Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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全国代表者会議
2008.3.26 スピーチ(聖教新聞2008年下)
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2
万代の発展へ
私は、学会の将来を見つめ、先の先の先まで考えて、学会が栄えゆくための道を開いている。目先ではなく、未来の盤石な発展のために戦っている。
最高幹部には厳しく言い、現場の第一線の皆様を大事にする。これが、牧口先生以来の学会の方程式である。それによって、学会は発展してきた。
幹部が威張り、師弟の道を踏みにじり、自分勝手なことをするようになったら大変なことだ。これまでも、広宣流布の尊い使命を忘れ、退転し、反逆していった輩がいたことは、皆さんもご存じの通りだ。
そういう悪人には、断固たる態度で、厳しく言い切っていかなくてはいけない。悪を見ながら、知りながら、何も言わないのは、ずるい。卑怯である。
今や、新しい時代が始まった。真実をどんどん口に出して叫んでいくことである。
3
『赤毛のアン』で有名な、カナダの作家モンゴメリは綴った。
「春4月は永遠に老いることはない」
万物が、若々しく伸びゆく春が到来した。
我々も、これでいきましょう! 立ち上がろう! 春とともに、生き生きと朗らかに前進しよう!
4
インド独立の父・ガンジーは、「常に心の窓を開けておけ」と語っていた(ルイス・フィッシャー著、古賀勝郎訳『ガンジー』紀伊國屋書店)
この言葉は、心を開いて、さまざまな民衆の意見に耳を傾けよとの戒めである。
ガンジーの令孫であるアルン・ガンジー氏と語り合ったことも懐かしい。
広布のリーダーもまた、心の窓を大きく開けて、人々の声を聞いていってほしい。
建設的な声、学会のため、広布の前進のための声は、私心を交えず、公平に、積極的に取り入れていく。
悩める声には、真摯に耳を傾け、そして、真心の励ましを贈っていく。
一方、悪人の声、広布を妨げる声に対しては、断固として戦っていくのだ。
5
南アフリカ前大統領のネルソン・マンデラ氏とお会いしたことも忘れられない。
氏は、アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃のために、27年半にわたって獄中闘争を貫いた「人権の闘士」である。牢獄の中で、私の英文エッセーも読んでおられた。
1990年2月に出獄され、その年の秋に日本を訪問された。その際、私に会うために、わざわざ信濃町の聖教新聞社を訪れてくださったのである。
ただ、民衆のために! ただ、人間のために! ただ、自由と平等のために!――
鋼鉄の信念で戦ってこられたマンデラ氏は、学会が進める民衆運動の真価を、深く理解してくださっていた。
〈マンデラ氏は、名誉会長との会談で、こう語っていた。「名誉会長とSGI(創価学会インタナショナル)のことを聞いて以来、ぜひお会いしたいと願っていました。日本に来た以上、お会いするまでは帰れません!」〉
6
「君の師匠はこの私だよ」
青春時代、私は、師匠である戸田先生のために、すべてをなげうって戦った。
先生が、事業の破綻で、窮地に陥った時、多くの人が先生のもとを去っていった。手のひらを返したように、先生のことを罵倒する人間もいた。陰で罵る人間もいた。
しかし、私は一人、命がけで先生を支え、苦境の打開のために働いた。
そのために、夜学も断念した。給料が出ない時もあった。
寒くなっても、シャツ一枚で過ごしたこともあった。
しかし、そんなことは問題ではなかった。
苦闘の最中の昭和25年(1950年)の8月24日、戸田先生は突然、学会の理事長を辞任することを発表された。
私は愕然とした。
先生が理事長を辞められたら、新しい理事長が私の師匠になってしまうのだろうか――。
私は、その後で戸田先生のもとを訪れて、この一点をうかがった。
先生は、厳然と言われた。
「いや、それは違う! 苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は、この私だよ」
私は、うれしかった。そして誓った。
“断じて、戸田先生に第二代会長に就任していただくのだ!
