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日蓮大聖人・池田大作

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青年部代表研修会  

2008.8.1 スピーチ(聖教新聞2008年上)

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1  青年部代表研修会の開催、おめでとう!
 いよいよ8月8日から、北京オリンピックが開幕する。
 うれしいことに、わが創価の青年も、日本の代表として、多くの競技に出場することが決まっている。
 全員で、大健闘を祈り、大声援を贈りたい。
 〈男子棒高跳びの澤野大地選手、男子サッカーの森本貴幸選手をはじめ、男女の代表選手の活躍に大きな期待が寄せられている〉
 今回、ブラジルの女子部であるホザンジェラ・コンセイソンさんも、女子レスリング(72K級)でオリンピックに出場する。
 さらに先ほど、イタリア男子部の本部長であるジリ・ヴルチェクさんが、レガッタ(ポート競技)で、オリンピック出場が決定したとの朗報が届いた。
 今、日本で世界で、わが青年部の活躍と貢献が光っている。スポーツ界にも、新たな人材の流れが大きく広がってきており、私は本当にうれしい。
 今回の五輪出場も、それを勝ち取るまでには、どれほどの努力があったことか。厳しい練習に耐えてきたことか。身を切るような辛い試練を乗り越えてきたことか。
 その目には見えない、地道な陰の労苦をこそ、私は讃えたい。
 その挑戦の心、負けない心に、青春の「勝利の栄冠」は燦然と輝くのだ。
 〈イタリア代表のジリ・ヴルチェクさんは「私の目標は勝利すること、池田先生のお心に少しでも近づくこと、広宣流布に、この身を捧げることです」と決意を語っている〉
2  希望の祭典に!
 本年9月、私が「日中国交正常化提言」を行ってから40年の節目を迎える。
 〈1968年(昭和43年)9月8日、1万数千の青年を前に名誉会長は日中の国交正常化を提言。当時まだ両国関係が険悪だったなか、勇気をもって行われた提言は、「百万の味方を得た」(日中友好の草分けの政治家・松村謙三氏)、“池田会長の友好への提唱が、うれしい”(周恩来総理)など国内外に反響を広げ、4年後の日中国交正常化を大きく推進した〉
 日中友好は牧口先生、戸田先生の願いでもあった。
 私も一民間人の立場ではあるが、一つ一つ可能なかぎり、手を打ってきたつもりだ。
 批判や中傷の連続であった。しかし、日中友好を推進してきたことの正しさは歴史が証明している。
 「平和の祭典」である五輪の中国開催についても、私は、アジアと世界の友好にとって深い意義があると思い、中国の首脳と語らいを重ねてきた。
 〈名誉会長は、中国での五輪開催を展望していた周総理の心を心として、1990年に李鵬首相と五輪開催について語り合う。開催決定後も中国人民対外友好協会の陳昊蘇ちん・こうそ会長、中日友好協会の宋健そう・けん会長、歴代の駐日大使らと語らいを。昨春の温家宝おん・かほう総理、今春の胡錦濤こ・きんとう国家主席との会見でも話題となり、胡主席からは、名誉会長の北京五輪への支持に対して、深い感謝の言葉が伝えられている〉
 また、先の四川しせん大地震の被災者の皆様方に重ねてお見舞いを申し上げ、北京五輪が復興への「希望の祭典」となることを心からお祈り申し上げます。
3  もう一つ、五輪に関して、創価の青年の活躍を紹介したい。
 北京のメーンスタジアムをはじめ、各会場に映像・音響設備を提供するプロジェクトを推進している一人は、創価学園・創価大学出身のメンバーである。
 〈関西創価高校16期生の千原陽一郎さん〉
 今、若き門下生たちが、師弟の無限の力を発揮して、世界の大舞台に躍り出ている。頼もしいかぎりだ。
 人類貢献の人材をさらに育成しながら、「青年の世紀」「人材の世紀」を力強くリードしてまいりたい。
4  恩師の師子吼
 きょうは青年の皆さんに私の青春時代のことを語らせていただきたい。
 恩師と二人して築いた、師弟の真実の精神を、後継の青年部に託しておきたいのだ。
 昭和26年(1951年)5月3日。
