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創価女子短期大学特別文化講座 キュリー夫人を語る

2008.2.8 スピーチ(聖教新聞2008年下)

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2  春夏秋冬、励ましを贈りゆく像
 わが創価女子短大の「文学の庭」には、キュリー夫人の像が立っています。
 背筋を凛と伸ばし、真摯な探究の眼差しで、手にした実験のフラスコを一心不乱に見つめています。
 うららかな桜花爛漫の日も、激しい雷雨の日も、寒風の吹きすさぶ木枯らしの日も、そして白雪の舞いゆく日も、学び勝ちゆく姿で、わが短大生の向学の春夏秋冬を励まし続けてくれています。
 この高さ2.5メートル、台座1.5メートルの像は、アメリカの気鋭の彫刻家ジアノッティ氏が、1915年の写真をもとに渾身の力を込めて制作されたものです。
 第1次世界大戦のさなか、放射線治療班を組織して、負傷兵の看護に奔走した時期のマリー・キュリーの姿です。
 この像の除幕式が行われたのは、1994年の春、4月4日。
 寄贈してくださったブラスナー博士ご夫妻と一緒に、私と妻も出席いたしました。
 式典に参加した短大生の皆さん方の、あの晴れやかな喜びの笑顔が、私は本当にうれしかった。
 マリー・キュリーは、1867年の11月7日生まれ。
 「創価教育の父」である牧口先生が生誕したのは、1871年の6月6日ですから、ほぼ同世代になります。
 私の恩師・戸田先生も、牧口先生と同じ時代を生きたキュリー夫人の足跡に格別の関心を寄せられ、模範の女性として最大に賞讃されていました。私が短大にキュリー像を設置した淵源も、ここにあります。
 私の行動の一切の起点は、師への報恩であり、師の構想の実現であります。
 恩師のもとで、若き日に編集長を務めた雑誌「少年日本」に「キュリー夫人の苦心」と題する伝記を掲載したことも、懐かしい。
3  令孫との出合い
 この像の除幕より4年後の1998年の秋、短大生の代表が、来日していたマリー・キュリーの令孫で、核物理学者でもあるエレーヌ・ランジュバン=ジョリオ女史とお会いする機会がありました。
 短大のキュリー像のことを申し上げると、それはそれは喜んでくださったといいます。
 今回は、この像の前でゆったりと懇談するような思いで、講座を進めさせていただきたい。
4  ノーベル賞を、受けた初の女性
 改めて申し上げるまでもなく、マリー・キュリーは、人類史に輝きわたる屈指の大科学者です。
 1903年には、ノーベル物理学賞を受賞しました。〈夫のピェール・キュリー、フランスの物理学者であるアンリ・ベックレルと共同受賞〉
 これは、女性として最初の受賞となりました。
 さらに初の受賞から8年後の1911年には、ノーベル化学賞を単独で受けています。
 2つのノーベル賞を勝ち取ったのも、彼女が初めてです。
 しかも、その人格は、そうした“世評の風”によって、いささかたりとも左右されなかった。かのアインシュタイン博士も、「名のある人々のなかで、マリー・キュリーはただひとり、その名声によってそこなわれなかった人物である」(ビバリー・パーチ著、乾侑美子訳『キュリー夫人』偕成社)と感嘆しておりました。
 だからこそ、時を超え、国を超えて、民衆から、彼女は深く広く敬愛されてきたのです。
5  最も好きな歴史上の人物
 これは、フランスの友人が教えてくれたのですが、5年前(2003年)にフランスの調査会社が、ヨーロッパの6カ国(ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、フランス、ポーランド)の街角で、「最も好きなヨーロッパの歴史上の人物は誰か」と尋ねるアンケートを行いました。
 イギリスのチャーチル首相や、フランスのドゴール大統領など、錚々たる歴史の巨人の名前が挙がりました。
 そこで、6,000人の通行人が一番多く筆頭に挙げたのは、いったい誰であったか?
 マリー・キュリーその人であった、というのです!
