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日蓮大聖人・池田大作

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8・24記念各部合同協議会  

2008.8.20 スピーチ(聖教新聞2008年上)

前後
1  未来を開く協議会、ご苦労さま! 役員の皆さんも、ありがとう! いよいよ、新しい時が来た。
 いずこにあっても、「地より涌き出でんとする」ごとく、新しい地涌の人材が、生き生きと躍動し、登場している。
 「人材、人材の創価学会でいけ!」とは、わが師・戸田城聖先生の叫びであった。
 先生も、どれほど喜び、見つめてくださっていることか。
 インドの詩聖タゴールは、戯曲の中で、民衆の代表に、こう語らせている。
 「王様はわれわれの一人一人を、王冠をかぶった王になさっているのだ」
 一方、でっち上げの王を、こう戒める。
 「偽りの王よ。あんた自身があんまり尊大ぶりを発揮されたのですよ。あんたの頭はもうすぐ塵にまみれるでしょう」(姥原徳夫訳「暗室の王」、『タゴール著作集第6巻』所収」第三文明社)
 真実の王は、民衆一人一人を王にする。
 偉ぶって、自らを飾るのは、偽りの王だ。
 我らは信仰の王者である。折伏をしている人が偉い。それを下に見たら、罰を受ける。
 リーダーは威張ってはならない。本当に偉大な人は謙虚である。外面を繕い、虚栄でわが身を飾る人間が、上に立ったら大変だ。
 仏法者ならば、根底に慈悲がなければならない。その上で、「強敵には強く」「弱者には温かく」「同志には優しく」。そのように私は心してきた。
 これを戸田先生は見逃さず、「それが、お前のいいところだ。ほかのだれにもできないな」と、おっしゃってくださった。
 まずリーダー自身が人間革命するのだ。そこから一切の勝利は始まる。
 明るく朗らかに、誠実に、皆と調和して、守り合い、尊敬し合って、素晴らしい歴史を築いていただきたい。
 何でも語り合い、励まし合いながら、気持ちよく、ともに広布へ前進していきたい。
2  平和と文化の城は今、全世界に
 御本仏であられる日蓮大聖人は、「諸法実相抄」に仰せになられた。
 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや
 この御聖訓の通り、末法濁悪の現代に妙法を唱え弘めゆく「地涌の菩薩」を、先頭に立って呼び出されたのが、初代・牧口常三郎先生であり、二代・戸田先生である。
 蓮祖が示された「地涌の義」のままに、私は、願い求めた師匠である戸田先生と巡りあって、広宣流布の大願へ、勇猛精進を開始した。
 それは、昭和22年(1947年)の8月のことであった。
 今年で61年となる。
 戦後間もなかった当時、西神田にあった旧学会本部は、木造で3階建ての小さな建物であった。
 それが信濃町に移って、この秋で55周年。日本中、また世界から多くの友が集い来る、喜び光る宝城となった。学会の会館は日本だけでも約1,200になり、あの国にも、この国にも平和と文化の城がそびえ立つ。
 これらもすべて、一切をなげうって師匠に尽くし抜いた福運である。尊き同志の信心の結晶である。
3  師と「同じ心」で
 法華経は、「不惜身命」であり、「死身弘法」である。
 牧口先生は、法難の獄中で、殉教なされた。
 戸田先生は、その牧口先生にお供したことを、最大の喜びと感謝された。
 勇んで、その弟子となった私である。「三障四魔」「三類の強敵」との戦いは、もとより存知の上であった。
 仏法のために、師が命がけならば、弟子も命がけで戦う。それでこそ「不二」の境涯となる。師と「同じ心」で戦うから、いかなる障魔をも打ち破っていけるのだ。
4  「創価の師弟は世界の人々を鼓舞」
 「諌暁八幡抄」には、壮大なる宇宙の運行を踏まえられて、仏法西還が明言なされている。
 「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり
 この未来記の通り、月氏──すなわち仏教発祥のインドまで妙法を弘め伝えたのは、創価の師弟である。
 今やインド創価学会は、35,000人の地涌の連帯となった。
 釈尊は厳命された。
 「閻浮提えんぶだいに広宣流布して断絶せしむること無けん
 大聖人は断言なされた。
 「一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし
 その御金言に寸分違わず、我ら創価の師弟は、世界192カ国・地域に、妙法を私通して、全地球を包みゆく地涌の菩薩の陣列を築き上げたのだ。
 光栄にも、今、世界中で、創価の師弟を讃え、その原点の日、8月24日を祝賀してくださっている。
