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日蓮大聖人・池田大作

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5・3記念代表者会議  

2009.5.3 スピーチ(聖教新聞2009年下)

前後
2  本年3月、私は皆様方を代表して、北欧の名門デンマーク・南大学から「名誉博士号」を拝受した。
 〈世界の大学・学術機関から250番目となる名誉学術称号の栄誉。現在、池田名誉会長は、「254」の名誉学術称号を受章している〉
 そのメダルには、デンマークの誇る3偉人である、大教育者グルントヴィ、哲学者キルケゴール、そして童話王アンデルセンの肖像が刻まれていた。
 ここで、アンデルセンの箴言を、いくつかご紹介したい。
 「人生という学校は人を向上させるところ以外のなにものでもありえない」(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集9』東京書籍)
 人間として向上しゆくために信心がある。
 そして、一生成仏という究極の向上の道こそが、学会活動である。仏道修行である。
 また、アンデルセンは「苦難は私たちの船を進める風」との諺を胸に刻んでいた(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集4』東京書籍)。
 仏法の「煩悩即菩提・生死即涅槃」の法理とも響き合う。
 御書に「難が来ることをもって、安楽であると心得るべきである」(750㌻、通解)と仰せのように、広宣流布も、人生も、難と戦うからこそ、偉大な前進があるのだ。
 アンデルセンは確信していた。
 「ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる」(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集6』東京書籍)
 「声仏事を為す」である。
 ともあれ、しゃべることだ。語ることだ。叫びきることだ。
 その言論の力が、邪悪を破り、正義を宣揚する宝剣となる。
 そして、アンデルセンは綴った。
 「青春の心は未来そのものである」(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集8』東京書籍)
 わが青年部よ、創価の未来を君たちが切り開いていくのだ!
3  英国の桂冠詩人テニスンは晴れやかに謳った。
 「吹奏せよ、太陽は5月に強くなるから。
 吹奏せよ、太陽は日ごとに力を増大するから」(清水阿や訳『全訳 王の牧歌12巻』ドルフィンプレス)
 本当に、その通りである。「5月の太陽」は、一日また一日、光を増していく。勢いに満ち満ちている。
4  トインビー博士からの「招待状」
 思えば、20世紀最高峰の歴史学者であるトインビー博士と、ロンドンのこ自宅で対話を開始したのも、5月であった。
 〈1972年5月と翌73年の5月に行われた語らいは、対談集『21世紀への対話』に結実した〉
 トインビー博士から40年前にいただいた招聘のお手紙には、「こちらでは麗らかな春を迎える5月が、お越しいただくには最もよい時期かと思っています」と記されていた。
 わが創価の師弟の太陽も、「5月3日」の朝が巡り来るたびに、元初の生命の旭光を放ちながら、いや増して強く明るく勝ち昇りゆくのだ。
5  なお、懐かしきイギリスの「タプロー・コート総合文化センター」では、先日(4月29日)、伝統の地域友好の集いが盛大に行われた。
 タプロー・コートには、1897年にタイ王国のチュラロンコン大王が長期滞在されている。大王は、私が幾度も語らいを重ねたプーミポン国王の祖父君であられる。
 そのご縁から、友好の集いには、タイ王国のワシノン駐英大使ご夫妻も出席してくださった。
 さらに、近隣のスラウ市のザラット市長などの要人、そして近しい市民の方々も、多数、お見えになられたとうかがった。まさに千客万来である。
 学会の会館は、わが地域に、信頼と希望の光を広げている。
 ここ東京牧口記念会館のある第2総東京でも、昨年4月に堂々たる東村山文化会館、本年3月には素晴らしき三鷹平和会館が誕生した。そして、世界の模範である特区・町田にも、今秋、待望の町田平和会館がオープンする予定だ。
 地元の同志からの歓喜の報告も、すべてうかがっている。私は、学会員の皆様が喜び、満足していただけるように、いつも陰ながら手を打ってきた。
 わが誉れの広布の宝城から、友情を大拡大していただきたい。
6  第2総東京の皆さん、頼むよ!
 創価の「平和」と「文化」と「教育」の前進を、全世界の友が祝賀してくださるなか、「5月3日」を飾ることができた。うれしい限りだ。
 全国の多くの尊き同志が、学会本部にもお越しくださっている。
  晴れ晴れと
    広宣流布の
      本陣は
    今日も賑やか
      英雄 来たりて
 同志の皆様方に題目を送りながら、深き感謝と敬意を込めて和歌を捧げたい。
7  今、躍り出る時!
 日本の暦で、童謡でも歌われ親しまれてきた「八十八夜」とは、立春から数えて88日目。毎年、5月の2日ごろに当たる。
 このころには、霜もなくなり、気候も安定し、茶摘みや田植えを始める節目とされる。
 わが農漁村部の友も、忙しさが増しゆく時期だ。ご健康、ご活躍を、そして豊作、大漁であられることを、私と妻は真剣に祈っている。
 ともあれ、5月の3日は、天然のリズムの上からも、生きとし生けるものが、いよいよ躍動していく不思議な時といってよい。
 躍動といえば、御聖訓には、「上行菩薩が大地から出現された時には、踊って出現されたのである」(御書1300㌻、通解)と仰せである。
 地涌の陣列の先頭に立つ大指導者の上行菩薩は、大地から喜び勇んで、躍り出たと説かれているのである。
8  私は、わが永遠の師匠・戸田城聖先生が第二代会長として勇躍の指揮を執り始める時として、この5月3日こそがふさわしいと定めていた。
 それは、時代の不況の波浪を受けて、戸田先生の事業が暗礁に乗り上げた試練の渦中での誓願であった。
 先生が経営を担っておられた事業が、業務停止となった。債権者の浴びせる怒号と罵声が、事務所に響く日が続いた。
 先生は、この業務停止にともない、さらに厳しい責任を間われかねない状況にあった。
 あの豪毅な先生が、憔悴し切って、死さえ覚悟されていたのである。
 同志の心も、揺れに揺れていた。
 大恩ある先生を蔑み、悪口する者もいた。窮地から逃げ去る、浅ましき恩知らずの姿もあった。
 スペインの作家ティルソ・デ・モリーナが、「卑怯者は臆病なればこそ卑怯者と知れ」と喝破した通りの人間模様であった(岩根圀和訳「セビーリャの色事師と石の招客」、『スペイン中世・黄金世紀文学選集7 バロック演劇名作集』所収、国書刊行会)。
 先生は、事業の失敗の影響が学会に及ぶことを憂慮し、理事長も辞任された。いな、辞任させられた。
 先生の辞任を狙っていたかのように、自分が学会を牛耳り、わがものにしようとする野心家の蠢動が始まったのだ。
 四面に楚歌が響く中、私は、ただ一人、先生をお護りするため、師子奮迅の力で戦い抜いた。
 私は、心に誓っていた。
 「先生の負債は、私が働いて、すべて返してみせる。そして先生には、理事長に戻っていただくのでなく、空席になっていた会長に就任していただこう!
