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日蓮大聖人・池田大作

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第203回9月度本部幹部会 凛々しく信心第一の大道歩め

1976.9.19 「広布第二章の指針」第9巻

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1  「六項目の基本指導」として①御本尊根本②御書第一③謗法禁断④実践第一⑤団結第一⑥求道第一を提示しておきたい。
 これは、学会の永遠に変わらぬ根本精神であるとともに、われら仏法者にとって、一項目たりとも欠かしてはならぬ仏道修行の実践規範となるものである。
2  御本尊根本
 われわれはどこまでも「御本尊根本」の人生を生きている。この信仰の絶対的信念を貫き通してきたがゆえに、創価学会は三千年の仏教史はじまって以来の未曽有の大発展を遂げ、日蓮仏法の世界宗教としての基盤も強固に確立できえたことを、まず確認しておきたい。
 「観心本尊抄」に次のような一節がある。「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊ましまさず」と。すなわち、われわれは、釈迦・多宝、上行等の四菩薩さえも脇士とする一閻浮提第一、医界第一の御本尊を護持している。この御本尊を根本として、はじめて成仏もあり、生命の本源的次元からの人間革命も成し遂げることができるのである。この普遍の方軌こそ、創価学会の根本の路線である。
 この人間本源の妙法の当体としての御本尊について「草木成仏口決」にはこう説かれている。
 「一念三千の法門をすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」と。すなわち、一念三千という宇宙の生命の大法則を、一幅の曼茶羅として具現化されたものこそ御本尊なのである。
 歴史上、生命の法則を明らかにしようと試みた思想、哲学は数多く存在するが、すべて部分観の解明にとどまり、普遍的な人間生命への根源の悟りは明らかにされぬままに終わっている。しかし、この御本尊こそ、万人を悟りに導き、万人に幸福を与えうる、真実の”悟りの哲学”の当体なのである。
 ゆえに私たちが「受持即観心」の原理に立って、一生涯、御本尊根本に信行学の実践を持続しゆくならば、御本尊にまします無限の法力、仏力が、われわれの信力、行力と境智冥合して、わが生命のうちに仏の偉大な生命の境涯が躍動しゆくのである。
 そうした信仰の実践のあり方として、「妙一尼御前御返事」には「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」と説かれている。
 つまり、信心の極理というものは、子供が何かあればすぐ”お母さん”と、母の愛情を求めゆくように、純粋な、求道の心豊かな人間本然の振る舞いのなかにこそある。逆に、疑い深く、自ら生命に煙幕を張ってしまうような生き方であれば、その信仰は仏の大生命との感応を失い、自己の生命に内在する清浄なる仏の生命も湧現させることはできないのである。
 さらに「上野殿御返事」にも「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたち形容よき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」とおおせのとおり、信仰とは、たんなる理屈の次元ではとらえきれない、生命の”感応の妙”を根本義とするのである。
 それを移ろいやすい現象の次元にのみ目を奪われて、仏の生命を求めようとせず、人を疑い、純粋な信仰の眼を曇らせてしまうようなことがあれば、一生の悔いを残してしまうことを銘記してほしい。
3  御書第一
 「御書第一」ということも、信仰の基本としてのとうぜんの実践方軌である。ただ、心すべきことは、御書中心、御本尊中心といいながら、自らの元品の無明のゆえに、知らず識らずのうちに”自分中心”の人生に陥ってしまうことである。こうした増上慢の生き方は、名聞名利に流され、やがて行き詰まり、批判と愚痴に支配された地獄の生命の泥沼に陥ってしまう。皆さん方は、そのような愚かな指導者の道へ堕してはならない、と申し上げたい。
 この「御書第一」の依文としては、有名な「諸法実相抄」に「此の文には大事の事どもしるしまいらせ候ぞ不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ」とあり、また「日興遺誠置文」には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」とある。
 誰人がなんといおうとも、御書を中心とした場合には、強い確信が湧いてくるし、信仰が前進する。創価学会の強さは、この「御本尊根本」「御書第一」という不変の原点に立つがゆえであり、この不変の原点を夢繰にも忘れず進むかぎり、創価学会はいかなる障魔によっても崩されることはないのである。
4  謗法禁断
 平和と文化の運動路線が、創価学会の主張であることはとうぜんとして、その底流にはつねに仏法の正義を尊び邪悪と厳しく対決しゆく「謗法禁断」の姿勢が、深く貫かれていなければならない。
 「曽谷殿御返事」のなかに「謗法ほうぼうを責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」とある。
