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日蓮大聖人・池田大作

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ドクター部・白樺会・白樺グループ合同研…  

2008.8.9 スピーチ(聖教新聞2008年上)

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2  抜苦与楽の仏法
 私は、戸田先生が筆で認められた「慈悲」の二文字を石碑に刻み、留めてきた。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「生命を慈しむ知恵が一番大事だ」
 「仏法の慈悲とは『抜苦与楽』といって、人々の苦しみを抜き、喜び、楽しみを与えゆくことである」
 その通りに、一番、大事な「生命尊厳」の智慧を光り輝かせ、そして「抜苦与楽」の慈悲の具体的な行動に邁進しているのが、ドクター部、白樺の皆様方である。
 トインビー博士とも論じ合った、古代ギリシャの「西洋医学の父」ヒポクラテス。
 有名なヒポクラテスの全集には「医師が知恵を愛する人であれば神にも等しくなる」(大槻マミ太郎訳「品位について」、『ヒポクラテス全集2』所収、エンタプライズ株式会社)とある。
 皆様は、妙法という最極の智慧を持った。これほど尊貴な人生はない。
 仏法の真髄を行ずる皆様方とともに、全同志の健康長寿を祈りつつ、スピーチさせていただきたい。
3  献身に感謝!
 皆様方の日ごろの活躍の様子は、つぶさにうかがっている。全国の会員から、多くの喜びと感謝の声が寄せられている。
 酒井ドクター部長が必死で時間をやりくりしながら、全国を駆けめぐっていることも、よく存じ上げている。
 九州では、広田雄一九州ドクター部長を中心に、健康セミナーを活発に開催。毎年、約5,000人の友人が参加され、地域広布推進の大きな原動力となっている。
 きょう(9日)は長崎の「原爆の日」である。若き平和の連帯を広げる長崎総県の青年部長も、ドクター部である〈木村泰男総県青年部長〉。各方面で、青年医学者が見事に成長している。
 関西でも、中泉明彦関西ドクター部長を中心に、ドクター部と白樺の皆さんが一体となって行った健康セミナーに、大きな反響が広がっている。東北でも、ドクター部の健闘が目覚ましい。信越では、たびたびの震災の折に、ドクター部、白樺の皆様方が、尊い救援の医療に献身してこられた。
 世界でも、ドクター部、白樺の方々の活躍が光っている。きょうはマレーシアの代表も参加してくださった。
 そして、今回の研修には、12人の創価同窓生が参加されている。
 創価医鳳いほう会(東西の創価学園出身の医師・歯科医師、医・歯学部生・院生の集い)のメンバーは、酒井ドクター部長をはじめ、350人を超える堂々たる陣容となった。創立者として、本当にうれしい。
 さらにこのほど、青年を中心に作成に取り組み、ドクター部の歌「生命の世紀」も誕生した。おめでとう!
 ここで、全員で歌ってはいかがだろうか。〈ドクター部全員で大合唱した〉
 いい歌である。この歌とともに、「健康の世紀」「生命の世紀」へ晴れ晴れと出発していただきたい。
4  師弟不二は尊極の結合
 学会の、永遠の勝利の基盤を築く。そのために今、私は全力を挙げている。
 「大作は、俺が何を考えているか、全部、分かっている」と戸田先生は言われた。
 私は先生と二人、将来の構想をさまざまに語り合ってきた。ご構想は、ことごとく現実のものとしてきた。
 一番大事なのは格好でも建物でもない。「師弟」の心である。どんな立派な建物を残そうが、この根本を間違えたら大変だ。
5  私は、「師弟」という一点、戸田先生に尽くし抜いたという一点だけは胸を張ることができる。
 私は、今回のアメリカ・デューイ協会からの「終身名誉会員」をはじめ、皆さんを代表して、世界から3,200を超える顕彰をいただいた。
 これも、大学を断念し、青春のすべてをかけて戸田先生にお仕えした功徳と思っている。一つ一つ、牧口先生、戸田先生に捧げる思いで拝受してきた。