 初代会長であられた牧口先生の後を継いで、第二代の会長として、戸田先生に必ずや、広宣流布の指揮を晴れ晴れと執っていただくのだ」
 明日をも知れぬ、それはそれは、悪戦苦闘の連続であった。
 しかし、その厳寒の真冬のさなかにあって、私が一つの希望の目標として、祈りを定めていたのが、「5月の3日」であったのだ。
9  新たな師子吼を
 なぜ、5月の3日なのか。
 戦時中、創価教育学会としての最後の総会が行われたのが、昭和18年の5月の2日であった。〈東京・神田の教育会館に700人が集った〉
 この日この時、初代の牧口先生は、「宗教の研究法」と題した講演で、国家諫暁の精神を訴えていかれた。
 ほとんどの会合が特高刑事の監視下で行われ、国家権力の弾圧が激しくなっていた時期である。
 そのような嵐の中で、牧口先生は、わが学会は発迹顕本せねばならぬと烈々と叫ばれた。
 牧口先生と戸田先生が不当に捕らわれ、投獄されたのは、その2カ月後のことである。
 殉教のわが先師の正義の師子吼が刻まれた、最後の創価の総会の日が、5月2日であった。
 ならば、その次の日に当たる「5月3日」を、新生・創価学会の「発迹顕本」の出発とするのだ──。
 私は、戸田先生と同じ巌窟王の心で、誓い定めていたのだ。
10  昭和26年の5月3日、晴れの第二代会長の就任式が一切、終了したあと、戸田先生は私に、そっと言われた。
 「すべて、おまえのおかげだよ。ありがとう!」
 先生の目には光るものがあった。
 そして先生は、その翌年の昭和27年、会長就任1周年に当たる記念の5月3日を、あえて、愛弟子の結婚の日に選んでくださったのである。
 この5月の3日には、三代の師弟の「報恩」、そして「後継」の深き意義が、幾重にも込められている。
11  5・3の大宣言
 第二代会長の就任式で、戸田先生は大宣言なされた。
 「75万世帯の折伏は私の手でいたします」
 「もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな」
 しかし、当時の弟子たちは、師匠が人生の大願を語られた、この重大発表を夢物語として聞き流した。
 これは、当時の聖教新聞にも、掲載されなかった。
 小才子の傲慢な幹部が、できもしない目標を後世に残せないと記事にさえしなかったのである。
 戸田先生が会長に就任された5月、A級支部でさえ、1カ月の折伏目標は、50世帯であった。
 しかし、何があろうとも、師の構想を実現するのが、弟子の道ではないか。
 戸田先生の願業は、そのまま弟子たる私の誓願となった。断じて成し遂げねばならぬ、わが使命となった。
 だが学会の弘教は、まったく進まなかった。いな、心の中では皆が諦めていた。
 古参の幹部は、低迷の分厚い壁を前に嘆息するばかりであった。
 しかし、その中にあって、私は満を持して、蒲田支部幹事として、広宣流布の主戦場に躍り出た。
 それは、昭和27年(1952年)の厳寒の2月、戸田先生が52歳となられるお誕生の月であった。
12  東京が大行進!
 御聖訓には、「師弟相違せばなに事も成べからず」と仰せであられる。
 私は、先生の心を叫び抜いた。師弟の道を訴え続けた。
 広宣流布の師匠の魂に心が融合する時、地涌の菩薩の智慧と勇気の生命が、わが胸中にも、わき起こるからだ。
 先生にお応えせんと、わが同志は私と共に、心を入れ替え、勇み走ってくれた。
 そこには、歓喜があった。希望があった。
 ロマンがあった。勢いがあった。
 誰もが、じっとしてなどいられなかった。
 そして、わが蒲田支部は一挙に「201世帯」という未聞の拡大を成し遂げた。
 「やれば、できる」──75万世帯への誓願実現の突破口は、ここに決然と開かれたのだ。
 蒲田は勝った!
 ふるさと東京の勝利の大行進が始まったのである。
13  法華経には、仏の力用として、「知道」「開道」「説道」と記されている。妙法を持った我らは、「道を知り」「道を開き」「道を説く」力を発揮していけるのだ。
 戸田先生の直弟子として、私は、城東へ、文京へ、札幌へ、大阪へ、関西へ、山口へ、中国へ、荒川へ、葛飾へと走りに走った。
 行くところ、向かうところ、新たな光り輝く広宣流布の大道を開拓し、常に断固として師弟勝利の旗を打ち立てていった。
 すべてが、困難このうえない戦いの日々であった。容易な戦いなど一つもなかった。
 不可能を可能としゆく、「まさかが実現」の戦いであった。
14  最大の勝因は
 その最大の勝因は、いったい何であったか?
 それは、ひと言で言うならば、いついかなる時も、わが心が師と共にあったことだ。
 私は、一切を先生に報告し、指導を仰いだ。最寄りの目黒の駅で降りて、駆け足で先生のご自宅に向かったことも数知れない。
 また“先生ならば、どうされるか”を常に考えた。
 先生が今、私を見たら、何と言われるか?
 胸を張って、ご覧いただける自分であるかどうか。
 私はいつも、そう己に問うてきた。
 渾身の力で戦い抜く、わが心には、「よくやった!」と笑みを浮かべて頷いてくださる先生の顔が光っていた。
 とともに、「まだまだだ!」と厳しく叱咤される師の雷鳴が、いつも轟いていた。
15  祈りと行動こそ
 私は、来る日も来る日も、自分自身に強く言い聞かせていたのである。
 「仏法は勝負である。ゆえに、敗北は罪である。負ければ、先生の広宣流布の構想を頓挫させることになる。断じて負けてはならない。絶対に勝利の報告をするのだ」
 その一心不乱の「祈り」が、力となり、智慧となった。
 その勇猛精進の「行動」が、活路を開き、諸天善神を動かした。
 ただただ、先生に喜んでいただきたい!
 その誓いの一念だけで、来る年も来る年も走りに走った。
 前進! 前進! 前進! 
 勝利! 勝利! 勝利!
 永劫に悔いなき弟子の赤誠を、私は貫き通した。
 師弟の共戦は、あらゆる試練を乗り越え、勝ち越えて、昭和32年の12月、遂に学会は、75万世帯を達成した。
 先生の大願は完壁に成就されたのである。
 師匠の挑戦は、弟子の挑戦である。弟子の勝利は、師匠の勝利である。そして「師弟」の栄光は、「永遠」の栄光である。
 病の床で、先生は、わが手を握り締めて言われた。
 「良き弟子を持って、わが人生は所願満足だ。牧口先生のもとへ、胸を張って還れるよ。ありがとう!
 大作、私の分まで生き抜いてくれ! そして、世界の広宣流布を頼む」
 そこには、熱い涙があった。
16  衝撃の言葉
 先ほども申し上げたが、戦時中、戸田先生は、師・牧口先生に獄中までも、お供された。
 当時の状況を考えれば、師匠のために命を捨てたも同然の行為であったといっていい。
 さらに出獄後、戸田先生は、獄死された牧口先生を偲ばれ、「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」と感謝を述べられたのである。
 “仏法の師弟とは、これほどまでに厳粛なのか”──若き私には衝撃であった。
 そしてまた、私も真実の弟子になろうと決めて、戸田先生にお仕えしていった。
 それはそれは、壮絶な訓練であった。
 叱られてばかりであったが、偉大な師匠から厳しく訓練していただいたことは、今、振り返ると、最高の思い出となっている。私は本当に幸せであった。
17  仏法の根幹は、「師弟」である。
 なかんずく、「師弟不二の祈り」である。
 大聖人は仰せだ。
 「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(御書1151㌻、通解)と。
 いくら祈っても、師弟が心を合わせていかなければ、祈りは叶わないとの御断言である。
 反対に、師弟の祈りが不二であれば、断じて祈りは叶う。絶対に不可能をも可能にしていくことができる。
 これが仏法の方程式である。
18  命を燃やせ!