 インド国立ガンジー記念館館長を務め、私が対談を重ねてきたラダクリシュナン博士は語っておられた。
 「(創価の師弟の精神は)人種・文化・宗教・政治・性別といったあらゆる障壁を超えて、世界中の人々を鼓舞し、共感を得ているのです」と。
 〈ラダクリシュナン博士は「牧口会長から戸田会長へ、そして今、池田博士へと流れる『師弟の精神』は、至る所で多くの人々を奮い立たせている」とも述べている〉
 さらに、南米パラグアイ共和国の名門、コルンビア・デル・パラグアイ大学のエリーアス総長は、こう語ってくださった。
 「仏法の真髄は、『師匠の弟子を高めようとする力』と『弟子の師匠への謙虚な求道の姿』にあります。そして、そこから導き出される哲学は、どこまでも一人の人間の素晴らしき『無限の可能性を信じる』ということであります」
 深い理解に心から感謝したい。
5  「師恩」こそ正道
 人間として歩むべき正道は何か。
 「開目抄」には、こう仰せである。
 「聖人・賢人といわれるニ種の人たちは、孝の家から出ている。まして仏法を学ぶ人が、どうして恩を知り恩を報ずることがないことがあろうか」(御書192㌻、通解)
 仏法においては「師恩」を重視している。
 私自身、戸田先生のために、尽くしに尽くし抜いた。
 先生のおっしゃられる一言一旬に感謝しながら、すべてを前進の力に変えていった。
 先生は、何かあるたびに「大作!」と私を呼ばれた。
 生涯の願業を成し遂げられ、亡くなられる前に先生は「本当に、いい弟子をもった。おれの最高の幸せだ」と喜んでおられた。美しい師弟であった。
 一方、忘恩こそ、人間にとって最も恥ずべき行為である。
 ドイツの文豪ゲーテの指摘は鋭い。
 「冷やかな無関心がしだいに優位を占め、ついには、恩恵者を無縁の者の如くに見、時によっては、自分の益にさえなれば、恩恵者の害になるようなことでも企てかねないようになる。これこそが真の忘恩と呼ばるべきものである」(山崎章甫訳『詩と真美』岩波文庫)
 忘恩は「無教義な人間」が陥る。報恩は「すぐれた人間」だけに生ずる。こうもゲーテは書き残した。
6  私は青年を信じる。青年が頑張れば、学会は明るくなる。
 戸田先生は、ある時、女子部の友に語られた。
 「信心が中途半端、人生も中途半端であったなら、何にもならないよ」と。
 その通りである。
 中途半端は、絶対にいけない。自分自身が損をするだけだ。
 いったん「やる!」と決めたならば、一生懸命戦う。断じて勝利する。そこに幸福の土台が築かれ、大きな喜びの花が咲く。
 勝つための仏法なのである。
7  強き祈りで勝て
 御聖訓には仰せである。
 「ひとたび南無妙法蓮華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵天・帝釈・閻魔法王・日天・月天・衆星・天神・地神、乃至、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界の一切衆生の心中の仏性を、ただ一声に呼びあらわしたてまつるのであって、その功徳は無量無辺である」(御書557㌻、通解)
 妙法の音声は、我らを護る諸天を動かし、全宇宙の仏性を呼び覚ます。
 日本中、世界中に響くような強い一念で、朗々たる勤行をすることだ。弱々しい勤行ではいけない。また、皆で行う場合、あわない勤行ではいけない。
 勤行・唱題は仏の音声である。その声は全宇宙に届く。荘厳なる儀式なのである。
 力強い唱題で、健康・長寿、そして勝利、また勝利の日々を送ってまいりたい。
8  日蓮大聖人は仰せである。
 「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」とは此れなり
 妙法の世界は、あまりにも大きい。日々の仕事も即、信心である。ゆえに仕事で勝っていくことが即、仏法の勝負の証しとなる。
9  恩師の集大成を弟子が荘厳
 先日、アメリカ・デューイ協会のガリソン会長、ヒックマン前会長との語らいでも話題になったが、師である牧口先生の理想への歩みを支えるために、弟子である戸田先生は実業に打ち込まれた。
 力ある事業家として、財政面から、師匠を万全に護り抜いていかれたのである。、
 1930年(昭和5年)11月18日に発刊された『創価教育学体系』も、戸田先生が編集から出版まで、その一切の労を自ら買って出られた。
 戸田先生は、牧口先生に言われた。
 「牧口先生、先生の教育学を書物として発刊しましょう」
 「私の財産も全部、出します。裸一貫で北海道から出てきた私です。何も惜しむものなどありません」
 戸田先生は、その記念すべき初版本の表紙に刻まれた『創価教育学体系』の題字と、「牧口常三郎著」との師の名前を、立派な金文字で飾られた。
 これも、師の集大成の大著を少しでも荘厳しようとする戸田先生の真心であった。
