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日蓮大聖人・池田大作

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中部記念幹部会 仏界の生命動かす勤行

1976.7.27 「広布第二章の指針」第9巻

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1  きょうは創価学会の十年、二十年、いな五十年先までの完壁な指導方針、路線を確認する意味で懇談的に少々、話をさせていただきます。さる四月の北海道における本部幹部会の席上、六項目にわたる指針を発表させていただきました。
 その内容は、第一に「勤行は朗々として正確」、次に「指導、弘教は慈悲」、第三に「教学は日々の努力」、第四に「座談会は体験中心」、第五に「会合は八時半厳守」、そして第六に「組織は人間の和」でありました。
 こうした路線というものは、本部で私をはじめ、副会長、各幹部がいままでの長い経験のうえから、どうしても深く指導理念として打ち立てておかなければならないと協議したすえの重要な路線でありますから、この点はおろそかにしないようにお願いしたいのであります。
2  勤行は朗々として正確
 最初の「勤行は朗々として正確」については「頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」という日眼女に与えられた御書の一節に、わかりやすく説かれています。
 頭を振ればしぜんに髪がゆるぎ、心が働けばしぜんに身が動く。”さあ、これから仕事をしよう””さあ、これから食事をしよう”と心が働くから、身も同じように動いていく。また大風が吹けば、草はかならず、それにしたがってなびく。「大地うごけば」――地震があれば、海の水も大きく動くものである。
 そのように教主釈尊すなわち御本尊に朗々と勤行、唱題をすれば、自分の生命の仏界が大きく動いていくともいえます。ですから信心強盛に朗々たる勤行、唱題の場合には「頭をふればかみゆるぐ……」がごとく、釈尊すなわち御本尊も動いてくださり、三世の仏菩薩そして諸天善神も働いてくれる。これこそが、われわれの生命から仏界を湧現させ律動させることができる根本法則なのです。そのような意味で、勤行は朗々として行わなくてはならない。
 頭を少ししか動かさない場合は髪も少ししか動かないように、勤行のとき、信心弱く小さなボソボソという声では、御本尊は大きくは動いてくださらない。胸を張って、姿勢を正し、すがすがしい勤行をしてください。だれが見ても”毅然としてすばらしいな”といわれるような姿勢でなくてはなりません。
 また法華経にも「端坐して実相を思え」とあります。
 題目をどのぐらい唱えるかは、個人差がありますから自由であります。あの人が何時間唱えたから私も何時間、という必要はありません。自分の境涯、祈り、悩み、願いによって、差が出るのはとうぜんでしょう。また、きょうは体の調子がいいからたくさん唱えよう、少し疲れているから唱題は短く終わろうというふうに、臨機応変でけっこうであります。
3  また「正確」ということについては「四条金吾殿御返事」に「法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり」とあります。
 法華経とは法本尊のことで、釈迦如来とは人本尊です。「人法一箇」を表しています。この御文を文底、観心から拝するならば、大聖人が書き顕された御本尊は「御音を文字と成し給う」――つまり大聖人の御声を、大宇宙のリズムの音律を、一幅の曼茶羅としたためられたものである。「仏の御心はこの文字に備れり」――御本仏のご境涯が文字として顕れています。その文字の根源は何か、それは「音」なのです。
 ですからリズム正しい正確な勤行でなければ、大聖人がおしたための御本尊に境智冥合できない。たとえば同じ手紙を読むにも、正確に読まなければ意味が通じない。教科書を読むにも不正確であれば、教師に注意されます。発音が不明瞭の場合は何をいっているのかわからない。と同じように、勤行は正確にしなければなりません。
4  指導、弘教は慈悲
 第二の「指導、弘教は慈悲」という点については、大聖人は「諌暁八幡抄」のなかで「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」とお述べであります。
 大聖人のご一生というものは、もったいなくも南無妙法蓮華経を一切衆生に服させてあげたい、という慈悲以外のなにものでもありません。「二十八年が間又他事なし」というのは、立宗以来、今日までの二十八年間は、裕福になったり、偉く見せようという名聞のためでもけっしてない、ただ、南無妙法蓮華経という大宇宙の法則をそのまま、三界の親として幼子に飲ませてあげたいという大慈悲の行動であったということです。
