Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新時代第27回本部幹部会 第33回SGI総会、全国青年部幹部会、壮年部幹部会

2009.3.4 スピーチ(聖教新聞2009年下)

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2  勝利の歌を!
 きょうは、ヨーロッパの友も参加している。
 19世紀のフランスの音楽家グノーが作曲した歌には、次のような一節がある。
 「冬去りしあとに 春は微笑みて」
 「野に山に きこゆるは が歌よ」
 「幸福は 春と共に来らん!」(『世界大音楽全集フランス歌曲集』所収、ジュル・バルビエ作詩・古沢淑子訳、音楽之友社)
 私たちも、学会歌を毎日のように歌っている。歌声を響かせながら前進を続けている。
 歌を歌っている人は幸せだ。歌を朗らかに歌える人は、すでに勝っているともいえる。
 歌おう! 勇気と希望の歌を!
 勤行で読む経典も、いうなれば“詩”である。“永遠の詩”だ。「爾時世尊。従三昧」──経典にも、リズムがある。そう述べていた哲学者もいる。
 デンマークのメンバーは、おられるだろうか?〈デンマークの友が立ち上がり、盛大な拍手に包まれた〉
 デンマークの民衆教育の父・グルントヴィは述べている。
 「いつも私は歌う、私の心のなかにあるものを/心にたたかいがあるから、たたかいは私の歌」(ハル・コック著、小池直人訳『グルントヴィ――デンマーク・ナショナリズムとその止揚』風媒社)
 グルントヴィといえば、世界的に有名な大教育者である。
 この言葉は、学会精神とも深く響き合っているように思えてならない。
3  尊き求道の炎
 ともあれ、世界の60カ国・地域から集われた偉大な広宣流布の指導者の皆さん! 遠路はるばると、本当にご苦労さま!
 仕事もある。さまざまな状況もある。そうしたなかを求道心に燃えて、研修に参加する。日本に来る。大変な仏道修行である。
 私は、皆様こそ、広宣流布を進めゆく「仏」に等しい方々だと申し上げたい。
 ある青年部の友が、「この60カ国の『6』という数字について、仏典では『具足』という意義が示されていますね」と語っていた。
 「そうだね」と私は言った。
 また、「この研修会自体が、世界広布の尊き縮図であり、結晶ですね」と述べていた。その通りと思う。
 本当に立派だ。勇者の集いだ。信心の志において、日本の皆さんも負けてはいけない。
 また、きょうは、わが芸術部の皆さん、大変にありがとう!
 皆さんにお会いできて、本当にうれしい。芸術部の友の活躍は、同志の誇りだ。
 大切な方々である。権力者よりも偉大な、最高の使命と力をもっている。皆で励まし、宣揚し、心から応援をしてまいりたい。
4  伸びゆく人材
 きょうは後継の青年部の幹部会でもある。今、堂々と青年が育ち、堅固な地盤を築いている。立派な人材が、陸続と生い立ち、巣立っている。見事な勝利の姿である。
 学会の未来は、洋々と開けている。将来が明確に見えできた。本当にありがたいことだ。
 女子部の池田華陽会も、世界に広がっている。〈会場から「ありがとうございます!」との声〉
 女子部の笑顔と声は実にさわやかだ。
 また、広宣流布と社会の「黄金柱」である壮年部の皆さん、ご苦労さま!
 壮年部が、一番大事な存在である。
 〈ここで壮年部の参加者が立ち上がった〉
 皆さん、若い。素晴らしい。
 今、日本の国では青年が少なくなってきている。「壮年部」即「青年部」──それぐらいの心意気で進むことだ。
 この点を先取りし、若々しい気概に燃える人は、勝っていける。団体も、国も、青年の心で勝利していける。
 「何歳?」と聞かれたら、30歳を引いて答えるぐらいでもいい。
 ただし、女性の皆様は年齢にだまされないよう、気をつけてください(爆笑)。
5  アフリカの世紀
 今回は、アフリカのガボン共和国から、SGI(創価学会インタナショナル)の尊き同志が、初めて研修に参加された。
 ガボンの連絡責任者のクリスチャン=ディディエ・ムイティさんは、最高学府である国立オマール・ボンゴ大学の教授、教務部長を務めておられる。
 ようこそ!
