Nichiren・Ikeda
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使命に生きる
寄稿「無冠」
1976.1.1 「広布第二章の指針」第8巻
前後
1 人間にとって、使命に生きるほど尊いことはない。
なんのために生まれてきたか、なんのために生きるかを知らぬ人生ほど、空しいものはあるまい。ここには使命の自覚はない。
あてもなく、彷徨うがごとき人生――。人は、しばしば、そこに、はかない夢を求める。
だが、彷徨は、傍目に自由があるように見えるにすぎない。彷徨をつづけねばならない当人にとっては、生の基盤なく、明日への不安と、心の空虚とに悩み苦しむ日々であろう。
使命なき人生とは、彷律の人生のごときものである。
2 私たちには、使命の自覚がある。広宣流布という、久遠の仏が教えてくださった偉大な使命がある。
それは、時代が変わったとき、それとともに、一場の夢と化してしまうような、浅い使命ではない。戦前、戦後を考えればすぐわかることだ。
妙法の大哲理に裏づけられた使命だ。久遠元初という、生命本然の大願に発する使命だ。
三千年来の、東洋の心を流れ来り、豊かな文化の沃野を潤してきた仏法の、その奥底に密かに伝えられてきた甚深の使命だ。
弥勒が、文殊師利が、竜樹・天親が、天台・伝教が、その使命をば私に与えてほしいと願って、叶えられなかった――。
その崇高無比、無上至大の使命を私たちはもって、この世に躍り出たのだ。「無上宝聚不求自得」とは、このことである。
3 広宣流布――。
それは、妙法信仰の輪を広げることである。とともに、人々の生命と生き方の、根底からの変革である。
人間生命が多様、複雑であるように、その変革作業たる広布の活動も、多岐にわたる。
一人ひとりの分担する場は、そのなかの小さな断面にすぎないかもしれない。
だが、時計の小さな歯車の歯も、それが欠けたり、動きを止めたならば、全体が停止してしまうように、一人ひとりが受け持つ”部分”は”全体”に通じている。
”全体”は”部分”のなかにあり、”部分”は即”全体”でもある。ここに、仏法哲理の偉大な洞察がある。真の人間の世紀、民主主義の原点がある。
4 太陽が、未だその姿を見せぬ早朝――。
人々が、未だ一日の活動を開始する前――。
嵐の日も、深雪におおわれた朝も、万物が凍りつくような寒い日も、妙法の便りを抱えて、久遠の友を訪ね、配ってくださる皆さんは、広布を推進する動脈であり、末法濁悪の世に清浄の生気を伝える血流である。いや、妙法の血そのものでさえある。
使命に生き、日々たゆまぬ皆さんの労苦に、私は、心から、ありがとう! と叫びたい。
皆さんの歩む一歩一歩の足跡から、やがて仏性の若芽が力強く萌えいずることを、私は信ずる――。