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日蓮大聖人・池田大作

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三重の日記念勤行会 御本尊根本に大乗の人生を

1976.10.4 「広布第二章の指針」第9巻

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1  御本尊に感謝
 私の恩師である戸田前会長は、よく、このように申されておりました。
 「御木尊に対して、つねに感謝の気持ちがある人は、ますます福運が開かれていくものだ」と。
 人間というものは、凡夫のはかなさのゆえに、ひとたび地位や名誉を得ると、どうしで、も傲慢な姿勢に陥りがちです。信心の世界にあっても、こうした油断は、とうぜん厳しく戒めていくべきものであります。求道、感謝の気持ちが薄らいでくると、いつしか信仰姿勢が傲慢になり、それが高じて、真実の和合僧である学会を批判したり、同志に怨嫉をするようになってしまう。
 要するに、それは自分の力を過信して”一生成仏”という尊い目的を忘れ、自分自身の人間革命という原理を教えてくれた原点の創価学会、なかんずく根本の御本尊を軽視した増上慢の生き方に陥っているのです。真の信仰にめざめたわれわれには、こうした福運を消し、自分自身をも破壊させる慢心の振る舞いだけは、けっしてあってはならない、というのが戸田前会長の遺言でありました。
 ここでいう”感謝の心”とは御本尊を受持し、その功徳の源泉に縁することへの感謝であり、大勢の同志に守られ、指導、激励を受け、御書を学び得たことに対する感謝という意味です。この強い感謝の一念は、自分自身の境涯を大きく開き、功徳の薫風を生命の宮殿に吹き込ませる福運開花の本因につながるのであります。日々の仏道修行に心から感謝している人は、やはり諸法実相の道理で、なんともいえない福々しさがある。
 皆さん方も、そういう人生を築き、悠々自適の生涯を送られんことを心から願望してやみません。
 理事長であった故原島宏治氏は、仏法とか八万法蔵とかいっても、せんじつめていけば「只南無妙法蓮華経」――これに尽きると、よく口ぐせのように語っておりました。私も、この話に深く同意したことを思い出すのであります。
 創価学会が、これほど偉大な発展を遂げることができたのも、日蓮大聖人のおおせどおりに”只南無妙法蓮華経”を根本として”わが道”を歩み、あらゆる三障四魔を払いのけてきたからであります。利害のためとか、名誉のためとか、教勢拡大のためといった低次元のものでは断じてありません。ただひとえに日蓮大聖人のおおせどおり、信心血脈の題目を唱え、自分の一生成仏、人類の平和実現に敢然と挑戦してきたがゆえに、今日の世界的な存在があることを、最大の誇りとしていただきたいのであります。(大拍手)
2  民衆のなかへ、社会のなかへ
 平和と文化を推進する世界的な団体となった学会について、十数年も前から、鋭く関心を払ってきた一識者の話を、ここで紹介したい。
 この人は「まさか、学会が今日のように大発展するとは夢にも思っていなかった」としみじみ述懐し、その要因はまさしく、社会のなかへ社会のなかへと、民衆のために根を張った地道な労作業の結晶であろう、との評価を寄せておりました。そしてまた、思想団体として、平和・文化推進の実践団体として、確固たる法をたもちつつ、民衆のなかへ進む姿はまことに絶妙であり、もしも学会が、権力や権威に従属的ないき力をしていたとするならば、ほとんど発展もなく、腐敗堕落してしまったであろう、とも話っておりました。
 さらにこの識者は、このような学会の大路線を展望した人こそ牧口初代会長であり、第二代戸田会長であることを聞くにおよんで「すばらしい卓見である。このような民衆とともに社会のなかへと前進しゆく団体は、全世界でただ一つ、創価学会だけでしょう。
 他のほとんどの宗教は権力に従属し、あるいは迎合し、たんなる伽藍宗教と化してしまった。しかし、学会はそうではなかった。これはもっとも進歩的であり、近代的であるとともに、もっとも世紀的である」との感想を寄せておりました。このように、学会の存在意義を鋭く分析し、評価する識者もいるということを知っていただきたいのであります。
3  福運と幸せの生活を
 次に申し上げたいことは、皆さん方の尽力によって、創価学会も創立四十六同年の佳節を迎えることができた、ということです。すべては皆さん方の生命の躍動、ほとばしる信心の力、団結で、今日の隆々たる学会が築かれたのであります。すべては、御本仏がご照覧であり、その功徳は、皆さん方のみならず、子孫末代に流れゆくことは、絶対に聞違いないところであります。