 ガボンは、赤道直下の太陽輝く、未来性あふれる天地である。
 実は、私が対談集を発刊した大科学者ポーリング博士も、今からちょうど50年前の1959年(昭和34年)、ご夫妻でガボンを訪問されている。対談でも、その思い出を語っておられた。
 ガボンの国章には「団結」「労働」「正義」と記されている。
 また「団結して前進しよう」という言葉も書かれている。
 ガボンの繁栄、そして「アフリカの世紀」の栄光と勝利を、私たちは祈り、応援してまいりたい。
6  師の魂を世界へ
 さて、南米ブラジルの天文学者モウラン博士と私が進めてきた、天文学と仏法をめぐる対談集が、今春、発刊の予定である。
 西洋では、師ソクラテスの魂を継いだ弟子プラトンに源を発する哲学が、大きな流れとなってきた。
 私は、戸田先生の真実の弟子として、仏法の人間主義を現代に展開しながら、語りに語り、書きに書いてきたつもりである。
 〈『池田大作全集』は全150巻の予定。またSGI会長の人間主義を研究する機関が中国をはじめ世界各地に生まれている〉
7  今、太陽の仏法が広がっているのは、192の国と地域。世界の果てまで広宣の旗が翻っている。
 戸田先生の時代は、日本が舞台であった。
 しかし私は、日蓮大聖人の御遺命たる世界広布を「必ず成し遂げてみせる」と固く誓った。戸田先生も、「大作だったら、絶対に実現してくれる」と信じてくださった。
 先生は、何かあると「大作、大作」と私を呼ばれた。広布の歴史を「大きく作る」戦いを託された。
 当時、なかなか弘教が進まず、「このままでは、広宣流布は5万年もかかってしまう」と先生は嘆かれた。
 蒲田でも文京でも、私が折伏の突破口を開いた。勇壮な行進曲が響くように、勝利、勝利の前進を続けた。
 「大阪の戦い」では“まさかが実現”の逆転勝利。晩年の戸田先生は「これで歴史を残すことができた。みんな君のおかげだ」と喜んでくださった。
 権威を振りかざす坊主がいた。増上慢の幹部もいた。軍部に投獄された師は、体を痛めつけられていた。
 そのなかで、20代の私が、広宣流布の大指導者たる師の活路を開いた。そして、絢爛たる創価の新時代を築いていったのである。
 「おれは、いい弟子をもった」「大作、信じられるのは、お前一人だ」──恩師の声が、今も胸に響く。
 真実の弟子の戦いは、だれが見ていなくとも、御本尊がほめてくださると確信する。
8  心の壁を超えて
 ブラジルのモウラン博士は、対談集の刊行に際して、先日、「あとがき」を寄せてくださった。
 そこには、「この対談集の発刊は何よりも待ち遠しかった。私の人生における至宝である」と記されていた。
 博士は、このようにも書いておられる。
 「(池田SGI会長は)行動するリーダーとして、世界192カ国・地域にSGIを広げ、平和・文化・教育という同じ理念を共有する会員の卓越したネットワークを築きあげた。
 師匠に続いて、彼らはこの“三本柱”をさらに広げ、あらゆる信条や宗教の壁を乗り越える人類の“哲学的なバックボーン”とするべく、健闘している」
 私のことはさておき、全世界の同志に敬意を表しつつ、期待と評価の声を後世に残すために、ご紹介させていただく。
 〈モウラン博士は、こうも記している。
 「池田大作先生とSGI、そして会員の皆様のおかげで、私は、『一人』の人間の心が秘める偉大な価値を改めて確認し、確信した。
 人間の生命に脈打つ途轍もない愛情と価値観、そして“善”を創造し、また蘇生させるすばらしい可能性を今一度、痛感することができた」
