Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

壮年部代表者集会 仏法中道主義の大道を

1975.8.20 「広布第二章の指針」第7巻

前後
1  皆さん、こんにちは。猛暑のなか、たいへんにご苦労さまでございます。
 この八月、約二十万人の方が、全国各地の講習会に参加し、仏法哲学の研鑽に尊い汗を流されています。
 日蓮大聖人は、身延山中において、御弟子百数人を養われ、つねに法華経の説法をなされ、これを一閻浮提第一、すなわち世界第一の仏事であると申されております。
 世間の人々が、この暑い夏、海に山にとバカンスを楽しんでいるなかで、皆さんは、御書という永遠の一書に、取り組んでおられる。なんでもないようですが、これは、じつは偉大なことです。大聖人の表現をお借りすれば、世界第一の尊い、自身の錬磨という仏道修行の場に参画されていると自覚していただきたいのであります。
 本日は、今回の講習会を総括する意味で、また、全国の同志の代表という意義をこめて、若干の話をさせていただきます。
2  仏法は一切衆生を対象
 まず、私どもの戦いは、末法万年にわたる礎を築くためであり、また一切衆生を対象にしたものであることを確認しておきたい。
 「御義口伝」では、方便品の「如我昔所願 今者已満足」(我が吾の所願の如き、今は已に満足しぬ)の経文を受けて、次のように説法せられている。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなりあに今者已満足こんじゃいまんぞくに非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」と。
 御本仏日蓮大聖人におかせられては、末法万年尽未来際まで、一切衆生を救いきる、三大秘法の南無妙法蓮華経を確立あそばされたことが、今者已満足であられた。
 この壮大な、御本仏の未来を凝視されたご境涯にふれて、胸打たれるのは、私一人ではないと思う。
 日蓮大聖人の生涯は、まさしく末法万年をめざし、一切衆生を包容せられた戦いでつづられておりました。大聖人が「一切衆生の異の苦」あるいは「一切衆生の同一苦」をことごとく、わが苦悩とせられたのも、御本仏のご境地より発する叫びであられた。
 大聖人の仏法が、末法万年にわたり、一切衆生を対象とした法理であるがゆえに、それを広宣流布しゆく創価学会も、またタテには万代にわたり、ヨコには一切衆生を摂した戦いを起こしていくのは、当然であると思いますが、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
 創価学会の行動が「一切衆生」を相手とするがゆえに、そこには、右とか、左とかはない。あるのは”人間”あるのみなのであります。「総勘文抄」には「一人を手本として一切衆生平等」とありますが、一個の人間の生命的変革を通じて、やがて一切衆生を平等に救いきることが、私どもの発願なのであります。これを、私は「仏法中道主義」であると申し上げたい。たとえ、どのように時代が複雑化し、多岐にわたり、社会が、イデオロギーや体制によって分割され、分裂していても、そこに一貫してり”人間”を凝視し、光をあてていく哲学、理念、運動であることを知ってください。
 しかも、私どもの戦いが、いかなる敵に対して、なにをもって行うかといえば、一切衆生の「無明の大病」こそ、真の敵であり、これに対しては「妙法の大良薬」しかないと、大聖人は仰せであります。
 「無明」とは、生命の暗黒を意味し、人々は、自らの生命のくらやみについては、なすすべをしらないのが実態であります。いかなる大学者、指導者、権力者、富裕の人といえども、生命についてはまったくの無知といってよい。この生命それ自体の変革を行っていく根本法理が妙法であり、私どもの戦いは、まさしくこの根本の源から出発し、生命の奥底に挑戦していく人間革命の運動であります。
 また「今者巳満足」の「満足」ということについて申し上げれば、一般に、自己の満足ということもありますが、自他ともに満足するということが尊い。
 さらに、その満足の内容は「物質的満足」「精神的満足」がありましょうが、私は、さらに根本にあるべきものとして、「生命的満足」をあげたい。
 ここで「物質的満足」とは、ほしい物が得られたときなどの満足をはじめ、広い意味で権力欲、名誉欲などが満たされた場合をいいます、しかしこれは、一時的、かつもろいものであります。「精神的満足」とは、学間や芸術の世界の満足であり、深く、かつ永続性はあったとしでも、それだけでは、ほんとうの満足とはいえない。
