきたい。
 経文に”和合僧”とあるが、現代でいえば”組織”のことである。この仏法者の組織を破壊する”破和合僧”が、もっとも罪の重い五逆罪のなかにあげられていることは周知のとおりである。つまり、広布組織を破壊し、その充実、発展の障害をすることである。
 それゆえ、広布の組織を軽蔑し、実践活動をきらう人は、外見はどうあれ、行きつくところは地獄であり、提婆達多の末流といわざるをえないのである。
 ともかく学会の組織は、政治組織でも官僚組織でもない。”生命対生命の感応の組織”であり”人間と人間が打ち合う世界”なのである。この尊い生命の組織を軽んずるものは、自分の生命そのものを軽んずることに通ずる。
 どうか、全国から選ばれた青年部代表の諸君は、深い生命哲理を土台に、わきあがる大歓喜と大情熱をもって、この尊い正義の地涌の教団を、徹底して守り、人のため社会のために尽くしきっていく一生であるよう、私は心より念じ、また期待している。(要旨)

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