師弟の勝利の姿で、絶対に仇を討つのだ!”と。
私の決意を聞かれた戸田先生は、本当に、うれしそうな顔をしておられた。
そして一切の苦闘を師弟で勝ち越えて、昭和26年の5月3日、先生は第二代会長に就任されたのである。
7
戸田大学の誉れ
先生は私のために、亡くなる直前まで、毎朝のように個人教授を行い、万般の学問を授けてくださった。日曜も、先生のご自宅で勉強をした。
“大作は夜学を断念してまで私を支えてくれた。その分、私が教えられることは、すべて教えてあげたい。すべて、大作に譲り残しておきたい”――そういう深いお心であられた。
戸田先生と私は、師弟不二であった。
私は日記に綴った。
「先生の悠然たる姿。余りにも大きい境涯。未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」(昭和26年1月7日)
私は、誉れある「戸田大学」のただ一人の卒業生である。
皆様を代表して、全世界の大学などからお受けした名誉学術称号は、230を超えた。
この「世界一の栄誉」も、すべて、偉大な師の薫陶があったからである。
8
牢獄まで一緒に
戸田先生は、戸田大学での講義で、こう語られた。
「私は、牧口先生の言う通りにやった。師弟の道というのは、そうでなくてはならないのだ」
先生が、牧口先生に対して、どれほどの思いで仕えておられたか。
牧口先生が来られると、あの豪放な先生が、土下座するのではというほど、かしこまっておられた。そう、うかがった。
戦時中、軍部政府の弾圧を受けた時も、戸田先生は牧口先生とともに牢獄まで行かれた。大変な苦しみを受けられた。
しかし、それでも先生は、“牧口先生の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださった”と感謝しておられた。
これが本当の師弟だ。
私も、大阪事件の際、冤罪で逮捕され、牢に入った。恫喝を受けた。学会の民衆運動を押さえ込もうという、権力の陰謀であった。
私は戸田先生と学会を守るため、わが身を犠牲にして戦い抜いた。
あのインド独立の父・ガンジーも、インドの初代首相ネルーも、獄中闘争を経験している。本当に権力と戦った人間というのは、牢に入っているものだ。
ともあれ、牧口先生、戸田先生、そして私。この「三代の師弟」があったからこそ、今日の学会がある。
この唆厳なる師弟の精神を忘れたら、根本が狂ってしまう。
万が一にも、師弟をないがしろにし、学会を自分の思う通りにしようというような人間が出たら、皆で戦うことだ。こうした悪人を絶対に許してはならない。
9
皆のため、会員のために、どこまでも尽くしていく。それが真の学会のリーダーだ。
裏表があってはいけない。気取ったり、格好つけたりしては駄目だ。ましてや威張るのは、最低である。
「あの人がいてくれて、本当にありがたい」「あの人と一緒いると、元気が出る」――皆から、そう言われるような存在であってもらいたい。
そして、師弟に生き、学会のために戦い抜いたという見事な歴史を残していただきたい。
断固たる勝利の証しを打ち立ててもらいたい。
10
「創価幼稚園」が世界で発展
私はソ連のコスイギン首相と、昭和49年(1974年)9月17日、翌50年の5月28日と、2度にわたり語らいを重ねた。
首相は私に対して、「あなたの根本的なイデオロギーは」と問われた。「創価学会」といっても、当時の海外の人には、どんな団体なのかわからない。創価学会の実相を知りたいという、当時の質問であった。
私は答えた。
「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」と。
〈コスイギン首相は、「この原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」と応じた〉
宗教は、宗教の世界のみにとどまるものではない。必ず、平和、文化、教育へと波及していく。
この点から見て、世界各地に創立された創価幼稚園もまた、大いなる人間主義の潮流のなかで発展してきた。
その一端を紹介しておきたい。
まず、札幌創価幼稚園は、コスイギン首相との2度目の会見の翌年、1976年(昭和51年)に開園した。これまで卒園生は6,000人を超え、博士や教員なども数多く誕生している。
香港創価幼稚園は1992年に開園。香港教育局から「最優秀幼稚園」に選定されている。
シンガポール創価幼稚園の開園は93年。昨年11月には同園の女性教員(陳桂心さん)が、教育省の「2007年度幼児教育最優秀教師賞」に輝いた。
また、95年に開園したマレーシア創価幼稚園はマレー語、中国語、英語の3カ国語教育を実施。2001年に開園したブラジル創価学園「幼稚園の部」も、ポルトガル語・英語・日本語の3カ国語教育を行い、どちらも世界市民を育む教育が賞讃されている。
そして今月15日には、韓国「幸福幼稚園」が開園した。
こうして、私は着々と手を打ってきた。外にも内にも、邪魔する者が多かった。しかし、ここままで真っすぐに、創価の世界を進展させてきたのである。
11
何でも言い合える組織を!