 また2005年の訪日を振り返り、「同氏(SGI会長)並びに親切さそのものである香峯子夫人と、直接お会いした。まさに、宇宙とその惑星が、“人間に味方して与える魔法の瞬間”を味わった」と綴っている〉
9  若き君達に託す
 現在、私は、アメリカの教育哲学をリードしてきた、ジョン・デューイ協会のガリソン会長との対談を進めている。
 ガリソン会長は、恩師・戸田先生が青年に未来を託した記念の日「3・16」の意義について、次のように述べておられた。
 「戸田会長は、青年こそが、創価学会を永遠ならしめる“カギ”であることを知っておられました」
 きょうは、この点を申し上げたかった。広宣流布を進めるのは青年である。青年に託す以外にないし、青年にしか成し遂げられない。老いた心になってはならない。
 今、もう一回、私は青年に的を絞り、光を当てている。
 青年のために、正義と真実を語り残したいのだ。
 今まで学会を襲った、数多くの破和合僧の動きにも、峻厳なまでの現証が出ている。これが「仏法」であり、「勝負」である。「私どもは、すべてに勝った」と申し上げたい。
 ガリソン会長の言を続けたい。
 「3・16は、戸田会長の、青年のような気概と、そこに集った、若き日の池田博士をはじめ、青年たちの“心”が出あうことで、永遠なるものが生み出された儀式だったといえるのではないでしょうか」
 実によく見てくださっている。
 私は、それはそれは、戸田先生にお仕えした。言語に絶する苦労もあった。しかし、歴史上、かつてないほど師匠を護り、仕え抜こう──そう覚悟して戦った。だからこそ学会は、いかなる難があろうと、諸天善神によって護られてきたのである。
 師を軽んじ、学会を軽んずる。要するに、信心がない──それが退転者の本質であった。
 〈ガリソン博士は、さらに次のように語っている。
 「私は、池田博士の姿のなかに、瞬間、瞬間を、師とともに生き抜かれる真実を目の当たりにして、深く感動しました。
 瞬間、瞬間を、最大に生き尽くした人の精神は、永遠に、人々の心に生き続けるものです」
 「池田博士のリーダーシップのもと、SGIは、各国の習慣を広く受け入れながら、仏法の『随方毘尼』の法理を、世界において実践してこられました。
 異なるものと交流することで、個人も団体も、自らの可能性を大きく開いていくものです。その意味で、SGIは、その可能性をどこまでも開いていくでしょう」〉
10  20数回に及んだ「紅の歌」の推敲
 青年部の愛唱歌の一つに、「紅の歌」がある。ここで、皆で歌うことを提案したいが、どうだろうか。
 〈創価グロリア吹奏楽団の演奏で、男子部の参加者を中心に「紅の歌」の1番を合唱した〉
 素晴らしい歌をありがとう。
 先日も、ある有名な社会的指導者がこの「紅の歌」を聞き、“すごい歌だ。感銘を受けた”“これまで学会のことをさまざまな角度から知ってきたが、この歌一つで、また、ほれぼれしました”と語っておられたそうだ。
 「紅の歌」が生まれたのは、28年前(1981年=昭和56年)の秋である。
 歌があるところは、発展する。歌を歌うところは、行進する勢いも強い。行動も早い。戦いに勝っていける。
 明るく力強い歌声のない世界は、いつか衰退していくものであろう。
 ともあれ、「紅の歌」の誕生は、私が「桂冠詩人」の称号を拝受した年でもある。
 〈1981年、世界詩人会議を主宰する世界芸術文化アカデミーから、SGI会長に「桂冠詩人」の称号が贈られた〉