 ともあれ、天台大師の「法華玄義」には、「法華折伏・破権門理」──法華の折伏は、権門の理を破す──と明言されている。
 大聖人も「日蓮は折伏を本とし」と断言なされている。
 この仰せの通りに、創価の師弟は「折伏精神」を燃え上がらせて、ありとあらゆる中傷批判の悪と戦い抜いてきたから、勝ったのである。
 広宣流布のいかなる戦いも、その勝利の要諦は「折伏精神」という決意が燃えているか、どうかだ。
 社会的な立場や学歴では人間は決まらない。“折伏の一兵卒”が偉大なのだ。
 真剣に学会活動に励む人こそが、三世に輝く生命の王者なのである。
 「これから後も、どのようなことがあっても、少しも信心が弛んではならない。いよいよ声を張り上げて責めていきなさい」(同1090㌻、通解)
 この大聖人の厳命のままに、正義の攻撃精神を燃えたぎらせていく限り、学会は負けない。永遠に負けない。
19  皆に尽くし抜くのが真の指導者
 激動の時代にあって、わが創価学会は5月3日を、上げ潮のなかで迎えた。本当にすごいことだ。
 広宣流布のために、世界中の同志が、喜び勇んで前進している。
 こんな団体はない。偶然にできたものでは決してない。どんな試練にあっても、師弟の道を貫き通したからこそ、築かれたのだ。
 「わが人生、師匠は戸田先生お一人だ。師の大恩を、永遠に忘れない」──これが私の決心であった。
 「難こそ誉れ」「難こそ喜び」──の覚悟で生きてきた。
 どんなに偉そうな格好をしていても、苦労は人に押しつける。そんな指導者は遊んでいるのと同じだ。
 同志に尽くし抜くのが、真の指導者だ。戸田先生は、身をもって教えてくださった。
 どうしたら、皆に勇気と希望を贈れるか。
 どうしたら、皆が感激を分かち合い、喜びにあふれて、前進していけるか。
 そのために祈り、智慧を出すのである。
 会合も、いつもと同じ、通り一遍ではいけない。尊き同志に最敬礼する思いで、皆の心を鼓舞していくのだ。
 未来にわたる勝利の伝統を、今、わが地域に築いていきたい。
 一つ一つが、真剣勝負である。
20  「大きな崩壊は小さな原因から」
 有名な御聖訓には、「師子王は前三後一といって、蟻を取ろうとする時にも、また、猛々しいものを取ろうとする時も、全力で飛びかかることは、まったく同じである」(御書1124㌻、通解)と仰せである。
 どんな小さなことにも手を抜かず、油断しない。全魂を込めて勝ち抜いていく。ここに、師子王の師子王たる所以があるのだ。
 戸田先生が、まさにそうであられた。
 その先生が逝去されると、最高幹部の多くが、茫然自失していた。そのなかにあって私は、一日一日、会員のため、学会のために、峻厳なまでに責任を果たしていった。
 会員の皆さんが一歩前進していけるように、迅速に手を打つことだ。それが広布のリーダーの責務である。
 「小さな原因から、しばしば大きな崩壊が生じる」とほ、レオナルド・ダ・ヴィンチの戒めである(セルジュ・ブランリ著、五十嵐見鳥訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社)。
 私の心の奥には、常に、この厳しい言葉が響いている。
21  渾身の「設営」
 戸田先生が霊山へ旅立たれて1カ月後の昭和33年(1958年)の5月3日。思い出深き墨田区両国の旧国技館(後の日大講堂)で、第18回の春季総会が開催された。
 その前日、私は準備のために、会場へ足を運んだ。真剣に設営に当たってくださる同志を、私は心からねぎらい、励ましていった。
 会場の外に掲げる「春季総会」との大看板も、用意されていた。一つの文字が、畳2畳分もあろうかという大看板である。
 しかし、残念ながら筆勢が弱々しかった。
 恩師亡き後、学会の未来を決しゆく最重要の総会である。同志の悲しみを吹き払い、前進の気迫あふれる会合とせねばならない。私は心を鬼にして、書き直しをお願いした。
 「文字が死んでいます。この看板の文字を見た人が皆、躍動し、吸い寄せられるような思いで、明日は集っていただきたいのです。歓喜の人々の集いにしたいのです」
 担当した同志の皆さんは、即座に私の心を理解してくださった。
 そして、祈りを込めて、勢いみなぎる見事な文字の大看板に作り替えてくださった。
 私が、7年ごとの前進を期す「七つの鐘」の未来構想を発表したのは、この総会であった。希望の大光を、わが同志の胸に注ぎ、勇気の炎を点火していったのである。
 今、私の心を心として、我らの広宣流布の歴史の舞台を、一回また一回、深き一念で荘厳してくれる友がいる。親友がいる。同志がいる。
 栄光会、創匠会、鉄人会、炎の会、韋駄天グループ、虹の会、達人会、暁会、鉄拳会、正義会、城将会、創城会、王城会、徹人会、砦会、巌会など、各地の設営グループの皆様!
 さらに、男子部の白鳳会、女子部のデザイングループ、婦人部の創峯会をはじめ各種行事のデザインに携わってくださる皆様!
 こうした気高き匠の友どちに、この席をお借りして、心より私は感謝の念を捧げたい。
 いつも本当にありがとう!
 仏法の因果の理法に照らして、皆様の生命が生々世々、荘厳されることは、絶対に間違いありません。
22  私がフランスの学士院で講演を行ってから、今年で20年となる。テーマは「東西における芸術と精神性」であった。〈1989年6月〉
 今もって、当時、参加された知性の方々から、うれしいお便りをいただく。
 フランスといえば、19世紀の詩人にボードレールがいる。青春時代、作品を手にしたことも懐かしい。
 彼の芸術批評も鋭い。フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏が、私との対談で触れられた。ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁も愛読されていた。
 ボードレールは謳った。「僕は知る、苦悩こそ唯一の高貴なもの」(福永武彦編集『ボードレール全集1』人文書院)
 詩人ゆえの苦悩──そこに彼は高貴な光を見いだす。
 また、青春は、苦悩の連続であるかもしれない。しかし、苦悩こそ創造の泉だ。
 彼は、こうも語りかける。
 「広漠とした悩みと悲しみを後にして/輝かしい清朗な境地へと飛翔する/たくましい翼をもつ者は しあわせだ」(エンツォ・オルランディ編、及川馥訳『ボードレール』評論社)
 精神こそ翼だ。勝利と栄光の人生へ飛翔する大いなる翼こそ、信心にほかならない。
 わが青年部よ! 嵐を突き抜けて飛翔しゆく、たくましき翼を鍛え上げよ!──こう声を大にして訴えたい。
 若き創価の友の青春に万感の期待を託し、「友情あれ! 希望あれ! 充実あれ!」と申し上げたい。
23  ドイツの詩人シラーは、「人間が人間に与えるべきもので、何が、真理よりももっと大きいであろうか」と力説した。大学教授に就任した時の講演である。〈新関良三訳「世界史とは何か、また何のためにこれを学ぶか」、『世界文学大系18 シラー』所収、筑摩書房〉
 私どもにとって、究極の真理とは、妙法である。
 万人を幸福に導く大法であり、最も普遍的な、人間と大宇宙を貫く根本法則である。
 最高の真理を世界に広げる。これほど誇り高い人生はない。
24  「天が落ちても正義を貫け!」
 ロシアの文豪トルストイは喝破した。
 「最高の正義の前では、罰を受けない悪などというものはありません」(米川正夫訳「それはお前だ」、『トルストイ全集14』所収、岩波書店、現代表記に改めた)と。
 若き日に読みふけったトルストイのこの言葉は、仏法の方程式と同じであると実感したことが、今でも私の心に残っている。
 善のため、平和のため、民衆のため──そこに正義は輝く。
 戸田先生は、「学会に敵対するならば、いかなる者であれ、大聖人が許さない」との大確信であられた。
 また、私が忘れ得ぬ出会いを結んだ、インド最高裁判所の元判事であるモハン博士の信条がある。博士は詩人としても有名である。
 その信条とは、「天が落ちることがあっても、正義は貫かなければならない」。
 仮に「天が落ちるようなことがあっても」、正義の人間は戦い抜かねばならない。そして、断固として勝たねばならないのだ。
 ともあれ、正義は勝ってこそ正義である。
25  大学を守り抜く
 イギリスの科学の巨人ニュートンは、大学に不当な権力が介入してきた時、教員として敢然と立ち上がった。
 徹底的に調査し、法律に基づいて、大学側の“正義”を、大学の人々に訴えた。
 「勇気をもって法を固守してほしい」
 「法律をわが味方と奉じ、まことの勇気をもってあたれば、すべてが守れるはずである」と。
 その信念と勇気は、皆に広がり、迫害にも屈せず、大学の自治を守り抜いたのである。
 〈ジェイムズ・グリック著、大貫昌子訳『ニュートンの海 万物の真理を求めて』日本放送出版協会〉
26  「虚言」は罪悪
 同じイギリスの知性である、作家オーウェルも、断固として、正義の言論の矢を放った。
 社会に流布された虚偽の報道に対し、自分の目で見てきた事実に照らして、「この話は絶対に嘘です」と断言する。
 その際、自らの信念を、こう記した。
 「言論界では中傷されている人々のために正義を求めるのです」
 〈塩沢由典訳「レイモンド・モーティマへの手紙」、『オーウェル著作集1』所収、平凡社〉
 さらに、ドイツの哲学者カントは指摘する。
 虚言は「他人の権利の毀損」となる。それは、虚言を弄する者自身の「人格に対して罪を犯すこと」であり、人間を軽蔑すべきものに貶める「恥ずべき行為」である、と(白井成允・小倉貞秀訳『道徳哲学』岩波文庫)。
 嘘がはびこる社会では、人権が、人間の尊厳が踏みにじられる。
 だからこそ、正義は沈黙してはいけない。
 後世の人々の希望となり、鑑となる歴史を残すためにも、断じて正義を勝ち栄えさせていくことだ。
 いわんや、広宣流布は最高の正義の拡大である。
 「創価学会は、正義の中の正義の団体である。ゆえに、絶対に勝たねばならない」
 これが、戸田先生の厳命であった。
27  邪悪への攻撃精神をもて!
