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創価学園 特別文化講座 詩人ダンテを語る

2008.4.23 スピーチ(聖教新聞2008年下)

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1  若き日、私は、「四月」と題して、青春の躍動しゆく心を歌いました。
  四月
  花は 咲き乱れぬ
  そして 風と共に 散りゆきぬ
  四月
  若人の 心の花よ 咲き香れ
  若人の前進の歌も 舞いゆかん
  四月
  青春の月 若人の月
  四月
  青年の月 人生謳歌の月
  四月
  ホイットマンも ゲーテも ミルトンも ダンテも
  みな 心より歌い 戦い 悩み 進みしは この四月
 ボンジョルノ!(イタリア語で、「こんにちは!」)
 新しい出発の月、4月に寄せて、創立者の私から皆さん方に真心からの贈り物があります。
 それは、皆さん方と語り合いたいと思って準備を進めてきた、第1回の創価学園「特別文化講座」の原稿です。
 本当は、ゆっくりと時間をとって、学園で講座を進めたいと願ってきたのですが、世界からの来客等が続いており、なかなか日程がとれません。
 そこで、新入生の皆さん方への歓迎の意義も込めて、発表させていただきます。第1回の「特別文化講座」のテーマに選んだのは、私が、皆さん方と同じ10代のころから愛読してきた、イタリアの大詩人ダンテ・アリギエリです。
2  真の幸福とは?
 わが創価学園は、昨秋で創立40周年――。
 これまで、私が妻とともに、来る日も来る日も、祈り続けてきたことがあります。
 それは、「わが学園生よ、一人ももれなく、幸福の人生を!」「正義の人生を!」、そして「勝利の人生を!」ということです。
 それでは、真の「幸福」とは、何か?
 真の「正義」とは、何か?
 そして、真の「勝利」とは、何か?
 ダンテの生涯と文学とは、このことを問いかけている。人間にとって、一番大事なことを教えてくれています。
 その意味で、私は、ダンテを通して、皆さんに語りたい。
 また卒業した同窓生の方々はもちろん、ともに未来を生きゆく、すべての中学生、高校生の皆さん、さらに後継の使命も深き、すべての男女青年の皆さん方のために語り残しておきたいのです。
 さあ、新緑光るフィレンツェの公園のベンチに座って、滔々と流れるアルノ川を見つめながら、ゆったりと懇談するような気持ちで、この講座を進めていきましょう!
3  トインビー博士が敬愛した作家
 かつて私は、20世紀を代表するイギリスの大歴史学者トインビー博士と、さまざまなことを語り合いました。
 2年越し、40時間にわたる対話です。
 「教育論」についても語り合いましたが、博士は、創価教育に対して、大きな期待を寄せてくださいました。
 そして、「文学論」がテーマになった折に、私が好きな作家は誰ですか?」と尋ねると、トインビー博士が即座に名前を挙げられた人物がいます。
 その人こそ、ダンテでありました。
 それは、なぜでしょうか?
 ダンテが、自らの大きな苦難や不幸に断じて負けなかったからです。
 そして、その苦しみや悲しみを、世界の多くの人々の喜びや幸せへと転換していったからです。
 そうです。ダンテは、自分に襲いかかった過酷な「運命」を、人類のための「価値創造」、すなわち「創価」の「使命」へと変えた人なのです。
4  不屈の人の顔
 ダンテは、1265年の5月から6月ころ、イタリアの“花の都”フィレンツェの貧しい貴族の子弟として生まれました。
 家が貧しいということはは、少しも恥ずかしいことではない。むしろ、恵まれない環境の中から、偉大な力ある人間が育っていくものです。
 ダンテが誕生した家は、復元されて、今に伝えられております。私も、27年前(1981年)の陽光まばゆい6月、その生家を青年たちと一緒に訪れました。
 石造りで、繁華街の一角にひっそりと立っていました。外壁には、厳しい表情を浮かべたダンテの胸像が埋め込まれております。
 ダンテの顔は、「終生不屈の闘争をなせる人の顔」(カーライル著・老田三郎訳『英雄崇拝論』岩波文庫)とも言われます。
 人生は、すべて戦いです。なかんずく、正しい人生であればあるほど、激しい戦いの連続である。その使命の闘争を、最後の最後まで貫けるかどうか。ここに、人間としての勝負がある。
 わが創価学園の「学園魂」とは、不屈の「負けじ魂」です。
 皆さん方の先輩も、この負けじ魂で、戦い、勝ち抜いています。
 私は、ダンテも歩んだであろう、フィレンツェの細い路地の石畳を踏みしめながら、イタリアの青年たちとともに、大詩人の激闘の尊き生涯に思いをはせました。
  学園の
    負けじ魂
      一生涯
    無数の花びら
      君の生命に
5  イタリアで『神曲』の朗読会に喝采
 フィレンツェには、創価の友が喜々として集い合う、歴史と文化薫る「イタリア文化会館」があります。私も訪れました。国の重要文化財にも指定されている由緒ある建物です。ここには、1865年の“ダンテ生誕600年祭”に、フィレンツェ市庁舎に掲げられた「各都市の紋章」の記録をはじめ、600年祭に関する貴重な資料が保管されています。
 フィレンツェのあるレストランで、友人たちと語り合った時のことです。その建物の壁を指さして、「ここにもダンテの『神曲』の一節が刻まれています」と友が教えてくれました。
 ダンテが残した希望の言葉、鋭い警世の言々句々は、時代を超えて、今でも人々を照らしています。
 とりわけ、最近、「ダンテ・ブーム」ともいえる現象が、イタリアで起きているようです。有名な俳優が連続して開催した『神曲』の朗読会には、毎回、5,000人もの聴衆が集まりました。
 この模様は国営テレビでも放映され、イタリアの総人口約5,900万人のうち、実に1,000万人以上が見たといいますから、すごいことです。
 さらに『神曲』の朗読を収めたDVDも、新たに制作されたそうです。
 約750年前の人物の作品に、21世紀を生きる人々が喝采を送る。
 ダンテの作品には、現代が渇望する深い精神性とメッセージが込められているのです。
6  皆さんの勝利が父母の勝利に
 それでは、ダンテが直面した苦難について、具体的に考えていきたいと思います。
 ダンテは、少年時代に、最愛の存在を相次いで失うという深い悲しみを経験しています。
 ダンテがまだ51歳のころに、母が亡くなりました。さらに、母親の代わりに自分を育ててくれた祖母も、そして父まで失ったのです。
 また、理想の女性として慕っていた、ベアトリーチェも20代の若さで世を去りました。
 若き日から試練多き人生を生き抜いたダンテら偉人の姿を通して、文豪ヴィクトル・ユゴーは明言しております。
 「大きな樅は、唯だ嵐の強い場所にばかり成長する」(榎本秋村訳『ユウゴオ論説集』春秋社書店)
 その通りです。嵐を勝ち越えてこそ、大樹と育つことができる。これが万物を貫く法則です。
7  わが学園生にも、最愛の父や母を亡くした人がいます。
 私も、そうした学園生に出会うたび、全力で励まし、ご両親に代わって見守り続けています。
 8年前、卒業を間近に控えた関西創価学園の友と兵庫でお会いしました。
 私は、「お父さんがいない人?」、そして、「お母さんが亡くなった人?」と尋ねました。
 手を挙げた人に、妻が用意した“お菓子のレイ(首飾り)”を差し上げました。
 その時、2度とも手を挙げた高校3年の女子生徒がいました。彼女は、中学2年の時に、お父さんもお母さんも交通事故で失っていたのです。私もよく知っている、素晴らしいご両親でした。
 2つのレイを首に掛けて、美しい笑顔の乙女。ともに卒業していく同級生たちから、大きな大きな拍手が沸きました。すべてを分かり合っている同級生たちは皆、彼女の“心の応援団”です。
 彼女は、ポケットに両親の写真を入れて、学園生活を頑張りました。おばあちゃんが懸命に面倒をみてくれました。
 彼女のお姉さんと妹さんも、関西創価学園生です。3姉妹とも、立派な後継の人材として、後輩たちの希望の太陽となって、使命の道を歩んでいます。
 私は本当にうれしい。
 「最も深い悲しみ」を乗り越えた人は、若くして「最も深い哲学」をつかんだ人です。
 生命の尊さを知り、人生の意義を思索し、人の心を思いやれる、優しく、深く、そして強い人間に成長できる。
 目には見えなくとも、生命は、生死を超えて結ばれております。亡きお父さんや、お母さんは、わが生命に生きている。一体不二である。
 それを自覚すれば、何倍も大きく豊かな力を出して、この人生を生き抜いていくことができる。
 そして皆さん方が勝つことが、お父さん、お母さんの勝利です。
 皆さん方が幸福になることが、父母の幸福であり、栄光なのです。
 ダンテも、悲観や感傷などに決して負けませんでした。
