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日蓮大聖人・池田大作

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第201回7月度本部幹部会 「人間革命の指導」を重視

1976.7.18 「広布第二章の指針」第9巻

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1  きょうは六項目について、お話をしておきます。その内容はつね日ごろ、よく指導されておりますから、くどくどと申し上げる必要はないのですが、広宣流布に生きる指導者の大切な心構えとして、私は将来のために残しておきたいのであります。
 その一番目は「個人指導を大切に」ということであります。二番目には「小会合を大切に」。三番目は「言葉遣いを大切に」。四番目は「ふだんの交流を大切に」。五番目は「その家庭を大切に」。六番目は「その人の立場を大切に」。
 この六項目であります。
2  個人指導を大切に
 一番目の「個人指導を大切に」という意義についてですが、日蓮大聖人の御書は、いわゆる法門書は別にしてほとんどが個人指導であります。「四条金吾殿御返事」「富木殿御返事」また「上野殿御返事」等々、これらはすべて個人を対象としております。ここに意味があります。これは一人の人材を、最後まで立派に総仕上げさせていこうという即身成仏、そして人間革命の指導なのです。その人間革命の指導は、せんじつめてみれば一対一の指導になってくる。これが御書にお示しの重要な原理なのです。
 現実に大人数の会合はたくさんありますが、これは一人の人間を立派に成仏させようとする、一つの手段にすぎません。会合の目的は一人ひとりの成仏、人間革命、人材育成にあります。それを忘れて、ただ「きょうは千人集まった。五千人集まった。だから成功した」ということだけで進むことは、考え違いの場合もあるということを知っていただきたい。ときには、そのような大勢の会合も大事です。その成功も諸法実相のうえから、人間革命した人々が集まって、霊山の儀式をつくりあげるという点でとうぜん重要な意義もあります。ただそれだけをすべてと考えてはならないということです。基本は「個人指導を大切に」――それを第一項目としておきたいのであります。
3  たとえば、弘安二年におしたためになった有名な熱原法難のときの御書には「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども・とのばら殿原のをもいには智慧ある者をそねませ給うかと・ぐちの人をもいなんと・をもいて物も申さで候いしが、はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ、なかなか・さんざんと・だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん」という御文があります。
 三位房というのは、大聖人の弟子です。名越の尼とか、少輔房とか、能登房とか、これらの人も全部大聖人の門下でありました。しかし、臆病者で、少々の難で退転してしまった。いわゆる”正信の人”ではなく、求道心もない、小才子であった。この三位房のことについては、大聖人もまえまえから「大不思議の事ども」――どうも不審な点があると思っておられた。御本仏ですから、感応妙で全部わかります。そのようにわかっていたが、愚かな者どもは、大聖人が三位房のことをあまり注意すると、三位房というのは非常に頭がいいから、まるで大聖人が嫉んで文句をいうのではないかと思うであろう。それではいけないと思って、大聖人はあまり注意をしなかった。そのために、三位房は「はらぐろとなりて」――欲深です。名聞名利のとりことなってしまい、「大難にもあたりて候ぞ」――不幸な死に方をしてしまった。
 「なかなかさんざんとだにも」というのは遠慮せず、かえっていろいろ注意してあげていれば、本人も宿命打開し、また人間革命して、そんな大罰をうけないですんだかもしれなかった。残念なことをしてしまったといわれているのです。三位房のような頭がよい人間ということは、いまでいえば大学出身の秀才であるとか、世間の有名人ということになるでしょう。
4  したがって信心の世界はドクターであれ、大学出身者であれ、どんなに社会的に地位がある人間であっても、仏法を知らない場合は、日蓮正宗創価学会から教わるのが道理です。それをこちらが遠慮して、あの人は有名人だから、あの人は東大出身だから、あの人は地位が高いからと、信心の指導をしないでいた場合、最後はその人を地獄におとしてしまう場合がある。これは一つの例であります。
 皆さん方は、創価学会という広宣流布の教団の指導者であります。だれ人に対しても、信心の指導をすべき資格があります。けっして遠慮せずに堂々と個人指導をしていただきたいと思います。それで、いうべきことをいって……聞かないのは聞かないほうが悪いのです。橋をつくった人がいる。その橋の上を通らないで、川の中へ落ちてしまったとします。それは橋をつくった人が悪いか、川の中へ落ちた人が悪いのかという論議と同じになります。
5  小会合を大切に