11  この年の11月、満月の美しい夜であった。今でも覚えている。
 私は、香川・庵治あじの四国研修道場にいた。そこへ、青年部の代表が集まってくれた。
 皆さんは、庵治の研修道場をご存じだろうか。
 〈四国からの参加者が「ハイ!」と応え、感謝の意を述べた〉
 四国の同志の皆さんに、よろしくお伝えください。
 あの夜、私は青年部の代表と懇談した。彼らは“先生、新しい歌を作りたいのです!”と、徹夜で作成した歌詞の案を携えていた。
 四国は“詩国しこく”──詩人の国である。言葉は、智慧があれば、いくらでも出てくるものだ。
 彼らと語りながら、「ああ、学会の青年はいいな!」と思ったことを、今も忘れない。
 それは、邪悪の輩に対する反転攻勢の闘魂を燃やして、作ってくれた歌詞だった。
 徹夜明けで、目を赤くした彼らを前に、歌詞を一読して、「あまり、上手ではない」などとは、決して言わなかった(爆笑)。
 私は「わかった。君たちのために手伝うよ」と、一緒に推敲に取りかかった。
 激励行の各地で、数日間にわたり、四国を離れる直前まで、20数回に及ぶ真剣勝負の推敲を重ねた。
 その末に、現在、あらゆる天地で歌われている「紅の歌」ができ上がったのである。
 もともとのタイトルは「黎明の歌」だった。それを「紅の歌」に改あた。
 冒頭の一行も、原案では「ああ黎明の時来る」であった。この“黎明”という言葉は、頻繁に使われてきた。そこで、最終的には「ああ紅の朝明けて」と変えた。
 ちょっとした、細かいところが大事である。たとえば、会合での「指導」の内容であれ、人に語りかける「声」であれ、何であれ、ちょっとした心づかいによって、よりよいものに変わる。
 人間は、大抵の場合、そんなに極端な違いや、力量の差があるわけではない。しかし、「心」一つで、その人が変わっていく場合がある。「心」こそ、不思議なるものだ。
12  「毀誉褒貶の人降し」
13  また、「紅の歌」の原案には、「毀誉褒貶の人あるも」とあった。この歌詞のままだと、毀誉褒貶──世間の評判に左右される人々を、一面、肯定してしまうことになる。
 そこで、「毀誉褒貶の人降し」と強めて、そうした存在と戦い、諫めていく心を、歌詞に託した。
 一語一語、一行一行を検討しながら、皆に“戦う魂”を伝えていった。
 それは、大変な作業である。もちろん、月謝は出ない(爆笑)。逆に、皆に食事をふるまってあげながら、推敲を進めた。
 作曲においても、「ああ紅の……」と私が口ずさんだ旋律を、そばにいた四国音楽隊の友が五線譜に書き留め、再現してくださった。その個所を出だしとして、曲ができ上がっていった。
 まさに「紅の歌」は、私と青年部が師弟不二の心で創った“正義の歌”であり、ゆえに、歌に不滅の命が宿っていると確信している。
14  広宣流布こそ、世界平和への根本の大道である。
 それを成し遂げゆく創価学会を護ってくださる、尊い皆様方のことを、私は、絶対に、永遠に忘れない。
 きょうは、男子部の「牙城会」の方は、いますか?
 今まで「牙城会」で頑張られた方は?
 〈会場から「ハイ」と元気な声があがり、多くの友が立った〉
 本当に牙城会は、よくやってくれている。
 また、よくやってこられた。
 壮年部の「王城会」も、同じく「会館厳護」「学会厳護」の任に当たってくださっている。
 一番、陰の立場で、誇り高く、使命を果たしておられる。
 ありがとう!
