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日蓮大聖人・池田大作

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新時代第23回本部幹部会  

2008.10.28 スピーチ(聖教新聞2008年上)

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2  ヤング・パワーが結成40周年!
 広布の華・芸術部の皆さんも、いつも、ありがとう!
 芸術部の「ヤング・パワー」の結成40周年、おめでとう!
 わが芸術部が一人いれば、100人の力に匹敵すると言われている。“戦う芸術部”に対する、全国の同志の信頼は抜群だ。本当によく頑張ってくださっている。
 きょうは、芸術部の皆さんのためにも、近代日本を代表する女性画家、上村松園画伯(1875〜1949年)について、少々、語らせていただこうと思う。
 上村画伯と言えば、気品ある「美人画」で大変、有名である。
 と言っても、なかには、知らない人もいる。反対に画伯の絵が大好きという人もいるだろう。
 現実に、いろいろな人がいる中で、相手に応じ、状況や場所に応じて、ユーモアを交えて和ませたり、時には、「さすがだな」と感心させるような、味わいのある話をしてあげることも必要だ。
 そうしたことを、一つ一つ見極めながら、人々の心を打つ語らいをしていくのが、創価のリーダーの責任である。
3  勇猛心こそ!
 先駆の女性として、絵画の道を進んだ
 上村画伯は、周囲の無理解や、嫉妬の嫌がらせなど、多くの苦難と闘い抜き、打ち勝っていった。
 上村画伯は、断固として叫んだ。
 「気の弱いことでどうなる」(上村松園著『青眉抄』三彩社)
 「ナニ負けるもんか」(上村松園著『青眉抄その後』求龍堂)
 「女は強く生きねばならぬ」(『青眉抄』)
 京都出身の上村画伯は、「勇猛心」を重んじた。
 まさしく、「負けたらアカン」を合言葉とする、わが関西婦人部の心に通じる方である。
4  人材を見つけよ 登用し、伸ばせ
 さらに上村画伯の言葉を紹介したい。
 「よい人間でなければよい芸術は生まれない。これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に言える言葉である」(『青眉抄』)
 その通りだと思う。
 一切は人間で決まる。人材で決まる。
 人材を見つけ、人材を登用し、人材を伸ばしていくことである。
 画伯はまた、当時の絵画の世界で、師匠を自分の出世の道具に使うような風潮があることに警告を発して、こう綴っている。
 「この人ならばと目指して弟子入りした人であるとするならば、その師匠こそこの世で唯一人の頼む人で他には比較されるべき人さえない筈なのです」(『青眉抄その後』、現代表記に改めた)
 どこの世界でも、師弟はある。
 しかし、自分が功を成すことを急いで、お世話になった師匠を利用し、ないがしろにする。そういう不知恩の弟子にだけは、絶対になってはならない。その画伯の心が、私には、よく分かる。
5  「難こそ安楽」
 画伯は、次のようにも記している。
 「凝ッと押し堪えて、今に見ろ、思い知らしてやると涙と一緒に歯を食いしばらされたことが幾度あったか知れません」(同)
 「人生には雨があり風があり、沈むばかりに船が傾くことがありますように、私もさまざまな艱難辛苦の時を経てまいりました」(同)
 「これほど苦しむなら生きているより死んだ方が、楽に違いないと本気で思ったことが、幾度もございました。そんな所を、幾度も通り抜けますと、人はほんとうに、強く強く生きられるものでございます」(同)
 何の悩みも、苦労もない。困難もない。それが幸福なのではない。
 大聖人は、「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。
 厳しい試練が襲い来るたびに、「自分が強くなるチャンスだ!」と喜び勇んで立ち向かっていくことだ。それが、学会精神である。仏法の真髄の生き方である。
 その「戦う心」の中にこそ、幸福があり、勝利があり、満足がある。
 〈上村松園画伯の「美人画」は東京富士美術館の「女性美の500年」展(2001年)などで展示され、「東洋の洗練された美」が鑑賞者を魅了した〉
6  師との出会い
 戸田先生が愛読された日本の作家の一人に、山本周五郎氏(1903〜1967年)がいる。