 さらに戸田先生は、その2年後(1932年)には、月刊の教育雑誌「新教材集録」も創刊された。これは、牧口先生が自由に教育を論じ、公表できる場として創られたのである。
 この雑誌は3年後、「新教」と改題され、創価教育学会の機関誌となっていった。
10  「師のため」に徹したから大発展
 その後も戸田先生は、ご自身の事業を大きく興隆させ、創価教育学会の財政面を担い支えられた。
 ただただ師匠のために──この一点に徹し切った戸田先生は、飛躍的な事業の大発展を成し遂げていかれたのである。
 戸田先生は語られている。
 「牧口先生も、財務部の事を心配されましたが、当時、理事長の位置にありました戸田が『一人でお引き受けいたします』と申し上げ、牧口先生にご心配をおかけしなかったのです」
 「当時の理事長としての私の覚悟は、会員にはいっさい心配をかけない、金はぜんぶ自分がつくるという気持ちのなかに楽しさを感じていた」と。
 戸田先生の事業は、ひとすじに広宣流布のためだったのである。
 先生の戦前の事業は、ことごとく成功した。しかし、約2年にも及ぶ、社会と隔離された獄中生活が、先生の事業家としての冴えにも、微妙な影を落としたことは、否めない。戦後の事業は、悪戦苦闘の連続となってしまった。
 ありとあらゆる次元で、戸田先生にお世話になったにもかかわらず、ひとたび先生の事業が破綻すると、卑怯な弟子たちは、恩知らずにも、先生を見限り、逃げ去った。そして、戸田先生を軽んずる幹部に追随した。
 恩知らずの人間というものは怖い。一番の功労者を、簡単に貶めるのである。
11  今に見ていろ!
 そのとき私は、戸田先生の弟子として、師子奮迅の力で先生をお護りし抜いた。
 「今に見ていろ!」「必ず戸田先生を、世界中が知る戸田先生にしてみせる」「偉大な学会にしてみせる。わが身を犠牲にしてでも」との思いであった。事実、その通りにやってきた。波瀾万丈の日々であった。師匠に仕えることは、全学会員に仕えることと同義であった。
 すごい先生であられた。怖い先生でもあった。不正に対する先生の怒りは、言語に絶するほど、すさまじかった。
 どんな時でも私は、「何の心配もございません」と申し上げることのできる態勢を整えた。
 先生を支えるために夜学も断念したが、「戸田大学」では、万般の学問を授けていただいたのである。
 イギリスの歴史家カーライルは、ゲーテに対して尽きせぬ感謝を綴っている。
 「あなたを常に私の師であり恩人であると思っています」
 「私が他の誰からよりも多く恩義を受け、誰によりも密接に結ばれている人のことを考え、しばしば口に出すのです」
 「あなたがこの世界で善を見、善をなされるために、永く永く健在であられることを私は天に祈ります」(山崎八郎訳『ゲーテ=カーライル往復書簡』岩波文庫)
 私は、戸田先生のご健康、ご長寿を祈り抜いた。
12  「私は戸田先生の弟子です!」
 「今日の学会をつくったのは牧口先生、戸田先生、そして私の三代の師弟である。
 “牧口先生にお供して投獄され、そして戦後の創価学会を再建なされた戸田先生を護ることが、日蓮大聖人の仏法の命脈を護ることである。広宣流布の命脈を護ることである”。このことを私は、一点の曇りもなく確信していた。
 そして、牧口先生、戸田先生の学会精神を受け継ぎ、戸田先生の苦境を脱する道を開き、第二代会長就任の道を開いていっだ。
 ある時には、「アメリカとも交流を深めて、必ず創価教育の大学をつくります」とお約束した。
 先生と学会に対して悪意の非難を浴びせたある団体を相手に、一人で抗議に行ったこともある。「私は戸田城聖先生の弟子です。真実は、こうです!」と訴え、相手も最後には「わかりました」と非を認めた。
 師匠のために戦った。ゆえに私は何の悔いもない。わが人生に誇りを持っている。
 第三代までは、信心の極理を貫いてきた。この流れを絶つ動きがあれば、絶対に許してはならない。師弟の歴史を甘く見れば、必ず失敗する。
 今は経済的にも恵まれている。人もいる。だからこそ、広宣流布の邪魔をする人間、威張る人間が出てきたときには、毅然と戦わねばならない。
 きょうは、この私の心をだれよりも深く知っている同志が集った。創価の命脈を永遠に厳讃し抜いていっていただきたい。諸君もまた、決して負けない、“本物”の人生を歩んでほしいのである。
13  “悪侶を誡めよ”
 太平洋戦争後、大石寺の土地は、学会の寄進によって広大になった。
 学会が建立、寄進した寺は356カ寺。本山を護るために行った登山会には、のベ7,000万人が参加した。
 古代ローマの哲人セネカいわく。
 「恩知らずであることは、それ自体、避けるべき態度である」「この悪徳ほど、人類の調和を荒々しく引き裂き、打ち壊すものはない」(小川正廣訳「恩恵について」、『セネカ哲学全集2』所収、岩波書店)