 恩師の戸田先生は、第二代会長に就任され、生涯の願業として「75万世帯の達成」を師子吼された。
 私の青春時代の夢。
 それは、戸田先生の「75万世帯達成」という夢を実現すること、ただ、それだけであった。私は走った。
 昭和27年、蒲田支部の2月闘争。昭和28年、男子部の第一部隊の拡大。
 同じく昭和28年、文京支部の大前進。当時、文京の折伏成果は低迷していた。
 戸田先生の懐刀として文京に派遣された私は、1年を待たずに文京を第1級の支部へと発展させたのである。
 戸田先生は厳しく言われた。
 「広宣流布のために、いかなる戦いも断じて勝ち取れ! 何をおいても絶対に勝つのだ」──これが、仏法の指導者の強い決意でなくてはならない。
5  皆を勝たせたい
 昭和30年(1955年)4月、民衆のための政治を願い、学会として初めて支援活動を行った統一地方選挙。
 27歳の私は、東京の大田区(都議選)と神奈川の鶴見区(市議選)を担当した。
 “皆を勝たせたい”──当時の日記に、私は記した。「負ければ、本人も、家族も、応援した多数の人々が悲しむ。可哀想だ。負ける戦は、させてはならぬ」と。
 「勝つ」ために、私個人のことは一切、犠牲にした。
 結果は、大田も、鶴見も、見事にトップ当選!──信頼する同志は歓喜に沸き返り、戸田先生も拍手喝采して喜んでくださったことが、私は、本当にうれしかった。
6  昭和30年8月には、「札幌・夏の陣」に挑んだ。
 戸田先生の命を受け、札幌の夏季折伏の主将として、真夏の10日間の短期決戦で、「388世帯」という日本一の折伏を成し遂げたのである。
 当時は、北海道に行くのも列車であった。
 上野駅を午前10時前に出発。青函連絡船を乗り継ぎ、札幌駅に着いたのは、翌日の午前11時過ぎ──。
 駅で迎えてくれた札幌の同志に、私は笑顔で語りかけた。
 「戦いは勝ったよ!」と。
 いかなる戦いも「事前の準備」が大事だ。
 短期灘戦であれば、なおさらである。
 私は、約1カ月前に主将に任命されてから、札幌の責任者と手紙などで綿密に連絡を取り合い、下種の拡大、会合の計画などを完壁に進めていた。
 準備は万端。スタート・ダッシュも鮮やかに決まった。北海道の同志と私は、勝つべくして勝ったのだ。
7  戸田先生は、御義口伝の「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」を拝されて、次のように指導された。
 「この御書は、絶対に命に刻んでおけ。学会の闘士は、この一節を忘れるな!」と。
 わが一念に計り知れない辛労を尽くすのだ。題目をあげてあげ抜いていくのだ。師の心をわが心として、死にものぐるいで、広布に行動していくのだ。
 そうすれば、だれ人であろうとも、無敵の「仏の生命」を厳然と涌現できるのだ。「師弟不二」の、わが心の力こそ、最強の武器なのである。
8  夕張の天地で
 北海道といえば、昭和32年に起こった「夕張炭労事件」にも、一言、言及しておきたい。
 北海道の夕張の地で、当時、絶大な勢力を誇っていた炭労が、組合員である学会員を不当に弾圧する事件が勃発したのである。
 “信心をやめないとクビにするぞ!”──信仰ゆえの学会員へのいじめが陰険に繰り返された。
 「泣く子も黙る炭労」とまでいわれた時代だ。
 戸田先生にお願いして、私は急遽、北海道へ飛んだ。
 そして、勇敢なる青年たちとともに「信教の自由」を護りゆく正義の雄叫びを轟かせたのである。
9  アメリカの公民権運動の大指導者キング博士は叫んだ。
 「われわれには威厳があった。なぜならわれわれは自分の運動が正しいことを知っていたからである」(クレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』日本基督教団出版局)と。
 私もまた、「最後は正しい信仰をもった人間が必ず勝つ」との大確信で進んできた。
10  戸田先生は、いつも、一番大変なところに私を行かせた。
 経験豊かな幹部は大勢いたが、しかし、先生は、私を指名した。
 「大作、頼む!」
 「大作、行け!」と。
 一番、大事なのは青年である。
