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日蓮大聖人・池田大作

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年頭所感 勤行

1976.1.0 「広布第二章の指針」第8巻

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1  立宗七百二十四年の新春、まことにおめでとうございます。
 総本山におかれましては、ご登座満十六年を迎えられた日達上人猊下が、ますますご健勝であらせられ、広布の眺望も洋々と開けております。この一年も、また私たちは法のため、人々の幸せのため、平和のために、勇敢に進んでいきたいと思うものであります。
 現代社会が、見通しのきかない不透明な様相をますます深めているとの観測は、ほとんどの識者の一致するところである。この視界ゼロの暗い時代にあって、生命より発するさわやかな光と、みなぎる活力を、時代、社会に送っていくものは、もはや他にはない。
 皆さん一人ひとりの「健康」「青春」の息吹が、かならずや人々の篝火かがりびの存在となっていくであろうことを、私は信ずる。ここに本年の門出にあたり、私は、あえてもっとも基本である勤行について一言申し上げたい。
2  暁天を衝く朝の朗々たる勤行、唱題の声は、自身の生命の夜明けを告げるものといえる。一日の仕事を終えて御本尊に端然と向かう一念の発露は、寂光の覚月が胸中を青く照らしゆく崇高な作業なのである。それはともに、大宇宙の本源即御本尊に冥合し自体を顕照しゆく生命回転の営為である。伝教大師は「国に謗法の声有るによって万民数を減じ、家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」と――。
 すがすがしい「讃教の勤め」である勤行の響きは、自己の一念を力強く脈動させ、家庭から社会へと波動を高めていく。ゆえに白馬が中天をいななきゆくような、生命の躍動感に満ちた勤行こそ、私どもの日常即永遠の課題であり、仏道修行の骨格といってよい。
3  もっとも易しく、もっとも難しい仏道修行が勤行である。易しければこそ、日蓮大聖人の仏法は万人に開かれたものといえる。難しいからこそ、万人を仏界湧現という生命最高の境地へ導く功力が、厳然と存在するのである。
 御書にいわく「南無妙法蓮華経と唱え奉るは有差を置くなり」と。御本尊と静かに相対する勤行、唱題は、人間平等の会座である。立場や、職業、年齢、人種等のすべての有差、違いを越えて、誰人も共有できるこの場の存在が、大聖人の仏法の生命線である。
 勤行を欠いてどんなに行動しても、それは空を斬るに等しい。いかなる利剣をもっても、わが生命を縛る宿業の鉄鎖を斬ることはできない。いかなる英知、哲理の人と尊ばれても、汝自身の生命にくらければ、その頭脳の光もはかない流星も同然である。
 生命に根ざした真実の自由、自在の境涯の確立――それは勤行である。自身に内在する創造的生命を、自身の手によって開拓する、人間自立の変革作業である。友と同苦し、利他の一念、慈悲の智水を湧出させる、生命の掘削作業でもある。
 勤行の力強い響きは、躍動する大宇宙の生命の波長に自身を合わせ、己身にその息吹を汲み上げる共鳴者の吹奏であろう。その一念の叫びこそが、宇宙生命の究極の実在たる”仏”を呼び出だす。御本尊に向かって題目を唱えている人それ自身が、本尊の体とあらわれゆく。すなわち燦たる太陽、静寂なる月光――この森羅三千の宇宙万法を合掌の二字に納めて、大宇宙を生命に呼吸しうる唯一の方法なのである。
 「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏のさとりの妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
 この自身の生命の内なる仏界の湧現こそが、エゴの繋縛を断ち切り、人間の宿命の足カセを打ち砕き、自由自在なる生命の解放を告げるのである。この勤行という作業を続けていくことによって、わが生命に仏界を定業化していく。そのときにこそ、生死を越えて、未来永遠に崩れぬ幸福境涯を創り上げることができるのだ。障魔の嵐にも厳然として揺るがぬ”生命の防波堤”を築くには、勤行以外にこの術がない「門流には説法も勤行も折伏なり」(「穆作むさか抄」左京日教師)と伝承されているとおりである。
4  牧口初代会長は、よく妙法の力を、当時のお金を比喩として次のように説明されていたと聞く。
 たとえば、百円のなかに一円は摂せられ、百円と一円が対立することはない。同じように私たちの生命力、生活力は、大宇宙の生命力の表現であり、すべて大宇宙のなかに含まれる。あらゆる人々、いな全動物、全植物、また大自然の動力も、ぜんぶ大宇宙の生命力の顕現である。そして、この生命力の本体が、妙法なのである、と。
 また戸田前会長は、妙法と大宇宙との関係について言及されていた。
 あらゆる宇宙のものは、たえず変化し、どれひとつとして変化しないものはない。人間を例にとってみても、どんなに力もうが、年をとらざるをえないし。成住壊空という変化の連続である。この変化をさせる根本のもの、根本の生命力がある。これを名づけて南無妙法蓮華経という。それは宇宙自体である、と。御書にいわく「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし」――妙法を信じ実践する生命には、久遠に発し大宇宙に遍満する智慧の水が流れきたり、乾くことはないと仰せである。
 まさしく勤行の場は久遠の座であり、その行は久遠の行であり、久遠の対話である。勤行の姿勢のなかに、自身の本然の姿がすべて浮き彫りにされる。その人の成長も停滞も、宿命も福運も。この身近な仏法実践を離れて仏法はないといってよい。いわば信心の、形に顕われたものが勤行なのである。
 「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」とは御本尊との境智冥合による自身の仏界湧現を説いたものだが、御本尊という明鏡に照らし出された自己の姿というものは、そのとき、その瞬間の自己の実相にちがいない。気がすすまないときもあろう。疲れて心が一点に定まらないときもあるかもしれない。しかし、だからこそ修行なのである。いかなる修行にも真剣さが要求されるのは当然である。いわんや、勤行という生命錬磨の修行においてはなおさらである。
 経文に「端坐して実相を思え」(妙法蓮華経並開結711㌻)、「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」(同507㌻)とある。これらは勤行の姿勢を鋭く教えた文々句々と拝する。古来、日蓮仏法の正統門流においては、本尊を拝することは、自分自身の仏界を拝することになる――とされている。また、合掌ついては、胸中の一念の発露を顕わし、十指を合わせることは十界互具の表現であり、両手は境智の二法を顕わす等、その意義も伝えられている。かかる勤行の重要性に思いをいたすならば、その座が雑然としていて、いいわけがない。御本尊ましますところを清浄に、そしてすがすがしい場としていくことは、自分の生命を清く磨いていくことに通じるからだ。
 ともかく、人生の途上に立ちはだかる、いかなる苦難の巌も屈することのない、碧く奔る信仰の清流は、たゆみない勤行によってもたらされることを確認したい。「健康・青春の年」は、その意味で、まず勤行という根幹の作業から始まると決めて、今日も朗朗と祈りゆく一日としたいものである。

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