 日蓮大聖人の出世の本懐は、一切衆生の救済のために、大御本尊を残されたことにある。日蓮大聖人は権威をもって自分に従え、といういき方はけっしてされなかった。あくまでも衆生をして成仏させてあげたいという大慈大悲であられた。この宇宙根源の一切の法則を顕現した御本尊に、境智冥合することによって即身成仏の境涯となる――これは御書に説かれているとおりであります。
 また大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」ともおおせであります。すなわち、あとは何が大事かといえば、われわれの生活であり、社会である、との教えなのであります。宗教のための宗教、仏教のための仏教ではない。ここに文底仏法の革命的な意義がある。御本尊のもとにあっては、誰人たりとも平等に、信仰即生活の法則にのっとり、福運を積んで幸せの人生を生きぬいていく――これが仏法の究極の目的なのであります。
 きょうお集まりの皆さん方は、この御本尊を根本として、どこまでも社会、生活を大切にし、地域の人々から”立派だ”と評価される”信心の英雄”に成長していただきたい。それが、即御本尊の偉大さを人々に教えていく尊い「行」にもつながっていくのです。この尊い「行」を進めながら、社会人としての範を示しつつ、ともどもに胸を張って、堅実で福運に満ちた生活を築いていくよう、心から念願するものであります。
4  大乗の人生を
 人生のありさまは大別すると「外道の人生」「小乗の人生」「大乗の人生」――この三つになろうかと思います。
 「外道の人生」とは、仏法で説く生命の因果の理法をわきまえない生き方であるといってよい。この人生をいかに生きるべきか、この世で何をなすべきか、また、どのように社会に貢献していくかという確たる信念ももたず、自らのエゴに支配された刹那的、虚無的な生き方であるともいえましょう。
 また「小乗の人生」とは、政治、経済、芸術、科学等、それぞれの分野で活躍していながらも、自分のみの名聞名利にきゅうきゅうとし、民衆の幸せを真に願望していけない生き方といってよい。世の指導的立揚にある人は、すべて本来は「大乗の人生」でなければならない。民衆を幸せの路線に”乗せる”指導者でなくてはならないのであります。しかしたがら、利害のみに終始したり、地位や名誉が、自分を立派に見せようとする”手段”となっているところに、世の中の不幸の根本因があるといわざるをえない。
 これに対して私どもは「大乗の人生」を歩んでおります。妙法という空間的には宇宙大、時間的には永遠、また内証的には成仏、哲学的には悟りの哲理を根本とし、これを人々に教え、自分も実践しております。いわば「大乗の人生」とは、常楽我浄の人生なのであります。
 すなわち、南無妙法蓮華経という永遠常住の法を胸中に存しながら、人々にも教えひろめていくことが即”常楽我浄”の生命を堅持していく生き方となり、諸行無常の人生にあって内なる”大我”の生命を確立していく唯一の法則なのであります。したがって、この妙法の実践に生きる人は、意識する、しないにかかわらず、なにものにも紛動されない生命の永遠性に生きることができるのであります。
 皆さん方のなかには、厳しい宿命との戦いの最中におられる方もいるかもしれない。乱世ゆえに、これからもありとあらゆる批判、中傷もあると思う。しかし、御本仏日蓮大聖人は、あの流罪の地・佐渡にあっても「喜悦はかりなし」――これ以上の喜びはないとおおせであります。
 私どもが、どんなに傲慢な人々から批判され、いじめられようとも、永遠の生命に生きる信念と誇りを忘れず、どこまでも凛々しく、晴れがましく、妙法の哲理を訴え続けている事実は、もはや、実証として人生に勝っているのであります。これが学会精神であり、牧口初代会長、戸田前会長の精神なのであります。どうか、大聖人の本眷属、如来の使いとしての名誉と確信を忘れずに生きぬいてください。
 獄中で生涯を終えられた牧口初代会長も、その遺志を継承された戸田前会長も、広宣流布のために弾圧され、まさに死闘の連続であられた。諸難にもめげず信念を貫かれた歴代会長の激闘、そこに学会が今日の世界的な存在とたる淵源があるのであります。
 ともかく、仏法者として、この御本尊、学会とともに「只南無妙法蓮華経」と唱えながら進んでいく”信仰覚悟の人生”であっていただきたいことを心から祈って、私の話とさせていただきます。

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