 こうした先生と私の関係を快く思わず、“何とか失敗させてやろう”という意地悪な先輩幹部もいたが、私は、師匠のため、同志とともに悠然と聡明に戦った。
 勝負は、臆病では勝てない。労を惜しんでは勝てない。
 私は、命をかけていた。。肺病だった。壮絶な20代の闘争であった。毎日、本当に疲れていた。
 戸田先生は「これでは大作は30歳まで生きられない」「大作が死んだら、どうするのだ」と慟哭された。
 それほどに私は、師匠に仕えた。学会をつくってきた。
 ともかく、私は勝った。
 一切は、魔との戦い、天魔との戦いなのだ──これが広宣流布である。
 だれも頼れる人はいなかった。しかし、私は戦い切って、勝った。「師弟不二」の心で勝ち抜いてきたのである。
11  いかなる嵐が来ようとも、希望の歌声が響いているかぎり、我らは、断じて負けない。
 歌声とともに、勝利の行進が始まる。
 歌おう! 我らの歌を。わが天地の歌、わが青春の誓いの歌を。
 きょうは、各方面の友も参加されている。ここで、誇り高く、各地の歌を歌ってはどうだろうか。〈代表が立ち、東北の「青葉の誓い」などの歌を披露した〉
 ありがとう!
12  「わが方面を見よ」と誇らかに
 歌は、全生命で歌うものだ。蚊の鳴くような声では、元気が出ない。勢いよく歌おう!
 「どうだ! わが方面を見よ!」「我らの天地を知らないか!」──そういう心意気で歌っていこう。
 晴れ晴れと! 胸を張って!
 昭和53年(1978年)、私は、新しき広布のうねりを起こさんと、多くの学会歌をつくった。
 金国を駆け巡り、同志を励ましながら、方面や県の歌を作成したことが懐かしい。
 あれから30年。今や、どの方面、どの県にも新時代の前進の歌が轟いている。本当にうれしい。
 〈昭和53年、名誉会長が手がけた学会歌は数多い。関西の「常勝の空」、千葉の「旭日遙かに」、中国の「地涌の讃歌」、四国の「我等の天地」、九州の「火の国の歌」、中部の「この道の歌」、東京の「ああ感激の同志あり」、東北の「青葉の誓い」、神奈川の「ああ陽は昇る」、北陸の「ああ誓願の歌」、長野の「信濃の歌」、北海道の「ああ共戦の歌」、茨城の「凱歌の人生」、埼玉の「広布の旗」、新潟の「雪山の道」、栃木の「誓いの友」、山梨の「文化と薫れ」、群馬の「広布の鐘」、静岡の「静岡健児の歌」などである。
 なお後に「新生九州の歌『大九州の友は晴ればれと』」が誕生。沖縄には「沖縄健児の歌」、信越には「美しき信越」がある〉
 今、各グループや各地域に、力強い息吹みなぎる歌が、続々と誕生している。
 世界の同志が、学会歌を響かせながら、威風堂々と大行進している。我らは永遠に、学会歌とともに戦い、学会歌とともに勝ち進もう!
13  「誠実」の二字で
 アメリカの第32代大統領といえば、フランクリン・ルーズベルトである(1882〜1945年)。
 歴代大統領のなかでも、ひときわ評価が高い。国連の創設をリードしたことは有名だ。
 私が対談したアメリカの経済学者ガルブレイス博士も、この大統領を支え、力を発揮していった。
 ルーズベルト大統領が就任したのは、1933年。
 当時は、大恐慌の影響で、アメリカ経済は最悪の状況。失業者もあふれていた。
 大統領は、就任から100日間で次々と手を打ち、経済の立て直しをはかった。
 社会の行き詰まりを打開するためには、一体、何が必要か。
 大統領は、時を逃さぬ果断な行動が大事だと訴えた。
 そして「我々の要求するのは、青年の勇気である」と呼びかけたのである(四至本八郎訳著『ルーズベルトの世界再建論』南光社)。
 人生に必要なものは、勇気だ。
 勇気のない人間は、慈悲がない。本当の喜びもない。卑怯になる。
 仏法者の真髄も、勇気なのである。
 私自身、若き日から勇気を胸に、すべてを勝ち越えてきた。
 あれは、昭和28年(53年)のことである。東京の福生で、学会員の御本尊が、他宗によって、たびたび強奪されるという事件が起こった。
 青年部の私が、相手と直談判し、厳しく糾弾した。それ以降、こうした動きはなくなっていったのである。
 大切な同志が、不当にも、いじめられたならば、ただちに反撃した。徹底して戦った。
 まず、自分が「行動」を起こすのだ。
 「勇気」の二字で! 「誠実」の二字で!
