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日蓮大聖人・池田大作

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第9回教学部大会 ”人間のため”こそ仏法の根本精神

1977.1.15 「広布第二章の指針」第9巻

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1  本日の教学部大会、まことにおめでとうございます。またお寒いところ、たいへんにご苦労さまでございます。私はこの席上におきまして、若干、仏教史を侑撤しつつ、日ごろ考えてきましたことを、懇談的に話させていただきたいと思います。
2  人間のための宗教
 まず、私は宗教革命ということに関連しまして、仏教というものの本来の精神に多少ふれておきたいと思います。
 仏教は、本来、革命の宗教なのであります。釈尊が仏教を興したのも、権威主義に堕し、悩める民衆の救済を忘れたバラモン教に対抗して、宗教を人間の手に取り戻すためであったことは、周知の事実であります。
 ”宗教のための人間”から”人間のための宗教”への大転回点が、じつに仏教の発祥であったのであります。仏教はまさしく民衆蘇生のための革命のなかから生まれたといっても過言ではないのであります。
 しかし、その仏教も、時代を経るにつれて、在家の供養で支えられた僧院のなかで、学問的に語られるにすぎないものとなっていくのであります。その結果、出家僧侶を中心とする一部のエリートたちの独占物となっていったことは、皆さんもよくご承知のところでしょう。すなわち、ふたたび”宗教のための人間”への逆流が起こり始めていってしまったのであります。これが小乗仏教といわれるものであります。
 これに対する宗教革命が大乗仏教運動でありました。すでに、釈尊滅後百年ごろ、仏教教団か二つに大きく分裂した有名な事件があった。いわゆる「上座部」と「大衆部」の分裂がそれであります。
 これは同じ出家教団同士の意見の対立でありました。上座部とは”上に座る”と書くように、在家の民衆から供養を受けながら、それをとうぜんのごとく考え、民衆を眸睨し、エリート意識をもって君臨していた教団であります。
 これに対し、大衆部は、つねに在家民衆との対話、接触を保ち、仏教は民衆に開かれたものでなければならないと主張した、進歩的で柔軟な教団であります。この保守派と進歩派の対立は、形式主義に堕した仏教の根本的な革新にまではいたらなかったのでありますが、これを革命的に遂行したのが、大乗仏教運動でありました。
 大乗仏教は、小乗の出家仏教が、あまりにも形式主義、官僚主義に陥り、民衆の苦悩から遊離していたのに対し、釈尊の精神、すなわち仏教の原点から問い直そうとした運動でありました。
 ここに、真実の仏教の覚醒の大波が、当時の全インドをつつみ、それはやがて中国へ、朝鮮へ、日本へと流布していったのであります。
 以上、仏教史における最大の革命であった大乗仏教運動を概観しましたが、これは、仏法流布における”現在”から”未来”への歴史の教訓を見いだそうという趣旨からであります。
 そこで得られる教訓の一つは、かつて民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞、形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が”出家仏教”に陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実であります。もともと仏教とは、民衆のものであり、出家たる法師もまた、民衆の指導者の意味であったのであります。
3  出家と在家
 日寛上人の「撰時抄文段」に「涅槃経第十八に云く、時を知るを以ての故に大法師と名づくと云云。文意に云く、時剋相応の道を知るを以ての故に大法師と名づくと云云。大法師とは能く法を説いて衆生を利する故なり」とございます。
 この御文に明白なごとく「大法師」とは、時剋相応の道を知る、つまり、いまはいかなる時かを凝視しつつ、広宣流布の運動をリードし、能く法を説きつつ、広く民衆の大海に自行化他の実践の波を起こしゆく存在なのであります。そのためには時代の激流を鋭く見極め、時には民衆の盾となって殉教の徒を守り、民衆とともに仏法のために戦いゆくことが、必要条件となるのであります。
 その尊い姿を貫き通された方こそ、もったいなくも御本仏日蓮大聖人であります。その崇高な、ご一生は「法師」とはいかにあるべきかを、歴史の偉大な教訓として末代の私どもに遺されたのであります。
 「松野殿御返事」に「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」等とまでおおせなのであります。
 多くの御抄には、大聖人の仏法指導者に対する厳しい戒めがありますが、大聖人は鋭く、仏法がその体内から滅びゆく事態を察知され、破戒の他宗の僧を例に、あるべき出家のあり方をご教示くださっているのであります。