 「生命的満足」とは、生命それ自体の躍動であり、生命の根本法則と合致したところに泉水のごとく生命の奥底より湧き出ずる充実感であります。
 私どもの「生命的満足」、すなわち「今者巳満足」とは、三世常住の妙法に立って、この世でもっとも尊い、仏法流布という地涌の菩薩の仕事に、真実の喜びを見いだしていくことであると思いますが、皆さんの実感として、いかがでしょうか。(大拍手)
3  宗教とマルクス主義の共存
 ここで、少々、社会的な問題についてもふれておきたい。
 宗教とマルクス主義とは、従来、共存不可能と思われてきた。だが、真実そうであるのか、あるいは共存の可能性を見いだすことができるのか、宗教者として無関心でおられない。そこで前々から一度話し合う必要のある問題と考えてきました。
 私が、社会主義をどうみているかについて一言すれば、この思想も、虐げられた民衆をどう救っていくかという発想が原点であったと考える。もとより、社会主義の歴史においても、種々の不幸な経験があったことは事実であります。しかし、それにもまして、ソ連、中国訪問を通じて、この善意の原点を、民衆の幸福や社会の発展に生かそうとする努力を、私は見てきました。また私は、社会主義の未来に、人間主義への志向を見つめてきました。
 こうした期待感をいだくのは、人間の善性を信ずる仏法者の眼からであり、なんとかして、立場の相違は相違としても、人間社会であるかぎり、そこから善意の可能性を汲み上げていかなければならないという信念からであります。
 ただ、率直な感想を述べれば、自由主義世界と社会主義世界とを比べて、公平な見地からみて、どちらにおいて宗教がその本来の息吹をたたえ、開かれた存在として社会にダイナミックな躍動を与えているかといえば、自由主義世界のほうが活発であるとの判断をくださざるをえない。もとより仏法は、特定の社会体制なり政治体制なりの選択を規定するものではないが、なぜ社会主義体制下では、宗教が本来の魅力と力を発揮できないのか――そうしたところにマルクス・レーニン主義の実現過程で、思想・信教の自由に象徴される市民的自由が、どう生かされていくかという今後の課題があると思う。
 この課題にいかにアプローチし、これを克服していくか――そこに新しい社会主義の展望も開かれていくことでありましょう。
 また、どうすれば、この日本を安定させることができるか。これが、もっとも重要な課題であります。いまの日本は、価値観の混乱がいちじるしい、しかも、その問の共通の土壌がないために、ますます不信と抗争の泥沼に落ち込むであろうことを、私は憂える。したがって、二十年、三十年先の日本の根本的安定のために、たとえ立場や思想の違いがあっても、共存の基盤を求める方向で、話し合いを考えてもいいのではないかというのが、私の発想であった。また日本の将来を展望したときに、これが、新たなる国民的合意への突破口になればという念願から、こうした勇気が必要だったのであります。
 現在では、一見、極端と思われるようであっても、それがじつは、日本の安泰を築き平和へ寄与する前進の道を一歩一歩開いていくことになると、私は確信したい。ともあれ、真剣な未来への模索から、新しい時代が開かれるであろうと、私は思っている。
 ここ数年、私は米・中・ソの三国をはじめ各国を訪問してみて、国際情勢がきわめて厳しいものであることを痛感いたしました。と同時に、だれしも心の底では、この危機の恐ろしさをよく知っており、平和を願っているのだということも、直接会ってみて、強く実感することができました。もはや時代は、いつまでも各国が争うのではなく、互いに力を合わせて人類全体が生きのびる途を、真剣に話し合わなければならない事態に立ちいたっている。
 人類を破局の瀬戸際まで招き寄せたのは、戦後三十年の核開発競争だけではない。しのびよる公害の深刻化、人口問題と資源・エネルギー危機、食糧問題や世界的規模の不況等、難問は山積している。そのいずれをとってみても、人類の生存を脅かすに十分なものであることは、つとに指摘されているとおりであります。これらのさし迫った問題は、全世界のあらゆる国が力を合わせなければ、解決しきえない問題である。いわんや旧来の自由主義対社会主義などという図式にこだわっていては、一歩も前へ進むことはできないでありましょう。