 氏の作品から、次の一節を贈りたい。
 「おのれを『無くてはならぬ人物』にまで錬えあげることもまた重要なことなのだ、そして現代青年にもっとも望むべきはこの一点であろう」(『抵抗小説集』実業之日本社)
 青年部の諸君、頼むよ!〈会場から「ハイ」と勢いよく返事が〉
 さらに、日本の物理学者・中谷宇吉郎博士の言葉を紹介したい。
 中谷博士は、戸田先生と同じく、1900年、現在の石川県加賀市に誕生した。
 その中谷博士が、恩師の寺田寅彦博士を讃えて、このように綴ったことは有名である。
 「先生の如き人こそわれ等が同時代に生れた光栄を喜ぶべき第一の人であろう」(『中谷宇吉郎随筆選集第1巻』朝日新聞社)
 若き私には、戸田先生がいらっしゃった。それが私のすべてであった。
 偉大な師匠との「出会い」ほど、人生にとって大事なことはないのである。
7  未来を開く対話
 私と世界の識者の対談集は、トインビー博士との対談をはじめ、50点を超える。
 トインビー博士との出会いは、博士のほうから、お手紙をいただいたことが、きっかけであった。
 仏法について深く知りたい。あなたと対談したいとのお心であった。
 当時、博士は80歳。海を渡る長旅は難しい。そこで博士は、私をロンドンの自宅に招待してくださった。こうして“人類の未来のための対話”が始まったのである。
 今や対談者は全世界に広がっている。国家元首、国連のリーダー、世界的な科学者、文豪、芸術家、哲学者、宇宙飛行士、ジャーナリスト、人権の闘士など、いずれも各界の第一人者の方々である。
 その分野は歴史、文学、哲学、経済、教育、環境、法律、宗教社会学、数学、天文学、化学、物理学、医学、平和学、文化人類学、未来学、指導者論、青年論、女性論など万般にわたっている。
 さらにキリスト教、イスラム、儒教、ヒンズー教など、文明と文明を結ぶ対話でもある。
 現在、月刊誌上で連載中の対談は、チョウドリ前国連事務次長との「新しき地球社会の創造へ」(「潮」)がある。
 また中国の史学大師・章開ゲン博士とは「人間勝利の世紀をめざして」(「第三文明」)。
 名門ウクライナ国立キエフ工科大学のズグロフスキー総長との対談は「希望の世紀へ生命の世紀へ」(「灯台」)。
 アメリカ実践哲学協会のマリノフ会長とは「哲学ルネサンスの対話」(「パンプキン」)を行っている。
 さらに、準備を進めている分を含めると、対談集は約70点となる。
 〈対談集をはじめ、池田名誉会長の著作の海外出版は、40言語・1,000点を超す壮大な広がりとなった。
 とくに対談集には、世界の識者から──
 「人類の教科書」(中国作家協会・孫立川〈そん・りつせん〉博士)
 「喧燥と対立の現代にソクラテスの対話を甦らせた」(モスクワ大学・トローピン元副総長)
 「“平和のための対談集”というジャンルをつくった」(フィリピン・リサール協会のキアンバオ元会長)
 「対話で人間を結び、人間を高め、平和と調和の世界を築くという大事業を成し遂げてこられた、池田先生のご貢献は、まさしく人類史に輝く壮挙です」(章開沅博士)──等の声が寄せられている〉
8  友には温かく! 笑顔を忘れるな
 わかりやすく語る。心に入るように話す──これは、よき対話の一つのポイントだ。リーダーの大切な資質ともいえよう。
 多くの人の前に立つ場合も、力ばかり入れるのではなく、温かな眼差しと笑顔で語るのだ。
 “ともに仲良く進もう”という心が大切だ。自分は真剣なつもりでも、人から見ると、「こわい顔」にしか見えないこともある。
 吉田松陰は、人と接する際の心得を、門下に、こう述べている。
 「一言する時は必ず温然和気おんぜんわき婦人好女の如し。是れが気魄の源なり」(山口県教育会編『吉田松陰全集第9巻』岩波書店)
 ふだんは、温かく、和やかに、品のいい女性のように話すがいい。それでこそ、いざという時に、気迫を出せるのだというのである。
 お嬢さんのような笑顔、乙女のようなほほ笑みを忘れずに──峻厳な肖像を思い浮かべて、“あの、おっかない顔をした松陰が”と驚く人もいるかもしれない。
 名指導者は、「なんて優しいんだろう」と、皆をほっとさせる。
 “あの人には、何でも聞ける。文句も言える”そう女性の方々も安心するような、ゆとりをもつことだ。
 とくに、未来を担う青年部のリーダーは、心していただきたい。
9  『新・人間革命』の連載を再開
 聖教新聞を配達してくださる「無冠の友」の皆様方、いつも本当にありがとう!