仏法を広宣流布する人を守り、応援していくことが重要である。
何でも言い合える組織をつくることだ。大事なことを話せない、うわべだけの関係になれば、いい人の存在が死んでしまい、その価値が消されてしまう。
かつて戸田先生は、若き友に対し、「青年部は、学会の後継者であり、筋金入りの人材である。恐れるな! 師子として堂々と生き抜け! 青年諸君よ、大いに奮起しようではないか!」と期待を寄せられた。
青年が大事である。
また、どれだけ役職が上の大幹部であろうとも、悪ければ、糾さねばならない。私はこれを実行してきた。
ある時、戸田先生は「会社経営に功績をもたらした者には、必ず『プラスアルファー』を付ける」とおっしゃった。
学会もそうしなければならない。結果を出した人を讃えなければ、張り合いがなくなる。評価のはっきりしない、いわゆる“悪平等”になってはいけない。よく見てあげるリーダーになっていただきたい。
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戸田先生は語られた。
「今の学会は、幹部の団結によって出来上がったのだ。これからも、第三代会長を中心に、幹部が力を合わせて広宣流布をやりとげよ!」
またある時、私は日記に先生の指導を綴った。
「仏法哲理の『源遠ければ、流れ長し』の御金言を引かれ、『幹部の自覚が根本である。一般会員の責任ではない。幹部の信心、成長で全ての組織の発展が決定されるのだ』との、厳しい指導が胸に残る」(昭和33年2月11日)
戸田先生は、幹部に厳しかった。私も厳しくしてきた。
皆さんの時代も、頼むよ!〈会場から「ハイ!」と返事が〉
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いよいよ、栄光の5・3「創価学会の日」が目前である。
広宣流布のため、学会のため、ともどもに勝利の大前進をしていこう!
一緒に苦労し、朗らかに進もう!
広宣流布のための労苦は、すべて大功徳となっていく。三世永遠に輝いていく。大仏法は、絶対の法則である。
私も、妻も、大事な皆さんの健康、福運、勝利を、一生懸命に祈り続けている! 一生涯、尊き全同志のため、祈りに祈っていく決心である。
どうか、皆さんも、わが地区、わが支部、わが地域の友の健康と無事故、そして、勝利と幸福を祈っていただきたい。
自分のことだけではなく、皆のことを祈っていく。そうした広く、深く、大きな祈りこそ、仏の祈りなのである。
きょうは、中部の代表の皆さんも参加しておられる。ご苦労さまと申し上げたい。
新生・中部の出発、おめでとう!