 次に「小会合を大切に」ということでありますが、これも御書のなかには「鵞目一結給びおわんぬ、心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」。小会合であります。
 牧口先生当時、そして戸田先生当時は、小会合中心主義でありました。いな、人数が少なかったから小会合しかできなかった。(笑い)しかし、それが核になって、今日のような世界的な大発展をみたわけであります。
 「源遠ければ流長し」。源は小さい。しかし、源にこんこんとわきいずる清水があれば、流れはいつまでもとだえない。その意味において、小会合、これを大切にしていただきたい。小会合の場合には、ゆっくり話ができる。また、きどって話をする必要もない。形式もいらない。自分の心にあるものを相手の心に入れようとして、たんたんとして話ができる。実質的に話ができる。友人として話ができる。あるときは、食事をしながらでもいい場合もあるでしょう。
 先日、私も大ブロックの座談会にいきました。二十数人の少人数の会合で、たいへんに話しやすかった。家族的なふんいきは、草の根民主主義の理想ともいえる。また、真実の生命と生命のふれあいができるものだ。いな、個人個人の性格、生活状況等が手にとるようにわかります。それが、わが学会の真実の会合のあり方でなくてはならない。
 大聖人も一人ひとりを、よく見極めておられたことでしょう。ともかく少人数で談合して、さまざまな角度からその人に希望を与え、包容し、確信を与えていくという会合が、何十万個所でできるようになれば、それで一切の広布城は築かれていくといっても過言ではありません。そのうえで、またとうぜん、時代の要請として、大きい会合をしていく必要もあります。ともかく小さい会合を軽蔑し、小さい会合が非常に弱いように感ずることは大きい間違いです。
 大きい会合は一見華々しい。だが、小さい会合で静かなようではあるが、五人、十人のその生命のなかに元気はつらつたる発条を与えれば、それがなによりも大切である。
 大勢の人が集まっても最後は一人になるのです。生まれるのも一人、苦しむのも一人、悩むのもすべて最後は一人です。たとえ夫婦であっても、兄弟であっても、親子であっても、結局、最後は一人なのです。したがって一人の人間革命から始まるのが正しいのです。
6  言葉遣いを大切に
 なお、三番目に「言葉遣いを大切に」という御書については、有名な「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」という一節がございます。
 人間は感情の動物であります。学者とか、科学者は非常に理知的であるといわれますが、感情がないわけではない。むしろ反対にたいへんな感情家の場合もある。いずれにせよ、人間は感情の起伏に富んだ存在であるがゆえに、私たちは”人情の機微”をよく考えて指導をしなければ、動物的指導になってしまう。そうであってはけっしてならない。
 小学校は六年間で卒業する。中学、高校はあわせて六年間、また大学は四年間であります。もっとも人によっては八年間ぐらいかかる場合もありますが……。(笑い)皆さん方は信心の大学を、小学校から大学、大学院や博士課程もぜんぶ経ているのです。ですから中学当時、高校当時とは違う、新しい時代に入っていることを知らなくてはなりません。社会の動向もかつてとは違います。残念なことにこれまでも多少の人が退転していきましたが、どうかこれからは一人の退転者も出さないように、さまざまな指導のご努力をお願いします。
 しかし、御本仏の時代であっても、少ない門下生のなかから、三位房、能登房とかいうように、幾人かの退転者も出ている。われわれは凡夫であり、多繁な社会人としての活動のなかの時間をさいての信心指導であり、多少の退転者が出たとしても、ある意味ではやむをえないと思っております。本人に組織利用や信心利用があって、厳しい指導をされたため、反感をもって去る人もいるでしょう。
 ただし、いろいろ分析しますと、大きい一点は、いままでは組織を利用して社会的な地位を得ようとして信心しても、それが叶えられなかった、といって退転した人が多いのです。それがかなりあるんですね。ほんとうに恐ろしいことです。名聞名利が退転の理由なのです。それから金銭貸借などの問題による退転、これは欲深であり、信心利用です。
 そういう場合は別にして、退転原因をたずねてみますと、幹部の言葉遣い、感情論、忍耐とか包容を忘れて衝突して、それで去っていったというのが、ほとんどであります。
 したがって、幹部の言葉遣いや感情論のために、信心の世界から貴い同志を離れていかせてしまうようなことがあっては、絶対なりません。
 どうか、仏の使いとして、忍耐と包容力を忘れずに、誠実なる指導をお願い申し上げます。しかし、純粋なる学会を守るために、正邪については、明確なる鋭い指導をお願いします。信心即生活でありますから、邪悪な人にだまされることは聡明な人とはいえません。どうか指導者は賢い人であってください。
7  ふだんの交流を大切に
 次に四番目の「ふだんの交流を大切に」。仏法といっても、社会の外にあるものではない。ですから、親戚、友人、職場の上司等々、すべてふだんから接し交流していくことは、とうぜん必要なことであります。また、それがしぜんであります。
 社会から隔離した教団は死であります。日蓮大聖人も山奥にあらずして、まっ先に時の国の中心地である鎌倉という社会のなかに入っていかれた。
