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日蓮大聖人・池田大作

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「聖教新聞」創刊25周年に寄せて 庶民と友情のスクラム固く

1976.4.20 「広布第二章の指針」第8巻

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1  きょう四月二十日で、「聖教新聞」が創刊二十五周年という大きな佳節を迎えた。この三十日には、インクの香もかぐわしい五千号目の本紙が誕生することになっている。また、兄弟誌の「大白蓮華」も、この四月をもって、三百号を記録するにいたった。創刊以来、本紙の発展を見守ってきた一人として、まことに慶賀にたえない。
 これひとえに、編集、業務、出版にたずさわる諸兄は当然のこと、寒冷の朝も、風雨の朝も、ただひたすら「冥の照覧」を胸中の宝として、「聖教新聞」を陰で支えてくださった配達員、通信員の方々、さらには良き後援者として理解と愛情をもって育んでくださった読者の方々の、ひとかたならぬお力ぞえによるものと、心より感謝の意を表するものである。
 周知のごとく、「聖教新聞」が呱々の声をあげたのは、恩師が第二代会長に就任する直前の昭和二十六年四月二十日である。早くから恩師は発刊の構想をもたれていたし、私もその必要性をあらゆる次元から痛感し、恩師とよく語り合った。いわば学会再建への胎動のなかで構想され、広宣流布の生命線として誕生したのが「聖教新聞」である。
 創刊当時は旬刊二ぺ一ジ建てで、発行部数もわずか五千部であった。つたない技術ながら、少数の編集スタッフに力を合わせて、全幹部がわが子のように愛し育て、苦楽をともにしつつ、今日の礎を築いた。以来、週刊、週二回刊、週三回刊、四十年には念願の日刊化へと進み、おかげさまで今日では発行部数も四百三十万部を超えるまでに発展した。まさしく”源遠長流”の原理である。
 遠く三千年前の釈尊の教えは、今日、膨大な仏典として結集されている。この八万法蔵は、人間のなかへ飛び込んでいった釈尊の行動の軌跡から生まれている。また七百年前、日蓮大聖人は後世へ極説の書たる「御書」を残されたが、その珠玉の一文一句は、民衆との厳しくもあたたかき語らいのなかに結実したものである。
2  五千号を数える「聖教新聞」もまた、広布に生きる民衆の汗の結晶と求道の息吹をとどめてできあがったものと信ずる。それは御本仏の御金言のまま、広布の朝を自覚した同志が、中天に昇りゆく仏法の太陽光線を満身に浴びて、生命を万朶と開き、躍動させた創造の記録であり、偉大な民衆の歴史の集積であろう。
 「聖教新聞」は、日蓮大聖人の永遠不変の生命の地下水脈を現代に噴き上げさせ、生きいきと脈動させたといってよい。まさに「御書」の実践的展開といえよう。その尊き人間機関紙とともに成長し、ともどもに自己をみがき、広布開拓の道を歩むことこそ、一生成仏をめざす確実なる価値創造の人生である。
 社会に果たす新聞の役割は、事件の報道、解説、論評等、多々考えられる。しかし、それらを貫いてもっとも大切なものは、社会をどう希望の方向ヘリードしていくかという、揺るぎない信念であろう。
 世上は暗い。ロッキード汚職から、市井の殺傷事件にいたるまで、まさに悪心熾盛である。時代の濃霧につつまれて、人みな迷路をさまよっており、マスコミの世界とても、けっして例外ではなかろう。暗から明へ、惰性から希聖へこの軟換のためになによりも必要とされるのが、哲理のバックボーンなのだ。
 われらは時流の奥底を見誤ってはならない。一人ひとりの庶民は、荒れ狂う五濁の嵐のなかで、動かぬ大樹を求めて、日々必死に生きている。しかも、歴史創出の真の生役は、そうした無名の庶民であるということである。その生命の本源に、虫壱、蘇生の光をあてていくことこそ、誇りある本紙の使命にほかならない。
 一日一日の「聖教新聞」紙上を飾る、明るく、希望に満ちた民衆の笑頻は、まぎれもなく、人間の実像なのである。そこには体温がある。真実の平和の響きがある。それらの人々こそ、本紙をつくり、支えている永遠の友なのである。紙上に躍る一字一句、一枚の写真は”君と僕、あなたと私の、常楽の語らい”といってよい。この庶民との友情のスクラムが崩れぬかぎり、本紙が学会の発屡とともに、いやまして輝きを増していくことは間違いない。
3  新聞は日々新しいものではあるが、いたずらに新奇さを追うものではない。スクープ(特ダネ)からスコープ(広い視野)へ――といわれるのも、時代の要請なのであろう。五千号を迎え、二十五歳の若者となった「聖教新聞」の本舞台はいよいよこれからである。今日よりは、さらに一万号をめざして世の負託にこたえていくことを望みたい。
 ひとくちに一万号といっても、その達成の日までには十数年の歳月が流れゆくことであろう。そのとき、この人間の機関紙はいかなるものになっているであろうか。また、二十一世紀の第一日の紙面はどのようなものになるのであろうか。
 ともかく「聖教新聞」は、学会員一人ひとりが創りあげている新聞であり、広布の歴史そのものである。これまでの輝かしい伝統を継承し、発展させて、永遠に世界の庶民の味方として、歩みゆくよう祈ってやまない。
 最後に歴代の編集局長に「ご苦労さまでした」と申し上げ、お祝いの辞としたい。

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