中部は、日本の“真ん中”に広がる「広宣流布の堅塁」である。
新しい船出にあたり、ここで、中部のリーダ一・松原勉中部長の足跡を紹介しておきたい。
松原君は、愛知・名古屋生まれの61歳。小学3年生で、父母とともに入会。自宅は広布の拠点であった。
私が初めて出会ったのは、松原君が14歳の時。昭和36年(1961年)6月の第1回男子部中部総会であった。未来部の時代から、師弟直結の学会っ子である。
昭和43年には、愛知で行われた大学会の結成式で、ともに満月を仰ぎながら語り合った。
私は、松原君たちに呼びかけた。
「宇宙の運行は、一瞬たりとも止まらない。信心も同じだよ。止まったらダメだ。前へ前へと進むんです」と。
その翌年、松原君は本部職員となり、初代の中部学生部長に就任。言論問題の嵐の中を、私の直系の若師子として勇敢に戦いきった。
昭和51年、私は三重研修道場を訪問。野外で汗を流す尊き役員を、全魂込めて励ました。
その際、建物の中にいた松原君に、私は「陰で戦う人を忘れるな」と叱咤した。
瞬時に彼は、はだしで外へ飛び出し、同志の激励に走った。その一途な心で、今日まで戦い続けてきた丈夫である。
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「この道の歌」を高らかに!
言論問題の時にも苦しんだ中部は、総中部長の大野君を中心に、三類の強敵と戦い、師弟勝利の歴史を残した。
この大野君、松原君を柱として、中部書記長の平山君、副中部長の長野君、和知君、倉井君らの陣列が整った。皆、青年部の時代から、私が手づくりで育成してきた逸材だ。
今回、新たに任命となった中部最高参与の長谷川君、中部総合長の谷川君、副中部長の寺崎君、芝田君とともに、中部は、師弟直結の指導陣が勢ぞろいした。
太陽の婦人部の活躍も見事である。後継の青年部の成長も頼もしい。
名古屋城の近くには、中部池田記念会館が誇り高くそびえ立っている。
思い出多き三重研修道場に加え、かつて私が訪れた岐阜の飛騨高山には今、立派な21世紀研修道場がある。各地に「人材育成の城」が立っている。
ともあれ、素晴らしき中部の「この道の歌」を堂々と歌いながら、新しい大勝利の「中部革命」を成し遂げよう!
そのためにも、まず自分自身が、皆に心から慕われるリーダーになることだ。一段と、人間革命すること。
皆で仲良く、何でも語り合いながら、「師弟不二の大中部、ここにあり!」と、大手をふって、胸を張り、誇らかに勝ちゆくのだ。
あらゆる魔を悠々と打ち破り、喜びの笑顔あふれる中部を、また皆が健康で朗らかな中部を、そして自由闊達で明るい中部を、晴れ晴れと築いていただきたい。
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真実を未来へ
きょうは、広布第2幕を担う青年部のリーダーも出席している。
未来のため、学会の永遠の勝利のために、真実を明快に語り残しておきたい。
御聖訓にいわく。
「釈尊は、正しい戒律を持ち、立派な威儀を整えておられたので、諸々の天人が仰ぎ、皆が敬った。しかし、提婆達多は、人から尊ばれていなかった。そこで、どのようにしたら世間の名誉が釈尊に過ぎることができるだろうかと考えて、あれこれ策を弄して、釈尊の威徳をなくそうとしたのである」(御書1041㌻゛、趣意)
提婆達多が反逆した根底には、嫉妬があった。名聞名利があった。
これまで、学会に反逆し、同志を裏切っていった輩も、その本性は、ヤキモチである。
自分が偉くなりたい、学会を利用して、いい思いをしたい。そういう卑しい魂胆である。
戸田先生は、“男のヤキモチは真っ黒け”と言われていたが、男性の嫉妬は本当に恐ろしい。
日蓮大聖人も、日興上人も、男性の嫉妬や慢心による迫害を受けておられる。
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「内部の敵が仏教を滅ぼす」
御聖訓に仰せである。
「師子の身中の虫が師子を食らうのであって、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こって仏教を滅ぼすであろう。これが仏の遺言である」(同1271㌻、通解)