 あの熱原の法難の渦中、日蓮大聖人は、日興上人をはじめ門下に仰せになられた。
 「あなた方は、恐れてはならない。いよいよ強く進んでいくならば、必ず、正しい経緯が明らかになると思います」(御書1455㌻、通解)
 この法難は、幕府の強大な権力者・平左衛門尉による大聖人門下への、狂いに狂った迫害であった。日興上人等とともに熱原の農民の弟子たちは、讒言や謀略などに一歩も退かず立ち向かって、戦い抜いた。
 大聖人は、本抄だけでなく、常に、門下たちに「少しも恐れてはならない。強く強く戦い抜け! そうすれば必ず仏になる。正邪は明らかになる」と打ち込んでいかれたのである。
 この何ものをも恐れない「師子王の心」に、寸分違わず行動されたのが、創価の父・牧口先生であり、戸田先生であられた。
 牧口先生は言われた。「戦えば戦うほど、こちらが強くなればなるほど、仏法勝負の実証は早く出てくる」
 戸田先生も、繰り返し叫ばれた。
 「折伏精神以外に信心はないと、覚悟することだ」
 「折伏の『折る』というのは、悪い心を折る。そして折伏の『伏する』ということは、善い心に伏せしめるということだ」
 さらにまた、戸田先生は、次のように徹して教えていかれた。
 「悪に対する反撃の根性を持て!」
 「信心とは、邪悪への攻撃精神である」
 この攻撃精神で戦い抜いてきたゆえに、学会は、世法や国法においても、そして仏法の上でも、正義の勝利を燦然と刻んできたのである。
28  学会発展の大きな原動力は何か。
 それは、偉大なる婦人部の皆様の活躍である。婦人部の真剣で誠実な、地道な活動の積み重ねである。
 もちろん、男性も頑張っている。
 しかし、女性に比べると、男性は、ややもすると要領や策に走ってしまう。見栄を張り、自分のことばかり考えて、エゴに陥ってしまいがちである──こうした厳しい指摘もある。
 婦人部の皆様が、学会の大発展を支えてくださっていることは厳然たる事実だ。
 どんな権威や権力も恐れない。強き祈りと師弟を根本に、堂々と真実を叫び切っていく。悩める友を救っていく。勇気の行動で勝利を開いていく──それが創価の婦人部だ。
 女性の時代である。男性の幹部に対しても、婦人部は正しい意見は、どんどん言っていくことだ。ともに、よりよい学会をつくっていくのだ。
 これからも、私たちは“創価の太陽”である婦人部の意見を最大に尊重し、その活躍を讃えながら、朗らかに前進してまいりたい。
29  200を超える“恩人”を列挙
 前にも申し上げたが、5月といえば、トインビー博士との対談が懐かしく思い出される。〈対談は1972年と73年の5月に行われた〉
 対談を陰で支えてくださったイギリスの同志、応援に駆けつけてくださったアメリカなどの同志の皆様方に、今もって感謝は尽きない。
 博士と私は、実に多くの点で意見が一致した。
 人間にとって「感謝の心」が、いかに重要であるか。この人生観も、深く共鳴し合った一つである。
 トインビー博士は大著『歴史の研究』を結ぶに当たり、200を超える人や書籍などに対し、丁重な「感謝のことば」を記しておられる。
 博士は、誠に義理堅い方であられた。
 その「感謝のことば」の筆頭に掲げられた恩人は、いったい誰か。
 それは、若き博士に“報恩感謝の大切さ”を教えてくれた、古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスであった。
 この哲人皇帝が、有名な『自省録(省察録)』の第1巻に、自らが受けた「精神的恩義」を列挙していたことに、博士は深い感銘を受け、ご自身の人生の範とされたのである(「歴史の研究」刊行会訳『歴史の研究 第20巻』経済往来社。以下『歴史の研究』の引用は同書から)。
30  利己主義者には感謝も恩もない
 20世紀を代表する文豪トーマス・マンは語った。
 「感謝出来る、感受性の強い性質──普通は欠陥の多い人生から可能なものを創り出すために、これ以上よいものがあり得るでしょうか」(森川俊夫訳『トーマス・マン日記1937―1939』紀伊國屋書店)
 「感謝の心というのはしかしながら受動的なものではなく、創造的な特質であります」(同)
 真に創造的、建設的な人は、恩を知り、感謝を知る。一方、破壊的な卑劣な輩は、恩を知らず、感謝もできない。皆様方がご存じの通りだ。
 文豪ゲーテは『ファウスト』の中で綴っている。
 「ただわが身が可愛いというのが、いつでも利己主義者の信条だ。感謝も恩義も、義務も名誉もないのだ」(大山定一訳『ゲーテ全集 第2巻』人文書院)
 「畜生すら猶恩をほうず何にいわんや大聖をや」とは、「開目抄」の一節である。
 仏法は、人間にとって一番大事な「恩」を教えている。
 法華経の重恩に報いようとしない人間を、日蓮大聖人は「不知恩の畜生」と厳しく断じられた。
 知恩・報恩の道を最大に重んずる仏法の世界にあって、忘恩、背恩の悪行は、あまりにも罪が深い。
31  幼き日に聞いた物語が出発点に
 このいわば「精神的な師匠」に続いて、トインビー博士が深く感謝を捧げたのは、誰であったか。
 それは、「お母さん」であられた。
 母君は博士が幼い子どもの時から、いつも枕元で、イギリス史の物語を話し聞かせてくれた。
 「記憶の遡り得る限り、幼い頃から、それまでに母が私のためにしてくれたことのお蔭で、すでに私は、それ以来決して私から去ったことのない歴史に対する愛にとりつかれていた。
 もし母が幼時に、私の頭に──そしてまた胸にも──この好みを与えてくれなかったら、私は決してこの本(『歴史の研究』)を書かなかっただろうと確信する」と、博士は母君から受けた恩恵を記されているのである。
 その意味において、今、ヤング・ミセスの方々が、地域に根を張って進めておられる「読み聞かせ運動」のことをトインビー博士が聞かれたら、さぞかし手を叩いて喜んでくださったに違いないと、私の胸は躍る。
 いずれにしても、トインビー博士が「母の恩」を最重視されていたことは、誠に味わい深い。
 御聖訓には、「母の恩の深き事大海還つて浅し」とも記されている。
 「5月3日」は、「創価学会母の日」。5月10日は「母の日」である。ここでもう一度、広布の母の皆様方に最敬礼して、感謝を捧げたい。
 「母を悲しませない心」、「母に喜んでもらう心」──それこそが、平和を創る出発点であることを、深く深く銘記していきたいのである。
32  「青春桜」よ薫れ
 さらにトインビー博士が、「感謝のことば」の結びに、印象深く感謝を表した方がいる。
 それは、博士の研究と人生を支え続けたベロニカ夫人であった。
 博士と私の対談を、ロンドンのご自宅で、私の妻と並んで、静かに微笑みながら、最後まで見守ってくださったことは、今も私の胸から離れない、尊き光景である。
 トインビー博士は、母君や夫人はもとより、女性の存在が社会においてどれだけ大切であるかを、強く訴えてきた指導者であられた。
 私との対談のなかで、“戦争の廃絶”という「人類が近い将来に到達しなければならない目標」の一つを達成するために、「最も重要な要素」とされていたのも、「女性の美徳」であった。
 今、崩れざる平和と幸福の世界を築きゆく、広宣流布という大目標の達成にあって、最も重要な、実質的な貢献をなされているのも、健気な婦人部、女子部の皆様方である。
 ちょうど(5月3日に)東京・信濃町の創価女子会館では、女子部歌「青春桜」の歌碑の除幕式が、清々しく行われた。
 今、世界に響き渡る「青春桜」の詩が、昭和53年、第2総東京の立川文化会館で指揮を執るなかで誕生したことも、思い出深き歴史である。