 そして「経文の如くならば末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり」と断言され、「実の大乗の僧」ならば、三類の強敵との戦いを回避してはならないとおおせであります。むしろ競い起こる三障四魔との激闘のなかに身を敢然とおきなさい――といわれているのであります。この精神こそが、日蓮大聖人門下の規範であり、誇りであり、使命でもあったことは論をまちません。誰人がなんといおうとも、私どもはこのとおりに実践しているのであります。
 同じく「松野殿御返事」のそのあとに、大聖人は在家の信者の立場を明らかにし「しかるに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」とおおせになられている。これによると、在家はもっぱら唱題に励み、供養し、そのうえ、力にしたがって仏法を語るべきであるとされているのであります。
 僧侶がもっぱら折伏に徹し、三類の敵人と戦い、広宣流布するのに対して、在家は自身の成仏のため唱題し、側面から僧侶を応援する立場である。その本義に立てば、現代において創価学会は、在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。
 これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は世界にないのであります。ゆえに成仏の功徳も、絶対に間違いないと思いますが、いかがでしょうか。(大拍手)
 過日の総会講演でも紹介しました大乗仏典の一つ「維摩詰経」においては、受戒作法の形をふんで、頭を剃髪したり、染衣を着ているから出家なのではなく、真実の仏教精神を身に体しているか否かが大事であると主張しているのであります。すなわち、形や姿で決めるのではなく、その心、姿勢いかんが、真実の出家か否かを決定するのであると説かれているのであります。
 もともと、出家とは「家を出る」と書き、名聞名利の家を出て、煩悩の汚泥を離れるとの意味であります。そして、二度と家に帰らないとの決意をこめたしるしとして、剃髪の形式をとったものと思われます。
 それゆえ、大切なのは、あくまで出家の志であり、決意であり、修行の深さなのであります。
 このような出家の元意に立ちかえるとき、出家、在家を問わず、ひとたび仏教の正しい信仰にめざめ、苦悩の民衆を救済しようとの精神に立った人は、その瞬間から、形式を超えて、精神においては出世間の人々であるというのであります。
 「大荘厳法門経」には、次のような文言があります。「菩薩の出家は自身の剃髪を以て名けて出家と為すに非ず。何を以ての故に。若し能く大精進を発し、為めに一切衆生の煩悩を除く、是を菩薩の出家と名く。自身に染衣を被著するを以て名けて出家と為すに非ず。勤めて衆生の三毒の染心を断ず。是を出家と名く」等々とございます。
 仏教の原点に立ちかえった大乗仏教が、菩薩の出家を提唱したのも、なによりも苦悩の民衆のまっただなかに飛び込み、民衆の苦悩をわが苦悩として戦えとの、仏教出発の精神によったからなのであります。大乗の菩薩僧の主流は、この経文のごとく剃髪せず、俗衣を着した在家で活躍する群像なのであります。
 ゆえに、私ども学会員は、形は在俗であろうとも、その精神においては出世問の使命感をもって、誇りも高く仏法流布のために、いよいよ挺身してまいりたいと思うのであります。
4  供養について
 次に”供養”ということについて、仏法の本義に立脚して、少し考えてみたいと思います。日蓮大聖人の御書を拝しますと、いたるところに大聖人が仏法への供養をたたえ、その功徳が甚大であることを説かれております。私ども創価学会もまた、この大聖人の御金言のごとく今日まで仏法のために未曽有の供養をしてまいりました。これは、すでに元旦に申し上げたとおりであります。
 「諸法実相抄」には「日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量ちゅうりょうするも多少其の辺を得ず」」とございます。
 広宣流布へ真実の「信行学」の路線を進む創価学会に、大福運、大功徳があることは絶対に間違いないのであります。仏法真実ならば、私どものその福運は、子孫末代にいたるまで、陽光が燦々と降りそそぐであろうことを、どうか確信していただきたいのであります。
 さらに、この供養について、若干、歴史的なことを申し上げますと、まえにもお話しした維摩詰は、在家の身でありながら供養を受けた事実が「維摩詰経」に記されております。そのときの様子を経文にみますと、維摩詰は、ひとたびは固辞し、どうしても受け取ろうとはしなかった。再度の申し出に供養を受け取った彼は、これを人々から軽蔑されている貧しい民衆のために半分を使い、あとを仏にたてまつり、仏法弘通のために使ったと記されております。このことは何を意味しているのでありましよう。