 心すべきは、これだけだ。青年部、頼むよ!〈「ハイ!」と力強い返事が〉
14  精神的価値は物質的価値に優る
 ルーズベルト大統領は、こうも述べている。
 「精神的価値は結局において物質的価値に優るものである」(大道弘雄訳『我等の行く道』朝日新聞社)
 大統領は、精神の土台に確固たる信仰があれば、その揺るぎない力のゆえに、社会の困難にも必ず勝利できると訴えたのである。
 今、精神の価値を復興させゆく、我ら創価の運動に、世界中から支持と賞讃が寄せられている。
 その一つの証しとして、私はこれまで、世界の大学等から242の名誉学術称号をお受けした。
 名誉博士号、名誉教授の称号は、その大学が、威信をかけて授与するものである。
 式典は荘厳であり、一つ一つが最高に重みのある「知性の宝冠」である。
 これらはまた、その国その地で活躍する尊きSGI(創価学会インタナショナル)の同志への賞讃にほかならない。
 皆様の子孫末代までもが、燦然たる栄光と福徳に包まれゆくことを、深く確信していただきたい。
15  結果を勝ち取れ
 使命ある若き指導者の皆さんに、恩師の言葉を贈りたい。
 戸田先生は、厳として叫ばれた。
 「まず自分自身が変わることだ。絶対に人を頼るな! 自分自身が戦え!」
 これが根本だ。
 私自身、「師匠のために何をしたか」──この一点を、わが心に問うて、戦ってきた。
 将来も同じだ。真の功労のない人間が上に立てば、そこから崩れていってしまう。
 ゆえに私は、人材を見極めている。どう学会を発展させるか、その方途を考えている。
 私は真剣だ。少しでも判断を間違えれば、大変であるからだ。
 さらに、戸田先生は強く言われた。
 「敵の動きを見ていなければ、戦いには勝てない。甘えや気取りを捨てよ! 結果を勝ち取れ!」
 気取りがあったら、戦には負ける。
 「自分は偉いんだ」とか、「自分は人気がある」などと思い上がると、力は出ない。
 どんな立場になっても、心をピンと張り、きちっと自分を律して勝利していく。これが信心の力である。
 人はどうあれ、わが使命の仕事に徹していく。これが、新時代のリーダーに不可欠の要件といえよう。
16  悩んだ分だけ境涯は広がる
 スイスの思想家ヒルティは綴った。
 「苦難は人を強くする。歓楽(編集部注=ぜいたくな暮らし)は総じて弱くするのみ」(小池辰雄訳『ヒルティ著作集第4巻』白水社)
 仏法は「煩悩即菩提・生死即涅槃」を教え、「変毒為薬」と説く。
 悩んだ分だけ、境涯は大きくなるのだ。
 戸田先生のもとで、学会を再建してきた私は、痛烈なる人生であった。
 当時に比べれば、今は恵まれている。余裕綽々だ。それに甘えれば、弱くなる。
 血のにじむような苦闘を突き抜けなければ、真に偉大な指導者にはなれない。
 また、忠告する人がいないと、いい気になってしまうものだ。だから私は、核となる人間には厳しく言う。
 皆さんも、下から上へ、どんどん建設的な意見を出すことだ。
17  「要」をつくれ
 私は、皆さんからいただく大切な報告に、一つ一つ、真剣に目を通し、大切にしている。すべてが、偉大なる世界広布の歴史であるからだ。
 きょうは、壮年・婦人部の代表の皆さんも参加されている。
 青年を支え、その成長を応援する地域は、未来へと伸びていく。
 とくに壮年は、若々しく生きるのだ。一人でツンとして、うれしいんだか、悲しいんだか、わからない。そんな指導者では、だれも、ついてこない。
 花の女子部と婦人部を最大に大事にしていくのだ。これほど心強い方々はいない。
 リーダーが、友の奮闘に深く感謝し、大誠実を尽くしてこそ、皆も奮い立つ。
 そして、「要」となる人材を、がっちりとつくりゆくことだ。
 壮大な広布のロマンを語り、学会歌を高らかに歌いながら、皆で仲良く、愉快に、新しい学会を築いてまいりたい。
18  昭和31年(1956年)9月5日。
 私は戸田先生と広宣流布の未来を展望し、協議を行っていた。