仏意仏勅の創価学会は、外からの敵には、びくともしない。
厳重に注意すべきは、仏法の和合の世界を内側から蝕む「師子身中の虫」である。仏法者の「心」を破壊する増上慢である。
仏法の因果は厳しい。仏罰は厳然である。
この「師子身中の虫」にたぶらかされ、利用され、つけこまれて、最後は惨めな敗北の姿をさらす。そのような愚かな人間には絶対になってはならない。
「仏教というものは、内輪から壊されていくものだ」「増上慢の『師子身中の虫』と戦え!」と戸田先生も鋭く叫ばれた。
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また、御聖訓には次のように仰せである。
「さも味方のように見せかけて退転させ、自分もあざ笑い、人にも笑わせようとする奇怪な者たちには、十分に言わせておいたうえで、『多くの一人が聞いているところで人を教訓するよりも、まず自分の身を教訓しなさい』と言って、勢いよく、その場を立たれるがよい」(同1540㌻、通解)
信心をたぶらかす悪人は、さも昧方のようなふりをして、近寄ってくる。
ゆえに、敵を敵と見破ることだ。魔を魔と見破っていくことだ。信心の利剣で魔を断ち切っていくのだ。
インド独立の父、マハトマ・ガンジーは叫んだ。
「悪は正されないかぎり、悪のままである」と。
その通りだ。
青年が勇気をもって叫ばなければ、邪悪の根を断ち切ることはできない。
「陰謀の中でも、忠誠を装うもの、友情の名を騙って企てられる陰謀ほど陰険なものはありません」(谷栄一郎訳「第一演説」、『キケロー選集4』所収、岩波書店)
これは大雄弁家として名高いローマの哲人キケロの言葉である。
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師を世界に宣揚
ロシアの文豪トルストイは言う。
「邪悪な生活を送っている人間が、概して傲慢不遜に流れるという現象が見られる」(原久一郎訳『人生の道』岩波文庫)と。
私欲を貪り、学会を食い物にする人間。
増上慢になって偉ぶり、崇高な師弟を踏みにじる人間。
そうした悪人と断じて戦い、師を護り、同志を護り、学会を護り抜く。その決心で私は生きてきた。
牧口先生から戸田先生へ、戸田先生から私へと、まっすぐに師弟の心の通う学会をつくってきた。
世界に燦たる創価学会を築き上げてきた。
師を世界に宣揚し、師の構想をすべて実現してきた。
この師弟の真実の歴史を、若き諸君は、魂に刻み、断じて忘れてはならない。
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「御書」が根本
日興上人の時代、五老僧が邪義を構え、弟子たちを撹乱していった。
そのとき、日興上人は明快に断罪された。
「弟子の主張の相違を、判定できることがある。師匠(大聖人)がお亡くなりになっているといっても、その遺された御書がある」(編年体御書1731㌻、通解)
根本は御書である。御書に学び、御書に仰せのままに進めば、迷うことはない。
若き皆さんは、堂々と胸を張って叫んでいくのだ。皆さんが、生き生きと新しい時代を開いてほしいのである。
トルストイは、こうも言っている。
「力のある限り善悪の正しいけじめをつけて生きる所に、真の幸福がある」(小西増太郎訳『生きる道』桃山書林。現代表記に改めた)
正しい人生を生き抜くことが、最高の幸福である。
青年部の諸君は、全員が勝利者になってほしい。立派な指導者になってほしい。
そして、愛する同志の幸福と勝利を、私とともに祈りに祈って、一生を送っていただきたいのである。
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「やると言ったら絶対成し遂げる」
今、青年部をはじめ、各地で、さっそうと新リーダーが誕生している。心から祝福するとともに、勝利の名指揮を執っていくことを期待している。
リーダーは、一人一人に心を砕き、こまやかな配慮をしながら、賢明に手を打っていくことである。
そして、勇気をもって、拡大の突破口を開きゆくのだ。皆を安心させ、皆に愛される、民衆のためのリーダーになっていただきたい。