 すべてをバネにして、雄々しく勉学に挑戦し、何ものにも揺るがぬ自分自身を築き上げていったのです。
  学園は
    意義ある青春
      親孝行
8  ちょうど30年前の昭和53年(1978年)4月、私は、関西創価学園の友に、「この道」の詩を贈りました。
 関西創価学園に向かう「一本の道」。
 四季折々に美しく、田園が広がり、葡萄や梨が実る、豊かな自然の中の通学路。
 そこを、はつらつと登校してくる学園生の姿を見て綴った詩でした。
  この道よ
  この一筋の この道
  ああ 交野かたのみち
  君よ
  昇りゆく
  朝日につつまれて
  いついつも あゆみし
  この道を忘れまじ
  青春の
  あの日 この日を
  乙女の語らいし
  ああ 交野の路
 この時、私は、6期生として入学したばかりの学園生に語りました。
 「今なすべきことは、一生懸命、学園生として勉強することです」
 「一番大事な人生の総仕上げの時に勝てる基盤を、今、作っているのです」と。
 そして午後には、自転車に乗って、この一本道を皆で散策しました。
 春光の降り注ぐ中、帰宅途中の学園生と楽しく語り合ったことは忘れ得ぬ思い出です。
 多くの卒業生が、この「一筋の道」を立派に歩み通し、「正しい人生」を、「負けない青春」を朗らかに生き抜いています。
 皆さんも堂々と続いていっていただきたい。
 もちろん、楽しい時ばかりではないでしょう。学校に行くのがつらい時も、あるかもしれない。苦しくて、泣きたくて、道を行く足が、鉛のように感じられる時だって、あるかもしれない。
 また、毎日1時間、2時間と、長い道のりを通学している人もいる。本当に大変だ。
 しかし、朝、早く起きるのも戦いです。雨や雪の中、学校に通うのも戦いです。
 一つ一つが、価値ある人生、勝利の人生を築くための挑戦なのです。
 自ら誓った「使命の道」「勉学の道」。友と励まし進む「友情の道」。この道を歩み抜いていく人は幸福です」
 〈「この道」の詩は、創立者が2000年に、2番、3番を詠み贈った。この折、1番の「乙女の語らいし」が「わが友と語らいし」に改められた〉
9  古典は人類の宝
 ダンテは振り返っています。
 「私は幼少時代より真理に対する愛に絶えず養われた」(中山昌樹訳『ダンテ全集第7巻』日本図書センター。現代表記に改めた)
 真理を求めて、学びに学び抜いてきた誇りが伝わってきます。
 その向学と探究の精神は、学園の校訓の第1項目、すなわち「真理を求め、価値を創造する、英知と情熱の人たれ」にも通じます。
 では、ダンテの青春と学問は、どのようなものであったのでしょうか。
 当時は、今のような印刷機がなかったため、書物は極めて貴重なものでした。一冊一冊、人間が手で書き写したのです。紙も非常に高価なものであった。
 本一冊を買うために、葡萄畑を売ったという話さえあります。
 本は、「宝」です。古典の名作は、人類が力を合わせて護り伝えてきた「財宝」なのです。
 皆さんは、低俗な悪書など断じて退けて、優れた古典を読んでもらいたい。
 本を読み抜くことが、すべての学問の土台です。若きダンテは、徹して「良書」に挑戦します。
 何ごとであれ、「徹する」ということが、人間として一番強い。勉強でも、スポーツでも、芸術でも、徹し抜いてこそ、才能は花開くのです。
 愛する人を失いダンテは悩んだ 「人は何のために生きるのか」
 深い悲しみを経験した人は深い哲学を把むことができる
10  初めは難解でも
 とりわけ、ダンテは「死」という人生の根本問題に直面した青年時代、哲学書を読むことに没頭しました。
 なぜ、人は苦しみ、悩み、そして死ぬのか。
 何のために、人は生きのるか。
 この人生を、どう生きればよいのか――。
 人間の根幹となる問いかけを持ち、その答えを、人類の「精神の遺産」である哲学や文学に求めていったのです。
 ダンテ青年は、“古代ローマの光り輝く英知”である、大詩人ウェルギリウス、雄弁家として名高い哲学者キケロ、政治指導者で哲学者のポエティウスなどの名作を、次々と読破していったといわれています。
 なかでも、ウェルギリウスの詩集について、ダンテは後に『神曲』で、感謝を込めて綴っています。
 「長い間ひたすら深い愛情をかたむけて/あなたの詩集をひもといた」
 「私がほまれとする美しい文体は/余人ならぬあなたから学ばせていただきました」(平川祐弘訳、河出書房新社)
 一冊の良書との出あいは、人生を大きく開く力があるのです。
 とはいえ、秀才ダンテといえども、最初から、すべてを簡単に理解できたわけではなかった。
 ダンテは、キケロやポエティウスの著作を読んだ時、初めは意味を理解することが難しかったと正直に述べています。
 真剣に学んでいる人は、知ったかぶりはしない。謙虚です。誠実です。そして、知らないこと、分からないことを、貪欲なまでに探究し、理解し、吸収して、自分の心の世界を広げていこうとするのです。
 私が対談してきた知性の方々も、皆、そうでした。
11  思えば、私も10代のころに、ダンテの傑作『神曲』を読んだが、本当に難しかった。とくに当時は、翻訳の文体も難解でした。
 しかし、何としても理解したいと、何度も何度も読み返した。そうやって、最高峰の文学を自分の血肉としてきました。
 あの残酷な太平洋戦争が終わった翌月、私は向学心に燃えて、夜間の学校(東洋商業)に通い、学び始めました。
 たしか、そのころの教材にも、ダンテの『神曲』が綴られていました。
  若き日に
    難解なんげの神曲
      あこがれて
    読みたる努力が
      桂冠詩人に
 どうか、わが学園生は、人類の英知が結晶した「良書」に挑んで、壮大な心の旅を繰り広げながら、旭日のごとく冴えわたる頭脳を磨き上げていってください。
12  トインビー博士は歴史の現場に立つことを心がけ、世界中を旅されました。私は、その博士に「最も理想的な都市」を尋ねてみました。
 博士の答えは、イタリアの学都「ボローニャ」でした。
 ボローニャ市は、中世の面影を残す、落ち着いた学園都市です。
 現在も、人口約40万人のうち、10万人が学生といいます。ここが、ダンテの向学の青春の舞台となりました。
13  「あと5分」「あと10分」の挑戦を
 ダンテは、労苦を惜しまず、学びました。
 「われ若し片足を墓に入れをるとも、われは学ばんことを欲するだろ」(中山昌樹訳『ダンテ全集第9巻』日本図書センター、現代表記に改めた)
 古代ローマの哲人の言葉を、ダンテは著作に書き留めています。
 大事なことは、どこまでも粘り強く、「努力! 努力!」で、自身の限界を一つ一つ打ち破っていくことです。
 「疲れた! もうやめよう」――そう思ってから、「あと5分」「あと10分」勉強を頑張れるか。「あと1ページ」教科書に挑めるか。
 こうした毎日の挑戦の繰り返しが、大きな力となっていくのです。
14  「学ばずは卑し」「学は光、無学は闇」「英知をみがくは何めため」
 これが、「創価教育の父」牧口常三郎先生から一貫して流れ通う、創価の探究の精神です。
 ダンテは勇んで学ぼうと、20歳のころから約2年間、ボローニャ大学で勉学に励みました。
 ボローニャ大学の創立は、1088年と伝えられている。実に、920年の伝統です。誉れ高き世界最古の総合大学であり、「母なる大学」と讃えられております。
 ダンテが活躍した13世紀には、すでに最先端の学問が脈動する「英知の城」として発展を遂げていたのです。
15  ここにも友が!
 1994年の6月、私は、皆さん方の創立者として、このボローニャ大学からへ名誉博士号をお受けしました。
 そして、400年の歴史を湛えた大講堂で「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題して、記念の講演を行いました。
 〈創立者が、これまでに受章した世界の大学・研究機関からの名誉学術称号は「234」。海外の大学・学術機関での講演は32回を数える〉
 ここイタリアの天地でも、学園1期の先輩をはじめ、懐かしい創価同窓生が頑張ってくれていました。
 当時、ボローニャ大学には、東京校15期の友が留学していました。彼は創価大学時代に、イタリア政府の国費留学を勝ち取り、私の大学講演にも駆けつけてくれました。
 わが学園生とともに、私は「世界一」の大学で講演に臨んだのです。
 東京創価小学校出身で創価女子短期大学6期の友は、ミラノ大学法学部に入学。苦闘を経て、見事に大学を卒業。修土号も取得しました。
 芸術家を志していた関西校3期の友は、現在、新進気鋭の画家としてイタリアで活躍しています。
 しかし、順調に進んだ人なんて、一人もいません。皆、人知れぬ苦労を乗り越えて、自らの夢を実現してきたのです。
 お金もない中、アルバイトをしながら、勉強をやり抜いてきたのです。
 学園時代の「誓い」を果たすために!
 後に続く、後輩たちの道を開くために!