 いらっしゃいますか?〈会場から「ハイ」と返事が〉
 ありがとう! ありがとう!
 おかげさまで、小説『新・人間革命』も、連載開始から15周年を迎える。
 資料収集のため、休載の期間をいただいたが、この「11月18日」の創立記念日から、連載を再開する運びとなった。
 これで、第22巻に入ることになる。
 新しい章(「新世紀」)は、1975年(昭和50年)が舞台である。
 日本を代表する作家の井上靖氏や、大実業家の松下幸之助氏らと誠心誠意、対話を広げた歴史も綴っていく。
 『新・人間革命』の連載は、まもなく4,000回を迎える。前の『人間革命』の連載と合わせると、5,500回を超えている。
 〈新聞小説の連載では、これまで、山岡荘八氏の『徳川家康』が4,725回で最長とされてきた。
 名誉会長の『人間革命』『新・人間革命』は、それを大幅に超え、日本一の記録を更新している〉
 応援してくださる読者の皆様方の真心に、心から感謝申し上げたい。
10  ご存じの通り、『新・人間革命』の冒頭を、私は、こう書き起こした。
 「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」
 〈この一節には、世界の知性から“人類の永遠の命題を凝縮した指針”等と、共鳴の声が寄せられている。アメリカ・デンバー市の「池田桜庭園」の銘板や、モンゴル東部の「池田平和記念公園」の記念碑などに、この言葉が刻まれている〉
 『新・人間革命』は、私と尊き同志の皆様方が、ともどもに、平和と正義を勝ちとっていく「勝利の叙事詩」である。
 これからも、書きに書きまくっていく決心である。
11  信頼を広げよ
 光栄にも、このほど、皆様の代表として、モンゴル国立科学技術大学より、私に「名誉人文学博士号」が授与されることとなった。
 〈授与式は10月29日、同大学のバヤンドゥーレン・ダムディンスレン学長らが出席し、創価大学で行われた。これで、名誉会長に、世界の大学・学術機関から贈られた名誉学術称号は「245」となった〉
 モンゴルに深い思いを寄せておられた日蓮大聖人も、どれほど喜んでくださることか。
 こうした栄誉は、仏法を基調にした人間主義への大いなる期待にほかならない。広宣流布の道が開けている証左でもある。
 また世界の各都市からの名誉市民称号も、まもなく「600」となる。
 創価の師弟は、全世界に信頼と友情を広げている。だからこそ、厳然と、後世に輝く歴史が残っていくのである。
12  歩きに歩いて
 ここで御聖訓を拝したい。
 「一切衆生が法華経を誹謗して(不幸の道を)流転するのを見抜いたゆえに、(それをとどめるために)日蓮が日本国を経行して(=歩いて)南無妙法蓮華経を弘通している」(御書816㌻、通解)
 鎌倉の周辺だけではない。「日本国」である。
 大聖人は「日蓮は、この法門を語ってきたので、他の人とは違って、多くの人に会ってきた」(同1418㌻、通解)とも仰せである。
 大聖人御自身が、歩きに歩き、人と会って、法を弘められた。行動こそ仏法の魂である。
 一方、こうした地道な行動を馬鹿にし、地位や学歴を重んじて虚栄を張る弟子を、大聖人は厳しく戒められた。都にのぼり、貴族主義の軟風に染まった弟子に対して、大聖人は叱咤されている。
 妙法の世界に、学歴や肩書は関係ない。きちっとした信心即生活を貫いていく人が、最も偉大なのであり、最後は勝利者となるのである。
13  迫害を打ち破れ 「道」を切り開け
 大聖人は仰せである。
 「どのような大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念観法の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、もうそれだけで成仏はないのである」(同1494㌻、通解)
 大事な一点である。
 私は、民衆を苦しめる敵と戦い、師匠を守り、学会を守り抜いてきた。だれ一人戦わなくとも、私は立ち上がった。