 一つには真に仏法流布に挺身し、民衆救済に進むものには、供養を受ける資格があるとの思想が底流にあること。二つには、その供養が民衆のために、仏法のために還元されるならば、それは、仏法の本義に叶うということなのであります。つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養を仏法流布に生かしていくならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想であります。
 大乗仏教の最高峰たる法華経になりますと、さらに徹底化され、真の”法師”についてふれられています。
 法華経法師品には、法華経を受持、読、諦、解説、書写する、つまり、五種の妙行を実践する者を法師と名づけ、在家、出家ともに、法華受持の人は最高の供養を受ける資格があると強調しております。また、法師功徳品においては、法師の功徳が説かれ、それは六根清浄であると結論づけられております。
 眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清浄となるとは、現代的にいえば、生命の浄化であり、人間革命であります。
 それでは、今日において、大乗仏教の理念を継承し、大聖人のご精神に叶った真実の意味の出世間の団体は、日蓮正宗創価学会をおいてどこにありましょうか。「日女御前御返事」に「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり」とございます。
 すなわち、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱うれば、受持即観心で、五種の妙行が即座に具足するのであります。その人は在家の立派な”法師”となるのであります。
 「御義口伝」に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」とあるごとく、別しては日蓮大聖人、総じては御本尊をたもち、題目を唱える創価学会の私たちもまた大法師の名に含めてくださり、今日における真実の出家という意義になってくるのであります。
 日達上人猊下も「有髪、無髪を問わず、戒壇の大御本尊様を南無妙法蓮華経と拝し奉るすべての人が、和合僧の一団となって、われわれ僧侶とともに、その和合僧の一員であるということになるのでございます」と、はっきり申されている。すなわち出家も在家もまったく同格であるとの言であります。
5  寺院の起源
 次に、寺院の起源から、その本来の意義と、創価学会の本部、会館のもつ使命を考えてみたいと思います。
 仏教における寺院の原形は「精舎」であります。本来、釈迦の行った化導方式は、一定の寺院にとどまり、そこに住して説法や儀式を行うというものではない。遊行といって、全インドを駆け巡り、大衆のなかで仏法の精神を説くのであります。ところが、インドには雨期があり、三か月というものは遊行ができない。そこで一か所に集まって修行する場所が必要となった。それが精舎であります。有名なものに舎衛城の祇園精舎、王舎城の竹林精舎があるのは、皆さんもよくご承知のことと思います。
 したがって、当時の精舎は、僧職者がそこに住み、宗教的儀式を執り行うという現在の寺院とは趣が異なっていた。一種の”拠点”であったといってもよいでありましよう。
 一年のうち雨期に僧侶が集まり、そこで修行し、雨期が過ぎると各地へ散っていくという方法がとられていたのであります。
 後にインド仏教の中心となったナーランダ寺院においては、研修の度合いをさらに深め、一種の大学としての機能を果たしております。各地から修行者が集まり、起居をともにしながら、仏教の教義、布教のあり方などを学び、一定の期間を終えると、また行地に戻っていったのであります。まさに、現代の講習会や研修会を彷彿とさせるものがあります。
 寺院を伽藍と称するのは、僧の集まりをサンガ、その修行者の集まる建物をサンガランといったところからきております。したがって、寺院は「修行考の集まる場所」という意味を本来もっているのであります。
 寺院を別名「道場」ともいうのは、その意味からであります。儀式だけを行い、わが身の研鑽もしない、大衆のなかへ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対にない。仏法を心から信ずる人々が喜々として集まり、そこで真摯に研鑽しあい、社会へ仏法の精神を拡大していく拠点であってこそ、初めて道場の名に値するのであり、法華経に「当詣道場」とあるように、仏界湧現の場ともなっていくのであります。
 また大乗仏教においては、法華経の「多宝の塔」思想の影響等により、仏塔信仰が盛んにたって、その塔の周りに伽藍などをそろえておりましたが、そこで出家僧だけではなく、在家の修行者を核とする大乗の菩薩が修行していたようであります。つまり、在家の人たちの拠点ともなっていたのであります。
 それは、小乗仏教が大衆と遊離し、特殊な集団と化して、たとえば在家の信者を寺院へ入れないなどの事態が起こり、在家の人々の拠点をつくる必要が出てきて、菩薩僧を中心とし、新たな寺院を拠点として活動を行うようになっていったのであります。