 今、全世界で、わが学園出身者が活躍する時代に入りました。創立者にとって、これほど、うれしいことはありません。
 ボローニャ大学の講演を、私はダンテの『神曲』の一節で結びました。
 「恐れるな」
 「安心するがよい。/私たちはだいぶ先まできたのだ、ひるまずに、/あらゆる勇気をふるい起こすのだ」(野上素一訳『筑摩世界文学大系11 ダンテ』筑摩書房)
 この言葉を、すべての同窓の友に捧げたい。
16  世界に開かれた創価大学は、ボローニャ大学とも教育交流を行っています。
 毎年、創大生がボローニャ大学に留学しています。ボローニャ大学から創大へお迎えした留学生も、創価学園を訪問し、友情を結んできました。
 ボローニャ大学には、ダンテの胸像が置かれていました。そこには、彼が学んだ「1287」という年が刻まれていたことも思い出されます。
 ダンテは、ここで、弁論術や哲学をはじめ、天文学や医学などの高度な科学知識を学んだとされます。
 その成果は、『神曲』にも存分に反映されています。
 『神曲』には、古代ギリシャ、古代ローマの名著、さらにアラビアから伝わった最新の自然科学などから学んだ、膨大で多様な知識が網羅されており、当時における「百科全書」とさえ言われているのです。
17  「慣性の法則」が『神曲』の中に
 わが東京校、わが関西校をともに訪問した、ブラジルを代表する天文学者モウラン博士と私との対談でも、二人に共通する若き日からの愛読書であった『神曲』が話題となりました。
 モウラン博士は語っておられました。
 「ダンテの『神曲』については、私自身、今も研究を続けています。『神曲』は、13世紀から14世紀のイタリアに豊富な天文学の知識があったことを示しています」
 幅の広い、そして奥の深いダンテの学識は、今なお多くの研究者から感嘆されております。
 3年ほど前にも、イタリアの研究者が、ダンテの先見性について、イギリスの科学誌「ネイチャー」に発表し、世界的に話題を呼びました。
 近代科学の父ガリレオ・ガリレイの約300年も前に、ダンテが力学の「慣性の法則」の基本原理を理解し、『神曲』に綴っていたというのです。
 それは『神曲』で、ダンテとその師匠が、怪物の背中に乗って空を飛ぶ場面です。
 そこでは、こう表現されています。
 「彼(=怪物)はゆっくり泳ぎながら進み/廻転しながら降りて行ったが、下から私の顔に/吹きつける風によらねばそれを感じなかった」(前掲野上訳)
 怪物が一定の速度で飛んでいたために、顔に風が当たらなければ、自分が動いているのが分からなかった。ダンテは、そう記しているのだ――研究者は、こうとらえて、目を見張りました。
 「慣性の法則」によれば、動いている物体には、同じ速度で動き続けようとする性質があります。
 例えば、高速で飛ぶ飛行機の中で人間がジャンプしても、また同じ所に着地します。飛行機の中にいるとあまり感じませんが、人間も、飛行機と同じ猛スピードで動き続けているからです。
 この、「慣性の法則」を、ガリレオが17世紀前半に発表する前に、ダンテが鋭い直観で把握し、描き出していたと指摘されているのです。
18  ともあれ、若き皆さんは「学ぶことは青春の特権なり」と心を定めて、進取の気性で知識を吸収し、時代の最先端を進んでいってください。
 今は、あまり身近に感じられない勉強も、真剣に学んでおけば、絶対に無駄にはなりません。
 学んだ分だけ、皆さん方の脳という“宇宙”に、新しい“星”が誕生するようなものです。その積む重ねによって、頭脳は、壮麗な銀河の如く光を放ち始めるのです。
 わが学園生は、日本を代表して「国際化学オリンピアード」などに出場し、世界最高峰の水準で探究を広げている。
 歴史を振り返ると、多くの独創的な発見が、若い、みずみずしい頭脳によって、成し遂げられてきました。
 皆さん方の頭脳こそ、未来の希望です。どうか、胸を張って、世界と対話しながら、人類の新しい知性と創造の道を切り開いていっていただきたいのです。
 名作『赤毛のアン』で知られるカナダの作家モンゴメリは、学び求める青春の息吹を、こう歌い上げております。
 「私の前には、これから出会い、学びゆく広大な世界が広がっているのだ。
 そう気づいた時、私は歓喜に震えた。未来は私のものだ」
19  「知力」「体力」に「人間性」を磨け
 学園の草創期、私は指導者になるための6つの指針を贈りました。
 ①まず人よりも、よけいに勉強し、努力しなければならない。
 ②民衆の味方となっていくこと。大衆のために闘っていく弱い立場の人の味方となっていく。
 ③どんなことがあってもくじけない信念を持っていること。
 ④人間性のある、また、ユーモアのある、そのままの姿で語っていける人でなければならない。
 ⑤常に常識豊かで、納得させながら、人をリードする人。信望があり、信頼が厚く、尊敬されながら、大勢の人を指導できる人でなければならない。
 ⑥強靱な体力がなければならない。体力と英知を持った人でなければならない。
 以上ですが、今なら、さらに、①に「将来、2カ国語以上の語学をマスターする」を加えたい。
 学んだ人は、自分が強くなる。人生が豊かになる。
 皆さんは、苦しんでいる人々の心が分かる指導者になってもらいたい。不幸な人を救っていける力のあるリーダーになってもらいたい。
 そのために、今は、学ぶのです。世界平和の大指導者を育てるのが、創価学園の使命なのです。
  晴れ晴れと
    今日も努力の
      勉学に
    君も挑戦
      指導者なるため
20  さて、ダンテは、ボローニャ大学の学生時代、初めて故郷を離れて生活を送りました。
 そして大学のそばにある簡素な施設で、十数人の学生と一緒に「寮生活」をしていたともいわれています。
 ダンテは大きな志を胸に抱いて、見知らぬ土地、新しい環境に飛び込んでいった。
 ヨーロッパの各地から集い来た、優れた学者や学友と出会い、若きダンテは人間的にも大きく成長していったようです。
21  ちょうど40年前(1968年)の4月、私は、東京校の栄光寮を訪れ、1期生に根本の精神を語り伝えました。
 「先輩は後輩を、弟のかわいように可愛がり、後輩は先輩を、兄のように尊敬していくという、麗しい気風で進んでほしい」
 「日本一、世界一の寮にしていこう!」と。
 青春時代の労苦は、無上の栄光です。
 とくに、良き学友と切磋琢磨し合う「寮生活」「下宿生活」の意義は大きい。
 それは日々の学問とともに、かけがえのない人格錬磨の道場です。
 この点については、トインビー博士とも語り合いました。
 私も訪問しましたが、博士夫妻の母校であるオックスフォードやケンブリッジなど、「世界の指導者」を育成する名門校は、いずれも「学寮」を重視していました。
22  私も青春時代、下宿生活をしました。
 それは、お仕えする師匠・戸田先生の事業が最も大変な時代でもありました。
 親元を離れた皆さん方の苦労は、痛いほど、よくわかります。
 わが学園には、日本全国から、さらに海外からも英才が学びに来てくれている。
 お腹をすかせてはいないか、風邪をひいていないか、何か困っていることはないか……。
 いつでも、どこにいても、私と妻の心から、皆さん方のことは離れません。
 この創立者の心を心として、寮生、下宿生の皆さん方を支え、護り、励ましてくださっている、すべての方々に、この場をお借りして、厚く厚く感謝申し上げたい。
23  金星よ輝け 友情で光れ
 関西校の男子同窓生の集いである「金星会」は、今春で約5,000人の「正義」と「友情」の連帯となりました。
 13年前(1995年)には、関西校の金星寮を訪れました。
 真っ先に寮の管理者をされていたご夫妻にあいさつをしました。「寮生は私の宝ですから、くれぐれもよろしくお願いします」と。ご夫妻は懸命に寮生のために尽くしてくださいました。
 真新しい畳が敷かれた「金誓の間」。
 そこに入ると、寮生たちが待っていてくれた。
 「どんな時代、どんな立場になろうとも、君よ、金星のごとく光り輝き、社会を照らし、友を照らす存在であれ!」
 皆、私の呼びかけに元気いっぱいの返事で応えてくれました。どの瞳も、すがすがしい決意に燃えていたことが忘れられません。
 実は、ダンテも『神曲』の中で、金星について記しています。彼にとって星は「希望」の象徴でした。ダンテは、天高く金星を仰ぎつつ、困難な旅路を勇敢に進んでいったのです。
24  寮生たちとの語らいを終え、私は寮の様子を視察しました。
 ある部屋の前を通ると、「池田先生ありがとうございます!!」と筆字で書かれた、手づくりの横断幕が掲げられていました。大学ノートをつないだものだったから、時間のない中、寮生が真心込めて作ってくれたのでしょう。
 私は、その心がうれしくて、横断幕の余白の部分に、「謝謝!!」(中国語で「ありがとうございました」)と赤ペンで返礼の言葉を綴りました。
 その晩に行われた懇親会では、寮生・下宿生の皆さんと夕食をともにしました。私は、皆の健康と成長を祈りつつ、関西ゆかりの師弟の曲“大楠公”や「荒城の月」「熱原の三烈士」をピアノで弾き、贈りました。
25  尊敬でつくられてきた友情は永続的
 ダンテは、同世代の友と寝食をともにし、夢を語り合い、深き友情を結び広げていった。
 友人が大切です。どんなに社会で偉くなっても、心から分かり合える友のいない人は不幸だ。
 また友人といっても、遊びだけのつき合いの人もいるだろうし、さまざまです。その中で、最高の友人とは、最高の主義主張で結ばれた人です。別の言葉で言えば、高い志を同じくする友人です。
 中国に「患難見真知(ファンナンジェンツェンツ)」(困難な時こそ、真の友が分かる)」との言葉があります。
 困った時に助けるのが友情です。順調な時はいいが、状況が悪くなるとはな離れていくのは友情ではない。
 皆さんは、どんな時も、一生涯、離れない、真の友情を結んでいってもらいたい。
 私の人生の誇りは、ただ誠実の一点を貫いて、嵐に揺るがぬ友情を築いてきたことです。
 「尊敬によってつくられた友情が真実で完全で永続的である」(中山訳『ダンテ全集第5巻』同)
 これは、ダンテの友情観です。
 尊敬できる、よき友を持つこと。そして、自分自身も尊敬に値する、よき友となっていくこと。
 ここに、誇り高き青春の名曲が奏でられていくのです。
26  暴力は許さない
 私と妻が出会いを重ねた、アメリカの「人権の母」ローザ・パークスさんは、お母さんからの教えを一生涯の指針とされていました。
 それは、「自尊心を持ちなさい。人から尊敬される人間になり、また、人を尊敬していきなさい」ということです。
 パークスさんは、「人間の尊厳」を守るために命を懸けて戦いました。
 人を見下したり、いじめたり、侮辱して、相手を苦しめることは、暴力にも等しい。
 軽い気持ちでやったことが、取り返しのつかない深い傷を与えることだってある。
 わが創価学園は、絶対に暴力否定です。いじめも断じて許さない。
 互いの尊敬と信頼と励まし合いで結ばれた、世界一、美しい友情の城です。
 この尊い伝統を確固と受け継ぎながら、さらに賢く朗らかに前進していってください。
27  ダンテは、数学の「ピタゴラスの定理」で有名な、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスの言葉を大切にしていました。
 それは、「友情において、多くのものが一つにせられる」(中山訳『ダンテ全集第6巻』同)という一言です。