 「曽谷殿御返事」にも「食に多数あり土を食し水を食し火を食し風を食する衆生もあり」とあるとおり、いろいろなものを食とする生き物がいるが、真実の三世十方の仏菩薩は南無妙法蓮華経を食とする以外にない、と申されている。
 したがって、指導、弘教の根本精神というのは、自分が偉くなるとか、勢力をもつとか、派閥をつくるとか、金もうけをするとか、といった世間の次元とはまったく異なる、赤子を母親がいつくしみ育てるような慈悲をもって、多くの人々に南無妙法蓮華経をひろめ、教えていくことです。
5  教学は日々の努力
 第三の「教学は日々の努力」ということについては「報恩抄」に「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず」との一節があります。
 仏法というのは、いうまでもなく三世永遠の法則ですから、絶対なものです。時間的にいえば永遠であり、空間的にいえば宇宙大である。他の思想、哲学と違って、大聖人の仏法は悟りの哲学です。生命、宇宙の実相を如実知見したものです。
 したがって、徹底して学び、習い極めていくならば、そこにはおのずから人間というものの悟りも開け、功徳も生ずる。そこに仏法の偉大さがある。人類がそれにめざめる以外に真実の恒久平和はありません。それゆえに「仏法を習い極めんとをもはば、いとまあらずば叶うべからず」――時間をつくりだして、真剣に仏法を学んでいきなさいというのです。この「習い極めん」という言葉のなかに”信行”が含まれることは、いうまでもありません。
6  仏法実践のことについては、時としてお父さんのもつ人生観、宗教観と違う場合もあろう。お母さんのもつ社会の慣習と違う場合もあろう。それぞれの世界の師匠といわれる方々と、正法のことについては議論するときもあろう。または国家の宗教政策等々に従うことができないこともあろう。ただし、出世間以外の世法に関しては、良き社会人として、だれよりも社会の道理を重んじ、常識の人、信頼の人をめざしていくのはとうぜんのことです。しかし、こと信心に関しては、仏法を学することを第一義として御書の教えのとおりに仏道修行していきなさい。あとのことは、すべてしぜんに生かされる――との御金言と拝します。
 この大聖人のご指南のままに、いかなる権力、勢力にも迎合することなく、ひたすら広宣流布のために、如来の使いとして進んでいるのは、われわれ以外にありません。その崇高で先駆性に満ちた仏教運動に、皆さん方は誇りと勇気と確信をもって進んでいっていただきたい。
7  座談会は体験中心
 第四の「座談会は体験中心」ということについては、大聖人は「法蓮抄」のなかにこのようにおおせである。
 「此等の経文は又未来の事なれば我等凡夫は信ずべしともおぼえず、されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」と。
 「此等の経文」とは、一往は法華経をさしますが、再往、私たちの立場で拝するならば御書といえます。この仏法は永遠の生命の法理を説いた、深遠なる哲学である。現象面のみを追究する一般の学問とは根本的に異なる。そのため、過去のことも未来のこともわからない現代の人々、いわゆる”凡夫”には御本尊、御書の偉大さがなかなか理解できない。また現実の目先のことや低次元の問題しか見えない人々には修行しても役には立たないのではないかと思うかもしれない。末法は六道輪廻の人ばかりだから……。
 であるがゆえに「是を以て之を思うに、現在に眼前の証拠あらんずる人」うんぬんと。体験です。体験をもった人が、仏法について教えてあげるならば”なるほど、生活革命ができるのか””現実の人生の源泉力になるのか”と人々も理解するであろう。
 「道理証文よりも現証にはすぎず」で、信仰の体験をもちなさい、体験を語っていきなさい――こういう意味なのです。
8  会合は八時半厳守
 第五の「会合は八時半厳守」。これは、すでに何回も確認されていることですが、私たちの広宣流布をめざす折伏弘教の戦は、末法万年までの大遠征です。一時的な戦ではありません。いたずらに目先のことにとらわれて疲労したり、あせったりしてはけっしてならない。長期戦というのはリズム正しい行進でなければ、皆が疲れてしまう。高山に登る場合にも、駆け足で登ったならば、途中で息切れがして、落伍してしまう。ゆっくりではあっても、一歩一歩と正確に登った場合には、確実に目的地に達するのです。広宣流布の登攀も、これと同じ道理です。
 やはり社会の人々も納得し、理解を寄せるような行動であることが大切です。仏法は、一切の社会を蘇生しゆくものである。人間のなかに信心の実証がある。自分自身も健康を持続してたくましく常楽我浄の人生を生きながら、大勢の人々をも包容し、納得させていくことを忘れてはいけない。
