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日蓮大聖人・池田大作

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第202回8月度本部幹部会 仏法即社会の名指導者に育て

1976.8.22 「広布第二章の指針」第9巻

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1  時代をリードしゆく妙法の指導者のあり方として①後継の人を大切に②年配者を大切に③ふだんの言動を大切に④ふだんの身なりを大切に⑤婦人、女子を大切に⑥職場、社会を大切に――を「六項目の心構え」として提示しておきたい。
2  後継の人を大切に
 「四条金吾殿御返事」に次のような一節がある。
 「されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり
 これは四条金吾のことを日天、月天に、ひまなく祈念している。それは、四条金吾が法華経の命脈、血脈を継ぐ人であるがゆえである、との意味である。
 広宣流布の命脈は、後継の人材育成にこそある。私が会長就任とともに祈念しつづけてきたことは、ひとえに、この「後継の育成」であり、いかなる三障四魔をも一身に受けて立ち、戦いぬいてきたのも、十年、二十年、いな五十年、千年、万年までの広宣流布、令法久住への人材の育成と完壁な土台を築く大目的のゆえである。
 鳳雛会をはじめ、大学会、その他多くの後継のグループから、たくさんの人材が広宣流布を継ぐ鳳として社会に大きく羽ばたきゆくことを心から祈るとともに、これからも育成に全魂をかたむけていく決心である。皆さん方も、この私の心境を深く理解していただくとともに、自らも後輩の育成と激励にあたっていただきたい。
3  年配者を大切に
 私は、年配者と少年が大好きである。
 そのゆえは、年配者の場合は、数々の人生の波浪を受けながらも、自身の道を失うことなく、見事な人生の勝利と総仕上げの実証を示しているからである。その風雪に洗われた、克己の人間性あふれる姿は尊く、心を打つものがある。
 「日興遺誠置文」には「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」とある。
 このなかの「下劣の法師為りと錐も」とは「どんなに身分の低い、あるいは見すばらしい姿をした年配の会員であっても」との意に拝することができる。たとえば、組織の第一線からひいている年配者等も含まれよう。したがって、この文意は「身軽法重の行者に於ては」――つまり、御本尊を大切にし、学会を愛し弘法に励む人であれば、たとえどんな見すばらしい姿をした年配者であっても、「当如敬仏」――すなわち仏を敬うがごとく、最高の礼をふんで接していくべきである、ということになろう。
 この人間仏法の原理に即せば、同じく「日興遺誠置文」に「弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事」とあるように、老若、社会的な地位を問わず、広宣流布のために献身する人はすべて、もっとも尊敬すべき人々なのである。また「老僧の思を為す可き事」といわれていることじたい、年配者を尊敬すべきであることを教えられているのである。創価学会は、この人間性の本源で連なった和合の人々の、うるわしい交流にみちあふれた教団である。
 したがって、広宣流布の尊い精神遺産を継承していくうえからも、年配者を心から尊敬し、かつ先輩から学んでいくという謙虚な姿勢を見失ってはならない。
4  ふだんの言動を大切に
 「兵衛志殿御返事」に「千年のかるかや苅茅も一時にはひとなる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」とある。
 千年もの長いあいだ生い繁っていたかやも、火をつければ一時にして灰になってしまう。同じように、それまで広宣流布のためにいくら戦ってきたとしても、ひとたび御仏意のままに進む創価学会を批判し、反逆するようなことがあれば、即座に、地獄の苦しみの生命境涯に陥ってしまう、との厳しい御文である。
 したがって、一時の感情や自己中心のエゴイズムによって相手に不信をいだかせたり、あるいは逆に、自らが批判の側に回るなどして、堕地獄の因をつくることは厳に戒めあうべきであろう。自らの軽率な言動によって、会員を成仏の道から離脱させてしまうことのないよう、厳しく自己を戒めるとともに、あくまでも民衆救済の根本姿勢に立ち、忍耐強く会員の指導、激励にあたり、一人ひとりを第一級の広宣流布の人材にみがきあげていこうとの決意を、深く固めあっていただきたい。ともかく、日常の言動は、相手を心から思いやる”慈悲の心”を第一義とされたい。
5  ふだんの身なりを大切に
 「十如是事」に次のような一節がある。
 「我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり
 すなわち「我が身」そのままが三身即一の本覚の如来である。それを、自身の外に法があると思うときは、その人は凡夫であり、生命は迷いの状態にある。一方、日常の生活、活動のなかにこそ法があることを覚った人は、如来であり、智者である、ということである。
 大聖人は四条金吾に対して「びむをも・かかずひたたれ直垂こはからず、さはやかなる小袖・色ある物なんども・ずして且く・うじて御覧あれ」と指導されている。
 あまり派手な格好をして、ことさら周囲の人に刺激するようなことがあってはならない、と戒められているのである。この鋭敏なほどの身の回りへの配慮は、一往は敵に対する用心を教えられている文意であるが、再往は「我が身即本覚の如来」という生命の深理の一端を、現実の生活行動への知恵として説き示されたものと理解することもできよう。
 さらにいえば、自身の法、覚りというものは、われわれの日常の立居振る舞いのなかに、如実に映し出されるものでもある。「如是相」とは、このことである。したがって、妙法の実践者の清らかな生命は、その表情に、声の響きに、あるいは清楚な服装にと、表れ出ていくものである。また、社会というものは、そうした学会員のさわやかな姿、言動をとおして、創価学会の真実の一端を発見しゆくものなのである。ゆえに、われわれは、どこから見ても「さすが学会員だ」と、心から称賛される人格、生活のうえでの実証を示しきっていきたい。
6  婦人、女子を大切に
 広宣流布という大目的に生きるうえにおいては、互いに厳しく錬磨しあい、激励しあっていくことはとうぜんであるが、それを前提としながらも、社会の道理、道徳という意味も含めて、婦人、女子を大切にしていただきたい。
 大聖人も「女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくん教訓までも・あるべからず、ましていさかうことなかれ」と指導されている。
 つまり、女性に対して怒ったり、苦しませたりしては絶対にならない。壮年、男子は、騎士道の精神で婦人、女子を大きく守り、包容していく賢人の姿勢であってほしいし、また、この騎士道の精神は創価学会の伝統の精神でもあることを銘記していただきたい。
7  職場、社会を大切に
 職場、社会を大切にする精神は、学会伝統の指導として教えられてきた道である。
 従来の革命運動は、その急進的な性格のゆえに、往々にして運動家たちの生活、人生を破壊させてしまうという矛盾をはらんでいた。
 しかし、創価学会の平和革命運動は、むしろ社会を大切にし、地域、職場で信仰の勝利の実証を示しゆくところにこそ、その運動の原点があった。創価学会は、この”信心即生活”の方軌に立った普遍的な運動を貫いたからこそ、いかなる弾圧にも屈することなく、平和と文化の崩れぬ基礎を築きあげることができたのである。
 「白米一俵御書」には「まことの・みちは世間の事法にて候……彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」とある。
 さらに「三種財宝御書」には「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」ともある。
 仏法即社会の実践こそ、学会の偉大なる平和運動の原点である、との確信をさらに強めて、社会、地域から信頼され、称賛されゆく真実の妙法実践者として、新時代の指導者への見事なる成長の証を示しきっていっていただきたい。(要旨)

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