 このピタゴラスが活躍したシチリアの天地に立つ、イタリアの名門パレルモ大学とも、私は深い交流を結び、「名誉コミュニケーション学博士号」を拝受しました。
 私が世界に開いた「友情の道」を受け継ぐのは学園生の君たちです。
 そのためにも、今は、語学にも大いに挑戦し、平和と正義の「友情の連帯」を世界中に広げていってください。
  学園生
    一生涯
      宝の連帯
28  言論の勇者に
 ともあれ、青春時代の読書、そしてボローニャ大学での2年におよぶ研鑽は、ダンテの人格形成と文学の大きな土台となりました。
 それは真理と真実の探究の日々でありました。
 真実を見つめ求める青年は、虚偽を許さない。
 「悪魔は嘘つき、嘘の父親」とは、ダンテの『神曲』の一節です(平川祐弘訳、河出書房新社)。
 卑劣な嘘は悪魔の所業であるとの洞察です。
 「真理に対する愛と、虚偽に対する憎悪とにおいて、反駁しよう」(中山訳『ダンテ全集第7巻』同)――ダンテの胸には、この烈々たる情熱が燃え盛っていたのです。
 ゆえに、ダンテは、だれにも負けない「言論の力」を鍛え上げていきました。
 “ダンテは並外れて雄弁であった”と讃嘆されている。その弁論には、悪人の気力さえも削ぎ取る説得力があったとも伝えられています。
 この研ぎ澄まされた英知と雄弁の力で、ダンテは信頼を勝ち取り、30代で、大都市フィレンツェの最高指導者となっていきました。
 この点、東京校の「創価雄弁会」、関西校の「ディベート部」をはじめ、学園生の「英知の力」「雄弁の力」「文筆の力」は、日本随一です。
 今、世界でも、若い雄弁の指導者が台頭しています。
 青年の時代です。そして学園生の世紀です。
 「自分の信条を堂々と述べ、正義のためには、勇気をもって実行する」
 これが、わが学園の誉れの校訓の一つです。
 「学園生よ、ダンテの如く大雄弁の指導者と育て!」と、私は強く申し上げておきたい。
  弁論は
    世界に平和を
      打ち立てる
    最も正しき
      法理なるかな
29  万葉の里・交野の天地に広がる、わが関西創価学園は、「蛍」が飛び交うロマンの城です。
 私の提案に応えて、関西学園の友が情熱を傾けて育ててきた蛍が、最初に夜空に舞ったのは、29年前(1979年)の5月のことでした。
 この蛍をはじめ、東西の学園では、桜、蓮、鯉、白鳥など、さまざまな自然の命が大切に保護されています。
 関係者の皆様の尽力に心から感謝申し上げます。
30  奇跡の連帯・蛍会
 私は、関西学園の女子同窓生の集いを「蛍会」と命名しました。
 現在、「蛍会」の友は約6,000人。
 美しき「誓い」と「励まし」で結ばれた「奇跡の連帯」となりました。
 私は本当にうれしい。 
  蛍会
    一人ももれなく
      幸光れ
 実はダンテの『神曲』にも、夕暮れ時、農夫が蛍を見つめる光景が詩情豊かに描かれています。
 きっとダンテも少年時代、フィレンツェの森に舞う蛍を見つめ、詩心を膨らませたのでしょう。
 蛍は、平和と共生の象徴でもあります。
31  「世界は、そのうちに正義が最も有力であるときに、最も善く傾向づけられてある」(中山昌樹訳『ダンテ全集第8巻』日本図書センター)
 ダンテの獅子吼です。
 この世界を、平和の方向へ、幸福の方向へ、繁栄の方向へ、調和の方向へと前進させていくためには、正義が厳然たる力を持たねばならない。
 これがダンテの一つの結論であった。
 では、正義が力を持つためには、どうすればよいのか。
 それは、一人でも多く、力ある正義の人を育てることです。
 その使命を厳として担い立つ「教育の大城」こそ、わが創価学園なのです。
  幸福と
    平和の土台の
      学園城
32  ミケランジェロもダンテに共感
 ダンテが心から愛した故郷フィレンツェは、ルネサンスの文化が花開いた「芸術の都」として世界的に有名です。
 光栄なことに、このフィレンツェ市から私は、意義深き「フィオリーノ金貨」と、最高栄誉の「平和の印章」をお受けしています。
 ともに授章式は、フィレンツェ市の由緒あるヴェッキオ宮殿(市庁舎)で行われました(1992年6月、2007年3月)。
 同宮殿内の「五百人広間」には、ルネサンスの大芸術家ミケランジェロが創作した凛々しき青年の彫像「勝利」が設置されています。
 ミケランジェロも、200年前の先哲ダンテの文学に啓発された一人です。
 熱血の彼は、横暴な権力悪を許さぬダンテの強き魂に共感を抱き、よく論じていたという。
 ミケランジェロの傑作である「最後の審判」の壁画は、ダンテの『神曲』から影響を受けています。
 ダンテの文学は、ルネサンスの文化を発展させゆく大いなる原動力ともなりました。
33  2つ目の苦難
 ダンテが生きた当時のフィレンツェは、ヨーロッパで最も人口の多い都市の一つでした。
 「フィオリーノ金貨」が鋳造され、経済の中心としても、堂々たる興隆を誇っていた。そのフィレンツェの哲人政治家としてダンテが登場したのは、30歳の年です。
 そして、その5年後には、最高指導者の一人に選出されています。
 ダンテの胸には「正しき政治」「正義の社会」の理想が明確に思い描かれていました。
 「市民は執政官(政治家)達のためにでなしに、また人民の王のためでなくて、逆に、執政官達は市民のために、王は人民のために存在する」。(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)と。
 為政者のために人民がいるのではない。人民のために為政者がいるのだ。
 この「何のため」という一切の原点を見定めていたのが、ダンテです。だから強かった。
34  ダンテは、古代ギリシャの大哲学者アリストテレスの英知を学びました。その言葉を通して厳然と主張しています。
 「邪曲な政治の下にあっては善人は悪しき市民である」(同)と。
 悪い権力、悪い政治のもとでは、善人こそが悪人にされてしまうというのです。
 この狂った悲劇が、残念ながら、人間社会では際限なく繰り返されてきました。
 そして、まったく同じ事態が、ダンテにも襲いかかったのです。
 ダンテが最愛の人々との死別に続いて直面した、2つ目の苦難が、ここにありました。
 その過程を簡潔に見ておきましょう。
35  事実無根の罪
 絶大な権力を持った、時のローマ教皇ボニファティウス8世らは、美しき都市フィレンツェを自らの勢力下に収めようと狙っていました。
 この宗教権力者の一党は、自分に従うフィレンツェの勢力と結託し、謀略をもって、フィレンツェを乗っ取ろうとしたのです。
 そして、彼らの攻撃の標的にされた一人が、ダンテであった。
 ダンテは、「わが故郷のために!」「愛する祖国の自治と独立のために!」と断固たる闘志を燃え上がらせて、故郷を支配しようとする勢力の動きに、頑強に反対し、抵抗したからです。
 そこで、ダンテが公務でフィレンツェを離れている間に、権力を掌握した政敵たちは「欠席裁判」を行った。
 そして事実無根の罪をでっち上げた。
 彼らは、「ダンテは公金を横領した」「教皇庁に対する陰謀を企てた」などという罪状を並べ立てたといわれている。
 しかし、すべてが濡れ衣であった。ダンテを陥れようとする「冤罪」であった。
 「陰謀を企てた」のは、ダンテを無き者にしようとする敵のほうだったのです。
 これが正義の人を陥れる手口です。
 仏典では、陰謀の悪人に対して、「確かな証人」を出せ! もし証拠がないというならば、自分が犯した罪をなすりつけようとしているのだ。糾明すれば分かることだ」と呵責されています。
36  ダンテは「国外追放」された。戻れば「火あぶり」にされるという。
 だれよりも、フィレンツェを愛し、フィレンツェのために戦い続けてきたダンテは、いわれなき罪人の汚名を着せられて、フィツンツェを追い出されました。
 そして56歳の死まで、二度と故郷の土を踏むことなく、受難の生涯を送ったのです。
37  正義とは?
 ダンテは、苦難の嵐の中で、人間の根本問題を真正面から見つめました。
 「なぜ、この世界では悪人がもてはやされ、わがもの顔で、のさばっているのか?」
 「一体、人の世に『正義』はあるのか?」
 「人道――人として歩む道は、どこにあるのか?」
 自分自身が迫害に遭ったからこそ、その思索は計り知れないほど深まったのです。
 正義とは、何でしょうか。
 人間にとって、正しい道、正しい生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。
 これは、本当に重要な問題です。また難しい問題です。
 例えば、第2次世界大戦中、日本では、戦争に反対すれば、「犯罪者」とされました。
 しかし、敗戦後には、戦争に反対した人が、「正義」と賞讃される時代が来た。
 何が正しいのか。何が間違っているのか。真実は、どこにあるのか。
 表面的な世評などに流されては、あまりに愚かであり、不幸です。
 物事の奥底を見抜いていく「英知の眼」を磨いていかなければならないのです。
38  民衆の側に立て
 かつて私は、東京校2期生の卒業のはなむけとして、次のように語りました。
 “皆さんには、正義の人になってもらいたい。具体的に言えば、悩める人、苦しんでいる人、不幸な人の味方となってほしいのです”
 “将来、どのような地位につこうとも、庶民の側に立ち、人間生命の尊厳を守りゆく人であっていただきたい”と。
 ダンテもまた、「権力の側」ではなく、「民衆の側」につきました。
 「人が苦しもうが、どうでもいい」「事を荒立てたくない」と思って静かにしていれば、弾圧などされなかったでしょう。
 しかし、ダンテは、「人民のため」との信念を曲げなかった。わが正義に生きた。
 正義であるがゆえに、迫害される――。
 これが歴史です。これが現実です。
 ゆえに、重ねて申し上げたい。「正しい眼」を磨き、「強い心」をつくっていかなければならないのです。
39  私は、創価大学で、「迫害と人生」と題して講演を行ったことがあります。〈1981年(昭和56年)10月31日〉
 そこで私は、さまざまな中傷、迫害と戦った人物――菅原道真、屈原くつげん、ユゴーら東西の詩人、思想家ルソー、画家セザンヌらの生涯に言及しました。
 とくに、悪い政治権力と悪い宗教権力は、結託して、正義の人を弾圧する。
 創価教育の創始者である、牧口常三郎先生と戸田城聖先生を苦しめた迫害の構図も同じでした。
 お二人の不二の弟子であるがゆえに、私も同じ難を受けてきました。しかし私は、「戸田大学」に学んだ師子です。
 ゆえに何があっても絶対に負けない。
 また私には、愛する青年たちがいます。学園生がいます。ゆえに何があろうとも必ず勝たねばならないのです。
40  「学園生はどうするのですか?」
 私は、創価の友に贈った詩の中で次のように綴りました。
  ある日 ある時
  ふと
  私は妻に漏らした
  「嫉妬うず巻く 日本を去ろう 世界が待っているから」
  その時 妻は 微笑んで言った
  「あなたには 学園生がいます
  学園生は どうするのですか?
  きっと 寂しがりますよ」
  そうだ!
  そうだ 学園がある!
  未来の生命たる 学園生がいる!
  君たちのためなら 私は
  いかなる迫害も いかなる中傷も いかなる試練も まったく眼中にない
  このように詩に詠んだ私の思いは、今も何ら変わることはありません。
  越えられない試練はない!