 焦点となっていたのは、山口県である。
 当時、山口の会員数は、わずか4百数十世帯であった。
 山口といえば、明治維新の揺藍の地であり、数多くの日本の指導者を送り出してきた天地である。今後とも、日本において重要な地域となっていくことは間違いなかった。
 戸田先生は厳として言われた。
 「中国地方が一番遅れている。大作、お前が行って、指導・折伏の旋風を起こせ!」
 私は即座に答えた。
 「はい。やらせていただきます!」
 こうして、歴史的な山口開拓闘争の火ぶたが切られたのである。
 28歳だった私は、この日の日記に綴った。
 「来月より、山口県、全面折伏の指示あり。小生(=私)、総司令……。義経の如く、晋作の如く戦うか。歴史に残る法戦」
 山口闘争は、翌月の10月、そして11月、さらに翌年1月の3回にわたって行われた。
 全国各地から、山口に縁故のある有志が勇んで集ってくださった。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
 広宣流布へ、心を合わせて進んでいくところに、真実の仏法の血脈は流れ通う。
 私は、山口闘争の渦中で、この御文を通しながら、愛するわが同志に励ましを送った。
 計22日間におよぶ闘争で、山口の会員数は4,000世帯以上へと、じつに10倍近い拡大を成し遂げた。
 「宿命打開と、広布の布石に、全力傾注の闘争せり」(昭和32年1月28日)
 日記にそう記したごとく、私は山口闘争の勝利に全魂を注いだ。
 うわべだけの戦いではない。
 山口闘争は人々の一念を変革し、広布実現への新たな突破口を開きゆく、真剣勝負の戦いであった。
 そしてまた、学会全体をどうするか、日本をどうするか──そうした深い、広い展望に基づいて行われた闘争であった。
 戸田先生は、この勝利を大変に喜んでくださった。
19  「大作を育てたから安心だ」
 先生が、心から信頼し、すべてを託した弟子は私一人であった。
 先生と私は、本当に師弟不二だった。親子以上の関係だった。
 私は先生に尽くし抜いた。広布のために死身弘法で戦い抜いた。
 それこそが「弟子の道」であることを、私は熟知していた。だからこそ、学会は、ここまで発展してきたのである。
 戸田先生は、「大作を育てたから、もう安心だ」と語っておられた。
 今、それほどの弟子がいるかどうか。
 立派な施設もある。会員も多い。学会は、堂々たる世界一の民衆の連帯となった。
 こうした中で、大きな苦労もしていない。広宣流布ゆえの中傷や迫害を受けたこともない──そんな人間が、学会の指導者になったら大変だ。
 だからこそ、青年部に頑張ってほしい。求めて大変なところへ飛び込んでほしい。
 労苦を避け、自分は楽をするような、ずるい人間には絶対になってはならない。多くの先輩を乗り越え、立派な指導者へと育ってもらいたい。
20  胸中の師匠と対話しながら
 昭和32年(1957年)12月、戸田先生の願業であった75万世帯の折伏は成就された。そして翌年の昭和33年4月2日、先生は安祥として霊山へ旅立たれた。
 その翌日の本部幹部会で、私は全青年部を代表して師子吼した。
 “師恩に報いる道は、ただ一つ。戸田先生が命をかけて戦われた広宣流布に邁進する以外にない”
 そして、1カ月後の本部総会で、「七つの鐘」の構想を発表した。愛する学会の同志に、未来への希望と前進の力を送りたかったのである。
 〈「七つの鐘」構想は、学会が創立(昭和5年)以来、7年ごとに“節”を刻み、発展してきたことから、7年を「一つの鐘」の期間として、広宣流布の歩みと構想を示したもの。7つの鐘が鳴り終わる昭和54年までの前進の展望を示した〉
 ともあれ、私は、戸田先生が逝去の直前に言われた「300万世帯」の弘教の達成をはじめ、先生の遺命は、ことごとく実現した。
 常に胸中の先生と対話をしながら、師とともに進んできた。