 御書には“無条件に坊主に従え”などとは書かれていない。“悪侶を誠めよ”と厳命されているのである。
 宗門の“衣の権威”を打ち破ったことは、結果的にすべて、不思議なる大聖人の御計らいであり、大慈大悲であったと思えてならない。
14  創価の道、師弟の道を、誠実に、完璧に進めば、その人は皆、生々世々、大福運の境涯となる。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」とは、有名な「観心本尊抄」の一節である。
 どうか、強盛なる師弟不二の信心、広宣流布の信心を、昇りゆく太陽のように輝かせていただきたい。
 そして「随緑真如」の智慧の光で、混迷する社会の深き闇を、明々と照らしていただきたい。
15  若き乙女は革命児かな
 私の入信の日である8月24日が、今年も巡り来た。
 この日を記念して、全世界で幸福のスクラムを広げゆく、わが女子部の友に和歌を贈りたい。
  模範たる
    創価の心を
      身に体し
    若き乙女は
     革命児かな
16  61年前、昭和22年(1947年)の8月24日は、日曜日であった。大変に暑い一日であったと記憶している。
 当時は、入会の儀式の勤行が非常にゆっくりで、長かった。正座に慣れていない19歳の青年には、難行苦行の出発だった。
 この時、勤行の導師をされていた僧侶が、のちの日淳上人である。日淳上人は、私と妻の結婚式でも勤行の導師をしてくださった。
 日淳上人も、そしてその前の法主であった日昇上人も、まだ若かった私を非常に大切にしてくださった。
 戸田先生を護り、支える私の戦いを、深く知っておられたのであろう。大幹部でもなかった私に、最大の敬意を払ってくださったのである。
17  最高の人間学
 戸田先生の人を見る眼は本当に鋭かった。軍国主義と戦い、2年間の獄中闘争を生き抜かれた先生である。
 「あの人問はインチキだ。嘘をついている!」等と、厳然と見破っていかれた。
 私は、その先生のもとで、厳しい訓練を受けた。先生がだれよりも期待し、信頼してくださった弟子である。
 ドイツの大文豪ゲーテは綴った。
 「鍛冶屋は、火を吹きつけて、鉄の棒からよけいな成分を除くことによって鉄を軟かくする。しかし、棒が純粋になると、打って鍛える。それから、水という異質の成分を待ってそれは再び強くなる。これと同じことが、人間にもその師によって行なわれるのである」(関泰祐訳『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』岩波文庫)
 先生は、私を鍛えに鍛えてくださった。私を、いかなる嵐にも微動だにしない、鋼のごとき人間へと育ててくださった。
 本当に厳しい先生だった。そして、だれよりも温かく、慈悲深き先生であられた。
 私は、戸田先生のもとで、信心はもとより、あらゆる学問を学んだ。生きた最高の人間学、指導者のあり方を教えていただいた。
 8月24日──それは、不滅の輝きを放つ「戸田大学」への入学の日でもあったといえよう。
18  混迷の時代に
 入信する10日前、私が戸田先生に初めてお会いしたのは、東京・大田区で行われた座談会だった。先生は「立正安国論」の講義をされていた。
 日蓮大聖人の仏法は「立正安国論」から出発し、「立正安国論」に帰着する。
 大聖人が大田の池上で入滅される前、最後に講義されたのも「立正安国論」であったと伝えられている。
 ちなみに、大聖人が、この「立正安国論」を時の最高権力者に提出し、国主諌暁を行われた文応元年の7月16日は、当時の西暦であるユリウス暦では、1260年の8月24日に当たるようだ。
 この8月24日は私にとって、大聖人の仰せ通りの「立正安国」を実現しゆく出発の日となったのである。
 「立正安国論」の冒頭には、「旅客が来て嘆いて言うには、近年から近日に至るまで、天変、地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている」(御書17㌻、通解)と記されている。
 私が入信した当時の日本は、この「立正安国論」の一節にも通じるような、悲惨な状況であった。
 敗戦から2年。
 戦争による空襲で、東京をはじめ各都市は焼け野原と化した。
 生き残った人々は、食料の確保をはじめとして、ただ毎日を生きるのに必死であった。
 際限のないインフレの中、国民の窮乏は深刻を極めていた。当時の新聞には、“収入だけで暮らせない家庭”が8割以上に達したとの世論調査の結果が、報じられている。
 闇市で食料を手に入れることを拒否し、配給のみで生活した東京地裁の判事が「餓死」するという衝撃的な事件が起きたのは、この年の10月であった。