 そこで世界は、新しい道の模索を開始したのであります、「緊張緩和」「平和共存」がそれであります。それぞれの国が、相互理解と協調の方途を探ることなくして、自らの存立の可能性すら危ういことを自覚するにいたった。以前にもまして国際化のいちじるしい今日、ひとり日本だけが例外ではありえない。複雑かつ深刻な国際情勢の激動のなかにあって、日本はいま、醒めた目でこの現実を直視し、日本の進路というものを考えなければならないときに際会している。そのことを私は、機会あるごとに訴えてまいりました。
 私が世界各国の文化人、指導者たち、および多くの民衆と対話を重ねてきた意味は、対話こそがまず信頼の第一歩であると信ずるからであります。もとより対話が、そのまま見解の一致に通ずるものではけっしてない。むしろそれによって、意見の相違点が、より鮮明になることさえありましょう。しかし私は、それはそれでよいと思っております。まず動き、会い、対話することが肝要なのである。アメリカの詩人・エマーシンは「私の会うすべての人々は必ずある点において私にまさっているその点において私はその人より学ぶところがある」といっている。
 人間の相互理解なくしては、猜疑心と不信の炎が、恐怖や憎しみを増大させるだけであり、慈悲の精神を根幹とする仏法者として、その壁を破るために行動していくことが当然の使命であると、私は思います。
4  創価学会の活動について
 もとはといえば私は、さきにあげた現代文明の危機そのものの本質も、生命の奥深い次元に発していると考えている。ファシズムの問題にしても、多くの政治的、社会的要因が考えられるであろうが、それらをより本源的にたどっていけば、エゴと傲慢に支配された人間生命の欲望の肥大化という、生命の魔性の本質が露になってくる。仏法者としての最大の使命は、その本質を打ち破ることにあるといってよい。すなわち、現実の一人ひとりの人間の、生命内奥からの人間革命を第一義としているのであります。
 したがってわれわれの活動は、第一に一人の人間の人間革命を根本としていくことである。
 私は、小説「人間革命」の主題として「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という仏法者の信条を掲げました。これは私の、一貫して変わらぬ信念であります。
 現代の文明的危機といっても、なにが根底から脅かされているのかといえば、結局、一人ひとりの人間の尊厳が、外側からも内側からも侵されているということではなかろうか、と思う。一般に「一人の人間の生命は地球よりも重い」といわれているが、この”個の尊厳””生命の尊厳”への比類なき洞察を行っているのが、仏法、なかんずく日蓮大聖人の仏法である。したがってわれわれは、人間と人間による善意と英知の触発のなかから生まれる”一人”の人間の、生命の奥底よりの覚醒こそ、平和主義の根源であると強く訴えたいのであります。(大拍手)
 ゆえに、その運動形態も”一人”の人間に対する徹底した肉薄を基調とするのであります。それも、抽象的に論じられるような人間ではなく、現実に生き、生活している一人ひとりの人間である。したがって、その運動の主たる場は、人々の現実生活の場――すなわち家庭であり、地域であり、職場である。すなわち、日常性のなかにこそ、われわれの運動の場があるのであります。
 日々継続しゆく、生活の日常性を基盤とするがゆえに、われわれの運動は、漸進的、平和的方法をとる。
 過去の革命運動は、一部の職業革命家集団が、大衆をリードするというかたちをとったために、理想主義に走って民衆の生活感情から遊離し、ときに玉砕主義的に暴走し、その結果、悲惨な流血や犠牲を招いてしまうケースがほとんどであった。われわれの漸進的、平和的文化運動は、徹底した民衆主導型であるがゆえに、それら革命運動の型とは正反対の極に位置しているのであります。いかなる大義のもとでも、戦争をはじめとする暴力を正当化してはならない。
 ある世界的思想家は「革命とは人を殺すものではなくして、人を生かすものです」と述べているが、その精神はまさしくわれわれのめざす暴力否定路線に通じているといってよい。この点、皆さんいかがでありましょうか。(大拍手)
 以上、結論すれば、われわれの行動理念は、人間革命を地下水脈として、その肥沃な大地の上に、教育、文化、平和の大樹をはぐくんでいく仏広の中道主義、創価文化三義の路線である。ゆえに、いわゆる政治主義的な運動とは、根本的に異なると申し上げたい。(大拍手)
5  「合意協定」について