41  30年前の夏、学園生の皆が、創大生とともに、「負けじ魂ここにあり」というテーマを掲げて、私を迎えてくれたことがありました。
 〈1978年(昭和53年)7月14日の第11回栄光祭〉「『負けじ魂ここにあり』――何と素晴らしいテーマか」
 私は感動しました。
 その後、「負けじ魂」の精神を歌い上げる愛唱歌をつくろうと、学園生は話し合いを重ねたようです。
 その年の秋、皆でつくった歌詞を、私のもとに届けてくれました。
 ちょうど私は、錦秋の関西創価学園にいました。
 ここで歌詞を推敲し、1番から3番までが完成したのです。
  桜の舞いゆく 春の
  友とかけゆく この天地
  世紀を語る 笑顔には
  負けじ魂 かがやけり
  
  燃ゆる陽ざしに 汗光り
  進め 我が君 この道を
  胸うつ響き 紅顔に
  負けじ魂 ここにあり
  
  烈風りりしく 身にうけて
  未来の鼓動は この生命いのち
  喜び踊れ 丈夫ますらお
  負けじ魂 我が胸に
 大いなる期待を込めて、4番の歌詞は、私がつくって贈りました。
  母よ 我が師よ 忘れまじ
  苦難とロマンを この我は
  いつか登らん 王者の山を
  負けじ魂 いつまでも
 皆さんは、前途に何が起ころうとも、決して焦る必要もなければ、恐れる必要もない。
 「負けじ魂の人」には、乗り越えられない試練など絶対にないのです。
 いつか登らん、王者の山を!――そう歯を食しばって、今は、耐えに耐えて頑張るのです。
 人生の最後に勝つ人が本当の勝利者です。
 私は、学園生とともに、あらゆる難を勝ち越くえて、一点の悔いもない完勝の証しを、全世界に示し切ってきました。そのことは、皆さん方のお父さん、お母さんが、よくご存じの通りです。
42  苦難と戦うダンテには、先達というべき存在がいました。
 古代ローマの政治指導者であった哲学者ポエティウスです。
 彼は、正義のために断固として戦った。ゆえに俗悪な政治家たちから妬まれ、憎まれた。そして、不当にも投獄され、処刑された。
 この哲人が獄中で書き残した『哲学の慰め』を、ダンテは、若き日から愛読していました。
 そこには、毅然たる正義の魂の叫びが刻まれ、留められていました。
 「悪人どもがどんなにあばれても、賢者の額を飾る月桂冠は、落ちることもしおれることもないでしょう」(渡辺義雄訳「哲学の慰め」、『世界古典文学全集26』所収、筑摩書房)
 知性の勝利の象徴である「月桂冠」は、いかなる悪口罵詈にも、汚されることはない。
 否、非難されればされるほど、いやまして光り輝くのです。
43  悪に反撃する強さを持て!
 祖国を追われたダンテは、多くのものを失いました。社会的地位。名声。財産。故郷……。
 しかし、すべてを奪われたのではなかった。
 どんな権力も、彼から奪えないものがあった。
 追放されたダンテは、「一番大切なもの」を握りしめていた。
 それは、「正義は我にもあり!」という燃えるような「信」です。
 そして、「正義がないというのなら、私が正義を明らかにするのだ!」という執念であったのではないだろうか。
 そのダンテが、全身全霊を捧げて取り組んだ作品が『神曲』だったのです。
 『神曲』をはじめ、ダンテの名著の多くは、20年間の亡命の時期に書かれたものです。そこには、力強い考察と言葉が、ほとばしっています。
 ダンテは「善き事に対して悪しき証言を為すものは、誉れでなくて汚辱を受くべきであろう」(中山訳『ダンテ全集第6巻』同。現代表記に改めた)と綴っています。
 彼は『神曲』の執筆によって、だれが見ても分かるように「正義の基準」を明確に打ち立て、悪い行いを次々と罰していきました。
 そして、自らを不当に陥れた卑怯者たちに、自身の真価を見せつけていったのです。
 正義なればこそ、悪に反撃する強さを持たねばならない。
 ダンテの有名な詩には、こうあります。
 「沈黙することは/その敵にわが身を結びつけるほどの卑しい/下劣さである」(中山訳『ダンテ全集第4巻』同)
 このダンテの炎のペンは、乱世の中で人々が迷うことがないように、歩むべき正しい道を照らしていきました。
 「善人が下賎な侮蔑に置かれ、悪人が崇められ、高められた」「わたしは、悪しき路を辿りゆく人々にむかい、正しき径に向けられ得るよう、叫ぼうと企てた」(中山訳・『ダンテ全集第6巻』同。現代表記に改めた)と。
44  傲慢と戦い抜け
 亡命の間、ダンテのもとには、故郷フィレンツェから、「金銭を払う」などの屈辱的な条件に従えば、帰国を許すとの提案がなされました。
 しかしダンテは断固、2度にわたって拒絶したという。
 「汚名を被らされながら、汚名を被らしたものらに対して、おのが(=自分の)金銭を払うこと」は、「正義の宣伝者の思いもよらぬところ」(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)であると。
 正義の人ダンテには、自らを迫害した者たちの誘惑に負け、屈服するような卑しい弱さは、微塵もなかった。
 ダンテは語った。
 「太陽や屋の光を仰ぐことは私にはどこにいてもできるではないか。
 名誉を奪われた、屈辱的な恰好で、故国の前に、フィレンツェ市民の前に姿を現わさずとも、天下いたるところで甘美な真理について冥想することは私にはできるではないか」(平川祐弘訳『神曲』河出書房新社の訳注から)
 彼はもはや、故郷に戻る、戻らないといった次元を超越していました。
 この大宇宙のいずこにあろうとも、正義を貫く自分自身に変わりはない。
 「故郷」を追放されたダンテは、「世界」をわが故郷としました。
 不当に迫害されたダンテは、大きく境涯を広げ、自由自在の世界市民として飛翔していったのです。
 ダンテが青春時代から深く学んでいた、大詩人ウェルギリウスの詩が思い出されます。
 「傲慢な者とは最後まで戦い抜くことだ」(岡道男・高橋宏幸訳『アエネーイス』京都大学学術出版会)
  苦しくも
    勝利の春は
      君待たむ
 一流の人格の指導者はへこたれない 妬まない
45  正邪を明らかに
 私が友情を結んできた多くの世界の一流の方々も、過酷な迫害に遭いながら、強い正義の信念で打ち勝ってこられました。
 “人類の頭脳”といわれるローマクラブの創立者、イタリアのペッチェイ博士は、凶悪なファシズムに囚われ、拷問されても、断じて同志を裏切らなかった。
 南アフリカのマンデラ前大統領は、悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)と戦い、実に27年半――1万日におよぶ獄中闘争に勝利された。
 アメリカの人権の母パークスさんは、不当な逮捕にも屈せず、人種差別の撤廃のために戦い続けた。
 ロシアの児童劇場の母サーツさんは、独裁者の粛清によって最愛の夫を殺され、自らもシベリアの収容所に囚われた。その極寒の牢獄の中で、子どもたちのための劇場の建設を決意されました。
 さらに、軍事政権と戦い、外国への亡命生活の中でも正義のペンの闘争を貫いた、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁。
 多くの民衆の命を奪った軍事政権と戦い、残酷な仕打ちに耐え抜いた、アルゼンチンの人権の闘士エスキベル博士。
 中国の文豪・巴金ぱ・きん先生は、文化大革命の渦中、「牛小屋」と呼ばれる監獄に入れられ、責め抜かれた。しかし、その獄中で、ダンテの『神曲』を筆写しながら、歯を食いしばって、一切を耐え忍ばれたのです。
 巴金先生の胸奥には、ダンテのごとく、いつの日か正邪を必ず明らかにしてみせるとの闘魂が燃え上がっていた。そのことを、私は血涙を流す思いで、うかがったことがあります。
46  皆、「自分との闘い」に勝った人です。たとえ悪口され、圧迫されても、何度でも立ち上がって、一生涯、挑戦し続けた人です。
 一流の人格の指導者は、決して「へこたれない」。また、「人を妬まない」。
 前へ進む人、成長し続ける人には、他人を妬んでいる暇などありません。人を嫉妬するのは、自分が前に進んでいない証拠です。成長していない証拠なのです。
 ダンテは、苦難をバネにして、「汝自身」を大きく育てていきました。「わが道」を前へ前へ進んでいきました。
 きっとダンテは、「あの嫉妬深い悪人どものおかげで、わが使命の執筆ができるのだ!」と、敵を悠然と見おろしながら、「大きな心」で前進していったに違いありません。
47  大難に遭い、大難に勝つ正義の人生は、不滅の歴史を刻み、人類から永遠の喝采を受ける。
 一方、正義の人を迫害した悪人どもは、永久に消えない汚名を残すのである。
 わが学園生には、正義の「勝利の旗」を未来永遠に打ち立てゆく、「栄光の使命」があると申し上げたい。
48  天空を真っ赤に染め上げていく夕日。
 「君よ、あなたよ、わが命を燃やし、一日一日を悔いなく学び、生きよ!」と語りかけているようです。
 1991年(平成3年)の10月18日。
 私は、関西創価学園での友好交歓会に出席しました。
 夕方には、通学生・寮生・下宿生の代表と懇親会を行いました。
 この時です。それはそれは素晴らしい夕日が会場の外を照らしました。私は窓際に立って、その光彩をカメラに収めました。
 荘厳な夕日は、明日の晴天を約束するとも言われる。関西の交野も枚方も、東京の武蔵野も八王子も、本当に夕焼けが美しい。
 仏典には「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」とあります。わが学園生、創大生、短大生の現在の努力が、未来の栄光を開くのです。
49  民衆の言葉で!