 師弟の道には、少しの“疵”もあってはならない。どんなに一生懸命、戦ったとしても、毛筋ほども慢心があれば、もはや、それは「不二」ではない。
 師弟とは、それほど峻厳な世界である。
 戸田先生は言われた。
 「自分が偉くなったように思うものがあるが、それは、慢心を起こすもとである。ゆえに、気をつけなくてはならぬ」
 「偉くしてあげた人間が皆、いざという時、逃げていった。恐ろしいものだ」「驕り高ぶった人間はいらない」
 先生は、社会的地位の高い人間ほど、厳しく戒めておられた。
 「本来は、人を救う立場にありながら、反対に人をみくだし、利用している輩も多い」
 大切な皆様だからこそ、あえて言い残しておきたい。
 ともあれ師匠とは、弟子に自分以上に偉大になってもらいたいと思い、手を尽くしてくれる存在である。
 その恩に報い、尽くしていくのが弟子の道である。
 私はその道を貫いてきた。「師弟不二」に流れるこの尊極の結合を、知性光る皆様は知っていただきたい。
6  「アメリカの良心」といわれたジャーナリストで、医学部の教授としても活躍したノーマン・カズンズ博士は、忘れ得ぬ友人である。対談集も発刊した。〈『世界市民の対話』〉
 博士の言葉にこうある。「人間の脳の150億個の神経細胞が、考えや希望や心構えを化学物質に変える力ほど驚異的なものはない。そこですべては信念から始まると言っていい。我々の信ずるものが、何よりも強力な選択なのである」(松田銑訳『人間の選択』角川選書)
 信念から、すべてが始まる──信念の究極が「信心」である。
7  人に尽くす人こそ尊貴
 博士はこうも言われた。「医術に必要なのは、何よりもまず、医師が助けを求める患者の声に人間味に富んだ反応を示すことである」(同)
 患者にとって、医師や看護師に「人間として」温かく接してもらえることが、どれほどの安心になるか。
 ご承知の通り、私は幼いころから病気との闘いだった。ゆえに、患者の気持ちは人一倍分かる。
 戦時中、東京・蒲田の新潟鉄工所で働いていた時、倒れた私に、ある中年の看護師さんが、本当に親身になってくださった。今でもその人のことは忘れられない。ずっと感謝の題目を送らせていただいている。
 軍需工場での過酷な労働、厳しい軍事教練に、結核の私はとうとう倒れて、医務室に担ぎ込まれた。
 その時、看護師さんは「ちゃんとした病院で診てもらいましょう」と早退の手続きをとり、病院まで付き添ってくださった。
 庶民には車など考えられない時代である。私は看護師さんに励まされながら、ゆっくりゆっくり病院まで歩いていった。
 彼女は転地療養を勧めてくれ、病院でも、鹿島の療養所に行くことを命じられた。そして、ベッドの空きを待っているうちに終戦となったわけである。
 暗い時代であった。私には、戦争と病気という死の影が付きまとっていた。その中で出会った人の優しさが、どれほど希望になったことか。
 私は戸田先生の言葉を思い出す。「地位とか名声とか、それが何だというのだ! 大事なのは、一人の人間としてどうかだ。人々のために何をやったかではないか!」
 私も本当にそう思う。学歴や肩書ではない。人に尽くしている人が尊いのである。
 古代ギリシャの詩人ホメロスが「医者というものは(中略)他の者幾人にも価する」(松平千秋訳『イリアス(上)』岩波文庫)と綴ったように、人の命を預かり、救う人たちの使命と誇りは大きい。
8  建康社会を!
 ヒポクラテス全集にこうあった。
 「自分自身を守ってくれるものはすぐれた人間だということ、塔でも城壁でもなく、賢者の立派な考えだということを知っている国家はしあわせである」(今井正浩訳「書簡集」、『ヒポクラテス全集2』所収、エンタプライズ株式会社)
 建物ではなく、優れた人間こそ、社会の宝──これは、古今東西の真理だ。
 創価学会という「最高の賢者の集い」に加わった皆様である。
 大切な創価の師弟を守り、社会に健康への希望を贈る人であっていただきたい。
9  本年の悔いなき総仕上げへ、いよいよ新たな出発である。
 同志の中へ飛び込んで、仲良く、どこまでも仲良く、励まし合って進むのだ。
 学会活動は、福運をつくる源泉である。
 同志を心から讃えていくのだ。そこに喜びが広がる。新しい人材が集まってくる。
 いい人生を、ともに生きよう!