 師匠が中傷されているのに、陰で嘲笑っている人間もいた。師匠を苦しめた悪い人間もいた。いずれも、厳然たる仏罰を受けている。
 昔の学会は、財政的な基盤もなかった。無理解や偏見のなか、周囲から蔑まれ、責められる。その烈風のなかで、私は師匠を守ったのである。
 戸田先生に仕えた私のように、今、学会を守り抜く本物の一人がいるかどうか。それが一切を決する。
 今の時代は恵まれている。同志も増えた。あらゆる面で、基盤も整っている。
 しかし、そうした環境に甘え、戦う心を失ったならば、学会は発展していかない。まるで“貴族仏教”のように、堕落していってしまう。
 迫害を恐れずに、迫害を呼び起こして、叩ききっていく。そのなかで、根本的な広宣流布の道、平和と幸福の道ができあがるのである。
 原野を切り開かなければ、道はできない。私は道をつくってきた。大聖人の仰せ通り、戸田先生の仰せ通り、一分も違えずにやってきた。その勝利が、今日の学会を築いたのである。
 偉大なる仏意仏勅の学会である。学会のことを、表面的に分かったつもりになって、見下したり、軽んずることが、どれほど愚かであるか。傲慢になって威張り、ずるく立ち回る人間に、清浄な世界を汚されてはならない。
 ともあれ、時代は、どんどん進んでいる。若い人の時代だ。未来は、青年に託す以外にない。
 青年が、すべての突破口を開く言論戦の先頭に立っていただきたい。
 青年部、頼むよ!〈「ハイ!」と力強い返事が〉
14  「強き信心」に福徳は爛漫
 近代日本の哲学者に、西田幾多郎きたろう博士がいる。〈1872〜1945年〉
 戸田先生の故郷である北陸・石川の出身である。代表作に『善の研究』などがある。私たちの青春時代には、多くの人が一生懸命に読んだものだ。
 西田博士は述べている。
 「死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる」(上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波文庫)と。
 博士は、愛する家族を、次々と失っている。深い悲しみに耐え、立ち向かいながら、哲学の道を深めていったのである。
 フランスの哲学者デカルトは「私は考える、それ故に私は有る」(落合太郎訳『方法序説』岩波文庫)という言葉を残したが、西田博士はこう論じている。
 「私が行為するが故に私がある」(『哲学の根本問題』岩波書店)と。
 また博士は、「宗教はすべてを成立せしめる根本的立場である」(「歴史的形成作用としての芸術的創作」、『西田幾多郎全集第9巻』所収、岩波書店)とも洞察している。
15  一人も残らず
 宗教を持った人、なかんずく、最高の法である妙法に生きる人が、どれほど偉大であるか。
 仏が説いた通りに修行するならば、必ず、一生のうちに一人も残らず成仏することができる。
 御聖訓には仰せである。
 「秋の稲には、早(早稲わせ)と中(中稲なかて)と晩(晩稲おくて)との(実りの時期が異なる)3種の稲があっても、いずれも1年のうちに収穫できる。
 それと同じように、この仏法においても、衆生の機根に上・中・下の違いがあっても、皆、同じく(平等に)この一生のうちに、諸仏如来と一体不二となる(成仏できる)と思い合わせていくべきである」(御書411㌻、通解)
 また、仏法では、物事を見極める眼を「五眼」に立てわける。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼である。
 日蓮大聖人は「法華経を持つ者は、この五眼が自然に具わる」(同1144㌻、通解)と仰せだ。
 大聖人は、こうも明言されている。
 「法華の行者は、男女ともに如来である」(同737㌻、通解)
 広布へ戦う皆様こそ、仏であるとの仰せである。
 そして「法華経を持つ者は必ず皆、仏である。仏を謗れば罪となる」(同1382㌻、通解)と。
 尊き皆様方を馬鹿にしたり、いじめた人間は、すべて、厳たる仏罰を受ける。このことは、私が見てきた体験の上からも、絶対に間違いない。