 私にとって、『神曲』は、青春の座右の一書でした。
  若き日に
    最初に読みし
      ダンテかな
    おお 神曲の
      正義の戦よ
 ダンテは自ら『神曲』について語りました。
 「作品の目的は、人びとを今陥っている悲惨な状況から遠ざけ、幸福な状態へと導くことにあるのです」(マリーナ・マリエッティ著、藤谷道夫訳『ダンテ』白水社)と。
 目的は明快です。
 「人間の幸福」です。だからこそ一人でも多くの人に伝えたい――。
 ゆえにダンテは、当時のエリートの言葉である「ラテン語」ではなく、民衆の日常の話し言葉である「イタリア語(トスカナ語)」で、『神曲』を書きました。
 すべては「人間の幸福」のためにある。
 このことを、狂った軍国主義の時代に勇敢に叫び切った師子王が、牧口先生であり、戸田先生でした。
 ここに創価教育の原点があります。
50  人々の幸福を願って書かれた『神曲』は、一体、どのようにして物語が進んでいくのか。
 実は、『神曲』は、その多くが「師弟の旅」として描かれています。
 師とは、古代ローマの大詩人ウェルギリウス。
 弟子とは、イタリアの青年詩人ダンテ。
 時を超えて結ばれた、この師弟が、まず地中にある「地獄」の世界を下へ下へと降りていきます。
 次に、地上に出て、そびえ立つ「煉獄」という世界を見聞します。
 さらにダンテは、天上の「天国」の世界にも飛翔して、旅を続けるという構成になっています。
 大宇宙の高みに至ったダンテは、地上の一切の権力を悠然と見おろしていました。
 彼にとっては、この世の名聞名利など、はかない「風の一吹き」(平川祐弘訳『神曲』河出書房新社)に過ぎなかった。
 だから逆風も恐れませんでした。
  君と僕
    富士を仰ぎて
      堂々と
    正義の大道
      愉快に歩めや
51  『神曲』に描かれ世界は、いずれも、亡くなった人々が行く「死後の世界」です。
 そこでは、生前のいかなる権力も、財産も、名声も、まったく関係ない。
 身を飾る「虚飾」は、ことごとく剥がされて、人間としての「真実」「本質」'が明らかにされていく。
 「いかに生きてきたのか」「何を為してきたのか」――ただそれだけが、ダンテの考える「正義」に則って、厳格に裁かれます。そして、次の3つの場所にふるい分けられるのです。
 地獄界は、永劫に罪悪を罰せられる世界です。
 煉獄界(=浄罪界)は、過酷な責め苦を経て、罪を浄化する世界です。
 天国界(=天堂界)は、光と音楽に満ちた、正義と慈悲の世界です。
 ダンテは、この3つの世界の旅を終えて、生の世界に戻り、死後の世界の実像を人類に伝えるために『神曲』を書いた。そういう設定になっているのです。
52  ダンテが描き出した『地獄』の様相が、どれほど凄まじいか。
 日本の歌人として有名な与謝野晶子は、こんな一首を残しました。
 『一人居て ほと息つきぬ 神曲の 地獄の巻に われを見出でず』(『興謝野晶子全集第3巻』文泉堂出版)
 少し難しい表現かもしれませんが、歌の意味はこうです。
 『神曲』の地獄編を読み通して、その地獄の中に“自分がいなかった”ことに、ほっと安堵の息をついたというのです。
 いわんや、仏典には、「もし仏が、無闇地獄の苦しみを詳しく説いたならば、人はこれを聞いて、血を吐いて死んでしまうだろう」とあります。
 それほど生命を貫く因果は厳しいのです。
53  『神曲』では、さまざまな罪悪が罰せられています。
 例えば、「傍観」の罪があります。
 「地獄の門」を入ると、絶え間なく虻などに刺されて、泣きながら走り回る者たちがいます。
 それは、生きている間、中途半端で生ぬるい生き方をしたため、死後、絶え間なく苦痛の刺激を受け、動き続けなければいけないという象徴なのです。
 彼らには、あえて厳しい断罪の言葉が投げつけられる。
 「これこそ、恥もなく、誉もなく、凡凡と世に生きた者たちの、なさけない魂のみじめな姿」(寿岳文章訳『神曲』集英社文庫)
 「本当に人生を生きたことのない馬鹿者ども」(前掲平川訳)
 「慈悲も正義も奴らを馬鹿にする」(同)と。
54  「冷酷さ」を「氷」で表現
 さらに、「貪欲」の罪、「暴力」の罪、「偽善」の罪、「中傷分裂」の罪などが罰せられている。
 では、ダンテが描いた地獄の最も底で、厳しく罰せられている罪悪は何か。
 それは「裏切り」です。なかでも、「恩人に対する裏切り」は最も罪が重い。
 地獄の底――「わずかの熱」も「救いの光」もない暗黒の絶望の世界で、「氷漬け」にされている。
 ダンテは、恩人を裏切る卑劣な「冷酷さ」を何よりも憎み、「氷」の冷たさで表現したのです。
 そして、悪魔の大王に、裏切り者が全身を噛み砕かれている姿を描いています。
 ダンテは綴ります。
 「裏切者はみな未来永劫にわたり/呵責にさいなまれている」(同)
 忘恩の裏切りは、人間として最悪の罪の一つである。これは、古今東西を問わず、一致する結論であることを、聡明な皆さんは心に留めておいてください。
55  『神曲』の世界では、さまざまな登場人物が、自分自身の振る舞いに応じて、居場所を定められています。
 卑劣な悪行があれば、それに見合った罰が下っている。ダンテは、峻厳な「因果の法則」を見つめていたのです。
 自分が行ったこと(=原因)は、良きにつけ、悪しきにつけ、必ず自分自身に返る(=結果)。
 「悪人は必ず厳しく裁かれる」
 「善人は絶対に正しく報われる」
 生死を貫く、そうした「因果の法則」から、いかなる人も逃れることはできない。
 これが、ダンテの達観でした。
 その因果の実像を、文学の世界で表現したのが、『神曲』なのです。
56  『神曲』では、有名か無名かにかかわらず、善い行いをした人間は、高い位に位置付けています。
 一方、地位の高い政治家や坊主で、その立場を乱用して、悪事をなした者は、容赦なく裁かれています。
 「上に立つ人の行ないの悪さこそが/世界が陰険邪悪となったことの原因なのだ」(同)と。
 ゆえに『神曲』は、邪悪な権力者を厳しく責めている。
 例えば、天国界で記されている「罪科帳」には、「王たちの悪業の数々がすべて/記入されてある」(同)という。
 また、腐敗の坊主の悪行に対しては、「いま一度怒りを心頭に発していただきたいのだ」(同)と、広大な天国界が、真っ赤に染まるほど、激烈な怒りに燃える。
 『神曲』の「天国」も、俗にいう「楽園」ではない。それは凄まじい「正義の怒り」のみなぎる世界なのです。
57  ケネディも愛読
 アメリカの若き指導者ケネディ第35代大統領も、ダンテの文学を好んでいました。
 大統領は、ダンテの信条を通して、こう語っています。
 「地獄で最も熱いところは、道徳にとって大変な危機の時代に臨んで優柔不断な姿勢をとる人間のためにあけてある」(宮本喜一訳『勇気ある人々』英治出版)と。
 であるならば、正義が貶められている時に、戦いもせずに傍観している者は、地獄の最も熱いところに行くということです。正義の戦いは、絶対に中途半端であってはならない。
 ダンテの正義のペンは「火の筆」といわれるほど、徹底したものでした。
 『神曲』では、先人がダンテを、こう戒めています。
 「おまえの叫びは、さながら疾風のごとく鋭く、/梢が高ければ高いほど激しく撃つがよい」(前掲平川訳)
 邪悪を諌め、正すためには、相手の位(=梢)が高ければ高いほど、強く鋭く、撃て!
 これが『神曲』に込められた正義の魂なのです。
58  実は、私は、ケネディ大統領からの要請もいただき、お会いする予定がありました。
 しかし、日本の政治家から邪魔が入って、会見は中止になった。その後、大統領が亡くなってしまったのです。
 もしも会見が実現していれば、ダンテの文学についても語り合えたかもしれません。
 後に、弟であるエドワード・ケネディ上院議員が、お兄さんに代わって、わざわざ東京まで会いに来てくれました。
 また、私が対談集を発刊した、世界的な経済学者のガルブレイス博士も、ケネディ大統領を支えた一人でした。
 共に敬愛する大統領の信念を偲び、対談にも収めました。
 ガルブレイス博士は、私がハーバード大学で2度目の講演を行った時にも、深い共鳴の講評を寄せてくださった方です。
59  私は、このハーバード大学の講演で、人間の「生」と「死」を一つのテーマに据えました。
 それは、なぜか。
 「生」と「死」を正しく見つめることを忘れ、「生命の尊厳」を見失ってしまえば、社会は混乱するからです。
 正しい生命観の上にこそ、平和も築かれる。「死」を見つめてこそ「生」もまた輝く――そのことを私は、現代文明の最先端のハーバード大学で訴えたのです。
 幸い講演には、大学関係者や研究者の方々から予想を超えた反響をいただきました。
60  ダンテもまた、自らの哲学書『饗宴』の中でこう述べています。
 「すべての非道のうち、最も愚かにして、最も賎しむべく、また最も有害なものは、この世の後に他の世がないと信ずるものである」(中山昌樹訳『ダンテ全集第5巻』日本図書センター)と。
 つまり、死ねばすべて終わりで、何も無くなると信じることほど、愚かで、賤しく、有害なものはないというのです。
 これが、さまざまな書物をひもとき、思索し、探究したダンテの一つの結論でした。
 ダンテは、何よりも、「この現実の世界で、よりよく生き抜くため」に、生死を見つめ、『神曲』を書いたのです。
61  『神曲』の中で、師匠のウェルギリウスがダンテに繰り返し教えたことは何であったか。
 それは「時を惜しめ」ということでした。
 「いいか、今日という日はもう二度とないのだぞ!」(前掲平川訳)と。
 この師弟の心が、私にはよく分かります。
 終戦後、私は、戸田先生のもとで学び、働き始めました。
 肺病で、いつ死ぬかも分からない体でした。
 30歳までは生きられないと医者から言われたこともあります。
 だからこそ、一日一日を、一瞬一瞬を、悔いなく懸命に生きました。
 たとえ今日倒れても、もしも明日死んでもかまわない――その決心で、戸田先生のため、人々のため、社会のために、死にものぐるいで働きました。
 限りある人生の時間の中で、友に尽くし、わが命を磨きに磨き、死によっても壊されない「永遠に価値あるもの」を求め抜いていきました。
 こうして、戸田先生に薫陶いただいた青春の10年間は、私の人生のすべての土台となる「黄金の10年」となったのです。
 皆さんも、わが学園で断じて学び抜き、体も心も鍛え抜いて、悔いなき黄金の一日一日を勝ち取っていただきたいのです。
  青春を
    我も勝ちたり
      君も勝て
62  完全燃焼の「生」――わが学園生の中には、荘厳な生死のドラマを刻んで、「生きる」とは「戦う」ことであると、鮮やかに教え残してくれた若き英雄たちがいます。
 それは1989年(平成元年)の10月のことでした。
 私もよく知る東京校の一人の学園生が、「骨肉腫」と宣告されました。当時、高校1年生でした。
 骨肉腫とは、骨の悪性腫瘍です。
 「骨肉腫」との診断から5カ月後でした。彼は、右足を太ももから切断しました。
 それでも、弱音なんか吐かなかった。松葉杖で通学も再開しました。
 夢は文学者になることでした。世界一の文学者に。そのために真剣に読書し、学びました。
 肺に「転移」した後は、左肺を3度も切除手術。まさに死闘でした。
 彼は、未来を見つめて頑張った。
 ――偉大な人は皆、大難に遭っていると、池田先生がおっしゃっている。僕は世界一の文学者になるのだから、今までの苦労なんて、先のことを考えたら、どうってことない――と。
 私は闘病中の彼に、何度も励ましを伝え、次の揮毫を贈りました。
 生涯 希望
 生涯 勇気
 生涯 文学
63  希望とは未来の栄光に生きる心
 卒業を4カ月後に控えた1991年(平成3年)の11月。
 創価女子短期大学の白鳥体育館で、卒業記念の撮影会が行われました。
 “絶対に一緒に参加したい”という同期の22期生たちの祈りに包まれて、彼は、勇んで入院先の病院から会場に駆けつけてくれた。
 私は撮影会場で彼の姿を見つけると、まっすぐに、車椅子の彼のもとへ向かいました。
 「よく来たね」
 「はい、どうもありがとうこざいます」
 がっちりと握手を交わしました。
 彼の両目から、大粒の涙があふれました。
 きりっと胸を張った、学園生らしい立派な姿でした。
 病魔から一歩も逃げないで戦い抜いた、美しい「勝利の涙」でした。
 それから2週間後の11月25日、彼は、安らかに息を引き取りました。
 約2年間の闘病を越えて、霊山浄土へ旅立っていったのです。
64  希望とは何か? ダンテは答えます。
 「希望は未来の栄光を/疑念をさしはさまずに待つこと」(前掲平川訳)と。
 未来永遠の栄光に生きる者にとって、「絶望」の二字はありません。
 わが友は、断じて負けなかった。
 周囲に無限の「勇気」と「希望」と「決意」の炎を灯してくれた。不屈の青春の大叙事詩を綴ってくれたのです。
 彼とともに学園生活を過ごしたクラスメートは、彼の姿を大切に胸に収めて、それぞれの立場で、立派な結果を示し始めています。
 私の胸には、今も、「先生! 僕、絶対に勝利します!」という彼の生命の叫びが、生き生きと、こだましています。
65  これまで人生の途上で逝かれた、東西の学園生、創大生、短大生の皆さん方は、一人ももれなく私の胸の中に生きています。何があっても絶対に忘れません。
 それが、創立者の心であることを皆さんに語っておきます。
66  健康第一で!