 2006年の11月、フランスでは、「マリー・キュリーの記念コイン(20ユーロの金貨・銀貨)」が発行されました。
 これは、1906年の11月、彼女が亡き夫ピエールに代わり、女性で初めてパリ大学の教壇に立ってから100周年を記念して、作成されたものです。
 さらにまた、昨年には、パリ市内を走る地下鉄の一つの駅が、改装オープンに当たり、「ピエール・エ・マリー・キュリー駅」と夫妻の名前がつ付けられました。これは、3月8日の「国際女性の日」にちなんだものです。
 マリー・キュリーという存在は、その夫ピエールとともに、今も生き生きと、人々の心のなかに生き続けているのです。
6  波瀾万丈の生涯
 それは、今から36年前(1972年)の4月30日の朝のことです。
 20世紀最大の歴史家トインビー博士と、私が対談を開始する5日前のことでありました。
 私と妻はフランスの友人とともに、パリ郊外のソーにある、マリー・キュリーの家を訪ねました。
 3階建ての赤い屋根の家。そこには銘板が設置されており、1907年から1912年の間、マリー・キュリーが暮らしたことが刻まれていました。
 この家で暮らした期間は、マリーにとって、最愛にして不二の学究の同志である夫ピエールを亡くした直後に当たります。
 そしてまた理不尽な迫害など、幾多の試練を乗り越えていった時期でもあります。
 さらに、1910年、「金属ラジウムの単離」に成功し、翌年、ノーベル化学賞の栄誉が贈られたのも、この家で過ごした時代のことでした。
 私は家の門の前に、しばし、たたずみ、マリー・キュリーの波瀾万丈の生涯に思いをはせました。
 ――生まれた時は、すでに外国の圧制下にあった、祖国ポーランドでの少女時代。
 幼くして、最愛の母や姉と、相次いで死別した悲しみ。
 好きな勉強がしたくても、許されず、不遇な環境で、じっと耐え続けながら学んだ青春時代。
 親元を離れ、大都会で、貧苦のなか、猛勉強に明け暮れた留学の一日また一日。
 女性に対する差別もあった。卑劣な嫉妬や、外国人であるゆえの圧迫もあった。
 さらに、愛する夫との突然の別れ。そして戦争、病気……。
 絶望のあまり、生きる意欲さえ失いそうになることもあった。
 けれども、彼女は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
 断じて屈しなかった。絶対に負けなかった。
 そして、苦難を押し返していったのです。
 私は、妻と一緒に並んで歩いていた、フランスの清々しい創価の乙女に語りかけました。
 「私は、マリー・キュリーの偉大さは、2つのノーベル賞を取ったということより、『悲哀に負けない強さ』にこそあると思う。
 順風満帆の人生など、ありえない。むしろ困難ばかりです。
 それを乗り越えるには、自分の使命を自覚することです。そこに希望が生まれるからです」
 あの時、瞳を輝かせ、深くうなずいていた彼女も、気高い使命の人生を、鋼鉄の信念の夫とともに、希望に燃えて歩み抜いてこられました。
 今では、3人のお子さん方も、その父と母の使命の道を受け継いで、立派に社会で活躍しております。
7  戦う勇気、耐え抜く勇気を!
 マリー・キュリーは青春時代、友人への手紙に、こう記しました。
 「第一原則、誰にも、何事にも、決して負けないこと」(スーザン・クイン著・田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
 「決して負けない」――これが、彼女の一生を貫いた金剛の一念です。
 この一点を定めた人生は、強い。
 私の妻のモットーも、「勝たなくてもいいから、負けないこと」「どんな事態、状況になっても負けない一生を」です。
 戦時中、特高警察の監視のなか、堂々と正義の信念を叫び抜く牧口先生の師子王の姿を、幼き日の妻は、自宅の座談会で目の当たりにし、生命の奥深くに焼きつけました。
 そして、そのあとを継がれた戸田先生を人生の師匠と仰ぎ、「負けないこと」を鉄則として、黙々と使命を遂行してきたのです。
 アインシュタイン博士は、マリー・キュリーを追憶する一文の中で書いています。
 「まったくの知的な作業の面で彼女が何をなしとげたか、ということ以上に、おそらく、ひとつの世代そして歴史の一時代を画するものとして重要なのは、その傑出した人格の内面的な質ではないでしょうか」(高木仁三郎著『マリー・キュリーが考えたこと』岩波書店)
 彼女の傑出した人格の特質――。それは、第一に「負けない勇気」であったといってよいでしょう。
 「勇気」がなければ、どんなに人柄がよくても、人々を守ることはできない。
 偉大な使命を果たすことはできません。
 戦う勇気! 恐れない勇気! そして耐え抜く勇気!