 火山の噴火で20人余りが死亡するといった惨事も、このころに発生している。
 荒廃した人心に付け入って、無数の新興宗教が雨後の筍のごとく現れていた。
 また、この年には、「原子力科学者会報」に「世界終末時計」が発表された。これは、核戦争による地球の滅亡を午前0時として設定し、その危険の度合いを残り時間で示すものである。
 この時は、滅亡の「7分前」とされた。
 その後、さらに核実験などが重ねられ、終末を意味する午前0時へ向かって、時計の針は進められた。
 こうした混迷の時代に、私は戸田先生の弟子となったのである。
19  「旗持つ若人」
 私が入信した当時、学会員の数は、どれくらいであったか。
 戦時中の弾圧で壊滅状態に陥った学会の再建に、戸田先生が着手されたばかりの時である。
 実質、500人から600人ほどであったと記憶している。
 学会は、まったく無名の教団であったといってよい。
 昭和26年(1951年)5月3日、戸田先生が第二代の会長に就圧された。しかし、折伏は、遅々として進まなかった。
 戸田先生は、「このままでは、広宣流布には5万年かかってしまう」と嘆かれていた。
 その中を、戸田先生が待ち望まれていた、広布の「旗持つ若人」として、私が勇んで立ち上がったのである。
 私は、蒲田支部の「2月闘争」、文京支部の大躍進の指揮を執った。そして札幌、大阪、山口など各地で弘教の大波を起こし、戸田先生の願業であった75万世帯の折伏への突破口を開いたのである。
 戸田先生の後を継ぎ、第三代会長に就任してからは、世界を舞台として広宣流布の新たな波動を巻き起こしていった。
 「人間革命」「地球民族主義」「原水爆の禁止・廃絶」など、戸田先生が打ち立てられた理念を掲げ、その構想の実現へ行動を開始した。
 「立正安国論」で示された平和と正義の対話を、私は全世界へと広げた。日本と中国、日本とロシア(ソ連)、ロシアと中国、アメリカとキューバなど、世界中を「対話」と「友情」の光で結んだのである。
20  思えば、私が戸田先生と初めてお会いした翌日は、インドがイギリスの植民地支配から独立した日であった(1947年8月15日)。
 戸田先生は「東洋広布」を強く訴えておられた。インドに日蓮仏法が西還することは、戸田先生の悲願であった。その悲願も、私は成就した。
 また私は、これまで歴代の首相や大統領をはじめ、インドの指導者や識者と多くの語らいを重ね、友情を結んできた。
 私は、わが愛する同志とともに走りに走り、今日の1千万の創価の大陣列を築き上げた。全世界への妙法流布の道を開いた。
 日本を見ても、もはや学会に匹敵するほどの民衆の大連帯はない。創価学会は、まさに「宗教界の王者」、そして希望の「世界宗教」として、威風も堂々と輝いているのである。
21  師に賭けた人生
 日本の宗教社会学の第一人者であった、上智大学の安斎伸名誉教授は語ってくださった。
 「平和・文化・教育と多分野に及ぶ名誉会長の50年にわたる広宣流布の努力を見るとき、それは戸田第二代会長に購けた人生と見ることができるのではないでしょうか」
 「生命を賭して、時の軍部政府に抗い、信仰を貫いた牧口初代会長。その遺志を継ぎ、戦後の荒野に一人立たれた戸田二代会長。
 そうした希有な指導者が賭けた信仰に、名誉会長も賭けられ、その初心、生き方を貫くことで信仰を深化させ、また深めていくことで揺るぎない信仰の基盤を築かれたのでしよう」
 安斎先生は、学会のことを本当に深く理解してくださった。忘れ得ぬ方である。
 今、創価の師弟の大闘争を、世界の一級の識者や指導者が、讃えてくださっている。
 〈韓国最大の通信社「連合ニュース」の金興植キム・フンシク常務理事は語っている。
 「思想の根本ともいえる師匠の存在が徐々に忘れ去られていく現代にあって、師の存在を守り、使命の道を歩み、勝利を導き出すという池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の師弟不二の人生は、すべての人々が“鑑”とすべき大切な価値です」
 オーストラリア・オーバン市のラム市長は述べている。
 「池田博士が世界中で育成されてきた人材のネットワークは、目を見張るものがあります。それは池田博士の師匠としての力、なかんずく指導者としての力を証明する一つの金字塔でもあります」〉
22  牧口先生、戸田先生の願望であった、創価学園・創価大学も、世界的な学舎として大発展を遂げてきた。
 アメリカ創価大学も、「教育の世紀」の希望の旭日として期待されている。
 弟子が勝ち栄えてこそ、師匠の偉大さは光彩を放つ。
 栄光と勝利で迎えた「8月24日」を、牧口先生も、戸田先生も、心から喜んでおられるに違いない。
 創価の三代は、皆様とともに、勝ちに勝ったと申し上げたい。
