Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

文化本部夏季講習会 人間性豊かな文化社会に

1975.8.13 「広布第二章の指針」第7巻

前後
1  文化本部の皆さん、きょうはお暑いところ、ほんとうにご苦労さまです。私は、本日の”文化の第一線”を担う方々の集まりに対し、非常に心強く思っておりますし、また創価学会の文化と平和の基本路線は、今後ともさらに盤石であるとの確信を深くしたしだいです。
 大聖人の御書に次のような文があります。「法華経の一字は大地の如し万物を出生す、一字は大海の如し衆流を納む・一字は日月の如し四天下を照す」と。
 「一字」とは、いうまでもなく事の一念三千即大御本尊の御事でありますが、「万物を出生す」とは、あらゆるものがすべて妙法によって成り立っている。妙法なき芸術、科学、文学等は、まさしく大地から切り離された切り花のごとき存在となってしまう。また「一字は大海の如し」とは、妙法は大海のように一切を包容する広大なものであり、だれびとであれ、すべて救いきっていくという大慈悲をあらわされ、また「一字は日月の如し云云」とは、妙法をたもつ者こそ現実の社会および世界をリードしていかなければならない使命があるとのご指南と拝します。
 ゆえに皆さん方は、妙法をたもった文化の先駆者であるがゆえに「大地」「大海」「日月」の存在となっていただきたい。これが文化本部の生命線であると思いますが、いかがでしょうか。(大拍手)
 トインビー博士は「文化とは動きである、状態ではない、航海であって港ではない」と述べておりますが、私はまことに至言であると思う。しかして、その動きである文化の動力源をなにに求めるか――。それこそ躍動する生命の力そのものであり、さらにその源泉である妙法こそ文化の活力の本源であることを、銘記していただきたいと思う。
 話は変わりますが、いま、海洋博が行われている沖縄の戦後の歩みに、たいへん示唆に富む話があります。それは第二次大戦最後の戦場となり、文字どおり”鉄の暴風”に見舞われ、草木も焼け死に、地形まで変わってしまったなかでの話であります。荒廃した山河に立って、沖縄の人々が精神のよすがとしたものはなんであったか。それは、瓦礫のなかに見つけた一片の文化の香りをとどめた沖縄の壊れた民芸品、芸術品だったのです。
 人々は競うようにして焦土のなかにそれらを探し求め、粗末な小屋を建て、それらを展示したというのです。敗戦という虚脱のなかにあった人々は、沖縄の古から伝わった文化遺産の破片を前にして、喜悦の涙を流し、新たな力強い生命の息吹をおぼえたというのです。この文化があるかぎり、この伝統と土壌を継承し栄えさせていくかぎり、平和な沖縄として生き続けられるのだ――と確信したのです。
 沖縄の人々は、まさに敗戦を契機に、先人のそれを生み出すにいたった精神のはつらつとした営みを敏感に感じとり、新たな沖縄文化の建設へのエネルギーとしていったと、私は思う。
 同様に、日本においても、この方程式はあてはまります。今日の日本のあるべき進路が明白に示されている。すなわち、昭和二十年、文化国家をめざして発足した日本は、三十年たって気がついてみると、経済大国ではあれ、当初の目標であった文化国家とはだいぶ趣を異にした現状であります。むしろ経済的繁栄のために、戦時中かろうじて生き残ったわずかの良き文化の伝統さえも、枯れようとしているといってよい。自己の利益を求めることを至上の目的とした行き方は、国際社会のなかで日本を再び精神的孤立化に追い込もうとしているように思われてなりません。
 いま、日本の社会にあるものは、経済的繁栄の手段としての文化であるように思われてならない。経済が最優先して、学術、芸術、教育など人間の文化活動の分野を圧追しているのが、わが国の悲しい現状ではないでしょうか。これは逆転しなければなりません。人間性豊かな文化社会を築く必要があります。
 文化は、人間生命が真理を求め、”美・利・善”の価値を創造しようと躍動するところに生まれるものであり、経済的利益の召し使いとなりさがった文化は、もはやぬけがらでしかない。真理を求め、価値を創造しようとする人間生命の働きこそ、人間らしさを支えるものであります。真理を求める心は、時間と空間の制約を越えた常注の法に自らを接近させ、一体化しようとすることであり、美・利・善の価値の創造意欲は現実の人間存在に奉仕しようとすることであり、これはともに宗教人の道の一分であります。したがって、真実の文化の創造は、まず、人間自身の生命の欲望の奴隷の境涯から解放し、自らの崇高な理念を自らの意志で自由に追求でさる戦いから始めなければなりません。これこそ仏法の教える生命変革の哲理と実践であります。
 仏法では、人間の理性や感覚器官等の奥にある生命自体の英知を開き顕すために”五種の眼”を説いております。すなわち対象を認識する力を眼にたとえて、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼という五つであります。この五眼のそれぞれの特徴は略しますが、題目を唱え、信行に励むならば、自己の生命を鏡としで、一切を観じていく力といいましょうか、宇宙生命の脈動する本源と実相とを把握し、それによって諸事象を洞察する力といいましょうか、いずれにせよ御書に照らし、妙法をたもつ人々は、このような五限をみがき顕現させ調和させていくことが可能なのであります。それゆえに、またその責務はまことに大きいものといわざるをえません。
 私は、ここに集われた方々が、創造的精神の自由な発露の結果、多くの人々の心を打つなにものかを築き上げていただきたいと願っております。虚無的、厭世的な迷路に陥るのではなく、人々に生きる勇気と希望を与えるものを創造してゆかれんことを願うものであります。もちろん、それらを生み出す辛労は、いいがたい苦難をともなうことは当然でありましょう。しかし、ギリシャの詩人・アイスキュロスがいっているように、「学習は苦悩から生まれる」との言を忘れずに、いろいろな体験を積み重ねていってください。
 最後に、文化本部の皆さん方の文化的実践のなかにこそ、創価学会の運動の貴重な一面があることを銘記され、皆さまの将来にかぎりない期待をこめ、皆さん方がはつらつと自在に舞いゆくことを心から念願して、私の話を終わります。(大拍手)

1
1