 広宣流布の大きな原動力となって、偉大な歴史に残る一生を飾っていただきたい。
10  命こそ絶対の宝
 近代看護の母・ナイチンゲールは言った。
 「私たちに必要なものは何でしょうか。すべての根底に高い主義をもつことです」(浜田泰三訳『ナイチンゲール書簡集』山崎書店)
 「命こそ絶対の宝」との信念を貫くドクター部、白樺の皆さんは、生命讃歌の心であふれている。
 何度も大病を克服された、アメリカのカズンズ博士は、ご自身の体験をこう綴っておられる。
 「私は決して、自分の回復に看護婦の人たちが果たしてくれた大きな役割をおろそかにするつもりはない。入院中に一番感銘深かったのは、実にそのことである。あの人たちの知識と深い思いやりと力ぞえとがどれだけ病気克服の助けになったかしれない」(松田銑訳『生への意欲』岩波書店)
 慈愛の看護に励む白樺の友は、自身の人間革命を根本に、他の人にも人生勝利の力を引き出すのだと、戦っておられる。
 どれだけ多くの人々が勇気づけられ、救われたことか。
 心から讃え、感謝申し上げたい。
11  「少少の難はかずしらず」
 広宣流布は、生命の尊厳を踏みにじる「魔」と、生命を最大に尊厳あらしめる「仏」との大闘争である。
 御本仏の日蓮大聖人御自身が、命を付け狙う魔軍との戦いの連続であられた。
 「開目抄」には「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」と仰せである。
 その「四度の大難」の一つが「松葉ケ谷の法難」であった。
 それは、大聖人が「立正安国論」をもって、鎌倉幕府の最高権力者を諫暁なされた翌月、文応元年(1260年)の8月27日の夜中であった。
 鎌倉の松葉ケ谷に構えられた大聖人の小さな草庵を、数千人とも、また数万人とも言われる多数の暴徒が襲撃した。
 それは、「立正安国論」で呵責された後、幕府の要人や坊主らが結託して、こともあろうに、御本仏の殺害を企てた陰謀であった。
 「国主に用いられない法師であるから、殺しても罪はない」と、念仏者や群衆を使って大挙して押し寄せたのである。
 小さな草庵は、防ぎようもない。
 しかし、大聖人は、この絶体絶命の法難も厳然と免れられた。
 それは、なぜか?
 この「松葉ケ谷の法難」について残されている御書の記述は、数少ない。
 そのなかでも、こう仰せである。
 「権勢をもつ者どもが寄り集まり、町人等を集めて、数万人の者が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を亡きものにしようとした。しかし、十羅刹女の御計らいであろうか、日蓮は、その難をのがれたのである」(同1294㌻、通解)
 ここに、「十羅刹女の御計らい」とは、まことに甚深の一節である。
 「十羅刹女」は、法華経に登場する十人の女性の諸天善神である。
12  法華経の陀羅尼品において、十羅刹女は、仏の御前で、母たちの代表ともいえる鬼子母神らとともに、声をそろえて、誓願を立てた。
 「世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す」
 法華経の行者を、衰えさせたり、患わせたりする魔の働きは、断じて許さないというのである。
 彼女たちの烈々たる誓願は続く。趣意は次のようになる。
 「悪党どもよ! お前たちが私の頭に乗って、踏みにじろうとも、それは、まだいい。
 しかし、法華経の行者を悩ませることは許さない。夢の中でさえ、行者を悩ませはしない!」
 「もしも、妙法の説法者を悩ませ、乱すならば、その者は頭破作七分(=頭破れて七分に作る)の大罰を受ける。
 妙法の師を犯す者は、父母を殺す罪や、提婆達多の破和合僧の罪のごとき大罪を得ることになる」と。
 このように叫んだのが、十羅刹女であった。十羅刹女には、生命論的に重要な意義がある。
13  その十羅刹女の計らいがあればこそ、松葉ケ谷の法難を乗り切ることができたと、御書には仰せなのである。