23  戸田先生のもとで、男子部の「水滸会」でも、女子部の「華陽会」でも、共に学んだ一書がある。それは古典の『平家物語』である。
 その冒頭は、あまりにも有名だ。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」(杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫を参照)
 「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し、栄華をほしいままにした、平清盛らの権勢は、30年も経たずに、もろくも滅び去っていった。
24  『平家物語』では、歴史を俯瞰しながら、国を滅ぼす愚かな指導者の共通点が、浮き彫りにされている。
 それは──「自分が仕えていた主君や皇帝の統治に背く」
 「自らの快楽を求め、人の諌言を顧みない」
 「世の中が乱れることもわきまえず、庶民の憂いや苦しみに無関心である」
 などの点である。
 つまり、「忘恩」であり「背信」である。「傲り」であり「慢心」である。そして「油断」であり「無慈悲」である。
 指導者の心の狂いが、国や組織を滅ぼすというのである。まことに重大な、普遍の法則といってよい。
 あの壇ノ浦の合戦で平家が滅び去ったのは、1185年。
 大聖人が聖誕される37年前のことであった。
 蓮祖は、平家の興亡の歴史を、つぶさに凝視された。御書でも、平家の没落の本質を“傲り”であると喝破されている。
 また、その滅亡の根底には、平家の横暴な宗教弾圧があったことも指摘された。〈御書1492㌻〉
 「宗教弾圧の権力は必ず滅びる」──これは歴史の鉄則であることを、青年が師子吼していくのである。
25  「傲る平家」になるな!
 戸田先生は、語っておられた。
 「源頼朝は、平家を滅ぼした後、場所を移して鎌倉に都を築いたのが良かった。そうでなければ、平家と同じく、すぐ滅んだであろう。事を成就してから、堕落し、惰弱になりやすいから、気をつけなければならない」
 傲りを排したところが勝つ。
 学会は、永遠に「傲る平家」になってはならない。幹部の堕落・油断を絶対に許してはならない。峻厳に律し、誡めていくことだ。これが、戸田先生の遺誠であられた。
 だからこそ、私心のない、高潔にして絶対に信頼できる、人材の核を固めていかねばならない。その根本は、師弟不二であるかどうか、である。
 民衆は“高潔”なリーダーを愛す
 質素に徹した南米解放の父ボリバル
 「彼は自分のすべてを人々に与えた」 研究者
 金銭の緩みが滅びの元凶に
 「19世紀に活躍した、「南米解放の父」シモン・ボリバルが、「最も得るのが難しい」と考えていたのは、どのような人材であったか。
 それは、財政の指導者であった。
 なぜなら、「祖国の命運がかかっている」問題を任せることのできる、立派で有能な人物でなければならないからだ。
 ボリバルは、あのフランス革命を引き起こした主な原因に、“財政の不健全さ”があったと述べている。
 当時の王朝では、累積した赤字、貴族らの悪政、乱費によって深刻な財政難が起こっていた。それが国王の統合力の破綻を引き起こし、王朝の滅亡へとつながっていったのである。
 金銭の緩みは滅びの元凶となる。これは、歴史の重要な教訓だ。
 22歳のボリバルが、欧州ローマの天地で、師匠ロドリゲスのもと、祖国の解放を誓ったのは、1805年の8月15日であった。
 若き日のボリバルには、400万ペソもの財産があったといわれている。彼は、この財産を祖国解放の戦いに捧げ尽くしていった。
 やがて南米各国の独立を勝ち取り、指導者の立場となっても、ボリバルは公費からの収入を得ようとはしなかった。
 むしろ公共の目的のために私財を使い、借金までした。そして赤貧のなかで亡くなっていったのである。〈ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド著、水野一監訳、上智大学イベロアメリカ研究所訳『シモン・ボリーバル』春秋社、神代修著『シモン・ボリーバル』行路社などを参照〉
26  「ボリバルの家」の思い出
 1993年の2月、私は、テロで揺れるコロンビア共和国へ、多くの反対を押し切って、訪問した。そして平和・文化・教育の有意義な交流を、勇気をもって、誠実に進めていった。
 この初訪問の折、私は、ボリバルがボゴタで指揮を執った際、拠点とした「ボリバルの家」へ、お招きいただいた。
 それは質素な館であった。
 聡明な女性リーダーであるトーレス館長が、丁重に館内を案内してくださった。
 この建物は、ボリバルの盟友であったサンタンデル将軍から寄贈されたものである。
 ボリバルが愛好した「図書室」は、4畳半ほどであった。居住していたという本館は、平屋で6部屋。
 寝室にも執務机を置き、重要な作戦書や法律の草案もそこで認めた。