16  師を護る志
 牧口先生のために戦われた、戸田先生の志は、あまりにも深かった。
 牧口先生の『創価教育学体系』(1930年=昭和5年)発刊という、大きな仕事の際にも、その編集、出版のすべてを、若き戸田先生が自ら志願された。
 “私が一切をなげうってやります。牧口先生の喜びは、私の喜びです”──これが師弟であり、戸田先生の立派な姿であった。
 この「師弟」があったからこそ、今の学会はある。そして、戸田先生と私の「師弟」があったから、学会は伸びたのである。
 戸田先生はおっしゃった。
 「魔は、その人の試練のためなので、ちょうど柔道の先生に投げられ、投げられして、強くなっていく様なものである。
 来たか、負けるものかと頑張れば、必ず難局も切り開かれる」
 また、「何があろうとも、広宣流布のためには、びくともしない人生であれ」とも言われていた。この心を忘れてはいけない。
17  「この人生を生き抜こう!」
 韓国最大の通信社「連合ニュース」の金興植キム・フンシク常務理事は、「思想の根本ともいえる師匠の存在が徐々に忘れ去られていく現代」において、私ども創価の師弟の重要性を、高く評価してくださっている。海外からの温かい声である。
 師匠の存在があるということ。師の理想を護り、大切にするということ。この点が揺るがなければ、学会は盤石である。
 昭和54年(1979年)、会長を“勇退”した時、私は最も力がみなぎった時期であった。国内で、また国外で、学会に対する社会的な信頼が高まっていた時期でもあった。
 その時に、学会を壊そうとする嫉妬の動きが起きたのである。
 「猶多怨嫉」「悪口罵詈」との経文通りの大難であった。
 戸田先生は、だれよりも仕えた私に対して、ある時は「おれが死んでもお前は長生きしろ」と言われ、ある時は「大作には本当に苦労をかけた」と涙ながらに言われた。
 だからこそ私は、「この人生を生ききろう!」と決めた。そして今日の学会がある。
18  迫害の中、恩師の偉業を実現へ
 人知れぬ苦労を重ねて、尊き学会を護り抜いてきた。“これだけの仕事をできる人はいない”と言われるほど戦おうと、心に決めて進んできた。
 折伏が進まなければ、戸田先生の仰せのままに、「私がやります」と約束し、当時、低迷していた文京支部へ、また「大阪の戦い」へと、勇んで飛び込んでいった。
 先生の財政難の時には、「私がいます」と申し上げてご安心いただき、護り抜いた。
 今、学会の会館は、国内で約1,200を数えるようになった。今後も、全国、世界の会館を整備していく予定である。
 戸田先生の当時は、海外への拡大など想像もつかなかった。しかし私には、先生と約束した「世界広宣流布」という目標があった。全力で手を打ち続けた。気の休まる日は、一日もなかったといってよい。
 真の仏法者は、「難こそ誉れ」である。激しい迫害を受けながら、ただ、戸田先生の偉業を、戸田先生とともに成し遂げようと戦い続けた。
 妻は、ニッコリと笑って一言、「祈っています」と言うこともあった。毎晩のように丑寅勤行をする日々もあった。病弱であった私を気遣い、「あなたが倒れたら、学会は危うい」との心で、支えてくれたのである。
 私自身のことになって恐縮だが、そうした状況の中で、世界各地に広がる創価の連帯をつくりあげたことを、皆さんには知っておいていただきたいのである。
 あとは、世界のため、世界の広宣流布のために、何としても人材が必要だ。青年である。青年の育成に全力を注ぐ時である。
19  師と弟子が同じ心で前進を
 折に触れて申し上げてきたが、戸田先生は、軍国主義と戦った牧口先生の大恩に感謝され、「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と語られた。
 “これこそ、本物の師弟である”と、私は感動したのである。
 学会の最高幹部は、「一生懸命、師弟の精神を守り、皆さんのために尽くします」との思いでなければならない。
 わが学会は「師弟不二」が根本である。