 当時の菩薩僧の多くは、出家に対し在家であり、それぞれの家をもっております。また、剃髪しているのでなく、有髪である。衣服も僧衣でなく俗衣、つまり普通の衣服をしているのであります。大乗仏教の興隆は、この在家中心の寺院を拠点として生まれた在家教団によってなされたのであります。
 そこでおもに説かれたものは「ジャータカ」つまり「本生譚」(因位の修行をつづった物語)であります。難解な教義を教えるよりも、釈迦が仏になるために、どのような修行をし、行動をとったかを、民衆にわかりやすいように説くことから、仏道修行のなんたるかを教え、仏法の基本精神を伝えようとしたのであります。
 このようなところにも、大乗仏教の民衆尊重の精神があらわれていると考えられるのであります。ゆえに、わが学会教学も、永遠に、机上の観念ではなく、人々の生活実感と密着した、実践あふれる教学であっていただきたいと念願するものであります。
6  学会の会館は民衆蘇生の道場
 また近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院はもたれなかった。お亡くなりになるまで草庵であります。折伏弘教の指揮をとられ、また自ら布教のために歩く拠点としての庵室をもたれたのみであります。
 これは当時、伽藍仏教と化していた宗教界への鋭い警鐘であり、仏教革新運動であったといえるのであります。大聖人も、また釈迦も、あくまで革命運動を遂行されたということを忘れてはならないと思います。
 ともあれ寺院とは、このように、本来、仏道修行者がそこに集い、仏法を研鑽し、そこから布教へと向かうための道場、拠点であることは論をまちません。その本義からするならば、今日、創価学会の本部、会館、また研修所は、広宣流布を推進する仏道実践者が、その弘教、精進の中心拠点として集い寄り、大聖人の仏法を探究するところであり、そこから活力を得て、各地域社会に躍り出し、社会と民衆を蘇生させていく道場であります。すなわち、学会の会館、研修所もまた「近代における寺院」というべきであります。(大拍手)
 もちろん日蓮正宗の寺院は、御授戒、葬儀、法事という重要な儀式を中心とした場であり、これに加えて、広布の法城たる会館があることによって、初めて進歩と躍動の”閉かれた宗教”の勃興があることを銘記していただきたいのであります。(大拍手)
 先日、ある大使と歓談したさい、その大使は、宗教がいわゆる既成の寺院に閉じこもったものではなく、平和、文化のためにも、もっと幅広い次元にまで浸透していくべきであり、その意味で創価学会の路線は正しいと思う、と評価をしておりました。
 いままでの既成宗教は、いわば民衆をそこに従属させるかたちで安泰を保ってきました。しかし、それのみでは保守であり、現在においては、重大な行き詰まりを露呈してしまっております。ゆえに二重方式で、わが会館を守り、そこを広布の拠点としていく行き方は、かつてない近代的な方程式であり、さまざまの風波を乗り越え、一切を外護していくための新しい行路であり、基盤なのであります。(大拍手)
7  神力品の「斯の人」に深意
 最後に、法華経神力品には「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」とあります。この経文に、まず「斯の人」とあることに注目したいのであります。「この如来」とも「この菩薩」とも「この僧」ともない。
 「斯の人」とは、いうまでもなく、日蓮大聖人は、ご自身であると断定されています。すなわち「斯の人」とあることに、法華経も、また日蓮大聖人も、どれだけ人間原点としての立場を貫いているかが明瞭なのであります。
 衆生の闇を滅するのも人間であれば、衆生も一人ひとり、喜怒哀楽の情をもつ人間であります。人間であるがゆえに人間の苦悩を打ち破ることができる。生命をもったものが、生命をみがいていくことができるのであります。
 また、そのあとに「世間に行じて」とあります。世間とは、社会であり、社会の泥沼のなかで戦うのでなければ、衆生の苦悩の闇を晴らすことは不可能なのであります。
 日蓮大聖人が立宗以来、当時、日本の中心地である鎌倉で弘教活動を展開されたのも、「世間に行じて」の経文どおりのお振る舞いであります。
 ゆえに、世間の方向へ、社会のなかに仏法を展開していかなければ、大聖人の実践、そして目的観とは逆になってしまうことを恐れるのであります。
 いま私は、恩師戸田先生が昭和二十八年の元旦に「学会は身には功徳の雨をこうむり、手には折伏の利剣を握って、獅子王の勇みをなしていることを堅く信ずる」といわれたことを思い出します。私どもも、燦々たる元初の功徳の陽光を胸に浴びながら、慈悲の利剣を固く手にし、獅子王のごとくこの一年もまた、悠然たる生命で、創価桜の道を切り開いてまいりたいと思います。
 大切な皆さま方の、ますますのご健康とご活躍をお祈り申し上げまして、私の話といたします。(大拍手)

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