 先生が亡くなられて今年で50年。私は、真実の弟子として、すべてに勝利したと申し上げたい。
21  「世間にへつらい正義を曲げた」
 日蓮大聖人が入滅された後、高弟であった六老僧のうち、日興上人以外の五老僧は皆、大聖人の教えに違背した。
 日興上人は、五老僧の一人で、身延離山の原因をつくった日向の本性について、次のように喝破されている。
 「世間的欲望が強くて、世間にへつらい、正義を曲げた僧で、大聖人の御法門を世に立てることなど思いもよらず、大いに破る者である」(編年体御書1732㌻、通解)
 世間からほめられたい。認められたい。そうした名聞名利を求める心のゆえに、五老僧は、大聖人の正法正義をねじ曲げてしまったのである。
 これまでの学会の反逆者の多くも、同様であった。
 また日興上人は、「『師を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(大聖人)を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われる」(同1729㌻、通解)と述べ、師に違背した者たちを厳しく指弾しておられる。
 仏法の「師弟の道」は厳しい。しかし、真実の師弟に生き抜く人生は幸福である。皆様は、創価の「師弟の道」を、まっすぐに歩み抜いていただきたい。
 「富士一跡門徒存知の事」には、「日蓮大聖人の例にちなみ、日興が6人の弟子を定めた」「この6人は和合して、異議があってはならないことを協議し、決定した」(御書1603㌻、通解)と記されている。
 〈日興上人は大聖人滅後16年目の永仁6年(1298年)に6人の高弟(本六)を定められた。さらに入滅前年の元弘2年(1332年)に新たに6人の高弟(新六)を定められた〉
 広宣流布のために、弟子が一致団結できるかどうか。師匠の教えのままに、生き抜けるかどうか。
 ここに未来の一切がかかっているのである。
22  『三国志』に登場する青年詩人であり、魏の英雄・曹操の息子である曹植そう・しょくは綴っている。
 「たとえ陛下が、お目をかけられなくとも、私はどうしておのれの忠誠をひるがえすことがあろうや。たとえるならば、人に知られずとも芳香をはなつ秋の蘭の如く、また、厳冬にもめげず花を開く桂樹の如くでもある」(伊藤正文注『中国詩人選集3曹植』岩波書店)
 味わいのある言葉である。
 他人ではない。自分である。大事なのは、わが信念に生き抜くことだ。
 人がどう評価しようと、自分は正義のため、妙法のため、民衆のために生き抜いていく。
 これが学会精神である。真実の信仰なのである。
23  未来を頼む
 ともあれ、若き皆さんは、晴れ晴れとした、師子王のごとき人生を歩んでいただきたい。
 ヤキモチの人生や、嫉妬の人生もある。
 また、暗い暗い、思案のみの人生、悪口雑言だけを言っている人生。人を陥れようとする悪意の人生、泥沼の人生もある。
 一方で、人を賞讃する人生、人をまとめていく人生。人に誠実に接し、幸福へ導く、誉れの人生がある。
 勝利、勝利の人生がある。
 人間の世界には、さまざまな人生がある。
 仏法は、この人生の正しいあり方を説いている。
 信心によって、私たちは、最高に価値ある人生を生きていくことができる。
 それが仏法の偉大さの証明なのだ。
 戸田先生は強く語られた。
 「これからは、青年部の諸君が、世界に向かって、まことの信心の力を示す時である」
 私は、この言葉の通り、全世界に大聖人の仏法と創価の師弟の真実を宣揚してきた。
 今度は皆さんの番である。「青年部よ、未来を頼む!」と重ねて申し上げたい。
24  私と妻が親交を結んできた、アフリカの“環境の母”ワンガリ・マータイ博士は綴っておられる。
 「何かを成し遂げたことのある人は誰でも、何度も打ちのめされた経験をもっている。だが皆、起き上がって進み続けるのであり、それこそ私がいつも心がけていたことだった」(小池百合子訳『UNBOWED へこたれない ワンガリ・マータイ自伝』小学館)