 世界中の「池田華陽会」の溌刺たる連帯を、私は妻と共に、何よりもうれしく見守っている。
 それは美しい、健気な乙女たちの平和への前進だ。文化と平和の使者である、美しき瞳の“華陽会”の方々が、深い愛情と信仰をもって進みゆく尊い姿を、いつの日か人類は、そして歴史は、心から讃嘆しゆくことであろう。
33  さて、トインビー博士が語る「感謝」は、実に、こまやかであられた。
 その対象には、博士が乳母車に乗せられていた幼少のころから、博士の心を大陸や四足獣、また詩人や画家、彫刻家、哲学者、科学者への興味で満たしてくれた施設や博物館も含まれている。
 なお、先の「大三国志展」をはじめ、東京富士美術館にも、多くの青年や少年少女が訪れてくれている。こうした展示が、未来を担う若き友の心の宝となり、糧になれば、私にとってこれ以上の喜びはない。
 また、東京富士美術館の国際性豊かな、質の高い展示の数々に対しては、世界中の方々から、喜びと感銘の声が寄せられていることも報告しておきたい。
34  活字文化を復興
 トインビー博士は、「原文で読むことのできない」イスラム文学や中国文学の古典を教えてくれた翻訳者にも感謝されていた。
 私は、この機会に、あらためて、「創価の鳩摩羅什」と讃えるべき、日本をはじめ、世界各国の最優秀の翻訳陣・通訳陣に心から感謝を捧げたい。
 私が、皆様の大恩を忘れることは、絶対にありません。
 皆様方の心血を注ぐ戦いあればこそ、一閻浮提の広宣流布は、たゆみなく進み、光り輝いていくのだ。
 その大功徳は、計り知れません。その功績は、何ものにも、かえがたいものであります。
35  さらにトインビー博士は、常に大切にし、自身の“伴侶”としてきた「歴史地図」や、「月光に照らされた瀬戸内海」「サンフランシスコの金門橋の彼方に沈む夕日」「中国の万里の長城」の光景を見たことなど、多種多様な物事から受けた恩恵についても記しておられる。
 そして、トルストイの『戦争と平和』や、ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』など、優れた歴史小説については、その「恩恵に感謝の意を表さなかったら、私は恩知らずになるであろう」とまで綴っておられる。
36  活字文化の力は、まことに大きい。
 私は、この活字文化を担い立たれる方々から、真心あふれる顕彰を授与していただいている。
 先日(4月28日)も、縁深き地の立川書籍商協同組合から「活字文化に対する貢献賞」を拝受した。この席をお借りして、重ねて御礼申し上げたい。
 とともに、世界的に活字文化の衰退が憂慮されるなかで、崇高な努力を懸命に続けておられるご関係の皆様方に、心からの尊敬の念を表したい。
37  創立者への思い
 トインビー博士は、学問上の恩人や、研究に建設的な批判を寄せた人々に対しても感謝を語られていた。
 さらに、自身が学んだ学園(名門のパブリックスクール〈私立学校〉であるウィンチェスター校)の創立者に対し、次のような深い感謝を記されている。
 「(創立者である)ウィッカムのウィリアムは私に教育を授けてくれた」
 「(創立者は、私が)奨学生に選ばれる507年前に、私のためにその準備をしてくれたのである」
 「彼の死の485年後に生まれたにもかかわらず、まるで生前の彼に接するかのような熱烈な直接の個人的な感謝と愛情を感じた」
 500年の歳月を経ても、創立者と学生の間には、かくも深く強い絆が生き生きと結ばれているのである。
 私も創立者として、500年先、そして1000年先の未来にあっても、誇りと希望をもって、学生が学び集える学園、大学を築き上げたい。
 そのための総仕上げに、いよいよ力を注いでいく決心である。
 なお、トインビー博士が私との対談集の発刊に際して、誠に丁重な、心温まる序文を寄せてくださったことは、今でも忘れられない。
 〈トインビー博士はこう綴っている。
 「いまここでアーノルド・トインビーは、池田大作に感謝の意を表したい。
 本対談を行うにあたり、池田大作がそのイニシアチブ(主導権)をとってくれたこと、またその後本書の発刊にさいして諸手配をしてくれたことに対してである。
 すなわち、アーノルド・トインビーがすでに旅行を困難と感ずる年齢に達していたとき、池田大作はすすんで訪英の労をとり、わざわざ日本から会いにきてくれた。
 本対談中の彼自身の発言部分についての英訳を手配したのも、本書の全内容を書物形式に編集すべく手を尽くしてくれたのも、すべて池田大作であった。これもまた、大変な仕事であった。
 アーノルド・トインビーは、これらの諸事をその若い双肩に担ってくれた池田大作に対し、心から感謝している」〉
38  「一人」を大切に
 きょうは、教育本部や学術部の代表の皆様も出席されている。いつも、本当にご苦労さまです。
 皆様は、どこまでも生徒や学生に尽くしゆく教育者であっていただきたい。
 生徒や学生が、どれほど鋭敏な心を持っているか。彼らは教師のことをよく見ている。
 先生が、自分たちのことを本当はどう考え、どう思ってくれているのか。若い心は、そのことを鋭く察知している。表面を繕ってみても、すぐに見破られてしまう。
 大事なのは、生徒や学生の成長と幸福を本気になって祈っていくことだ。苦労をいとわず、真剣勝負で行動し、実践していくことだ。
 トーマス・マンは「労苦を知らぬ精神は根なし草、実体なきものであります」(山崎章甫・高橋重臣訳『ゲーテとトルストイ』岩波文庫)と綴った。
 苦労していく中でこそ、自分自身も鍛えられていく。また一歩、大きな人間へと成長することができる。
 苦労の大地に、幸福と勝利の花は、彩り豊かに咲き薫るのである。
 ともあれ、若き友に尽くした真心は、必ず伝わる。たとえ今は結果が出なくても、将来、必ず芽を出し、花開いていく。
 そのことを深く確信し、どこまでも「一人」を大切にする人間教育の模範として、輝いていただきたい。
39  5月3日は、アメリカ創価大学の開学記念日でもある。
 〈2001年の5月3日に開学〉
 この5月2日には、地元のオレンジ郡、アリソビエホ市の名士の方々、近隣の方々も大勢、集われて、インターナショナル・フェスティバルが明るく、にぎやかに行われた。堂々たる「講堂」「新・教室棟」の建設も進んでいる。
 また、創価大学では、2011年の開学40周年を目指して、希望の建設の槌音が力強く響いている。創立の精神のもと、心一つに前進している。
 この春には、新たな玄関口として「創大門」「創大シルクロード」が、そして「総合体育館」が、壮麗に完成した。
 さらに「大教室棟」「タゴール広場」「新総合教育棟」と、人間教育の最高学府としての環境が、一段と整備されていく予定である。
 学生の進路、就職を応援するキャリアセンターも充実してきた。
 通信教育部の大発展にも注目が集まっている。
 創価同窓の友は、一人一人が私の宝の中の宝である。
 すべての関係者の皆様方に、深く感謝するとともに、今後も、ありとあらゆる機会を通して、心からの激励を贈っていくつもりである。
40  教育者ゲーテ
 思えば、ドイツの文豪ゲーテも、ワイマールにおける教育・文化の指導者として力を発揮している。
 自ら発展させてきたイェーナ大学に、充実した施設をつくるため、心を尽くしていった。とともに、教授の陣容にも心を砕いた。
 「たいせつなのは、主として、教師なのだ」(ビーダーマン編、菊池栄一訳『ゲーテ対話録Ⅱ』白水社)と彼は強調している。
 教育は、教育者で決まる。ゲーテ自身も、教育者として学生を激励していった。