 牙城会があったから、学会は護られた。増上慢の幹部が護ったのではない。牙城会である。皆様の労苦を、私は、よく知っているつもりだ。
 どんなことも、爪の先ほどまでも、私は全部、心を配ってきた。
 何を聞いても、見ても、その本質を見抜いて勝利への手を打ち、価値を創造していけなければ、世界広布の指導者にはなれない。
 ゆえに、戸田先生の訓練は厳しかった。
 一人一人の身だしなみや髪の乱れなど、細かなところまで見ておられた。時には雷鳴のごとき叱責が飛んだ。恐れをなして、離れていく弟子もいた。
 「去る者は去れ! 臆病者など、役に立たぬ。本物の弟子が一人いればいいんだ。そこから、何千、何万、何百万もの人材が出てくるのだ」
 これが先生の確信であった。真の弟子は一人立った。学会には今、数多くの若き人材群が躍り出ている。
15  厳護の旗高く
 昭和46年(1971年)1月のことである。当時、「会館警備」などと呼ばれていた各地のグループを、全国の組織として結成することになり、男子部のリーダーが相談に来た。
 私は、「広宣流布の牙城を守る人材育成の組織だから、『牙城会』は、どうか」と提案した。そこで、同じ年の2月1日に牙城会が結成されたのである。
 戸田先生は、学会の草創期から、「牙城」という言葉を非常に大事にしておられた。
 昭和29年(1954年)2月20日、戸田先生と私は、翌日に控えていた大阪、堺、八女の3支部の総会に出席するため、大阪入りした。
 指導を求めて、続々と駆けつけてくる関西の地区部長を前に、戸田先生は言われた。
 「関西は東京に次ぐ牙城たれ!」と。
 私も『若き日の日記』に、「大阪の牙城」「先生の牙城」など、幾度も「牙城」と綴っている。
 〈池田SGI会長の署き日の日記』には、「大阪の牙城も、一年ごとに堅固になってゆく」「発展を祈る。広布の一つの牙城として」「戸田先生の牙城たる日本正学館に、編集員として入社」等と記されている〉
16  「牙城」とは、「大将のいる所」「城の本丸」「戦いの根拠地」という意味である。
 「牙旗がきを立てている城」である。「牙旗」とは、古来、中国で大将のいる所に掲げられた旗のことだ。猛獣が牙で身を守るという象徴として、旗先に象牙が飾られた。
 このように、「牙城」には、重要な意義があることを語り残しておきたい。
 どうか、「冥の照覧」を、深く強く確信していただきたい。
 牙城会の皆様の苦労は、まだまだ知られていない。真剣に、徹して警備に当たっているのに、真情が理解されないこともあったにちがいない。
 尽きせぬ感謝と、ねぎらいを込めて、皆様の功労を、もう一度、讃えたい。牙城会、王城会、本当にありがとう!
17  二つの栄誉
 さて、ロシアの大学者であり、名門モスクワ大学の創立者といえば、誰であろうか。〈会場から「ロモノーソフです」と〉
 その通りである。
 モスクワ大学は、創立250年を超える伝統を誇る。〈創立は1775年〉
 この世界的学府から私は、皆様方を代表して名誉博士と名誉教授の二つの栄誉を拝受している。
 創立者ロモノーソフの味わい深い言葉がある。
 「戦いの数と、おさめた勝利の数を等しくして、生涯を戦場に生きる戦人は、大いなる賞讃に値する」
 人生は永遠に戦いであり、断じて勝ち抜かねばならない。
18  私が、ソ連(当時)を初訪問し、モスクワ大学を初めて訪れたのは、ちょうど35年前(1974年〈昭和49年〉)の9月であった。
 以来、モスクワ大学との友情は変わることなく続いている。
 大学の中心には、見上げるような超高層の本館が、そびえ立っていた。壮大なスケールの建物であった。
 当時、創価大学は、まだ誕生して間もなかった(創価大学の開学は1971年)。
 しかし、私は、必ずや、世界的な名門大学にしていこう、人類に貢献しゆく偉大な学府にしていくのだ、と心に誓った。
 そう願った通り、創価大学は今、新時代の理想の学府へと発展の歩みを進めている。
 私は、本当にうれしい。関係者の皆様にも深く感謝申し上げたい。
19  「諸国民の友好に積極的な貢献」
 初訪問の翌年の5月、私は再び、モスクワ大学を訪問した。
 キャンパスは、緑と花の美しき共演に彩られていた。
 この時、私は、壮麗な本館の9階にある総長室に案内された。
 そこで、モスクワ大学「名誉博士号」の授章式が行われたのである。
 私は、総長室の中央にある円形のテーブルに、大学首脳とともに座った。
 ここで、当時のホフロフ総長が、さっと立ち上がった。
 そして、厳かな口調で、名誉博士号の授章式を開催すると宣言した。
 続いて、大学首脳があいさつし、そのなかで、私への名誉博士号の授章決定にあたって、モスクワ大学が、あらゆる面から厳格に審査してきた経過などが詳しく述べられた。
 総長から受け取った学位記には、「文化と教育の分野における実り多い活動、並びに諸国民の平和と友好の深まりをめざす積極的な活動を讃え、モスクワ大学名誉博士号を授与することを決定した」と記されていた。
 これが、私にとって海外の大学からの第1号の名誉博士号となった。
20  打って出よ!