 偉大な人とは、決して「負けない人」である。青年部の諸君も、「負けない人」になっていただきたい。苦しくとも、最後には勝つ。この気概で生きて生き抜くのだ。
 マータイ博士と同じく、ノーベル平和賞を受賞された、南アフリカ前大統領のネルソン・マンデラ氏も偉大な不屈の闘士である。
 アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃を目指し、実に27年半にわたる獄中闘争を勝ち抜かれた。
 うれしいことに、牢獄の中で私の英文エッセーを読まれたことが、後の出会いのきっかけとなった。
25  師弟の道を歩む「負けない人」に
 8月は、戸田先生と私が出会った月である。
 牧口先生とともに軍部政府に抵抗し、投獄された戸田先生は、決して負けない「不撓不屈の人」であった。
 戸田先生は、偉大な師匠を護り、牢獄までお供された。牧口先生は獄死された。
 そして、生きて出獄された戸田先生は、牧口先生を讃えて、「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と深く感謝されたのである。
 私は、先生のこの言葉を知ったとき、「すごい師弟だ」と感動した。そして先生の弟子として、すべてをなげうって戦う覚悟を決めた。
 この師弟の歴史が、創価学会の歴史の根本である。
 私は、ともに戦う、すべての同志に贈りたい。
  「立ち上がれ
   正義のために
   広布のために
   そして
   自分自身の幸福のために
   自分自身の勝利のために」と。
26  山を越え、川を越え、谷を越え
 関西での戦いを書きつけた日記から、若き友のために紹介しておきたい。
 昭和31年(1956年)2月9日。私は当時28歳である。
 「大阪の牙城も、一年ごとに堅固になってゆく」
 「先生の、本門の第一回戦。断じて戦って、報恩。決意、しんにして大」
 関西での戦いは、ある意味で、私の20代の総決算でもあった。
 同年3月29日には、こう書いている。
 「弥々、大阪春の陣に吾れ進む。妙法の青年革命児よ、白馬に乗って、真っしぐらに、進みゆけ。山を越え、川を越え、谷を越えて。
 “走れメロス”の如くに。厳然と、師は見守っているぞ」
27  リーダーは「全責任を持つ」心で
 同年4月10日、東京方面の苦戦の様子を聞いて。
 「信心と団結でしか、勝てぬことを忘れるな。船頭が多すぎる。首脳達よ、先生の意志を知れ。それ以外に道は開かれぬであろう」
 師弟を忘れたところに、もはや勝利はない。私はその方程式を、だれよりも深く魂に刻み、戦ってきた。
 大阪での戦いで、私が皆とともに拝した御書に、「四条金吾殿女房御返事」がある。
 「大将軍よはければ・したがうものも・かひなし、弓よはければ絃ゆるし・風ゆるければ波ちゐさきは自然の道理なり
 大聖人のおっしゃる通りである。
 広布の戦いにおける「将」の指揮とは、ただ大きい声を出し、命令するのではない。それでは皆、困ってしまう。
 皆をリードするということは、自分自身の本当の「誠心誠意」を示す、かたちにするということだ。
 「まず私がやる。全責任を持つ。だから、一緒にやろう!」──この心を将が持っていなければ、どうして他の人々が動くだろうか。
 上から号令するだけの態度は、乱暴であり、結局は、その人の見栄である。
 誠心誠意で──これを、心に刻んでいただきたい。それでこそ、勝てる因をつくっていけるのである。
28  「臆病にては叶うべからず」
 同4月11日。
 「師の下に、巣立つ栄光。世界一の青春。われに悔いなし。われに幸あり。大阪の折伏、断然、群を抜いてゆく。楽し。上げ潮の関西。油断なく、美事な指揮を執りぬこう」