 師弟が同じ心で──私はこの精神を保ち、戸田先生とともに、きょうまで進んできた。
 ゆえに、怖いものはない。何があろうと、悠然と指揮を執ることができたのである。
20  中国でエジプトで忘れ得ぬ会談
 私はこれまで、一人の市民として、民衆の代表として、世界の指導者や識者と会談を重ねてきた。
 アメリカのキッシンジャー国務長官とは、何度も語り合った。
 エドワード・ケネディ上院議員を聖教新聞本社にお迎えしたことも、思い出深い(1978年1月)。兄のケネディ大統領とお会いする予定もあったが、さまざまな事情で実現しないうちに、大統領が暗殺されてしまった。
 中国の周恩来総理と語り合ったことも忘れられない。
 周総理は、74年5月から6月の私の第1次訪中の時から、私との会見を希望しておられたようだ。しかし、総理の病気のために実現できなかった。
 そして同年12月の第2次訪中の際、周総理からの申し出で、北京市内の病院でお会いしたのである。
 周総理が亡くなられた後、鄧穎超夫人とも何度もお会いした。
 夫人は、私の妻のことを娘のように思い、大事にしてくださった。
 また、エジプトを訪問した際には、ムバラク大統領と会見した(92年6月)。
 地中海に面したアレクサンドリアの宮殿で語り合ったのだが、会見が始まってまもなく、大統領は「バルコニーへ出て、話を続けませんか」と言われた。
 扉を開けると、そこには美しき地中海の大パノラマが広がっていた。
 海が見えるところで、二人で語り合いたい──そういう思いを持っておられたのであろう。
21  一人の人間として堂々と!
 ともあれ、私は平和のため、未来のために世界を舞台に対話の波を起こしてきた。
 一人の人間として、だれとでも堂々と語り合ってきた。
 皆の気づかないところで、一つ一つ手を打ち、世界広宣流布の盤石なる基盤を築いてきたのである。
 世界の指導者や識者と平和のネットワークを結ぶ団体。そして、世界の良識が最大の賞讃を贈る団体。それが創価学会である。
 今の学会の大発展の姿を見たら、戸田先生が、どれほど喜ばれることか。
 私は、すべて先生がおっしゃられた通りにやってきた。
 皆様もまた、私の後に続いていただきたい。幾重にも、友情の絆を広げていただきたいのである。
 〈名誉会長が語り合ってきたのは、国家元首や指導者では、中国の鄧小平氏、胡錦濤国家主席、温家宝首相、韓国の李寿成イ・スソン首相、フィリピンのラモス大統領、インドのラジブ・ガンジー首相、インドネシアのワヒド大統領、タイのプーミポン国王、南アフリカのマンデラ大統領、ナイジェリアのオバサンジョ大統領、ガーナのクフォー大統領、フランスのミッテラン大統領、イギリスのサッチャー首相、チェコのハベル大統領、スペインのカルロス国王、スウェーデンのグスタフ国王、ドイツのヴァイツゼッカー大統領、ポーランドのワレサ大統領、トルコのオザル大統領、ソ連のゴルバチョフ大統領、コスイギン首相、キューバのカストロ議長、コスタリカのアリアス大統領、チリのエイルウィン大統領、ブラジルのフィゲイレド大統領など。
 また国連では、デクエヤル事務総長、ガリ事務総長、チョウドリ事務次長ら歴代の指導者。
 文化人や平和活動家では、欧州統合の父・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、核廃絶を目指す科学者の連帯であるパグウォッシュ会議会長のロートブラット博士とスワミナサン博士、アフリカの環境の母・マータイ博士、アメリカ公民権運動の母・パークスさん、現代化学の父・ポーリング博士、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁、アルゼンチンの人権の闘士・エスキベル博士、ローマクラブの創設者ペッチェイ博士とホフライトネル名誉会長、フランスの美術史家ユイグ氏、作家のマルロー氏、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長、中国の文豪・巴金氏、金庸氏ら。