 私が宮本氏と会ったのは、作家の松本清張氏からの再三にわたるすすめがあったからであります。
 今回の「合意協定」についで、いえば、まず話し合いをしょうということで野崎(総務)、上田(日本共産党常任幹部会委員)両氏のあいだで、対話が進められていく過程で生まれたのであります。
 この話し合いや「合意協定」についての学会しての見解は、すでに聖教新聞紙上に明らかにされているとおりである。
 もとより、この「合意協定」は、これによってなんらかの具体的行動が成立するというものではなく、人類的視野に立って両者が合意できる点を確認したものであります。したがってそこには、十年という長期にわたるタイム・テーブルを設定したし、相互の行動は、あくまでもそれぞれの立場で自由をもつものである。その意義から原則論的な合意点をまとめたものであります、
 したがって、共闘の問題についてうんぬんされているが、宮本氏もそんな低い次元や狭い了見からではないことを私は知っている。われわれは日本共産党と共闘する意思はない。またいわゆる国民統一戦線に加わることも考えておりません。(大拍手)
 共産党には共産党の目的と方法がありましょう。われわれには「立正安国」という使命がある。すなわち、仏法の信仰をもちながら、人間革命とそれにもとづく最高の文化社会の実現という仏法者の目的と方法がある。
 われわれはあくまでもわれわれの立場で平和、文化の建設に、また広宣流布に貢献できるよう、努力を重ねていきたい。
 ここに盛られた緊張緩和(デタント)の精神が、どれだけ深化され、徹底されてゆくかを、十年間にわたって試みていく考えであります。ともかく宗教と社会主義との共存ということは、まぎれもなく文明論的な課題である。双方、忍耐強く長い時間をかけて努力を続けていくべきものである、というのが、私のいつわらざる心境であります。
 すでに各所で私の所信を明らかにしたところでありますが、政教分離を前提としたうえでの創価学会と公明党の支援関係は、従来といささかも変わりません。(大拍手)党を支える代表として、党の関係者と会えば、永年の同志、友人として激励もしたいと思っております。
 また党が国民、社会のために真剣に努力していることは高く評価もしておりますし、今日の大発展を導いてきた現在の党の首脳ならびに党員各位に対しては、心から敬意も表します。
 また、党の方針については、党の民主的決定にしたがって思うぞんぶんやっていただきたい。とともに、短期間のあいだに、国民のあいだに広く定着した中道革新の信頼される国民政党として、さらに国民のために成長し、歴史の流れのなかであくまでも国民の願望する方向を志向しながら、さらに前進の活躍を祈るものであります。どうか、激動しゆく日本の将来をあやまたないよう、確固たる展望をいだきながら、進んで行っていただきたい。そのためにも、われわれはこれまで以上に応援もいたし、また、せねばならないと思っております。
 最後に「日興遺誠置文」の冒頭の一節を拝しておきたい。
 「夫れおもんみれば末法弘通の恵日は極悪謗法ほうぼうの闇を照し久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、於戲ああ仏法に値うことまれにして喩を曇華どんげの蕚に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、ここに我等宿縁深厚なるに依つて幸に此の経に遇い奉ることを得」云云と。
 「末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し」とは、末法弘通の太陽の仏法は、いかなる時代の暗闇があってもそれを照らし晴らしていくとの、絶対的の慈悲であります。「久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う」とは、始成正覚の無常の生命観、浅い幸福観を根源的に打ち破り、確たる永遠の生命観、幸福観を教えていくものこそ、日蓮大聖人の妙法であるとの仰せであります。
 あとは説明するまでもないと思う。この遇いがたき仏法に遇うことができたのは、宿縁深厚のゆえであるということであります。
 どうか、日蓮大聖人の仏法における本因の代表であり、本門弘通の大導師であられる二祖日興上人の、心血を注いでしたためられたこの一文を、信仰の原点とし、生涯の指針としていっていただきたい。
 最後にわれわれは、御法主上人猊下を心よりお護り申し上げることを誓い、私の話といたします。(大拍手)

1
1