 当時は、中ソ対立の時代である。
 私は、平和を願う仏法者として、中ソ両国の友好を心から望んでいた。
 また日本でも、ソ連や中国に偏見を持つ入は少なくなかった。
 この現状を何とか打開したい。そうした、やむにやまれぬ思いから、74年の5月以来、約1年間で、中国には3度訪れ、ソ連には2度訪れた。アメリカも訪問した。
 行く先々で、率直な対話を重ねて、「文化と教育の橋」をかけていった。
 勇敢に対話に打って出る。心を開いて語る。それが「無理解の壁」を破る根本の力である。
 こうした活動を、モスクワ大学が真摯な眼で見つめ、最高の栄誉を与えてくださったことに私は恐縮した。また重い責任も感じた。
 と同時に、すべては、恩師・戸田先生の薫陶のおかげであることを深く感じていた。
 私は「戸田大学」の卒業生である。先生は一対一で、あらゆる学問を教授してくださった。ゆえに、私への授与は、そのまま、恩師に捧げさせていただく宝冠である。
 また、こうした授与式のたびに、私は、平和・文化・教育の活動に尽力してくださっている世界中の同志の皆さんと、栄誉を分かち合うつもりで拝受していることを知っていただきたい。
 〈モスクワ大学の「名誉教授」称号授与は、2002年6月。また中国からの第1号の名誉学術称号は北京大学から1984年6月に授与されている〉
21  師匠の偉大さを示し切ってこそ、弟子である。
 私は、牧口初代会長、戸田第二代会長を世界に宣揚してきた。そして、これからも一生涯、牧口、戸田両先生の弟子として生き抜いていくつもりだ。
 師匠を利用して、自分が威張る人間。
 師匠の恩を忘れて、師匠を軽んずる人間。
 さらには師匠に嫉妬して、師匠を苦しめようとする人間。
 そんな不知恩の人間にだけは、絶対になってはいけない。
 将来のため、強く申し上げておきたい。
22  希望と共に!
 アメリカ心理学会元会長のセリグマン博士を、ご存じだろうか。
 〈アメリカのメンバーから「ハイ」と返事が。それに続いて、アメリカの友が声を合わせ、元気よく、シュプレヒコールを行った〉
 ありがとう、ありがとう! アメリカの方は、明るくて、気持ちがいいね。
 学会の組織は、自由奔放さ、朗らかさが大事だ。そこに真実の前進の力が生まれる。
 私は、セリグマン博士と、「心」という宇宙をめぐって語り合った。〈1997年9月、東京・信濃町の聖教新聞本社で〉
 博士は、ビジネスや人生で失敗したり、苦しい経験をしたときに、私たちにとって何が大切かを語られた。
 皆さんは、何だと思う?
 〈会場から「心です」「信念です」「体力です」との声が〉
 いい答えだ。
 皆、優秀だね。
 セリグマン博士は「それは、一切は『行動』によって変えられるという楽観主義である」と言われた。
 そして楽観主義とは「希望」のことである、と。
 「冬は必ず春となる」と仰せのように、仏法には、不屈の楽観主義が脈打っている。
 私たちは、どんな逆境も、はね返す力を持っているのだ。皆さんも、よく思索してみていただきたい。
23  小さなところに気を配る
 指導者論の研究で著名なアメリカのグアンソン博士の言葉を紹介したい。
 1995年(平成7年)1月、私は要請を受け、ハワイにある国際的な学術機関「東西センター」で講演した。その際、グアンソン博士も出席してくださった。
 博士は語る。
 「一般のリーダーは、組織が大きくなると、小さなことは他人まかせにしてしまう傾向があります。
 しかし、組織が大きくなっても、小さなところにまで気を配っていけるのが真の指導者なのです」
 学会でいえば、組織の最前線で戦っている皆さん方に対して、幹部自身が、どこまで気を配っていけるかである。それが発展の鍵なのである。
 草創期は、組織も今のように大きくはなかった。全員が一人立って戦った。
 しかし、組織がだんだん大きくなると、その上にあぐらをかいて、威張る幹部が現れてくる。何一つ偉くもないのに、自分が偉くなったように錯覚して、一生懸命に活路を開く最前線の戦いを当たり前のように思ったり、大したことはないと下に見るようになってくる。
 とんでもないことである。そこに破滅の原因がある。
 人間の体も、足がなければ歩けない。目立たないところで支える人が大事なのだ。
 どこまでも、「最前線で戦う人」が偉いのだ。
 地道に広布に励む「無冠の人」こそが偉大なのである。
 何度も繰り返すが、幹部は絶対に威張ってはいけない。
24  師の薫陶ありて
 ロシアの極東国立工科大学のトゥルモフ前総長の言葉を紹介したい。
 〈同大学は2007年、SGI会長に名誉教授称号を贈った〉
 ここには、大学で教えている先生方はいますか?〈「ハイ」と数人が立ち上がった〉
 ご苦労さま!