 大切な大切な創価の友の健康を、無事故を、私は妻とともに、いつも真剣に祈っています。
 今は病気の人も、決して弱気になってはいけない。何があっても強気で! すべてに意味があるのです。
 どんなことがあっても、微動だにしてはいけない。悠然と進むのだ。生命は永遠なんだから!
 私とともに、断じて生き抜いて、勝ち抜いていただきたい。
 だれ人にも、自分にしかない、大きい使命があるのです。また元気になって、一緒に戦おう!
 皆さんと私は、永遠の絆で結ばれた三世の同志なのです。
  君たちの
    名前を一生
      忘れまじ
    私の心に
      栄光 まばゆ
67  ダンテは、「予め労苦し、後代のものをして富ましめ」(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)と語っています。
 自分自身が苦労して、後に続く人々のために、豊かな精神の遺産を残しゆけというのです。そのために、若き君たちは、今日も健康第一で、張り切って、学び抜いていただきたい。
68  ある時、学園生が私に質問をしました。
 「池田先生の夢は何ですか?」
 私は答えました。
 「私の夢は、戸田先生の夢を実現することです」と。
 戸田先生の弟子として私は、恩師の夢を一つ残らず実現してきました。
 師匠の正義と偉大さを叫び抜いてきました。
 歴史上、偉大な仕事を残した多くの人は、若いころから、大きな夢に向かって挑戦しています。
 皆さんも、大きい夢を持つのです。偉大な夢を実現していくのです。
69  創価小、万歳!
 創価教育の学校をつくることも、戸田先生の夢でした。それは戸田先生の師匠である牧口先生の夢でもあった。
 戸田先生は、若い私に言われました。
 「牧口先生は、創価教育の学校の建設を私に託された。しかし、私の代でできなければ、大作、その時は頼むぞ」と。
 その言葉の通り、私は、創価学園、創価大学、創価女子短大、そしてアメリカ創価大学を創立しました。
 創価一貫教育の“夢の城”として、東京創価小学校と関西創価小学校も光っています。
 牧口先生も戸田先生も、小学校の先生でしたから、創価小学校の現在の大発展を、それはそれは喜んでくださっているでしょう。
  万歳と
    皆で叫ばむ
      創価小
    未来の偉人よ
      負けずに育てと
 さらに、札幌創価幼稚園を出発点として、創価の幼児教育のネットワークは、香港、シンガポール、マレーシア、韓国に広がっています。
 ブラジルにも、創価の学舎をつくりました。
70  今、この創価の師弟の事業は、世界の人々から一段と大きな信頼を寄せられる時代に入りました。
 ダンテが生まれたイタリアでも、牧口・戸田両先生の業績が大きく顕彰されています。
 “花の都”フィレンツェの郊外に位置するカプライア・リミテ市には、「牧口常三郎平和公園」ができました。
 イタリア中部のペルージャ県には「牧口常三郎通り」があります。
 またイタリア南部のアブルッツォ州には「戸田城聖通り」が誕生。
 フィレンツェの南西にあるチェルタルド市には「戸田城聖庭園」が開園しています。
 戦時中、日本のファシズムと戦い、平和のため、民衆の幸福のために生涯を捧げた創価の師弟への讃嘆は、いよいよ大きくなっています。
 これもイタリアの同志の皆さんが師弟の真実を語り抜き、平和と友情の連帯を広げてくださっているおかげです。心から感謝申し上げたい。
 〈イタリアでは、創立者の池田名誉会長に対し、ボローニャ大学とパレルモ大学から名誉博士号が授与されているほか、44の名誉市民称号、また100を超える都市や団体からの顕彰が贈られている〉
71  師匠は太陽!
 『神曲』で深く心を打たれるのは、壮絶な「地獄」と「煉獄」を踏破し、「天国」へと向かう、ウェルギリウスとダンテの「師弟の絆」です。
 「師弟」がなければ、破れない壁があります。
 「師弟」でなければ、進めない道があります。
 『神曲』の冒頭、人生の正しい道に迷い苦悩する若きダンテは、大詩人ウェルギリウスと出会いました。そして、師弟の旅に出発しゆく喜びを、弟子ダンテは、こう詠っています。
  夜の寒さにうなだれ
  しぼむ小さな花が、
  朝日の光を受けると
  勢よくおきあがり、
  茎の上に
  悉くひらくように、
  私の萎えた力も
  生色を取りもどす。
  かくて、
  怖れを知らぬ勇気、
  わが心にみなぎり、
  自由となった者の
  ように、
  私は言い始める(寿岳文章訳『神曲』集英社)
  さあ行きましょう、
  二人とも
  心は一つです、
  あなたが先達、
  あなたが主君、
  あなたが師です(平川祐弘訳『神曲』河出書房新社)
 師匠は、希望の太陽であり、勇気の泉です。
 私が師匠・戸田先生に初めてお会いしたのは、皆さんとほぼ同じ年代の19歳の時でした。
 私も“人生の師匠”と出会えた感動を、その場で即興詩に詠んだことが思い出されます。
  旅びとよ
  いずこより来り
  いずこへ 往かんとするか
  月は沈みぬ
  日 いまだ昇らず
  夜明け前の混沌カオス
  光 もとめて
  われ 進みゆく
  心の 暗雲をはらわんと
  嵐に動かぬ大樹求めて
  われ 地より湧き出でんとするか
72  何のためを問え
 師弟の出会いがあるところ、豊かな「詩」が生まれます。師弟の闘争があるところ、魂の旋律ともいうべき偉大な「歌」が生まれます。
 私もこれまで、わが学園生と、また愛する多くの青年たちと、幾多の歌をつくってきました。一つ一つに忘れ得ぬ歴史があります。
 東京の学園校歌「草木は萌ゆる」は、武蔵野の四季を歌い、人生の根本の「問い」と「答え」を示した、本当に素晴らしい歌です。
 一番では、「英知をみがくは何のため」との問いかけに対し、「次代の世界を担わんと」と、その目的が明快に記されている。
 さらに「何のため」との問いが続き、“社会の繁栄のため”“民衆の幸福のため”“世界の平和のため”と高らかに歌われています。
 この歌は、目先の利害とか、小さな自分を超えて、「大いなる理想」に向かって前進していかんとする、学園生の誓いの歌です。
 世の中には、初心を忘れ、お世話になった人の恩を忘れる人間もいる。それどころか、恩を仇で返す人間さえいる。それは、慢心をおこし、ちっぽけな自分が中心となり、本来の目的を見失っているからだ。それでは堕落の人生だ。
 皆さんは、この学園で「何のため」と、わが胸に問いかけながら、一生涯、崩れることのない、人生の大目的を生命に焼き付けていってください。こごに創価学園の大精神があるからです。
73  校歌の5番の歌詞は私が贈りました。
  富士が見えるぞ
  武蔵野の
  渓流清き 鳳雛の
  平和をめざすは
  何のため
  輝く友の 道拓く
  未来に羽ばたけ
  君と僕
 私の人生の目的は、後に続く若き君たちの「道を拓く」ことです。
 そのために一切の苦難をはねのけて、平和と文化と教育の大道を全世界に広げてきました。
 創価学園が開校した年である1968年の9月6日、学園のグラウンド開きで、凛々しき1期生500人と初めて校歌(当時は寮歌)を歌って以来、40年が経ちました。今や、東京校の同窓生の集いである「鳳友会」「香友会」の連帯は約14,000人となりました。
 「未来に羽ばたけ君と僕」。私の胸には、いつも、君たち学園生がいます。
74  師弟一体で!