戸田先生は、人材を登用することを、とりわけ重視されていた。
「学会の発展のため、広宣流布のため、人事の刷新をせねばならぬ。あとは御本尊にみていただくのだ」とも言われていた。
とくに、青年部が大事である。広宣流布の未来は青年に託す以外にない。
大難の中、退転や裏切りにあい、牢獄まで行かれた戸田先生は、正義の青年しか信じなかった。
先生は、多くの先輩もいる中で、「大作は、ひとたび、やると言ったら、絶対にやり遂げる男だ」と、私に対して全幅の信頼を寄せてくださった。その通りに、私は、師との約束を、すべて実行した。
青年に力を入れるのだ。バトンを渡すのだ。青年が前面に躍り出て、一切の責任を担い立つ時代である。
ともあれ、人材登用の成否によって、その団体の盛衰は決まっていく。
中国の古典『大学』には、次のような一節がある。
「すぐれた人を認めながらそれを挙用することができず、挙用するとしても早くできないのは、怠慢である。
善くない人を認めながらそれを退けて辞めさせることができず、退けるとしても遠ざけて関係を断ちきってしまえないのは、過失である」(金谷治訳。『筑摩世界文学大系5』所収、筑摩書房)。
未来への大事な指針として、伝え残しておきたい。
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永遠に異体同心
また、戸田先生は、「学会に派閥を作ったら、その人間は大悪人である」と厳しく言い残された。
破和合僧は、仏法上の重罪である。学会に対しても、これまで、麗しい団結を破ろうとする輩が出た。師弟の心を分断し、同志の絆を引き裂こうとする魔性の姿であった。
仏法者であるならば、師に対しては敬い、仕えるものである。同志は励まし、護るものである。
師弟を根幹にして、皆が異体同心の団結で進みゆく。それこそが、学会の永遠の大原則である。
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かつて戸田先生が、有名な「桶狭間の戦い」に論及されたことがある。
織田信長が、隣国の今川義元に大逆転で勝利し、天下統一への出発点となった戦である。
この時、今川は総勢2万余といわれている。
一方、信長が率いたのは、わずか2,000。圧倒的に不利であった。
なぜ、信長は勝てたのか。
さまざまな見方があるが、戸田先生は、理由の一つとして、こう言われていた。
「兵力の差は比較にならなかったが、戦に臨んでの信念では、信長勢の方が上であった。
この戦に敗れるならば、自己の国土、妻子、一族郎党、すべてを失う。信長は、こうした引くに引けない立場にあったから強かったのだ」
勝負は、執念のあるほうが勝つ。そのことを、戸田先生は教えてくださったのである。
私たちの戦いは、広宣流布という、平和のための大闘争である。
人間革命の大哲学を掲げる私たちが、世界中に連帯を広げれば広げるほど、時代を大きく転換していくことができる。永遠の平和の時代へ、前進することができる。
私たちは、ますます強く、信念を貫き、がっちりと団結して、偉大なる勝利の歴史を綴りたい。痛快な勝ち戦をしてまいりたい。
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新しい時代をともに開こう!
これまで無理解で偏見のあった人々までもが「さすが学会だ」と讃嘆するような、堂々たる人材城を、ともどもに築きたい。
社会の認識を一変させる、目を見張るような創価の大法城を、わが天地に築いてまいりたい。
これから2、3年が、大きな勝負の山である。私も厳然と指揮を執る。
一切を総仕上げしていく。未来の土台をつくる大建設の時である。今、広布の舞台から引っ込んだら損をする。
さあ新しい時代を開くのだ。私とともに、勝ち誇って、素晴らしき人生を飾ろう!
私は、今が一番元気である。同志の皆様のお題目のおかげである。心から感謝申し上げたい。
最後に、皆で万歳三唱をしたい。
創価学会、万歳! 5月3日、万歳!
全員が元気で、勝利して、「5・3」を朗らかに迎えよう! ありがとう。またお会いしましょう!
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