 さまざまな説があるが、この御文からは、たとえば、ある女性の門下が、事前に襲撃の陰謀を察知して、急いで大聖人に知らせて、お護りした──とも推察できょう。
 乙女であったのか、それとも婦人であったのか──。
 それは、人知れぬ、そして、命を賭した名もなき女性の戦いであったかもしれない。
 いずれにしても、最も正しい法華経の行者を、断固として守る。それこそが、現実に法を守ることである。
 正法の指導者がいなければ、「立正安国」もない。「広宣流布」もない。「令法久住」も、絶対にありえないからである。
 だからこそ諸天善神は、広宣流布を成しゆく正義の師の厳護を誓ったのである。
 その誓いは、大聖人の法難の折々に、厳然と果たされてきたといってよい。
14  無名の庶民が広布の師を厳護
 この松葉ケ谷の法難の翌年、伊豆流罪の折も、船から上がって苦しんでおられた大聖人を、真心込めてお世話した無名の庶民がいた。
 船守弥三郎と、その妻である。
 蓮祖は、この夫妻に最大に感謝されながら、「法華経を行ずる者を、諸天善神等は、あるいは男性となり、あるいは女性となり、形を変えて、さまざまに供養して助ける」(御書1445㌻、通解)と示されている。
 諸天善神といっても抽象的な存在ではない。それは、現実の人間の具体的な行動としても現れるのである。
 佐渡流罪の折も、権力者の厳しい監視のなか、命がけで大聖人のもとへ食事をお届けした、阿仏房と千日尼の夫妻がいた。
 大聖人は、千日尼に「ただ日蓮の亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか」(同1313㌻、通解)と言われている。
 大聖人の御遺命通りに広宣流布を成し遂げゆく仏意仏勅の創価学会の歴史においても、いざという時、一心不乱に師匠を護り、同志を護り、学会を護り抜いてきた崇高な女性たちがいることを、深く知らねばならない。
 そして、そのなかでも、模範の中の模範の存在が、白樺の皆様方なのである。
 また、女性ドクター部の方々なのである。
15  変毒為薬の仏法
 十羅刹女の誓願には「諸の衰患を離れ、衆の毒薬を消せしむべし」ともあった。
 それは、病魔をも打ち破る力、妙法を唱え弘めゆく人に健康と安穏をもたらす力である。
 有名な「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」との御文の後には、こう記されている。
 「十羅刹女は、法華経の題目を持つ者を守護すると経文にある」
 「十羅刹女のなかでも、皐諦女の守護がとくに深いことであろう」(同㌻、通解)と。
 皐諦女の名は「幸諦こうだい」とも書く。大聖人は「皐諦女こうだいにょは本地は文殊菩薩なり」とも仰せである。
 大いなる力用を発揮しながら、どんな所にあっても、法華経の行者を守護していく。いかなる病魔も災いも、変毒為薬して幸福へと導いていくのである。
 まさに、白樺の皆さんが凛然と立ち上がり、正義の心をだれよりも燃やして、人々の幸福のために進んでいかれる姿にも通ずる。そのスクラムの拡大こそが、希望の拡大、健康の拡大なのである。
 なお、かつて大聖人が「松葉ケ谷の法難」
 や、「竜の口の法難」を受けながら戦われた鎌倉にも、“安心と希望のセンター”として、素晴らしい文化会館が誕生した。
 さらに、「竜の口」に立つSGI教学会館には、海外の友が勇み訪れ、力強く前進する地元の同志と有意義な交流を重ねている。
 大聖人が、どれほどお喜びであろうか。
16  アメリカの女性ジャーナリスト、社会活動家であるドロシー・デイ(1897〜1980年)の言葉を贈りたい。
 「難しそうに見える仕事こそ、立派にやり遂げる価値があるというものです」
 皆さんの使命は、大きく、あまりにも尊い。
 偉大なる生命の可能性を信じ、生死の断崖に立つ友に、生き抜く力を贈っていくのだ。
 広宣流布といっても、「一人」を救うことから始まる。これが、永遠の大法則であることを断じて忘れてはならない。
 ともどもに、健康長寿の人生を、生きて生きて生き抜こう!
