Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

教育部夏季講習会 教育の真髄は”知・情・意”の調和に

1975.8.12 「広布第二章の指針」第7巻

前後
1  教育部の先生方、暑い最中本当にご苦労さまです。私は、この教育機関である創価大学で「教育の年」にあたる今講習会に、教師の代表の方々がこのように参集されましたことは、きわめて意義深いものとしみじみ感じております。私は、この日を「教育革命の日」と定めて、毎年皆さんが、なんらかの意義をとどめる目にしていただければ――と提案いたしますが、いかがでしょうか。(大拍手)
 戦後三十年をふり返ってみますと、終戦直後の日本には、荒廃と物資の窮乏に悩み苦しみつつも、民主主義という理想に向かう精神が躍動しておりました。しかし、やがて経済復興が進み、物質的豊かさに慣れた今日では、その精神も弱々しく力を失ってきた感があります。そして、それは教育の世界にも露呈されているとみるべきでありましょう。戦前は軍事を先にして、その後に人間がついていったごとく、戦後は経済を優先して、そのあとに人間が追随していったといってよい。この順位を逆転させるためには、私は、なによりも教育という人間の育成作業から突破口を開く以外にないと信ずるのであります。
2  教育の基本的あり方
 教育とはいうまでもなく、人間を育みつくる尊い作業であります。この社会には機械をつくる人もいる。食物を生産する人もいる。多くの場合”現実への対応”の作業であるのに対して、教育は”未来への対応”といえるでありましょう。
 私自身、教育を最重要視してきたつもりでありますし、私の人生における最終の事業も教育と決めております。未来に対してあるべき教育を探るため、私は世界の各大学を訪れてきました。今年の五月、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、デュプロン学長と教育の諸問題を語り合ったさい、話は教育者と学生の断絶という問題におよびました。
 そのとき、デュプロン学長は断固たる口調でこういっていました。
 「よく学生と教授のあいだに断絶があるといわれるが、断絶というよりむしろ交流がないといったほうが適当である、まず、教育者がそのことで自己の責任を感ずる必要があろう。教育にとってなによりも大事なのは”よく聞く”ことである。教授は学生を指導するというより、むしろ学生の言い分をよく聞くことを考えるべきだ。しかも”よく聞く”とは、その聞いた内容で相手を責めるためのものではない」と。
 パリ大学ソルボンヌ校は、あの有名な世界の大学革命の導火線となった一九六八年の”五月革命”でよく知られている。そこの大学の学長の発言だけに、鋭い洞察をともなっていると、私はみました。ここにある”よく聞く”ということは、学生のなかにあるものを引き出していく内容であったと思う。表現上の言葉から、その精神の心音を聞くことこそ、いまほど教育界に必要なときはないと、私は申し上げたい。
 ”よく聞く”ためには、教育する側に、それだけの心のキャパシーティー(容量)がなければならない。大海のような慈愛の深みがあって、それは可能となるのです。あたかも容量の大きなバッテリーは、それだけ多くの充電ができると同じように、心に奥行きのある、しかも吸収力と方向性を無言のうちに示す人格の輝きと力量とをもった教師像が望まれるといってよい。
 皆さんがよき聞き手であることは、それ自体がよりよき与え手といえる。それには、教育者としてつねに生徒たちとともにいるとの姿勢が要求されると考えます。
 このことで想起されるのは、教育愛を貫いたペスタロッチの生涯の一コマです。とくに孤児院を運営していたとき、ペスタロッチは「孤児たちとともに泣き、ともに笑った。彼らはただ私とともにあり、私はただ彼らとともにあった。彼らが元気なときも、病気のときも、私は彼らとともにいた」という生活を送っていた。
 この姿勢というものに、じつは教育の基本的なあり方が示されていると思うのです。もちろん、学校教育の場ですから生徒と起居をともにすることだけはできませんが、そうした教育にかける情熱だけは、けっして失ってはならないと思う。生命軽視の過激な行動に走る若者が続出し、一方では、そうした社会、文明のゆがみに無関心な風潮のなかで人間教育の重要性が、いまほど切実に求められているときはない。
3  根幹は主体性と慈悲
 人間教育の理想は、直接的には「知」「情」「意」の円満と調和にあります。この「知性」「感情」「意志」という三種の精神作用を、一個の人間のうちにいかに調和させていくかが課題であります。
 「知」は、ものを知る能力一般を意味し、理性や悟性もそのうちに含まれます。テレビ、新聞、雑誌、書籍等々、現代という情報洪水の社会にあって、いろいろなものを知っていても、与えられた素材を自身で考え処理する、より高度な認識能力、すなわち思考カ――これを知性といってもよいのでしようが――が失われているといったことが叫ばれています。
 「情」は、快、不快的反応を意味する狭義の感情、および気分、情操、激情を含めた広義の情緒の二つからなりますが、伝統的に考えられてきた精神の三様相の情的側面を、意味しています。
 「意」は、欲望とか本能など、自然的要求にもとづくものではなく、明らかな意図にもとづいて自己を決定し、なんらかの目的を追求する行動を起こすバネ(発条)となるものをいいます。
 これらの”知・情・意”の三つを支えるものが、自己の人間としての向上、完成をめざす主体性とすべての人に対する慈悲の精神であります。この二つの支えを失った”知・情・意”はたんなる観念に堕してしまいます。そこには、もはや現にある人間の生活、社会環境を切り開いていく源泉としての力は存在しない。あるのはむなしい机上の空論であり、観念の遊戯にしかすぎません。
 古来、こうした支えの次元を追究したのが宗教であります。だが、多くのそれらの試みが、自己の完成と他への慈愛――この二つが一体化しえなかったということであります。すなわち、自己完成に偏れば利己主義に陥り、逆に他への慈愛に走っては、自己犠牲から自己欺瞞に堕落してしまう。このジレンマの繰り返しが、諸宗教の歩んだ足跡であるといってもよいでしょう。
 この一体化の大道を開いたのが法華経哲学であり、日蓮大聖人の仏法であります。宇宙本源の妙法を根源としたとき、他への慈悲の菩薩道は即自己の向上完成となったのであります。
 「御義口伝」には、”喜ぶ”ということについて次のようにあります。「喜とは自他共に喜ぶ事なり」と。また「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」と述べられています。これらの御文は御書の全体を貫いており、ここに”知・情・意”具足の人間教育の基盤が完成されたのであります。
 皆さん方は、この妙法の哲理をわが身に肉化し、日々実践行動に励まれている教育者であります。新しい時代の新しい力を確立させるには、新しい力によるほかありません。あるいは、そのような時代を勝ちとる若い力を育てるということは、至難の作業であり、棹をもって星を突くようなものではないか、と考える人がいるかもしれません。しかし、それゆえにこそ、私は皆さん方に頼み、託したいのであります。
 どうか、教育部の皆さん方が、教育革命の大情熱の火を点じ、未来社会へ豊かな水脈をつくっていただきたいと心から期待してやみません、以上で私の話を終わります。(大拍手)

1
1