 ベッドも小さかった。眠る時も臨戦姿勢であり、十分に体を伸ばすことがなかったからだという。
27  「私の願いは祖国の幸福」
 この「ボリバルの家」の壁には、亡くなる1週間前に彼が残した「私の最後の願いは祖国の幸福にある」との遺言が留められていた。
 トーレス館長は、凛として語られた。
 「ボリバルは理想主義者でした」
 「南米統一のために、私心なく、人々に尽くし、自分が勝ち得たすべてを与えた生涯でした」
 私は、トーレス館長に申し上げた。
 「(47歳で亡くなったボリバルは)短い一生と言えるかもしれません。
 しかし、人間は、『どれだけ生きたか』以上に『どれだけの仕事を残したか』が大事です。
 私の恩師も、決して長い人生とはいえませんでした。しかし永遠の業績を残しました」と。
 そして、「『世界の宝』を守る大切なお仕事です。大切な人生です」とお伝えしたのである。
 民衆のために、すべてを捧げ尽くしていく指導者の一念は、永遠に不滅である。
 牧口先生も、戸田先生も、そして私も、創価の三代の師弟は、一切を広宣流布のため、学会のために捧げてきた。
 だからこそ、世界に広がりゆく今日の創価学会が築かれたのである。
 この学会を、師弟不二の心で永遠に勝ち栄えさせゆくことを、わが後継の地涌の友に託したい。
28  先日、アメリカの世界的な教育研究機関である「ジョン・デューイ協会」のガリソン会長とヒックマン前会長が、はるばる長野研修道場を訪問してくださった。
 デューイ博士は、牧口先生、戸田先生が大変に尊敬されていた大哲学者である。両先生の喜びは、いかばかりかと、私は感慨深かった。
 意義深きデューイ協会の「終身名誉会員証」の授与式には、わが信越青年部の代表も、一緒に出席した。
 信越青年部の有志は、その記念として、不滅の名作『ソクラテスの弁明』『クリトン』を届けてくれた。〈大正10年に発刊された貴重な翻訳書〉
 古代ギリシャの大哲学者にして、「人類の教師」たるソクラテス──。
 この2つの作品は、師ソクラテスの人生の最終章を見事に描き切った愛弟子プラトンの著作として、名高い。私は、懐かしく拝見させていただいた。
 この傑作の中で、ソクラテスは語っている。
 「私はむしろ私のいわゆる最大善行を何人にも親しく個人的に行うことの出来る方面におもむいた」(久保勉訳『ソクラテスの弁明』岩波文庫)
 大勢の前で演説をするのではない。あくまでも、自らが足を運んで、一人一人のために、哲学の対話を重ねていったというのである。
 ソクラテスを断罪しようとするアテネの人々を前に、彼はこう語っている。
 「(私は)あなたがたの一人一人をつかまえて、自分自身に気をつけて、できるだけすぐれた善い者となり、思慮ある者となるようにつとめ」「その他のことも、これと同じ仕方で、気づかうようにと、説得することを試みていたのです」(田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」、『プラトン全集1』所収、岩波書店)
 地道な「一対一の対話」にこそ、哲学の真価がある。
 「一対一の対話」から、大きな変革が生まれる。
 私も、「まさかが実現」した「大阪の戦い」の時、大きな会合に人を集めて話をするよりも、小さな会合を回りに回った。
 最前線へ打って出て、徹底して一人一人と会い、一人一人を励まし続けた。それが、勝利の推進力となり、原動力となったのである。
29  世界が舞台だ
 私が長野研修道場を初めて訪問したのは、昭和54年(1979年)の8月であった。
 その4カ月前に、私は第三代会長を辞任していた。会長辞任を発表した4月24日、自宅に帰ると、妻がいつもと変わらぬ様子で、微笑んで待ってくれていた。
 そして、“本当にご苦労さまでした”“これでまた、大勢の会員の方に会えますね。海外の同志が待っていますよ”──そう語ってくれたのである。
 5月3日、実質的な会長辞任の総会となった八王子での本部総会の後、私は神奈川文化会館へ向かった。
 “神奈川には海がある。いよいよ、世界を舞台に戦うのだ”──私は、そう深く決意していた。
 神奈川文化会館で、ある幹部が教えてくれた。
 この5月3日何の読売新聞に、日米の国民の意識調査の結果が掲載されていた。
 そこには、日本人が「最も尊敬する」日本人の名前が上位20人まで挙げられており、私の名前も出ているという。
 〈吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇と続き、第6位が池田名誉会長であった〉
 学会攻撃の非道な嵐が吹き荒れていた時である。
 こうした形で私の名前が挙げられたことを、わが愛する同志たちは、心から喜び、誇りとしてくださった。