 ある時、ゲーテは、体操着を着たまま体操場から出てきたイェーナ大学の学生に、こう語りかけている。
 「私は体操というものを重視している、それは若い身体を強壮新鮮にするだけでなく、たましいと特に勇気と力を与えて軟弱を防ぐ」(同)と。
 そしてその学生に、親のことや、何を学んでいるかについて語りかけ、握手を交わし、「ご勉強に最善の成功を!」と励ました。
 ゲーテは、大学に、もっと幅広い分野の活発な講座をつくるためにも奔走した。
 ある時、ゲーテは知人に「学問のなかには、なんというすばらしい世界がひらけていることだろう」(同)と語っている。
 学問の喜びを、真剣な探究が開く素晴らしい世界を、青年に伝えたい。思う存分、若い精神を耕し、学びの青春を謳歌してもらいたい。これがゲーテの願いであったにちがいない。私も同じである。
41  傲慢を許すな
 その一方で、ゲーテは述べた。
 「何か意味深いものがあらわれると、すぐそれに対立して、反対が起るのだ」(ビーダーマン編、国松孝二訳『ゲーテ対話録Ⅲ』白水社)
 彼が大学の発展のために努力すると、抵抗する教授も出てきた。
 ゲーテは、大学を改善するために知恵をしぼり、戦っている。
 教師が進歩しなければ、大学が頽廃する。そう見抜き、行動するゲーテであった。
 経済学の父アダム・スミスも、大学のために尽くした一人であった。私が名誉博士号を拝受した、英国の名門グラスゴー大学の総長を務めている。
 アダム・スミスは、大学を貶め、大学の不敗の原因となる教員の悪を許さなかった。
 彼と親しかったある教授が、自分勝手に振るまい、大学の決定を守らないことがあった。大学が傲慢なその教授を辞任させたとき、アダム・スミスは大学の側に立っている。
 スミスは、“教授陣に自立する心がなければ、外部から不当な介入を招いてしまし、大学の自治を守れない”と考えていた。(浜林正夫・鈴木亮著『アダム・スミス』清水書院を参照〉
 「貴大学の有益な一員になることを、私の一番の努力目標にいたします」(I・S・ロス著、篠原久・只腰親和・松原慶子訳『アダム・スミス伝』シュプリンガー・フェアラーク東京)──これが、母校グラスゴー大学の教員としての、アダム・スミスの誓いであった。
42  師弟の魂を胸に
 人間の世界には、感情もある。利害もある。厳しき宿命も襲いかかる。
 しかし、日々、突き当たる今の試練を乗り越えるなかにこそ、常勝の幸福のスクラムが堂々と築かれるのだ。
 わが使命を、誓いを、原点を、忘れない人は強い。屈しない。
 16世紀フランスの思想家モンテーニュは綴っている。
 「確固たる目的をもたない精神は自分を失う」(原二郎訳『エセー』岩波文庫)と。
 人間が、野蛮な動物としてではなく、人間らしく生きるためには、何らかの目的が必要である。
 一人一人が、わが人生の目的を見出すために、真の教育があるのだ。
 牧口先生も、戸田先生も、偉大な教育者だった。
 大いなる理想へ進む戸田先生に仕えた私には、いわゆる華やかな青春時代はなかった。しかし、苦境のなか、誉れの「戸田大学」に学んだ。きょうまで真っ直ぐに生きて、師弟の魂を護り、宣揚してきた。ゆえに、何の悔いもない。
43  3月16日、私は創価学園で、南米の名門ボリビア・アキーノ大学から、名誉博士号を拝受した。
 同大学のサアベドラ総長は、学生に対してこう強調されている。
 「他者に貢献するという思想のもとに、自分自身の人生を展望していただきたい」
 「時代の変革がスピードアップした社会にあって、常に新たな知識を吸収すべきです」
 変化の激しい現代社会は、“智慧の戦い”の場である。
 すばやく学び、価値を創造できる智慧のある者が勝つ。
 青年時代は、その基盤をつくる大切な時期である。
 私は、混迷する社会に大きく貢献する、英知の人材を育てたい。
 激動の社会で厳然と勝利していく、進取の気性を持つ、強いリーダーを送り出したい。
44  「心の中の宝は奪えない」
 総長は高名な地質学者でもあられる。ボリビアの大地に秘められた、豊かな「宝」の資源の開発に貢献されてきた。
 今から200年前の英国──「地質学の父」ウィリアム・スミスは、14年もの歳月をかけ、何万㌔もの距離を歩いて調査し、「イングランドとウェールズの完全な地質図」を、初めてつくりあげた。調べた土地の広さは、実に10万平方㌔を超える。まさに偉業であった。
 ところが、身分の高いエセ学者が、スミスの業績を乗っ取ったのである。
 スミスの人生は嫉妬の迫害、苦難の連続であった。しかし、歴史は、彼の研究の正しさを証明した。
 「地質学の父」は、ある時、毅然と綴っている。「コレクションは失われ、本や資料は散逸し、全財産は没収された。それでも、心の中にあるものは奪えない」(サイモン・ウィンチェスター著、野中邦子訳『世界を変えた地図 ウィリアム・スミスと地質学の誕生』早川書房)
 尊き不滅の叫びである。いかなる迫害も、心の宝を奪うことはできない。
 わが教育本部の皆さんは、一生懸命、教え子に尽くすことだ。そして、一人一人を人生の勝利者へと育ててほしい。
 若き心に、一生涯、消えることのない「心の宝」「精神の宝」「知性の宝」を鍛え上げることが、人間教育の一つの真髄であるからだ。
 また、そうやって尽くした人自身の境涯が偉大になる。その人が人生で勝つ。策や要領の人は、最後は駄目になってしまうものだ。
45  「自ら学ぶ力」が人生勝利の土台
 ボリビア・アキーノ大学の名は、13世紀ヨーロッパ最大の哲学者として有名な、トマス・アクィナスに由来し、その哲学を大学の理念として掲げておられる。
 大学の紋章には、哲学書を読むトマスの肖像が描かれている。
 トマスは指摘する。
 「教えるものは既知の事柄から未知の事柄へと進むことによって、学ぶものが自分自身で見出して知識を獲得する仕方で知識へと導くのである」(水田英実訳「知性の単一性について」、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成14』所収、平凡社)
 創価教育の創始者・牧口先生も強調された。
 「(教育は)知識の切売や注入ではない。自分の力で知識する(=知識を得る)ことの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ」
 現代は、生涯学習の時代だ。青春時代に、自ら学ぶ力を養うことが、生涯学び続け、人生を勝利していく土台となる。
46  卑劣な嘘で社会は衰亡
 さらに、トマスは述べている。
 「人間は真実なしには社会において生きることができないように、そのようにまた悦びなしにも社会において生きることはできない」(稲垣良典訳『神学大全第20冊』創文社)
 「もし或る者が嘘言によって他者を害することを意図したならば、嘘言の罪過は重大化されるのであって、これが『邪悪な』嘘言と呼ばれる」(同)
 人を貶め、傷つける悪意の嘘を打ち破り、真実を打ち立てるのが真の知性である。
 卑劣な嘘が“毒”を撒き散らし、良心を麻痺させれば、社会は衰亡する。
 真実が勝利する社会は、信頼が広がり、平和となって栄える。
 わが創価学園、創価大学を訪問してくださったサアベドラ総長は、創価の人間主義に心からの共感を寄せ、語ってくださった。
 「平和構築における最も優れた道は、まさに教育の道です。
 大学は、幅広く教育を普及し、国内外において平和のための文化を伝播させる大きな使命があります」
 まったくその通りであると、私の胸に深く響いた。真の知性の闘士を薫陶することが、大学の責務である。学術部の使命である。
47  立つ時は今!