 一方、私の提案に応えて、関西学園に新校歌「栄光の旗」が誕生したのは、今から18年前のことでした。
 作成の中心となったのは、関西創価小学校からの“一貫教育1期生”となる高校15期生たちです。
 関西校で新校歌作成の取り組みが本格化した1990年2月、私は自由の天地アメリカで、平和への指揮を執っていました。そして3月4日、アメリカから帰国したばかりの私のもとに届けてくれたのです。
 歌の完成を、私は、本当に楽しみにしていました。
 全力でぶつかってきた学園生の思いに応えたいと、思索を凝縮させ、ペンを走らせました。歌詞に大幅な直しを入れさせてもらいました。
 曲づくりにも、「学園生が庭園の池のほとりで、仲良く語り合っているような、流れるようなメロディーで」等とアドバイスをしました。
 何度も作曲を重ねた末に、最終の案となる曲が完成したのは、15期生の卒業式の3日前、3月13日でした。
 翌14日、それを聴いた私は、「とてもいい」と感動した。限界を打ち破り、何度も何度も挑戦した学園生の心意気が本当にうれしかった。ここに歴史的な師弟共戦の歌が完成したのです。
75  校歌の3番の歌詞はこうです。
  ああ関西に
  父子ふしうた
  これぞ我らの
  れの曲
  ともに誓いを
  果たさむと
  世界を結べや
  朗らかに
  君も王者と
  栄光の旗
  君も勝利と
  栄光の旗
 東京の校歌には、深く掘り下げられた「学園の原点」があり、関西の校歌には、世界に飛翔しゆく「学園の栄光」が留められています。
 その後も私は、東西の女子学園生の歌として、妻とともに「幸福の乙女」をつくりました。
 また関西校に学園歌「関西創価 わが誇り」、関西学園寮歌「我らの城」を贈った。
 皆、私が学園生と一体となってつくった「師弟の詩」です。
76  師弟の絆ほど、美しく、強いものはない。
 師弟とは、ある意味で、親子以上の関係です。親子は動物にもありますが、師弟は人間にしかない。師弟があってこそ、本当の学問があり、英知があります。
 師弟あればこそ、弟子は困難に飛び込んでいける。師弟がなければ、命を懸けた信念の戦いを貫くことは難しい。
 人格を鍛える根本の力も師弟です。それが、師弟に生き抜いた私の実感です。
 今、世界の各地、社会の各界で、学園出身の先輩方の活躍が生き生きと広がっている。
 立派な学園の伝統を築き上げてくださった先生方、また職員の方々、そして陰に陽に学園を護り支えてくださっている、すべての皆様に私は心から感謝申し上げたい。
  堂々と
    天にそびゆる
      人材を
    世界におくりし
      わが師を讃えむ
77  『神曲』の師弟も本当に美しい。
 師ウェルギリウスは、罪と罰とが激しく渦巻く「地獄」「煉獄」を進みながら、弟子ダンテを、時に温かく、時に厳しく、励まし続ける。
 思いつくままに、紹介させてもらえば──
 「怖れるな、わたしが君を導くかぎり」「怖れるな。われらの進むを妨げる力は誰にも無し」(前掲寿岳訳)
 「私について来い、勝手にいわせておけ。/風が吹こうがびくとも動ぜぬ塔のように/どっしりとかまえていろ」(前掲平川訳)
 「必ず我等は戦に勝つべきである」(中山昌樹訳『ダンテ全集第1巻』日本図書センター)と。
 すべて、そのまま、わが学園生に贈りたい言葉です。
 一方、弟子ダンテは、「慕わしきあしうらの跡を追うた」(同、現代表記に改めた)と、師匠の足跡までが慕わしいと感謝を捧げます。
 「先達が希望を与え、光となってくれたのだ」「私がいかほど先生に恩を感じているか、/私は生きている限り、世に語り世に示すつもりです」(前掲平川訳)
 敬愛する師の恩に応えたい──このダンテの報恩の心こそが、険しき旅路を歩み抜き、勝利していく力となったのです。
 地獄と煉獄の旅を終えるにあたり、師匠ウェルギリウスは、強く逞しく成長したダンテの頭上に「冠」を授ける。
 弟子の「成長と勝利」こそ、師にとって最高の喜びです。私にとって最高最大の喜びも、学園生一人一人の「成長」であり、「勝利」なのです。
  若獅子よ
    おお こうべには
      月桂冠
    乙女の髪には
      英知の風吹け
78  女性が主役!
 『神曲』の最終部は、罪悪と争いに満ちた地底の「地獄界」や地上の「煉獄界」を見おろす「天国界」──大宇宙の旅でもあります。
 この旅で、ダンテを導く役割を担うのは、高潔な女性のベアトリーチェです。
 「おまえが望み憧れる真実に向かってこの道を私が/どのように進むかをよく見ておきなさい」(前掲平川訳)
 「真理の上に未だ足を委ねずして汝は/依然として身を虚妄に回らしている」(中山訳『ダンテ全集第3巻』同、現代表記に改めた)
 毅然たる女性の激励に対して、ダンテは心から感謝を述べます。
 「正しい考えと誤った考えを証しながら/美しい真理のやさしい姿を私にしめした」(野上素一訳『筑摩世界文学大系11 ダンテ』筑摩書房)と。
 率先の模範を示しながら、時に凛然と、時に理路整然と、雄弁をもって正邪を語り導く姿は、輝く創価の乙女を思わせる品格があります。
79  学園出身の女性たちの活躍を讃える声を、私は、社会の各界の方々から、本当によくうかがいます。皆、自分らしく、努力に努力を重ね、「使命の道」で輝いている。
 弁護士や公認会計士、政治家、外交官、医師、ジャーナリスト、通訳・翻訳者、大学や学校の教員など、社会の第一線で光を放っているメンバーもいます。小学校の校長も誕生しました。
 またアメリカの名門カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)など世界の名門大学で博士号を取得した人や、アメリカ創価大学を最優秀の成績で卒業し、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の大学院に進んだ人もいます。
 そして、多くの卒業生が、学園時代の誓いを胸に、信頼厚き地域の女性リーダーとして、全世界で活躍しています。
 強く賢く清らかな心の女性こそが、世界を平和と善と調和の方向へとリードしていく──これがベアトリーチェに託したダンテの信念でした。
 「女性の世紀」は、これからが本番です。皆さんこそ、その先頭に立つリーダーなのです。
80  さて、『神曲』に登場する女性ベアトリーチェは、ダンテを導きながら、天の高みへ高みへと上昇するにつれて、ますます目が輝き、姿の美しさが増していった。
 それは「善行をおこなう時、心に感じる喜びが/増す」(同)ことを譬えています。
 正義と平和のために戦えば戦うほど、生命が躍動し、歓喜が増していく。心美しき学園出身の女性は、全員が「幸福の博士」であれ! 「歓喜の人生」であれ!──私と妻はいつも、そう祈っています。
  聡明な
    私の娘の
      香友会
    幸福博士と
      この世 勝ち抜け
  三世まで
    共に共にと
      蛍会
    なんと優しく
      強き姫らよ
81  人間の変革こそ
 わが創価学園は、天文教育が盛んです。
 とくに関西校は、NASA(アメリカ航空宇宙局)の教育プログラム「アースカム」への参加回数で「世界一」を更新し続けています。
 「宇宙しという視点を持ち、「地球民族主義」という信念を持った平和の世界市民を育成する、素晴らしい伝統ができ上がった。
 思えば、関西学園の第1回入学式で、私は、全国から集った乙女たちに一つの提案をしました。
 それは、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」という絶対平和の信条を、わが学園で身につけてほしいということでした。
 この「自他共の幸福」を願う心こそ、仏法の真髄の心であり、「平和の世紀」の重要な指針です。
 ハーバード大学での1回目の講演でも、私は、この学園の指標を紹介しました。最高峰の知性の方々からも深い共鳴が寄せられました。
82  「地球の変革」とは、どこまでいっても「人間自身の変革」から始まる。
 自らの過酷な運命に打ち勝ったダンテは、人類の運命もまた変えられることを強く訴えました。
 『神曲』でダンテは、意志の力は暴力よりも強いことを主張しています(天国篇第4歌)。
 また「意志の力が/十分に養成されているならば、すべてに克てるはずだ」(前掲平川訳)とも言っている。
 そして、地球をはるかに見つめながら──人類が、これまで歩んできた道は争いの絶えない道だった。未来を断じて変えなければならない。未来は変えられる!──と平和の大宣言を放っていくのです(天国篇第27歌)。
83  学は正義の土台
 世界のために、未来のために、今は学ぶ時です。真剣に力をつける時です。
 私は皆さんに、学問こそ、幸福の土台であり、正義の土台であり、勝利の土台であると強く申し上げたいのです。
 ダンテは『神曲』の各篇の最後を、「星々=ステレ」という言葉で結んでいます。
 ダンテにとって「星」は、旅の「目的地」であり、還るべき「故郷」です。そして、「永遠なるもの」「偉大なるもの」の象徴でもある。
 創価学園は、永遠に、皆さんの還るべき魂の金の星なのです。
84  ダンテが愛読していた古代ローマの哲学者キケロは、こう語った。
 「困難が大きければ、それだけ誉れも大きい。いかなる場合にも、正義の働きを止めてはならないのである」(高橋宏幸訳「義務について」、『キケロー選集9』所収、岩波書店)
 ダンテは20年の亡命生活のなかで『神曲』を書き続けて、死の少し前に完成させました。
 晩年は、イタリアのラヴェンナの地に、家族を呼び寄せて平穏に暮らし、1321年の9月、このラヴェンナの地で生を終えました。
 ダンテは勝った。堂々と勝ちました。
 正義は勝ったのです。
 ダンテを迫害した者は、歴史に汚名を残し、今なお厳しい断罪を受けています。
 詩聖ダンテの名声は、その苦難の足跡ゆえに、ひときわ大きな光彩を人類史に放っております。
 ダンテの頭上には、生前、彼が願っていた通り、月桂冠が冠せられたという。
 月桂冠は、人類史に輝く偉大なる詩人にのみ贈られる「桂冠詩人」の証しでした。
 そしてまた、月桂冠は、誇り高き「勝者」の象徴です。
 わが学園生は、一人も残らず、人生の勝利者となっていただきたい。
 わが学園生の頭に、一人ももれなく、「幸福と正義と勝利の月桂冠」を贈りゆくことこそ、私と妻の夢であり、祈りです。
85  勇気で立て!
 私は、皆さん方の創立者として、2006年の1月、ダンテの祖国であるイタリア共和国より、「功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章」を拝受しました。
 その折、私は謝辞をダンテの『神曲』の一節で結びました。
 その言葉を、わが愛する学園生、そして大切な大切なわが弟子に贈り、第1回の特別文化講座とさせていただきます。
 「さあ立ち上りたまえ」「どんな戦いの中でも必ず勝つ確固たる勇気をもって」(片山敏彦訳『ロマン・ロラン全集4』所収、みすず書房)
  忘るるな
    偉大な師弟の
      契りかな
  勝ち抜けや
    正義の星と
      学園生
 グラッチェ!(イタリア語で「ありがとうございました!」)

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