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第3回ドクター部総会 慈悲の名医たれ

1975.9.15 「広布第二章の指針」第7巻

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1  第三回ドクター部の総会を心から祝福申し上げます。皆さん方の日頃の活躍は、「黎明医療団」の医療活動、また地域活動をとおしての健康セミナー等々で、よくぞんじあげております。献身的なご行為に対しては、心から敬意を表しております。専門家である皆さん方に対し、借越ではありますが、きょうは「健康」という問題について、仏法の視点から所感を申し上げておきたいと思います。(大拍手)
 現代は「健康不安時代」といわれております。たしかに、現代人の多くは心身の病におびえているといっても過言ではない。地球全体がそうなってしまった。
 この現代人の「健康不安」という問題を具体的にみるならば、公害病、精神病、ストレス等々があります。もっと微妙な問題もたくさんあるかもしれない。これらは、ぜんぶ現代文明の進歩の過程に起きている”アダ花”といってもよい存在でありますが、今日、複合汚染の侵食とあいまって、人々の不安というものは、さらに深刻の度を加えていかざるをえなくなった。最近、漢方医療薬、薬草、キノコ類の薬用等が盛んでありますが、これらも現代人の健康回復、または保持へのせつなる願いを表徴しているものといっても、過言ではない。
 もちろん、それれの効果をめぐっては、賛否両論に分かれているところでありますが、ともかく健康維持、健康増進という問題は、現代人にとって最大の関心事になっているということは、まちがいないようであります。
2  医学と仏法の関係
 そこで「医学と仏法」の関係については、これまでも何度か述べさせていただいておりますが、医学というものは、病気の原因を客観的に認識し、治療していく。それに対して、仏法は根底の生命への把握から病気の原因をとらえ、変革していく立場であります。そしてまた、現代の種々の病、またそれに対する人々の不安の様相は、この仏法の観点からの取り組みがますます要望されていることを示していると思うのであります。
 天台の法華文句に「相とは四濁増劇ぞうぎゃくにして此の時に聚在じゅざいせり瞋恚しんに増劇ぞうぎゃくにして刀兵起り貪欲とんよく増劇ぞうぎゃくにして飢餓起り愚癡ぐち増劇ぞうぎゃくにして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見うたさかんなり」とあります。
 これは、まず劫濁、すなわち”時代の濁り”の相を明かしているところであります。
 劫濁の相とは、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁の四つが盛んになっている状態であります、こういうときには、人々の心に瞋恚、すなわち怒りや恨みが増し、その結果、争いごとが起こる。
 また食欲が盛んになって飢餓に苦しみ、愚凝、すなわち理非をわきまえる精神作用が鈍化して疾疫、病人が増え、こうして三災が起こるがゆえに煩悩がますます盛んになるという悪循環が固定化して、諸見――これは現代でいえば価値観の混乱を意味するわけでありますが、ますます時代が乱れていくわけであります。
 したがって、現代というものは、まさに劫濁のなかで、四濁が盛んに跳梁している時代といえる。なぜならば、劫濁は文明全体のゆがみ、狂いである。その文明の狂いの中身、内容をみていきますと、人間の生命のもろもろの濁りに帰着せざるをえない。つまり”心の病”が”身の病””社会の混乱”の引き金となっているのであります。
 また、御書には「夫れ人に二病あり、一には身の病所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病・此の病は治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬をもつて此れを治す、二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり、仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし何にいわんや神農黄帝の力及ぶべしや」とあります。
 これは、病を”身の病”と”心の病”に分けて明かされているところであります。”身の病”――四百四病は医術の名医によって治すことができる。しかし”心の病”というものは仏でなければ治すことができない、と仰せの御書であります。
 この二つの御文をもってみるならば、現代人の病の本源が”心の病”すなわち”生命の迷い、濁り”から発しており、したがって、その根源的治癒は、仏法的視点を基本としなければならないことが明らかとなるのであります。
3  人間性の回復と健康
 ひるがえって、広く現代文明をみるとき、現代社会の内包するさまざまな課題の多くが、人間性自体の回復にその解決の鍵をもっていることは、つとに指摘されているとおりであります。だが、ではいったい人間主体の確立の実体は何か、またそれはいかにすれば可能となるのか、ということが論じられなければ、抽象論であり、たんなる画餅にすぎないということになってしまうでありましよう。