 一方で、創価の師弟に嫉妬し、なんとしても私を追い落とそうとする人間たちの姿は、誠に浅ましい限りであった。
30  戸田先生と最後の夏を過ごした師弟の天地に、私は長野研修道場を建設した。
 そして深く信頼する信越の同志とともに、正義の反転攻勢の波を起こしていったのである。
 一軒一軒、地域の功労者のお宅も訪問した。周辺のお店へも、足を運んだ。
 研修道場に来訪される世界の識者とも、友情の語らいを深めた。
 長野研修道場を起点として、広宣流布の新たな波動は、大きく広がっていったのである。
 “
 どんな権力にも私は屈しない”
 ソクラテスが、自らの生涯の栄光としたことがある。
 それは、いかなる苦難や迫害に遭おうとも、断固と正義の道を貫き通したということである。
 ソクラテスは叫んだ。
 「あれほど強大な権力を持っていた政府も、私を威嚇して何らの不正をも行わしめることが出来なかった」(前掲、久保勉訳)
 「わたしは、正義に反することは、何ごとでも、いまだかつて何びとにも譲歩したことはない」(前掲、田中美和太郎訳)
 「私は、決して私の行動を変えないであろう、たとい幾度死の運命に脅かされるにしても」(前掲、久保勉訳)
 正義のためならば、何も恐れない。断じて負けない。絶対に屈しない。
 その金剛不壊の魂を抱いていたのが、ソクラテスとプラトンの師弟であった。
 ソクラテスは言う。
 「すぐれた善き人間が、劣った悪しき人間から害を受けるというようなことは、あるまじきことだ」(前掲、田中美知太郎訳)
 いかなる邪悪な企みも侵すことのできない、はるかな正義の高みに到達した、悠然たる大境渥といってよい。
31  信念の獄中闘争
 ソクラテスは、嫉妬の誹謗と迫害によって、不当に囚われた牢獄にあっても微動だにせず、信念の対話を続けた。
 いな、死を前にした牢獄において、その対話は、いや増して荘厳な光を放っていった。
 牧口先生の獄中闘争も同じである。
 牢獄を訪れた友に対して、ソクラテスは鋭く問いかけている。
 ──正義と不正、美と醜、善と悪などに関して、私たちは多数者の思惑を恐れ、それに従わねばならないのだろうか。
 それとも、もし、ただ一人でも、その道に通じた人がいるならば、それ以外の人全部を合わせたよりも、この先達の意見にこそ、従うべきだろうか?
 そして、ともに問答を進めながら、ソクラテスは結論として言った。
 ──よき友よ、かの多数の者どもが、私たちのことを、どう言うだろうかというようなことには、まったく気をつかわなくてよいのだ。
 むしろ、ただ一人であっても、正義と不正について知悉している、その人が何と言うのか、また真理そのものが何と言うのか、ということの方が、大切なのだ(田中美知太郎訳「クリトン」、『プラトン全集1』所収、岩波書店を参照)。
 深き哲学も信念もない、付和雷同の人間たちが何と言おうが、かまわないではないか。
 大事なことは、ただ一点、正義と真実の道を歩んでいるかどうかだ、というのである。
 ソクラテスは、その通りの人生を生きた。弟子のプラトンもまた、師の教えを胸に生き抜いた。
 無実の罪で刑死させられた師匠の仇を討ち、師匠の正義を人類の永遠の歴史に光り輝かせていったのである。
32  大恩を忘れない
 創価の三代の師弟も、誇り高き師弟の道を歩み通してきた。
 戸田先生は、日本の広宣流布の基盤を築き、軍国主義と戦って殉教された牧口先生の仇を討たれた。
 私は、戸田先生のために死力を尽くして戦った。先生をお守りするためには、わが身を顧みなかった。
 弟子として、師匠のために何ができるか──ただ、そのことだけを考えていた。
 そして、先生亡き後は、全世界に平和の連帯を広げ、恩師の偉業を宣揚することで、戸田先生の仇を討った。
 これが、本当の「創価の師弟」である。「弟子の道」である。
 私と対談集を発刊した、オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン博士は、こう語ってくださった。
 「池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の言葉には、いつも、恩師への敬慕と心からの感謝が、あふれています。戸田第二代会長から受けた恩の深さを、決して忘れることはありません」
 「本当に偉大な変革者や指導者は、先人や過去の業績を讃えるものです」
 私は、今も、胸中の戸田先生と対話をしながら、世界広布への指揮を執っている。
 皆様も、この「師弟の大道」をまっすぐに進み抜いていただきたい。断じて勝利の人生を飾っていただきたい。
 「君よ、生涯、わが誓いに生き抜け!」と申し上げて、私のスピーチを結びたい。長時間、本当にありがとう!

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