 このたび、アメリカのアラバマ州バーミングハム市より、SGI(創価学会インタナショナル)の、人権を護る正義の闘争を讃えて、意義深き顕彰が贈られた。
 バーミングハム市といえば、公民権運動の指導者キング博士が、青年とともに戦い、歴史的な勝利を勝ち取った人権闘争の象徴の地として、あまりにも有名である。
 そのバーミングハム市の市議会が、キング博士の非暴力闘争と、創価の三代にわたる人権闘争に敬意を表し、4月16日から24日までを、「全人類のための創価の正義」慶讃期間とする、と宣言してくださったのである。
 顕彰状には、キング博士が同市で逮捕され、牢獄から送った、名高い手紙の一節が紹介されている。
 それは「ある場所の不正義は、あらゆる場所の正義にとっての脅威である」(梶原寿著『マーティン・L・キング』清水書院)という、強い強い信念の叫びであった。
 悪は絶対に放置してはならないことを、キング博士は誰よりも知悉していた。一つの悪を、リーダーが真剣勝負で徹底して打ち破ることが、全軍の大きな勝利につながっていくのである。
 博士は、その断固たる信念をもって、人種差別の激しいバーミングハムの街に乗り込み、闘いを開始した。
 今から46年前のことである。
48  全米を動かした青年たちの闘争
 やがてキング博士は投獄された。しかし、博士の叫びに呼応した青年たちが先頭に立ち、敢然と闘いを続けていった。
 その闘争が熾烈を極めたのが、同年の5月3日から5日にかけて行われたデモ行進であったといわれる。
 しかし、青年たちは怯まなかった。あくまでも非暴力の信念を貫いた。
 苛酷な弾圧の模様が各種メディアによって報道されると、反響は全米に広がり、やがて大きな波動となって政府をも動かしていった。
 闘争が最も厳しい場所での、庶民の一歩、一歩の前進。そして勇気ある一声、一声の叫び。民衆の行動が、巨大な不正義の壁を、ついに乗り越えていったのである。
 キング博士は語っている。
 「正義というゴールへのステップは、どれも犠牲や苦悩や闘争がつきものである。
 つまり、献身的な個人の、疲れをいとわぬ骨折りや熱意が不可欠である」(C・S・キング編、梶原寿・石井美恵子訳『キング牧師の言葉』日本基督教団出版局)
 今、このバーミングハムの天地でも、多くのSGIの友が、平和のために、そして価値ある人生のために、生き生きと活躍しておられる。
 地域に大きな信頼と友情の光を広げるなかで、SGIへの深い理解と共感が寄せられ、今回の輝かしい顕彰となったのである。
 世界の各地から相次いで寄せられる顕彰は、すべて、世界広布の偉大な前進の象徴であり、それぞれの地域の目覚ましい発展の証しである。
 “良き市民として、良き国民として、地域に貢献し活躍される全世界の同志の皆様方、万歳!”と、大声で、私は叫びたい。
49  正義の人には、嵐が起こる。しかし、心は晴れやかだ。
 フランスの文豪ユゴーは、権力者を糾弾し、亡命を余儀なくされた。信念の論陣を張った息子たちも、相次いで投獄された。
 追放された年の暮れ、ユゴーは妻への手紙に、こう記した。
 「私達にとって苦難の年であった今年も、今日で終わりだ。二人の息子は牢獄にいるし、私は流刑の身だ。
 辛かったけど、しかし、よかったよ。
 少し霜が降ったほうが収穫もよくなるものだ。なぜなら歓喜は、苦悩の大木に実る果実だよ」
 この気概! この確信! この不屈の心で、ユゴーは生き抜いた。
 亡命は19年にも及んだ。49歳から68歳までの間、一度も祖国に帰ることはなかった。
 振り返れば、創価の師弟も、権力の悪と戦い、正義を貫いた。私自身、無実の罪で牢に入れられ、法廷でも闘い抜いた。
 「勝負は裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ」──戸田先生が遺言された通り、私は無罪を勝ち取った。
 歴史上、多くの正義の闘士が迫害されてきた。それを思えば、今は恵まれている。環境に甘えて、いい気になったら、とんでもないことだ。革命児の気概を、絶対に失ってはならない。
 亡命先でなお、創造の炎を燃え上がらせたユゴーのことく、不屈の師弟の勝利の劇を、晴れ晴れと綴ってまいりたい。
50  真の人間になれ
 現在、私は、キング博士の盟友としてアメリカの公民権運動をともに闘った、著名な歴史学者のビンセント・ハーディング博士と対談を進めている。
 キング博士の思い出や秘話をはじめ、幅広いテーマで語り合っていく予定である。
 博士は、語らいのなかで、社会に貢献する人間のあり方についても述べておられた。
 「私たちは、人間に生まれたというだけで、真の人間になれるわけではありません。人間となることを目指し続けてこそ、真の人間となれるのです。
 そのために大切なのは、人のために貢献し続けることなのです」と。まさに、その通りである。
 世界の中で生きる自分を見つめ、行動しながら思索し、思索しながら行動するのだ。
 スペインの哲学者オルテガは、「人間の運命は、まずもって行動である」と述べている(佐々木孝、A・マタイス訳『オルテガ著作集5』白水社)。
 人々の幸福を願い、貢献しゆく創価の人生は、最も崇高な実像がある。人間として最高に満足で、充実した人生の正道なのである。
51  原点に立ち返れ
 ハーディング博士は、とりわけ、宗教の重要性を強調しておられた。
 宗教のあり方について、次のようにも述べられている。
 「私たちが、宗教を正しく実践するためには、常に、その原点に立ち返ることが不可欠です」と。そして、その原点とは、「始祖の振る舞い」にあるとおっしゃっていた。
 私たちにとって、根源の始祖とは、日蓮大聖人であり、師子王のその御姿こそ、永遠の原点である。
 また大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せである。宗教の真の価値──それは、人間の行動によって輝きわたるのである。
 さらに博士は、こうも語っておられた。
 「信仰は、人と人の間、社会の中にこそ、伝えられていくものです。そして、その信仰が、果たして、人間の中で、また社会の中で、力を発揮しているかどうかを、私たちは常に問いかけていく勇気を持たなければなりません」
 全くその通りだ。
 宗教は、人間の幸福のためにある。
 ゆえに、その宗教をもつことが、人間を強くするのか、弱くするのか、善くするのか悪くするのか、さらには、賢くするのか愚かにするのかを、検証していかねばならないであろう。
 〈博士は、こうも述べている。
 「池田SGI会長は、私たちに、一切の差異を乗り越え、平和と共感は築けるのだ、ということを身をもって示してくださっております。そのSGI会長の指導力によって、創価学会は堅固な砦を築かれました。しかしその砦は、他を寄せつけない“孤塁”ではなく、世界へと平和を広げていく“跳躍台”なのだ、との感銘を深くしております」「SGIのような正義と真実のために戦う、世界の人々の善意を今こそ結集すべきです」〉
 ここで、キング博士の不滅の言葉を、わが友に贈りたい。
 「われわれはすべての行動において団結しなければならない」
 「いま最も必要なことは団結です。もしわれわれが団結するならば、われわれは単に望んでいるものだけでなく、正当に受けるべきものをも多く獲得することができます」(ともにクレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』日本基督教団出版局)
52  「勇者は、必ず敵に打ち勝つ」
 「師弟不二」の道は、あまりにも峻厳である。
 日蓮大聖人が御入滅された弘安5年(1282年)のその時、日興上人は数えで37歳。
 それから、実に50年以上にわたって、日興上人は、後継の広宣流布の指揮を執り続けていかれた。
 ただ一人、師匠の正義を、護って護って護り抜かれた生涯であられた。