 私は、人間性と人間主体性の回復をもたらすための基盤の一つとして、思いきって具体的なものをあげるならば、それは”心身両面にわたる健康”ということこそ、まず注目されなければならないと思うのであります。
 複雑に入り組んだ社会の機構、あまりにも発達した巨大な科学技術文明、膨大な情報のはんらん。そのなかにあって、これらに引き回されるのではなく、自在にこれらを使いこなしていけるには、強靱な精神と健全な身体とが必要となってくる。さらに人間が真実に文明、科学技術の主体者としての座を取り戻そうとするならば、利潤追求の奴隷となり、闘争に終始せざるをえない自己自身のエゴイズムとの対決が、大きくクローズアップされなければならないと思うのであります。
 しかし、このエゴイズムの超克ほど、永遠に問われ続ける難問はない。道徳律は、それがうたい文句に終わっているあいだはなんの力ももたず、逆に侵略主義、国家主義の論理の美しい修辞に利用されてきた例を、私どもは歴史上に多く知っているとおりであります。
 それを実現しうるだけの強靱な意志力、そして実践力があって、はじめて意味をもってくるものであります。たとえば、人間性を代表する資質として”優しさ”ということがある。これは、一見、柔和で温順な静かな響きをもった言葉として、うけとられておりますが、しかし考えてみれば、これほど過酷な行動を要求する言葉もない、ということもできる。
 ”優しさ”というものは、いいかえれば、他を思いやる心でありましょう。他人の苦悩、苦しみを分かちもち、自らもともに歩みながら、その苦を解決してこそ、はじめて他を思いやったことになる。
 そのためには、自らの内に、確かな信念と強いエネルギーが秘められていなければならないということは、当然であります。もし、座して他の不幸を傍観し、心情的に同情しても、拱手きょうしゅしてかかわらないとすれば、それは”優しさ”ではけっしてない。冷淡の人と非難されても、否定できないことになってしまう。
 ドロまみれの実践とあふれる正義感、エネルギーに満ちた生命をともなって、はじめて優しさは現れてくるのではないかと思うのであります。とするならば、人間性の回復にとって、心身両面にわたる健康ということが、不可欠の要因であるといっても、けっして過言ではないと思うのであります。不健康で疲労した心身からは、それがいかに鋭い発想であるとしても、前進的で建設的な発想は出てこないものであります。心身ともに力強いエネルギーに横溢した生命からこそ、現代社会の課題に挑戦する意欲に満ちた着想が次々と生まれてくると、私は体験上、申し上げたいのであります。
 「可延定業書」に「命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る」との御文がございます。
 これは、一応、寿命のことを述べられた御書であります。しかし、たんに生き延びることだけをいわれたものではない。生命力盛んに、縦横に活躍することの貴重さも含まれていると、私は考えております。「日輪のごとくなる智者」であっても、病弱で短命であれば、なんの価値も残せない。のみならず、不健康な心身は時として退嬰的で虚無的な思考を生み出すかもしれない。心身両面にわたる健康に支えられてこそ「日輪のごとくなる智者」が、その価値を燦然と社会に現すことができると思うのであります。
4  現代社会の病因
 「種種御振舞卸書」には、このようにある。「病の起りを知らざる人の病を治せばいよいよ病は倍増すべし」と。これは普遍の原理であります。素人療法の危険性については、皆さん方もよくご存のことでありましょう。しかしながら、より厳しくみれば、現代人がかかえている病、今日、社会のいたるところに噴出している病の起こり、表層の諸現象の奥深くに横たわる真の病因を的確につかみえた人は、だれであるか。それは、きょうお集まりのドクター部の先生方こそ、その資格をおもちであると、私は確信しているものであります。(大拍手)
 世の名医といわれる人たちにしても、仏法の尺度、真実の生命観から論ずるならば”病の起りを知らざる人”の部類へ入らざるをえないという現象も多々起こっていると、私は思うのであります。
 摩訶止観には、このようにある。「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む」と。これも有名な御書であります。
 第一の「四大順ならざる」から第三の「坐禅調わざる」までは、気候の不順、不節制、生活リズムの乱れ等、一般的なものから起こる病であります。
 「四には鬼便りを得る」というのは、一歩立ちいたった原因でありますが、依正の面からいえば依報の側に求められる原因である。これらはまた、肉体面、精神面にわたっているものでもあります。ビールスや細菌等に起因する場合もあり、思想や外的状況によってもたらされる情緒的なものに起因する場合もあります。
 「五には魔の所為、六には業の起るが故に病む」とは、依正の面からすれば、今度は正報の側に求められる原因であります。「魔の所為」とは、生命の内奥から働きかけて、さまざまな苦悩を惹起させていく力である。「業の起るが故に」とは、生命自体のもつゆがみやひずみ、また傾向性が原因として起こってくるものであります。