 前総長は、こう語っておられた。
 「私は、役職があるから仕事をするのではありません。これまで行ってきた愛すべき大学の事業に、これからも、私の人生を捧げていきたい。
 大学は、私の故郷となりました。私はこれからも、大学の発展のために働き続けたい」
 この言葉を、教育者の皆さんに贈りたい。
 教育者は、学生や生徒を、絶対に見下してはならない。
 青年のためならば、何でもやらせていただこう──その決心がなければ、本当の教育者とはいえない。
 ずるい、要領だけの人生は、絶対に歩んではならない。そう戸田先生は、私に打ち込んでくださった。
 あれほど偉大な先生は、二度と出ないだろう。大指導者論、人間の細微にわたる心のあり方を教わった。
 その薫陶ありて、私は今、広宣流布の指揮を執っている。
25  「恩知らずの人間より、恩を知る犬のほうがまし」(矢崎源九郎編著『世界のことわざ』社会思想社)とは、ペルシャの格言である。恩知らずになるな、と戸田先生は厳しく指導された。
 また、ドイツの哲学者カントは、こう指摘している。
 「悪魔的悪徳は人間の悪さをはるかに超え出た度合いの悪さをもつ。そうした悪さとして数えられるのは次の3つ、すなわち、嫉妬、恩知らず、他人の不幸を喜ぶ気持である」(御子柴善之訳「コリンズ道徳哲学」、『カント全集20』所収、岩波書店)
 牧口先生が法難の獄中で、最後までひもとかれたのがカントである。戸田先生も、よくカントの哲学を引かれた。
 「嫉妬」が和合を乱す。「恩知らず」が仏法を破壊する。
 私が会長を辞任した時も、絶頂期にあった学会の発展を妬む、卑劣な反逆者がいた。
 悪の末路は厳しい。
 悪を見て見ぬふりをして、戦わない人間は永遠に悔いを残す。
 悪に誑かされ、慈悲も師弟の精神もなくなれば、もはや仏法の世界ではない。二度とそうなってはならない。未来のために、これだけは言い残しておきたい。
 ともあれ、我らは元気に進もう! 皆さんが元気であることが、私は一番うれしい。
 戸田先生は厳として叫ばれた。
 「権力というものは、一切を飲み込んでしまう津波のようなものだ。生半可な人間の信念など一たまりもない。死を覚悟して立ち向かって、権力に打ち勝つのだ!」
 この心意気で進もう!
 末法は五濁悪世である。我らは、創価学会という民衆の「安全地帯」を広げるために勇んで戦おう!