 破竹の勢いで、わが関西は勝っていった。このときに皆で学んだ有名な御書をもう一つ、拝しておきたい。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 臆病者では、戦にならない。「勇敢な信心」こそ、兵法の究極なのである。
 戸田先生は、少しばかりの非難中傷で退転してしまう人に対して、「そんな意気地なしは、学会にいてもらう必要はない。臆病者は邪魔になる!」と厳しくおっしゃった。
 また、「学会と生死を共にする者だけが真実の同志だ」と言われたこともある。
 この信念で生き抜いた師弟の闘争によって、今日の学会はつくられたのだ。
29  「害を除くのは急がねばならぬ」
 中国革命の父・孫文は、国を衰亡させる悪行を呵責し、「害を除くのはとくに急がなければならぬ」(伊藤秀一訳「心理建設」、『孫文選集第2巻』所収、社会思想社)と訴えた。
 戸田先生も、まったく同じ思いであった。
 悪は早く見抜け! 悪は早く追い出せ!──と。
 絶対に「後回し」にしてはならない。
 広宣流布を妨げる動きは、断じて排するのだ。隙を見せてはならない。
 悪が威張り、増長すればするほど、学会が行き詰まってしまうからだ。
 ウズベキスタンの大詩人ナワイーは巧みに綴っている。
 「毎日毎日、私利私欲の網ばかり編んでいる人は、最後には、自分が、その網にかかってしまうだろう」と。
 また、インドの非暴力の闘士ガンジーは「堅固さと勇敢さは、敵対者にも深い印象を与えないではいないものです」(田中敏雄訳注『南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史2』平凡社)と述べている。
 諸君は生き生きと、民衆の中で光る大指導者になっていただきたい。強い信念をもって、堂々たる姿で、悠然と生き抜くのだ。
30  不幸の人を救え
 「若き日の日記」から続けたい。昭和31年4月25日。
 「大阪支部、九千二世帯との報告あり。未曾有の成果なり」
 「断固、五月度も追撃だ。一万世帯の夢も可能だ。上げ潮だ、怒濤の如き。不幸の人々を救っているのだ」
 「喜べ、舞え、叫べ、踊れ、歌え、妙法の健児達よ。同志たちよ」
 あらゆる地で私は、戸田先生のために戦い、先生の正義を叫びきってきた。そして、弟子の道に徹することによって、一緒に戦う皆も喜んで前進できたのである。
 特に、この「大阪の戦い」は、まさに命がけだった。
 決戦の日の早朝。5時ごろに戸田先生からの電話を受けき「東京はダメだよ」と言われた時のことは忘れられない。
 東京は盤石だと言われ、大阪は勝てないと言われていた。
 しかし結果は、東京が敗北。大阪は、大新聞が「まさかが実現」と報じる勝利を勝ち取り、関西中が沸き、日本中が驚いた。
31  私と共に毅撚と戦った関西の友
 翌年、大阪で参院補選の支援が決定し、再度、私が責任者に選ばれた。
 このとき、応援に来た幹部には、遊び半分や口先だけの者が実に多かった。真剣な同志の足を引っ張ったのである。結果的に、この戦いが、私の唯一の負け戦となった。そして、無実の罪で牢獄に入ったのである。
 驚き、あわてふためいた、情けない幹部もいた。
 しかし、私とともに毅然と戦ってくれた関西の同志がいた。
 人生という勝負の厳しい鉄則は、いつの時代も変わらない。
 「負けるに決まっているだろう」「勝てるわけがない」と言われていた戦いを、勝つ。そういう広宣流布の闘争を、私は貫いてきた。折伏をはじめ、すべての分野で、私はトップの結果を残してきた。
 私が頼りにするのは青年部である。優秀な君たちに、この師弟の大道を継いでいただきたいのだ。
32  長時間、ありがとう。役員の方々の真心の運営によって、そして婦人部の方々の強き祈りに包まれて、有意義な研修となっている。本当に感謝しています。
 厳しい暑さが続く。体にくれぐれも気をつけてください。
 皆さん、お元気で。勝利の人生を送ろう!

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