 現代医学のメスは、第四の次元にまで鋭く踏みこみ、肉体面、精神面にわたる病因を摘出しつつあるわけであります。しかし、その背後にあって第五、第六の生命的次元からの働きかけがいよいよ激しくなりつつあるという現代の状況を、だれびとも否定できない。そして、その傾向は、ますます深くなってしまっている。
5  ”攻めの医学”へ
 このときにあたって、医学という慈悲の学問を修めたうえに、妙法をたもち、唱え、生命変革の剣をもったドクター部の先生方の使命というものは、まことに明瞭になってくるのであります。
 妙法の名医として、すべての人間の色心にわたる苦悩を、その根本の病因にまで掘り下げて解除するとともに、さらには時代社会の病因をも深く見定めて、その抜本的な展開のためへの大手術を、どうか生涯にわたって着実にしぶとく進めていっていただきたいと、私はお願いするものであります。
 今日の医学の課題は、治療から予防への道を切り開き、さらには、健康保持から健康増進への道を志向することであるともうかがっております。妙法の名医であります先生方は、つねに生命的次元に立脚しつつ個人と社会と文明のすべてにわたって、医学の命題とする道に挑戦し、緑したたる豊かな自然のなかに歓喜に満ち、躍動する人々が充満する社会を、どうか築き上げていっていただきたいのであります。(大拍手)
 そんなことはたいへんだ、と思うかもしれませんが、千里の道も一歩からです。高原の火も一つのマッチから火が燃え移るものであります。なんでもないようでありますけれども、日々、その哲学を裏づけた行動が、二十一世紀には大きく大河になることを確信していただきたい。
 いうまでもなく、仏法の教えは究極するところ、生命の尊厳、人間の尊厳をいかにして実現し、確立しきるか――というところにあります。そして、すでに述べましたように、生命の尊厳とは、たんに観念的なものではなく、とくに人間においては身体的側面もさることながら、精神的側面でも健康ということが、いっそう大切な要素となるわけであります。
 その意味において「三種財宝御書」の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」――この御金言を一人ひとりの胸中深く刻んで、人々の健康の回復と増進という尊い仕事に励んでいただきたいし、また先生方はその意味において、広宣流布における最大かつ重要な立場にいるといわざるをえないのであります。
 この精神というものは、医師としての先生方の仕事に取り組む基盤に、まずなっていかなくてはならないし、同時に患者の一人ひとりに、そうした正しい人生観というものをめざめさせていく必要もあるかもしれない。
 そして「心の財」――すなわち精神的な健康、生きようとする意欲や生きることへの希望と勇気、張り合いをもつことが、自身の身体上の健康回復にとって、どれほど大きい力になるかを認識させていくべきではないかと思うのであります。こうして、精神の健康を確立し、増進したときに、回復された身体の健康も、自立的に増進、発展していくにちがいないからであります。
 なぜなら、この人こそ生きることの尊さを知り、健康を取り戻した自らの肉体を、崇高な目的と幸福のために生きいきと活用していくからであります。それは、もはや、たんに病気を治療するという”守りの医学”ではなく、健康を保持し、ひいては増進していく”攻めの医学”というべきであると思うのであります。
 たんなる守りの医学は、技術があればことたりるかもしれない。しかし、攻めの医学は人間らしい生き方を教える哲学が、その根底に今度はなくてはならない。患者との人間的接触を通じて、それを教え、伝えていけるのは、この人間の尊厳、生きることの尊さを仏法の哲学と妙法の英知で自らつかんだ方でなければできない。それが、私はドクター部の先生方であると信ずるのであります。
 したがって、皆さん方こそ日々、その仕事において仏法の精神である生命の尊厳、人間の尊厳を実践する人であるとともに、そうした生命、人間の尊厳を基盤とした未来世界の構築を進めている、もっともこの世で大切な人なのであります。
 すでに発表されましたように、来年は「健康の年」「青春の年」であります。それは、ただたんに病気をしないという意味の健康ではなく、生きいきと活動し、生命が躍動しているという、積極的な意味の健康であります。
 病気をするのは、個人でありますが、病気をなくす、あるいは人々が生きることを楽しんでいけるような条件をつくるのは、社会においてであります。個人の健康にとどまることなく、社会の健康が大事になるゆえんもここにあるといってよい。
 そうした意味からして、来年の「健康の年」「青春の年」の主役は、まさしくドクター部の皆さん方であると、大きな期待をかけざるをえませんし、皆さん方も、その自覚をもっていただきたいと、お願い申し上げるものであります。
 生意気なようでありますが、たんに”病気の医師”ではなく”人間の医師”であっていただきたいというのが、私のお願いでございます。先生方のますますのご活躍とご健康をお祈り申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます。(大拍手)

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