26  信心で団結せよ
 戸田先生のご指導に、こうある。
 「人間というものは、同じことを何度も言われなければ、自分の考えを変えないものだ。そこから、間違いが生ずる。だから、繰り返し、繰り返し、注意せよ」
 注意してこそ、過ちを避けられる。注意することが慈悲である。
 先生は言われた。
 「会合で、調子に乗って、威張るな! 一人で、ベラベラしゃべって、独演会になっては絶対にいけない」
 そういう人間がいたら、「もう終わりましょう」と言って、この指導を見せてあげればよい。
 さらに、戸田先生は語っておられた。
 「信心が同じであるがゆえに、互いに嫉むことなく、憎むことなく、相和して御本尊に仕えまつる。この精神を、和合僧の精神というのである」
 ともに祈る。信心で団結する。これが広宣流布の同志だ。
 醜い嫉妬から、同志を分断するのは、破和合僧の大罪である。
 戸田先生は、信心の実践なき幹部を、常々戒めておられた。
 「信心が、溜まり水のようにならないよう気をつけろ!
 溜まり水は、動かないから腐ってしまう。
 幹部も絶えず注意するのだ。一番、気をつけねばならない重要な一点だ」と。
 苦労を人に押しつけて、自分は動かない幹部、口先だけの幹部は必要ない、と先生は厳しかった。
27  戦後の荒廃した焼け野原に立って、戸田先生は学会を再建していかれた。
 皆、貧しかった。
 皆、苦しかった。
 しかし、先生は堂々と語られた。
 「自分がどれだけ偉大な存在か。それを、皆、忘れているのだ。
 たしかに、家に帰っても、たいした食事もない。家も、宮殿みたいに大きくはない。だから自分は……と卑下するけれども、とんでもない!
 人間それ自体が偉大なのである。
 いわんや、広宣流布をし抜いていく学会員こそ、崇高な仏だ。最高の人間なのである」
 この誇りで進もう!〈「ハイ!」と会場から大きな返事が〉
 だからといって、男性は、大したこともせずに奥様に威張って、かえって、やりこめられないように。聡明にお願いします。
28  婦人部の皆様に大福徳よ輝け!
 戸田先生は婦人部の友を励まされた。
 「表層ではなく、根本の生命を見つめていくのです。
 真実の生命を見つめれば、我々は、いつか仏になる身ではない。我々の身が、そのまま仏なのです。どうか、堅い信心に立って、朗らかに、悠々と、永遠の幸福を打ち立てていただきたい」
 いつか将来、仏になるのではない。広布へ戦う、そのままの自分に仏の大生命が躍動するのである。
 婦人部の皆様は、永遠の大福徳を築いていただきたい。
 そして青年部に、戸田先生は教えられた。
 「人生は、マラソンのようなものだ。今は、貧しく、苦しい生活かもしれない。他の人がよく見える場合もある。しかし、妙法をきちっと信じ、一生涯、広宣流布に生き抜いていけば、必ず最高不滅の人生の幸福のゴールに行くことは、絶対に、絶対に、間違いない」
 この大確信を若き皆様に贈って、私のスピーチを終わりたい。
 ありがとう! 皆、元気でね! どうか、体を大事にしていただきたい。
 最後に、皆で題目を唱えたい。心に思ったことを祈ればよい。何でもいい。「裕福になるように」でも何でもいい。一生懸命、御本尊に祈るのだ。
 祈っているその行動自体のなかに、自然のうちに、所願満足の境涯が輝いていく。それが妙法の力である。
 〈SGI会長の導師で、参加者全員が唱題を行う〉
 長時間、本当にご苦労さま! ありがとう! くれぐれも風邪をひかないように!
 〈ここでSGI会長の提案で、海外の同志を讃え、また婦人部・女子部、音楽隊・合唱団、そして会場にいない友の幸福と勝利を祈って万歳を行った〉
 ありがとう、ありがとう! 海外の皆さんも本当にありがとう!
 お礼の気持ちを込めて、音楽を贈りたい。
 〈SGI会長はピアノに向かい、使命の戦に赴く父が、わが子に未来の勝利を託す“大楠公”の曲、そして「さくら」を奏でた〉
 海外から来られた皆さんは尊い方です。世界の広宣流布を実現しておられる。仏に等しい、尊い方々です。
 皆で最敬礼し、最大の感謝と最高の賞讃を捧げたい。
 本当に、ありがとうございます! ご苦労さまです!
 また、お会いしましょう! きょうは、お会いできてうれしかった! 皆さん、万歳! 万歳! 万歳! サンキュー!

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