 この勇気を、マリー・キュリーは、いかに鍛え、いかに奮い起こしていったのか。
 私と妻にとって、最愛の娘の存在である創価女子短大生、また創価大学、アメリカ創価大学の女子学生、さらに、創価学園の女子生徒の皆さん、そして、すべての創価の女性に、万感の期待を込めて、お話ししていきたいと思います。
 また、短大を受験してくださった皆さんは、全員が、一生涯、短大姉妹です。
 試験だから、どうしても合格・不合格はある。しかし、短大という場に来て戦ったこと自体は、厳然と生命に残る。それは、生涯、消えない。
 ですから、何があっても、朗らかに、生命の王女としての誇りを持って、堂々と「誉れの青春」を生き抜いてほしいのです。
 私ども夫婦は、創価女子短大を受けてくださった皆さん全員の勝利と幸福の人生を、真剣に祈っています。
8  マリー・キュリーは、19世紀から20世紀への転換期を、あの像の姿のごとく、毅然と頭を上げて、胸を張って生き抜きました。
 皆さん方もまた、学び勝ちゆく晴れ姿で、20世紀から21世紀への転換期を生き抜き、不滅の歴史を創り残していただきたい。
 皆さん方こそ、人類の希望と光る「女性の世紀」の旭日のリーダーだからです。
9  向学の乙女が花の都・パリへ
 フランスと北東ヨーロッパを結ぶ交通の要衝が、花の都のパリ北駅です。
 私も、このパリ北駅から急行列車に乗って、5時間かけて、オランダの首都アムステルダムへと旅した思い出があります。25年前の1983年6月25日のことです。
 私たちが乗る「北極星号」は夕刻に出発し、途中、停車したベルギーのブリュッセルでは、わざわざ待ってくれていた同志とともに、ホームで記念撮影をしました。
 次のアントワープ駅でも、わずか1分の停車時間でしたが、同志と窓越しに心を通わせあったことが、今も胸から離れません。
 ――時代は19世紀の終わりに遡ります。
 1891年の11月の早朝、パリ北駅のプラットホームに列車が到着しました。
 長旅に疲れた多くの乗客とともに、一人の若い女性が、荷物を抱えて降り立ちました。
 ポーランドのワルシャワから、3日間、ずっと4等車で揺られてきたのですから、くたびれていないわけがありません。身なりも質素そのものでした。
 初めての大都会。まったく見知らぬ人々。不安がないと言えば嘘になるでしょう。
 しかし、その心には、熱い熱い向学の魂が燃え盛っていました。
 この乙女こそ、若き日のマリー・キュリーなのです。
 私の胸には、その誇り高き「第一歩」の足音が、寮生をはじめ、親元を離れて私の創立したキャンパスに集ってくださった学生の皆さん、そして留学生の皆さん方の決意の足どりと重なり合って、響いてくるのです。
 この時、彼女は23歳。女学校を卒業してから、すでに8年が経っていました。今であれば、大学を卒業している年頃です。一家全体の家計と学費の問題など、留学できるように環境を整えるまで、それだけの年月が必要であったのです。
 学生生活にあっては、いわゆる浪人や留年、休学など、さまざまな事情で、人より年数がかかる場合もある。
 しかし、人と比べて、くよくよすることはない。人生の戦いは長い。途中の姿で一喜一憂することはありません。
 最後に勝っていけば、よいからです。青春の生命に失望などない。
 もちろん、お父さんやお母さんには、よけいな心配をかけないように、努力を重ね、賢明な選択をすること。そして、必ず喜んでもらえる自分自身になって、親孝行をしていくこと。
 この一点は、絶対に忘れてはなりません。
10  他国の支配下での少女時代
 ここで、留学に至るまでのマリー・キュリーの歩みをたどっておきたいと思います。
 マリーがポーランドのワルシャワに生まれたのは、1867年11月でした。日本では、江戸幕府の終焉となる大政奉還が行われた、明治維新の時代です。
 ともに優れた教育者であった父と母のもと、5人きょうだいの末っ子として誕生しました。生まれた時の名前はマリア・スクウォドフスカ。3人の姉と一人の兄がおり、「マーニャ」との愛称で呼ばれていました。
 このワルシャワの生家のすぐそばには、ポーランドSGI(創価学会インタナショナル)のマルケビッチ婦人部長のお宅があります。
 このお宅では、いつも明るく、地域の座談会が開かれ、平和と幸福への実りある語らいが広がっております。