 「四条金吾殿御返事」に「仏法と申すは道理なり」とある。また「道理と申すは主に勝つ物なり」ともあります。
 「主」とは、ひとくちで現代語でいえば「社会」ということです。このお手紙をいただいた四条金吾は、武士として主君である江間氏に仕えていました。途中は、さまざまな誤解から、たいへんに信心がやりにくかったようであります。しかし、最後には、江間氏をして「なるほど四条金吾はたいしたものだ。彼のやっている信仰も行動も見事なものだ。あっぱれである」と思わせるほどの信仰の実証を示した。主に勝ったわけです。
 これは、仏法の教えのままに四条金吾という一個の人間が、人間革命して社会に勝ったことになる。
 仏法は最高の道理を説いた人間学ともいえます。なぜかならば、九界即仏界であり「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」と説かれているからです。職場においても、学会活動においても、道理に反するような行動であってはならない。
 自分の行動、振る舞いをとおして、無言のうちに多くの人々を仏法の理解者にしていこう、納得させていこうという努力を、ぜひともお願いしたい。
 そのためにも、夜の会合は八時半には終了することを厳守していただきたい。会合が一切終わったあと、中心幹部だけが若干の打ち合わせをするようなことはあるでしょう。しかし、婦人部や女子部、また年配の方々は、八時半になったならば、速やかに家路に就くようにしていただきたい。幹部も、そうした人々にはとりわけ配慮をめぐらせ、安心して活動に励めるようにしてあげてほしい。
9  組織は人間の和
 最後の「組織は人間の和」についてですが、組織運営はいうまでもなく権威主義ではありません。命令主義でもありません。しかし、信心の善知識となる先輩がいなければ、後輩は信心を会得できません。先輩がときに厳しく、あくまで慈愛を込めて、こまごまと訓練してこそ、後輩は育ちます。したがって先輩は、善知識として、もっとも大切にすべきです。
 この仏法の道理のうえから創価学会は「生死一大事血脈抄」にある有名な一節を根底の精神にしていくべきです。それは「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮しょせん是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」という御文です。
 「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心に」いきなさい、という教えです。「自他彼此」とは、幹部だから、会員だからとか、またあの人は有名人だからとか、いい学校を出た、私は出ていないという区別なく、ということです。大聖人の仏法はどこまでも平等です。この御文は、創価学会にとってもっとも重要な御書の一節です。
 「水魚の思を成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」――ただただ御本尊を根本とした、それぞれの立場と使命を尊重しながらの異体同心が最肝要である。
 「然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」とは、一筋に広宣流布に活躍しゆく信心が根本である、その他の形態は従であるということです。この精神があるならば広宣流布の大願もかなうであろう、とのおおせです。
 事実「日蓮が一類」であるわれわれは、今日まで異体同心の四文字を根本にしてきたからこそ、仏法史上未曽有の大発展をみたのです。いかなる時代に入ろうとも、この原理を絶対に忘れてはならない。創価学会が大聖人のおめがねにかなって広宣流布、世界平和に進んでこれたのは、この御金言どおりに行動したからです。
 それぞれが理解しあい、尊敬しあって、仲良くこの異体同心の人間の和で進んでください。同志がたいへんなときは「友のうれいに我は泣き」で、抱きかかえるような気持ちで励ましてあげるのです。人間の社会ですから、お互いに凡夫ですから、ときにはいいこともあれば失敗もあるでしょう。しかし、信心を根本にこの御書を思い起こして助け合い、心から守り合って前進していくのです。これは私のお願いです。
 多くの同志の方々が、御本尊のご威光に浴して立派に育ってくださったし、あとは舎衛の三億の方程式をめざし「時を待つ可きのみ」と信じ、一日一日の現実を地道に挑戦しつつ、どうか朗らかに法戦に進んでください。(大拍手)

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