 なお、とくに出世間であるわれわれ信心の世界においては――大聖人は「師弟相違せばなに事も成べからず」とおおせられております。「師」とは日蓮大聖人即御本尊であられる。したがって朝な夕なの勤行につとめ、また、御書と接していくこと、広げていえば、多くの先輩や同志と接し、呼吸を合わせていかなければ広宜流布の道は開いていけない、とも拝せましょう。
 「委くは又又申すべく候。常にかたりあわせて」とおおせです。御書を中心につねに同志と語り合うのです。これもふだんの交流です。それが、人々のほんとうの幸福の語らいになっていくのです。そのあとに「出離生死して同心に霊山浄土にてうなづきかたり給へ」とあるとおりです。ですから、御書との交流、聖教新聞との交流、会員との交流、またこれから救ってあげようとする友人とか、親戚との交流、たとえばハガキでもなんでもいい、いろいろな交流をしておこうという心が大切です。
 繰り返すようですが「師弟相違せばなに事も成べからず。委くは又又申すべく候。常にかたりあわせて」の御文を胸に刻んで、同志はいつも、仏道修行のため、広宣流布のために、語り合うことを心がけてください。「常にかたりあわせて、出離生死して」――広宣流布のための語らいの意味です。「同心に」同じ心で、「霊山浄土にてうなづきかたり給へ」――御本尊中心として語りなさい。先輩と語り、後輩と語り――こういう交流を大切にと申し上げておきたいと思います。
8  その家庭を大切に
 五番目は「その家庭を大切に」であります。これは、その家庭に用事がある場合もあります。病人のいる場合もある。よくがんばっている幹部でも疲れて休む場合もある。
 家庭というのは”憩いの場”ですから、さまざまな場合が考えられる。そのときに、自分が指導を受ける家だからと、自分の家のように思って、委細かまわず、礼儀もなく入って「こんにちは」「こんばんは」と。(笑い)それであたりまえと思ってはいけない。さきに電話をしておくとか、ささいなことですが注意していただきたい場合がある。
 大聖人のこういう御書があります。これは、身延の草庵におられたときの御書でありますけれども「人はなき時は四十人ある時は六十人、いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ来居候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず・心にはしずかに、あじち庵室むすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず」と。
 「人はなき時は四十人」少ないときでも四十人。「ある時は」一多いときは六十人。来るな、来るなといっても来てしまう。「これにある人人の」云云ここにいる人たちの、兄さんであるとか、弟であるとかいって「しきゐ候ぬれば」来て腰をおろしてしまうので「かかはやさに、いかにとも申しへず」ということは、気兼ねして「どうして来たのだ」ということもいえない。自分が遠慮して「なぜこんなに大勢で来たのか」ということもいえない。「心にはしずかにあじちむすびて」自分の心の内は、自身は静かに、この草庵で「小法師と我が身計り」――弟子たちと自分でゆっくりと御経を読みたかった。読みたい時間だ。しかし、このように「私の弟である」「私の兄である」というふうに、いかに断っても大勢きてしまってたいへんにわずらわしい、とのご心境と拝します。したがって皆さん方のお家も、そういう場合がよくあると思う。
9  その人の立場を大切に
 六番目の「その人の立場を大切に」。これはとうぜんなことであります。会合に出られない人、種々理由があって出席できない人、また家があけられない人、事業がたいへんな人等々、いろいろな人がいる。その人に対して、もちろん信心の指導はすべきでありまずけれども、その人を理解してあげる、同志を理解する、信心の激励をしてあげるという、その点の関係をよく含んでいただきたいと思います。
 大聖人も、御書のなかに「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」とおおせでございます。
 したがって、自分の成果とか、自分の地位とか、ということを中心にして、感情的に同志や後輩をみてはならない。「忘れても法華経……」――御本尊を持っ者をば、互いに毀るべからずです。「其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり」――すべての妙法を持った人は仏であります。同志は、互いに尊敬しあっていかなければならない。私が皆さん方をそしっても罰をうけます。それほど、御本仏大聖人が、完壁に仏法の法則を平等大慧のうえで説いていらっしゃる。
 「法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」――お互いにそしりあうことは絶対にあってはならない。これは、日蓮大聖人の厳しい戒めであります。強い信心の激励はとうぜんであります。しかし、その人の立場をあたたかく理解しながらの前進をお願いいたします。どうか、ますますご健康で、立派な広宣流布の指導者として、ご活躍をお願い申し上げて、私の話を終わります。たいへんにご苦労さまでございました。

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