 また「阿仏房御前御返事」にも「少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし、譬ば海上を船にのるに船おろそかにあらざれども・あか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、謗法不信のあかをとり・信心のなはてを・かたむべきなり」と説かれている。
 創価学会は「謗法禁断」の精神を貰いてきたがゆえに、草創以来、数々の難を受けてきたのであり、また、それゆえに、清き仏法の源流を汚すことなく、社会に展開して、仏法平和の今日の興隆を果たすことができたのである。
5  実践第一
 創価学会の伝統は、いうまでもなく”実践こそ宗教の生命”との精神を貰いてきたことにある。それゆえに、今日の大発艇を遂げることができたともいえよう。
 実践の重要性については「諸法実相抄」に「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」とある。
 日蓮大聖人の仏法は「事」の仏法である。「事」とは何かといえば、それは”実践”である。上行・無辺行等、四菩薩の名にはすべて「行」の一文字が含まれているが、この「行」とは、実践を意味するのである。実践がなければ、大聖人の仏法の真髄には叶わない。
 たとえ、どんなに御書を学ぼうとも、仏法の学者であるといおうとも、実践のない人には、仏法の真髄を究めることはできないし、成仏もありえないのである。信行学のととのった、真実の仏法実践を貫き通してきたのが、創価学会の運動である。したがって、私たちは、御書のとおりに、先駆と模範の仏法実践の道を切り開いてきたことに最大の誇りをもっとともに、その無量の功徳は、子孫末代にまで、燦々と降りそそぎゆくことを深く確信していただきたい。
6  団結第一
 「異体同心事」の一節に「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候、殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればちぬ、一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず、日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候」と明かされている。
 「団結第一」は、仏法の世界にかぎらず、すべての世界が志向する鉄則である。いわんや”人間宗”ともいうべき、最高の和合の団体である創価学会の世界においては「団結第一」はとうぜんの法理であるともいえよう。事実、創価学会は、御本尊と御書を根本に、団結第一の実践を貫いたからこそ、世界平和をめざす教団としての地歩を完壁に固めることができたわけである。ゆえに、この最高の和合の教団を破壊する行為は、もっとも重い罪となるのである。
 仏法の実践が社会に大きく展開されればされるほど、その実践の原点としての和合の団結は、ますます重要な意義をもってくるのである。
 それについて「佐渡御書」には「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし」とある。
 さまざまな社会的、文化的な活動の展開とともに、社会というものに流され、だんだんと信心の根本を、そして広宣流布という大目的を忘れていってしまう。その、社会への迎合ともいうべき”親しみ”によって、仏法の世界に名聞、利害などの汚れが混じり込み、それがやがて仏法を破壊する恐るべき病巣へと培養されていってしまうことを、厳しく戒められているのである。
 和合の世界は、外敵によっては破れない。むしろ、信心の向上心を忘れた妥協の生命によって、内部から破壊されるものであることを強く訴えておきたい。
7  求道第一
 「松野殿御返事」に「何に賤者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし、しかるに悪世の衆生は我慢・偏執・名聞・名利に著して彼れが弟子と成るべきか彼れに物を習はば人にや賤く思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候」と説かれている。
 名誉とか地位が偉いのではない。自分よりも、仏法をよけいに実践し、御書を読んでいる人に、仏法の真実を求め、聞いていこう、という謙虚な姿勢が大切なのである。
 たとえば、この熱海の地に大学の教授がやって来て道に迷ったとする。そのとき、近くにお手伝いさんが歩いていた。にもかかわらず、自分は大学教授だから教授以外の人間には道を聞けない、などというのは愚かである。一つの分野について、自分よりも道を究めている人に、教えを求めていくというのは、ものの道理でもあろう。
 しかるに悪世末法の衆生は、我慢偏執というか、自己中心の偏狭な思想に陥っている。そして、真実の仏法を知ろうともせず、いたずらに名聞名利のために、浮き草のような人生を送っているといっても過言ではないであろう。これは、見栄であり、その人生は砂上の楼閣であり、永遠の生命観からみれば、はかない姿といわざるをえない。名誉とか地位が人間の価値を決定するのではない。庶民のなかに生まれ、庶民のなかでみがかれた英知こそ、普遍的な人間真実の価値として昇華されゆくのである。
 私どもは、大海のような豊かな境涯で、仏法を求め、盤石な人間革命の実証を示しきっていくことが大切である、その根本として、勤行は、胸をはって凛々しく、わが一念の祈りは、全宇宙に、いな子孫末代、先祖代々にまで響きわたるのである、との確信をもって、力強く実践していっていただきたい。そして日々さわやかに、太陽のごとき境涯に立ち、伸びのびと大仏法を求めぬく人生であっていただきたい。(要旨)

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