17  医師にとって、大切な要素は何か。
 古代ギリシャの医者ヒポクラテスの全集には、こう記されている。
 「医師はある生き生きした雰囲気といったものを身につける必要がある。しかつめらしい固さは、健康な人にも病人にも拒絶的な感じを与えるからである」(大槻マミ太郎訳「品位について」、『ヒポクラテス全集2』所収、エンタプライズ株式会社)
 その通りである。
 医師が深刻な、気むずかしい顔ばかりしていたら、周りの人は近寄りがたく感じてしまう。
 患者も、病気や治療に対する疑問、悩みなどを率直に話すことはできないだろう。
 反対に、医師が生き生きとして、気さくな感じであれば、患者も話しかけやすい。
 それだけで、不安がやわらぐこともある。
 当然、治療の「技術」が大事だが、医師の「人間性」もまた、患者にとっては重大な意味を持つのである。
 ヒポクラテス全集には、「人間への愛のあるところに医術への愛もある」(大槻マミ太郎訳「医師の心得」、同)と綴られている。
 医学の根本は、人間への慈愛であるといえよう。
 病気と闘う患者に安心を与え、希望を贈っていく。皆様は、そうした人間性の光る「名医」であっていただきたい。
18  誠心誠意で治療
 生命の究極の法理を説き明かし、一切衆生の苦悩を除きゆく仏は、「大医王」と讃えられる。
 大医王たる釈尊の弟子には、「医聖」と謳われる名医・耆婆がいた。この釈尊と耆婆の師弟については、さまざまなエピソードが残されている。
 そもそも、この師弟が出会ったきっかけは、どのようなものであったか。
 仏典によれば、医学を修めた若き耆婆は、故郷・マガダ国に帰って医師としての活躍を開始した。
 当時、マガダ国の都(王舎城)では、頻婆舎羅王をはじめ多くの者が、釈尊に帰依していた。ゆえに耆婆も、釈尊のことを耳にする機会は、たびたびあったと考えられる。
 しかし、耆婆は当初、自ら進んで釈尊に帰依するには至らなかったようだ。
 そうした時、幼少時代からお世話になっていた一人の女性から、耆婆婆が“釈尊の教えに親しんでいない”ことを、鋭く責められたのである。
 当代随一の医術を持つ耆婆の生命の奥底に、正しい教えを求めようとしない慢心があることを、女性の慧眼は鋭く見抜いたのではなかろうか。
 耆婆も、さすがである。自らを思いやってくれての指摘に、感じるところがあったようだ。
 「このようなことを自分に教えてくれて、ありがとう」と女性に感謝を述べた。そして、自ら釈尊のもとへ向かい、教えを受けるようになったと伝えられている。
 こうして、釈尊と耆婆の師弟の出会いは実現したのである。
 以来、耆婆は、釈尊の体が不調の時には、誠心誠意を尽くして治療に当たった。
 ある時は、“釈尊には、転輪聖王(=全世界を統治するとされる理想の王)が服用するような最高の薬を調合するのだ”との思いで、薬をつくり、師のもとに届けた。
 また、釈尊の健康を考え、栄養を補うための「滋養食」をつくって、供養したこともあるとされる。
 弟子・耆婆は、仏法への求道心を深めながら、釈尊に仕え、その健康を護った。
 師匠・釈尊は、耆婆が人間として、医師として大成していくための薫陶を惜しまなかった。それは、まことに麗しい「師弟の絆」であった。
19  同志を見下すな
 愛弟子を善導するための師の訓練は、厳しかった。
 耆婆が自宅に、釈尊とその弟子たちを食事に招いた時のことである。
 釈尊は、弟子の修利槃特すり・はんどくが来ていないことに気がつき、耆婆にこのことを尋ねた。
 耆婆は答えた。
 ――修利槃特は愚鈍であると聞いているので、招待する必要はないと思いました、と。
 釈尊は、耆婆の心に巣くった傲慢な命を見抜いて戒めた。
 ――皆、かけがえのない尊貴な弟子ではないか。それがわからず、仏弟子を見下す者こそ愚かであり、自分自身を傷つけているのだ。
 釈尊は、その場に修利槃特を呼び、地道な修行によって、見違えるように成長した修利槃特の姿を耆婆に見せた。
 驚嘆した耆婆は、自らの非を心から悔い、修利繋特に謝ったのである。
 有徳の人と聞けば尊敬するが、愚鈍の人と聞けば見下してしまう――。
 釈尊の指導は、こうした耆婆の傲慢な心を打ち破り、人間生命に平等に慈愛を注ぐという、医師のあり方の真髄を教えるものであったといってよい。
 耆婆は、師の厳しい指導もまっすぐに受け切っていった。だからこそ、真実の「医聖」「医王」となり得たのであろう。
