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創価大学通信教育部開学式――メッセージ… 初志貫き”第一期生”の誉れを

1976.5.16 「広布第二章の指針」第8巻

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1  五月十六日は、重大な歴史の日となりました。晴れやかな開学式、まことにおめでとうございます。また、皆さんのご入学を心よりお祝い申し上げます。
 通信教育部の設置は、創価大学設立の構想を練りはじめて以来の、私の念願でありました。教育の門戸は、年齢、職業、居住地のいかんを問わず、すべての人々に平等に開かれねばならない。まして、本学が”人間教育の最高学府”をめざす以上、教育の機会均等化をはかるために、通信教育部を置くことは重要な課題であると考えてまいりました。
 今回、入学された皆さんは、年齢も幅広く十代から七十歳を越える高齢の方々までいらっしゃるとうかがっております。地域も北は北海道から南は九州、沖縄と、全国各地に広がっている。また、ほぼ全員が仕事をもち、会社員、公務員、主婦等々の職業に従事するなかで、学問の道を志されたと聞いております。
 私はそこに、創価教育の原点ともいうべき学問の姿勢をみる思いがしてなりません。創価教育学を樹立し、自らすすんで実践にあたられた牧口常三郎先生は「半日学校制度」を提唱され、その意図するところを次のように述べられております。
 「半日学校制度の根本義を要約すれば、学習を生活の準備とするのではなく、生活をしながら学習する、実際生活をなしつつ学習生活をなすこと、すなわち学習生活をなしつつ実際生活もすることであって、学習生活と実際生活と並行するか、しからざれば、学習生活中で実際生活も、実際生活の中において学習生活をもなさしめつつ、一生を通じ、修養に努めしめるように仕向ける意味である」
 それは、過当な受験競争、学歴偏重、学問と実生活のいちじるしい離反を招いている今日の教育への警告であるとともに、人間教育の一形体を提示したものであります。
2  教育の本義は人間自身をつくることであり、知識を糧に無限の創造性、主体性を発揮しうる人間をはぐくむ作業といえます。したがって、知識の切り売りに終始するならば、本来の教育目的を達することはできないといえましよう。
 もとより知識の吸収は、進展しゆく社会をリードするうえで、必要欠くべからざる条件であります。だが、知識それ自体は創造性とイコールではない。内なる可能性の発露が創造性であり、知識はそれを引き出す起爆剤といってよい。
 では知識を創造へと転ずる力とはいったい何か。それは、社会を担う人間としての自覚と責任であると申し上げたい。人々の現実生活を凝視し、その向上、発展のために習得した豊饒な知識を駆使するなかに、創造性の開花があるといえると思うのであります。
 また、勤労しつつ勉学に励むこと自体が、秀でた向学心のあらわれであるとともに、試練に打ち勝つに足る自分自身を鍛え、視野を広げていく行為にほかなりません。牧口先生が「半日学校制度」を提唱されたのも、人間教育を志向するうえで、働きながら学ぶことこそ、もっとも適切な環境条件であると結論されたからであります。その意味で皆さん方は”創価教育体現の第一期生”であると申し上げておきたい。
 私自身のことをいえば、私は学問の道を途中で断念せざるをえなかった。そのかわり、恩師戸田先生に、さまざまな学問を教えていただきました、それは文宇どおり、人生の師と弟子とのあいだに”信”を”通”わせた教育でありました。人間の完成よりも知識が、知識よりも学歴、資格が優先され、教育目的の逆転現象を呈している今日の大学にあって、人間の道を究めんとする皆さんの存在は、教育のあるべき姿を世に問うものと確信してやみません。
3  ご存知のこととは思いますが、通信教育が世界で初めて行われたのは、一八五六年、ドイツの言語学者ランゲンシャイトが語学教育において実施したことに始まるといわれております。また、百年近く前、イギリスのケンブリッジ大学が、大学への入学を許可されていなかった婦人のために、家庭でも学べるような通信教育の場を提供し、その後、アメリカにも受け継がれ、発展をしてまいりました。
 わが国においては、いまからちょうど九十年前に、当時、東京専門学校といわれた早稲田大学において、通信教育の制度が設けられたのが最初であります。しかし、本格的に通信教育が各大学において取り入れられたのは、戦後になってからといってよいでありましょう。その点、その歴史は、まだまだ浅いといっても過言ではありません。ここに、創価大学に新たに設置された通信教育部がもつ意味も大きなものがあると思うのであります。
 さて、通信教育で、学業を全うし卒業することは、きわめて至難であるといわざるをえない。一説によれば、入学者に対する卒業生の割合は数パーセントとも、二、三パーセントともいわれている。しかも、卒業までには、五、六年を費やすのが普通であるといった現状であります。
 それは、当初いだいた向学心を持続させることが、いかに難しいかを物語る証左でもあります。しかし、ユークリッドの「幾何学に王道なし」との有名な言葉があるように、学問にも特別な王道はありません。学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽の積み重ねのなかにのみあることを銘記していただきたいのであります。仕事や家庭の事情等、さまざまな問題に直面するでありましょうが、五年かかろうが、十年かかろうが、断じて初志を貫き、全員が卒業の栄冠を勝ち得ていただきたいのであります。
4  たしかに卒業は一つの結果にすぎません。しかし、この目標の踏破のなかに、人間完成への確かなる歩みがあります。目前の一歩一歩の前進なくして、人生の完全なる走破はありません。まずもって向学の走者は、自己を制覇し、試練の障壁に信念のバネで挑み、生涯の自身錬磨の飛躍台にされんことを念願するものであります。
 人間の真価は、ひとたび険難の峰にさしかかったときに、はじめて明らかになるといわれております。前途に立ちはだかる困難をもって、挫折を自己正当化する手だてとするか、成長への好機と意義づけて進んでいくかで、将来の行路を決定づけてしまうといっても過言ではない。その選択はほかならぬ自己自身の腕にあるのであります。
 また、日ごろ一人で勉学に励まねばならぬ通信教育の学生にとって、大きな励ましとなり力となるものは、同じ志をいだく友人との交流であるといえます。通学部と異なり、友人同士が顔を合わせる機会もあまりないとは思いますが、相互に連係をはかり、切瑳琢磨していっていただきたい。
 大学で学ぶ意味の一つは、人生の友を得ることであります。互いに啓発しあえる友の存在は、なににも増して貴い財産であります。
 どうか第一期生の皆さんこそ、通信教育部の創立者であります。それを忘れないでいただきたい。開拓の道は険しくも、その向学の軌跡は、創価大学の名とともに永遠に顕彰されていくことでありましょう。
 皆さん方のご健康とご健闘を祈るとともに、建設の学徒の未来に栄光あれ、と申し上げ、私のあいさつとさせていただきます。ではお元気で――。

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