 また日本でも、井上靖氏、山岡荘八氏、有吉佐和子さん、遠藤周作氏などの作家・文化人、松下幸之助氏などの実業家や各界の識者・指導者と出会いを重ねてきた〉
22  自ら打って出よ
 仏法の慈悲の精神を社会に広げるために、だれよりも民衆が守られるように、私は一人、ありとあらゆる手を尽くしてきた。
 これが創価の指導者の戦いである。
 指導者が、自ら打って出て、どんどん人と会い、真実を語り、味方をつくる。その勇猛果敢な行動があってこそ、正義の学会は守られ、ここまで進んできたのである。
 来る日も来る日も、どれほど心を砕き、祈り、戦ってきたか。
 戦えば、疲れる。しかし、億劫の辛労を尽くさなければ、襲いかかる大難を勝ち越えることはできない。
 後世のために、あえて語り残しておきたい。
 無責任な人間は、難を勝ち越えても、当たり前と思う。それどころか、忘恩の輩は、真の功労者に嫉妬する。それが人間社会の冷厳なる現実であろう。
 未来に生きる皆さんは、自ら苦労を買って出る、恩を決して忘れない、賢者であっていただきたいのだ。
23  深く語り合え! それが土台に
 どれだけ動いたか。
 どれだけの人と会ったか。
 どういう人と、何を語り合ったか。
 これが土台になる。これで未来が決まる。決意して動いた「一人」で決まるのだ。
 私がこれだけ幅広く、立体的に、数多くの識者と会い、語り、動いてこられたのは、すべて若き日の、戸田先生の薫陶のおかげである。
 戸田先生にお会いして61年。私は、まっすぐに、弟子の道を歩み抜いてきた。
 戦後の混乱で、先生の事業が挫折した時、私は、一切を捧げて師をお守りした。
 “広宣流布のために、先生に、もっともっと、長生きしていただきたい!”──私と妻の願いは、ただ、それだけだった。
 師匠に思う存分、広布の指揮を執っていただくために、決然と立ち上がった。常に師と不二の心で戦った。
 これが、ただ一つの弟子の道である。創価の師弟の大道である。あとは何もない。これほど尊い、無上の道はないのである。
24  真実の大功徳
 きょうは長時間、ありがとう!
 自分のために、一家のために、全同志のために、幸福のために、正義のために、頑張ろう!
 健康で、健康で、どこまでも健康で、わが使命の道を進んでいっていただきたい。
 人生には、さまざまな時がある。
 ある時には、価値的に要領よく。ある時には、誠実に、着実に。また、ある時には、疲れをためないよう休息をとることが大事な場合もある。賢明なる前進をお願いしたい。
 ただ、どんなことがあっても、「広宣流布」と「信心」──これだけは、断じて忘れてはならない。
 約束しよう! 頼むね!〈会場から「ハイ!」と力強い返事が〉
 大変な時に、頑張った分だけ、ぐーっと功徳が増していく。
 功徳は、さまざまな形で表れる。
 その時には罰のように思える試練によって、幸福の道が開けていく場合もある。
 たとえば、手術や注射は痛みを伴う。しかし、それによって健康な体になることができる。
 絶体絶命の窮地に思えても、強盛なる信心に立てば、それによって真実の大功徳をつかむことができる。
 甚深の法理を大聖人は教えられている。
 〈「聖人御難事」では、法難と戦う門下に「我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、たとえば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず」と仰せである〉
 真の功徳は、長い目で見なければ、わからない。途中に何があろうとも、信心しきった者は、最後は必ず勝利する。これだけは間違いない。
 皆さん方のご健康とご健闘、そしてご一家の繁栄を祈ります。
 〈ここで名誉会長の導師で唱題を行う〉
 重ねて、本当にご苦労さまでした。
 朗らかに、朗らかに前進していってください! お願いします! ありがとう!

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