20  深き信念を持て
 著名な心臓外科医であり、私と対談集を発刊したヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長は語っておられた。
 「人間の未来も、医学の未来も、すべて自身の中にあるのであって、それは自分自身が築いていかなければならないのです」
 いい言葉である。
 すべて自分で決まる。
 だからこそ、信心で強き自身を築いていくのだ。無限の可能性を開いていくのだ。
 中国・唐の時代に活躍した大医学者・孫思邈そん・しばくは述べている。
 「およそ名医たらんとする者は治療に当たっては、必ず精神を安らかに統一し、欲求心を捨て、まず大悲大慈、惻隠そくいんの心を発し、あまねく庶民の苦痛を救うことを願うべきである」(千金要方刊行会編集『備急千金要方』千金要方刊行会)
 お金や名声のためではない。どこまでも、人々のため、庶民のために尽くすのだ――こうした深き信念に生き抜く人こそ、本当の「名医」であろう。
 孫思バクは、こうも記している。
 「思うに人命こそ最高至上、貴きこと千金に価するものであり、一つの処方にてそれを救うところの徳は、千金を超える」(同)
 この世で最も尊い「生命」を護り、救うために献身する。力を尽くしていく。そのこと自体が、最高に尊貴な行動なのである。
 また、ヒポクラテス全集には綴られている。
 「遅いということはどんな術にとっても敵なのだが、医術にとってはまさしくそうである。
 そこでは、遅れは生命にかかわることだから。好機とは治療の真髄であり、それをのがさないように注意するのがその目標である」(今井正浩訳「書簡集」、前掲『ヒポクラテス全集2』所収)
 医療の現場においては、わずかなスピードの違いが、生命を左右する重大な結果をもたらす場合がある。
 次元は異なるが、私も「電光石火の行動」で、あらゆる戦いに勝利してきた。迅速な対応で、世界広布への道を開いてきた。
 もたもたして、好機を逃せば、勝てる戦いも勝てなくなってしまう。対応の遅れが、大敗北をもたらす可能性さえある。
 これは万般に通じる鉄則といえよう。
21  社会で実証を
 耆婆には、卓越した才能があった。その実力は、釈尊という偉大な師と巡り合い、弟子の道を歩み通すなかで、見事に発揮されていったのである。
 耆婆は、マガダ国の大臣も務めるなど、社会においても大きく活躍した。
 また、提婆達多にたぶらかされて釈尊を迫害した権力者・阿闍世王を敢然と諌め、仏法へと導いている。
 御書には「阿闍世王の眷属五十八万人が、仏弟子に敵対している中で、ただ耆婆大臣だけが仏(釈尊)の弟子であった」「(阿闍世王は)耆婆大臣が仏弟子であることを快く思われなかったが、最後には他の六大臣の邪義を捨てて、耆婆の正法につかれたのである」(御書1160㌻、通解)と仰せである。
 医師として、病魔から師匠の生命を護る。
 仏弟子として、仏法を破壊する敵とは敢然と戦い抜く。
 そして、社会で見事な実証を示し、師匠の正義を宣揚する。
 これが、釈尊の真実の弟子である耆婆の生き方であった。
 この耆婆を、大聖人は「後世の医師の師の存在である」(同1479㌻、通解)と仰せになられた。
 わがドクター部の皆様も、医師としての「正しい道」、そして師弟の「正しい道」を歩み通していただきたい。
 そして、後世の人々から模範と仰がれる、堂々たる勝利と栄光の歴史を残していただきたい。
22  皆さんもご存じの通り、日蓮大聖人の門下には、名医の四条金吾がいた。
 師の仰せ通りに幾多の難を乗り越え、勝ち越え、社会に信頼と勝利の旗を打ち立てた。
 とともに、医学の心得を存分に生かして、大聖人の御健康をお護り申し上げた。
 はるばる身延に馳せ参じて、懸命に大聖人の治療に当たり、衣食の環境も整えた。
 そのおかげで大聖人は快方に向かわれ、「このたび私の命が助かったことは、ひとえに釈迦仏が、あなたの身に入りかわって助けてくださったと思っております」(御書1185㌻、通解)と、心からの感謝を綴っておられる。〈弘安元年(1278年)10月〉
23  「四条金吾殿は同志を護る人」
 翌年の弘安2年に大聖人は、病魔と闘う富木常忍の夫人に対し、「(あなたには)善医がいます。四条金吾殿は法華経の行者です」(同985㌻、通解)、「(金吾は)極めて負けじ魂の人で、自分の味方(信心の同志)を大切にする人です」(同986㌻、通解)等と励まされている。