 本来であれば、大聖人が「本弟子」として定められた「六老僧」の仲間が、日興上人を支え、お護りしなければならなかった。
 しかし、彼らは「本弟子」の座から転落していった。人間の心はわからない。
 彼らは、権力に屈して「天台沙門(天台の一門)」と名乗って、天台宗の祈祷を行ってしまったのである。
 そこには、「日蓮が如く」との魂は、全く感じられなかった。
 その重大な違背は、一つには、弘安8年(1285年)──大聖人の滅後、わずか4年目のことであった。
 日興上人は、そうした実態を、後にこう記されている。
 「日蓮大聖人の御弟子六人の中で、五人は一同に、大聖人の御名前を改めて天台の弟子と号し、自らの住坊を破却されようとする時、天台宗を行じて祈祷をするという申状を捧げることによって、破却の難を免れたのである」
 難を逃れるために、「日蓮大聖人の弟子」との誇りある名乗りを捨て去ったのである。
 その濁流に抗して、日興上人は、決然と、一人立たれた。
 ただただ、師匠の戦われた如くに戦う。それが日興上人の心情であられた。
 日興上人の諫暁の書である「申状」を開いても、大聖人の御諫暁と全く変わらない。
 例えば、大聖人滅後8年目にあたる正応2年(12389年)には、武家への申状を認められている。
 大聖人の滅後の世相は、3度目の蒙古襲来におびえ、国内は乱れ、世情も不安定であった。
 日興上人は、“今の状況は、全く師匠である日蓮大聖人が予言された「立正安国論」の通りではないか。本来であれば、国を挙げて、わが師匠である日蓮大聖人を賞すべきではないか”と叫ばれたのである。〈「今国体を見るに併せて彼の勘文に符合す争か之を賞せられざらんや」〉
 この堂々たる師子吼こそが、弟子の実践の真髄である。
 どこまでも、どこまでも、命を賭して、師匠を宣揚せんとの魂が脈打っておられる。
 「日蓮聖人の弟子日興重ねて申す」──日興上人は、威風も堂々と、「私は日蓮大聖人の弟子である」との一点から諫暁を重ねておられた。
 “伝教大師が弘めた法華経は迹門であり、先師・大聖人の弘めた法華経は本門である”と、師匠の正法正義を、一点の曇りもなく、訴え抜いていかれたのである。
 「天台沙門」などと名乗る五老僧との相違は、あまりにも明らかであった。
 たとえ師が偉大であっても、その精神を継ぐ真正の弟子がいなければ、結局、何も残らない。
 半世紀にわたって、大聖人と同じ心で戦い抜かれた日興上人の大闘争のゆえに、「師弟不二の大道」が万年の未来へ厳然と開かれたのである。
 この大聖人と日興上人に連なる、創価の三代の師弟もまた、師の偉大さ、師の正義を、叫んで叫んで叫び抜いてきた。
 ここに、創価の永遠の栄光があることを知らねばならない。
 中央アジア・カザフ民族の英知の格言に、こうあった。
53  人材の城を築け
 「関八州がしっかりしてあれば、日本国は安泰であろう」とは、山岡荘八氏の小説『徳川家康』(講談社)の一節である。
 氏は、私が戸田先生のもとで編集長を務めた少年誌『少年日本』にも原稿を執筆してくださった。世田谷区若林の自宅へうかがったことを思い出す。
 当時、同じ世田谷の詩人・西條八十氏の成城のお宅にも足を運んだことが懐かしい。
 ともあれ、本陣である東京、関東、東海道、信越──拡大首都圏が一体となって盤石であることこそ、広宣流布の前進の要だ。
 そしてまた、山岡荘八氏の小説には、「新しい時代は若者で{創}(はじ)めるがよい」とあった(『柳生宗矩』講談社)。
 私も青年に、新しい創価の勝利の時代を託したい。
 さらに氏は、「隙を作るな、隙こそ破れの{基}(もとい)と知れ」「人と人との砦をしっかり固めておかねばならぬ」(同)とも綴っている。
 人材こそ城である。同志の絆こそ大城である。わが地域をがっちりと固め、全国の同志のスクラムを一段と強めていくことだ。
54  城といえば、江戸城は、「近世築城法の始祖」と仰がれた武将・太田道灌({資長}(すけなが))が中心となって築かれたとされる。
 地勢を生かした江戸城は、攻守ともに優れていたという。
 たとえ敵に攻められても、二重、三重の守りで防ぎ、反撃に転じられる備えがあったと推定されている。
 ただし道灌は、守城の戦いはしなかった。むしろ、打って出た。
 攻撃精神、反撃精神ありてこそ、城は難攻不落となる。
 戦野を駆ける道灌の騎馬像が、懐かしき東京・荒川区の日暮里駅前に立っている。
 関八州を舞台として走りに走り、戦って戦って戦い抜いた。30回以上の合戦に、勝って勝って勝ちまくった。
 その常勝の強さは、どこからきたのか。
 さまざまな点から研究されている。
 自らが先頭に立ち、各地の戦乱を治めた道灌は、名将中の名将と讃えられた。
 多くの場合、要の江戸城は信頼する者に託し、将たる自分は、最も困難な最前線に飛び込んで戦った。
 広宣流布の方程式も同じである。
 その通りに、三代の師弟が先頭に立って戦い抜いたからこそ、今日の勝利があることを、確信をもって申し上げておきたい。
 戸田先生は常々、中心者が大事であると言明されていた。
 そして、「三代で決まる。三代が大事だ」「第三代会長を守れば、広宣流布は必ずできる」と語られた。戸田先生の遺言である。
 その言葉のままに、私は、同志とともに、完壁なる世界広布の基盤を築き上げたのである。
55  道灌の強さの秘訣は、電光石火のスピードにもあった。
 時を待ち、機が熟したと見るや、たたみかけるように攻めて攻め抜いた。鍛えに鍛えた精鋭の勢いある機動力が、戦を決した。
 そして道灌は「最前線の心を知る」名将でもあった。絶妙な言葉をもって、最前線の味方を激励し、勇気と力を引き出すことができたと伝えられている。
 いずれも、勝利に不可欠の要件といってよい。〈太田道灌については編集部でまとめる際、前島康彦著『太田道灌』太田道灌公事績顕彰会、勝守すみ著『太田道灌』人物往来社、小泉功著『太田道真と道灌』幹書房等を参照した〉
56  わが激戦の心に勝利の青空を!
 結びに、童話王アンデルセンの言葉を重ねて贈りたい。
 「自分の値打ちがわかっていれば、どんな嵐にもめげずに胸を張っていられるんだよ」(デンマーク王立国語国文学会編集・鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集1』東京書籍)
 わが同志は、偉大なる妙法のために行動する、世界第一の尊き方々である。その最高の誇りをもって、強気で戦い抜くことだ。
 さらに──
 「精神の富には祝福が宿っており、人に分かち与えることができればできるほど豊かなものに膨らんでゆく」(『同全集9』)
 喜びや感動を友に語れば語るほど、わが精神も豊かになる。生命が不滅の福運に包まれることは間違いない。
 そして──
 「信仰の清らかな光は太陽のようなものだ。暗黒の日々を経て、ついには暗闇を突き破って輝き、そのとき暗雲は消え去ってしまうんだ!」(同)
 太陽の仏法は、無敵の兵法である。
 苦難の闇、邪悪の暗黒を打ち破れないわけがない。
 敬愛する同志の皆様に、和歌を贈りたい。
  天も晴れ
    心も躍る
      創価の日
    元初の誓いは
      いやまし光りぬ
  わが友が
    嵐を越えて
      むかえたる
    五月三日の
      晴れの姿よ
  勝ちにけり
    断固と我らは
      勝ちにけり
    万歳 叫ばむ
      仏の生命いのち
 わが激戦の心に「5月の勝利の青空」を晴れ晴れと広げ、一段と全同志が健康の生命を輝かせてまいりたい。
 そして明年、創立80周年の「5月3日」へ向かって、朗らかに、勇気凛々と、異体同心の大前進を決意し合って、記念のスピーチとしたい。
 また、元気にお会いしよう!

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