 大聖人がどれほど金吾を信頼しておられたか、うかがうことができよう。
 わがドクター部も、「負けじ魂」を燃やして、同志を守り抜き、信頼される「妙法の善医」となっていただきたい。
 これが、牧口先生、戸田先生の願望でもあったからだ。
24  カナダ・モントリオール大学の学長を務めた、ガン研究の第一人者であるルネ・シマ一博士は語っておられる。
 「医者と患者の聞のコミュニケーションでは、あらゆる機会をとらえて、患者に希望をもたせるように心がけるべきです。
 患者が医師と治療の結果を信じ、苦しみを克服し、不安や苦痛に耐えていけるのは、ひとえに、この希望があるからです」と。
 医師の皆さんは、患者に「希望」を贈っていただきたい。これは医療の世界だけに限らない。どんな分野であれ、リーダーは皆に「希望」と「指針」を示す責務があるといえよう。
 戸田先生も、まことに厳格で、厳しい先生であったが、弟子である私たちに大いなる希望を持たせてくれた。
25  また、同大学の教育学部教授で生命倫理の権威であるギー・ブルジョ博士は述べておられる。
 「(医師には)専門的な医師としての立場とともに、パートナーとしての多角的で相互補完的で、意識的で配慮に満ちた行為が求められるのです」
 シマ一博士、ブルジョ博士のお二人と私は対談集『健康と人生──生老病死を語る』を発刊している。
 医者は、患者のパートナーとして──ブルジョ博士のこの指摘は、ますます重要になてくると思う。
26  「まことの時」に模範を示せ
 さらに、四条金吾に与えられた御書を拝していきたい。
 弘安元年の9月。大聖人は金吾に、こう仰せになられた。
 「日蓮の死生を、あなたにおまかせしています。他の医師は、まったく頼まないつもりでおります」(御書1182㌻、通解)
 師からこれほどまでの信頼を勝ち得た四条金吾の生命の誉れは、永遠に不滅である。
 四条金吾は、あの「竜の口の法難」の折も死を覚悟して駆けつけ、大聖人にお供した。
 佐渡へ流罪された大聖人のもとへも、馳せ参じた。「まことの時」──いざという時に、師弟不二の模範を示し切ったのである。
 さらに、夫人の日眼女も、金吾と共に、大聖人に真心を込めてお仕えした。厳寒のなか、日限女がお届けした白小袖の衣を、大聖人が、それはそれは喜ばれた様子も御書に留められている。〈同1195㌻〉
27  「仏法と申すは道理なり」
 四条金吾は、夫妻で同志と力を合わせて、広宣流布のために生き抜いた。
 金吾の強みは何か。それは、大聖人から直々に厳しい薫陶を受けたことである。そして、いささかもぶれることなく、師の仰せ通りに進み抜いたことである。
 大聖人は金吾に“難を勝ち越える信心”を徹して教えられた。
 「此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり
 「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり、ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず
 「災いも転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起こし、この御本尊に祈念していきなさい。何事か成就しないことがあろうか」(同1124㌻、通解)
 「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず」──火をおこすのに、途中でやめてしまえば、それまでの苦労も無駄になってしまう。信心も同じだ。中途半端では負けてしまう。
 「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」の有名な御聖訓も、金吾に宛てられたものだ。
 信心こそ最高の勇気である。信心こそ最高の正義である。
 また大聖人は、金吾に“絶対勝利の信心”を打ち込まれた。
 「仏法と申すは勝負をさきとし」。また、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」と。
 さらに大聖人は、「強盛の大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい」(同1118㌻、通解)、「120歳まで長生きし、名を汚して死ぬよりは、生きて1日でも名をあげることこそ大切である」(同1173㌻、通解)等と励まされている。
28  「短気になるな」
 大聖人は金吾に対して、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」の指針を根本として、人生に勝つための人間学を事細かに教えておられる。
 また、「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」と、油断大敵の心構えを刻みつけられた。
 「わが味方の人々のことは、少々の過ちがあっても、見ず聞かずのふりをしていきなさい」(同1169㌻、通解)とも仰せである。
 同志を大切にしていくことは、一人一人の広宣流布の種を育てることに通ずる。
 とくに、婦人部、女子部を最大に尊重していくことである。
 「大聖人は仰せである。
 「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり」「此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり
 「自分に勝つ」人が真の賢人なのである。
 金吾が怨嫉され、敵から狙われている時には、「(服装は)あざやかな小袖や、目立つような色のものなどは着ないように」(同1171㌻、通解)とも注意された。
 また、「乗る馬を惜しんではいけない。いい馬に乗りなさい」(同1186㌻、通解)等々、こまやかに心を砕かれている。
 さらに──
 “短気を起こすな” “洒に気をつけよ” “女性を叱るな”
 等々、いずれも、当時の金吾の境遇に適った、具体的かつ大事な指導である。
 師匠とは、何とありがたい存在であるか。そのありがたさがわかる金吾であった。彼はこうした大聖人の仰せを深く心に刻み、その仰せのままに戦おうと、一念を定めた。大事なのは、弟子が一念を決めることである。
29  「負けない人」は身を惜しまない
 金吾は、「妙法を毀る人には、いよいよ強く、説き聞かせるべきである」(同1123㌻、通解)との大聖人の仰せ通りに、堂々と正義を叫び抜いた。悪に対しては痛烈に攻撃していった。
 怯まずに戦いながら、金吾は一つ一つ、苦難を跳ね返して、自分自身の地盤を築いていった。
 大聖人は金吾に、こう言われている。
 「『四条金吾は、主君の御ためにも、仏法の御ためにも、世間に対する心がけも立派であった、立派であった』と鎌倉の人々から言われるようになりなさい」(同1173㌻、通解)
 その通りに金吾は、職場でも、地域でも、見事に結果を示していったのである。
 金吾は、師匠と直結したゆえに「師子」となった。師匠にお供して恐れなく進んだゆえに「師子」となった。
 師のために、わが身を惜しまず戦い切ったゆえに、何ものにも負けない、永遠に讃えられる偉大な「師子」となったのである。
30  「法華経の命を継ぐ人」に
 大聖人は記されている。
 「たとえ殿(=四条金吾)の罪が深くて地獄に堕ちられたとしても、その時は、日蓮に『仏になれ』と釈迦仏がどんなに誘われようとも、従うことはないでありましょう。あなたと同じく、私も地獄に入りましょう。
 日蓮と殿とが、ともに地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も地獄にこそおられるに違いありません」(同1173㌻、通解)
 さらにまた、金吾にこうも仰せである。
 「あなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからである」(同1169㌻、通解)
 「師弟不二」の心とは、これほどまでに深いものなのである。そして、これが学会の師弟の原浬でもある。
 牧口先生と戸田先生、戸田先生と私は、この師弟の原理のままに歩んできた。
 だからこそ、だれ人も想像できない、今日の世界的な創価学会を築き上げることができた。
 今こそ、師匠の命を継ぎ、仏法の命を継ぎ、学会の命を継ぎゆく、真の後継者が躍り出る時だ。
 ドクター部・白樺の皆さんは、十羅刹女の誓願、また耆婆と四条金吾の師弟の闘争に連なる方々である。
 ともどもに、末法万年尽末来際のために、この世で最も尊極な「師弟不二」の勝利の劇を、厳然と残しゆくことを決意し合いたい。

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