 マーニャが生まれた当時、愛する祖国ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。ポーランド語の看板を通りに掲げることも許されない。ポーランドの歴史や言葉を教えることも厳禁。人々は不自由と屈辱の生活を強いられていたのです。
 マーニャが通っていた学校にも、視学官が頻繁にやってきては、教育内容を厳しく監視していました。
 もしも、自国のポーランド語で話したりすれば、自分だけでなく、両親にまで危険が及んでしまう。そんなひどい状況だったのです。
 しかし、そうした環境であったにもかかわらず、マーニャの心が卑屈になることはありませんでした。
 それは、思いやりにあふれた、温かな家族の絆があったからです。
 お父さんは大変な勉強家で、人に教えることが大好きな人物でした。最新の科学に通じているとともに、何カ国語も話すことができました。
 お母さんも、20代で女学校の校長を務めるなど、まことに教養ある女性でした。マーニャは、この父母を、心から愛してやまなかったのです。
 世の中は暗い。つらいことも、たくさんある。けれども、家に帰れば、安心できる。何があっても家族で励まし合い、守り合っていける。
 そうした和楽の家庭をつくっていくことが、社会の最も大切な基盤であり、平和の原点となるでしょう。
 そして、何といっても、娘である皆さんの聡明さと、明るい笑顔は、家族を照らす陽光であり、和楽を築く大きな力です。
 「家族のものが互いに結び合っているということは、ほんとうにこの世での唯一の幸福なのですよ」(エーヴ・キュリー著・川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、マリー・キュリーはのちに、姉への手紙に綴っています。
 家族の結合は、ともに人生の試練に立ち向かっていくなかで、深まり、強まり、そして永遠性の次元にまで高められていくものです。
11  愛する家族の死を越えて
 マーニャは、まだ10歳のとき、思いもよらぬ悲しみに襲われました。
 最愛のお母さんが、結核で亡くなってしまったのです。42歳という若さでした。
 じつは、その2年前には、病弱だったお母さんに代わって家事を切り盛りしてくれていた、一番上の優しいお姉さんも、チフスに感染して亡くなっていました。
 相次ぐ家族の死去に、一家は打ちひしがれました。幼いマーニャは、こらえきれず、部屋の隅に座って涙を流すこともあったようです。
 幼くして、家族を亡くすことは、一番、深い悲しみです。しかし、マーニャは、のちに自ら打ち立てた「第一原則」の通り、「決して負けなかった」のです。
 「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(北御門二郎訳『文読む月日(上)』筑摩書房)とは、自らも幼くして母を亡くした、ロシアの文豪トルストイの言葉です。
 創価学園の草創期、お母さんを亡くした中学生に、私は語ったことがあります。
 「人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだよ。
 深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれる。偉人は、みんなそうだ。
 だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ」
 その通りに、彼は、わが母校を“母”とも思いながら、大きな山を、学園生らしく越えていきました。
 一人の勝利は、亡き家族の勝利であり、一家の勝利です。
 そして、苦難を乗り越えた前進の足跡は、未来に生きゆく人々に、計り知れない勇気と希望を贈っていくのです。
12   短大生
    生き抜け
      勝ち抜け
    この一生
 人生には、さまざまな試練や悲しみがあります。
 しかし皆さんは、決してそれに負けてはいけません。
 創価女子短大に縁したすべての方々は、必ず人生の勝利者になっていただきたい。それが私と妻の願いです。
13  監視の目をくぐって勉強
 家族が「一家の魂」と慕う母を失った後、マリー・キュリー(キュリー夫人)のお父さんは、いっそう、子どもの教育に大情熱を注いでいきました。
 “先立った妻のためにも、必ず子どもたちを立派に育て上げてみせる!”という、深き真情であったのでしょう。
 マーニャ(マリーの幼き日の愛称)は15歳のとき、最優秀の成績で、女学校を卒業しました。
 しかし、当時のポーランドでは、それ以上、学間を続けることができなかった。
 高等教育への門は、いかに優秀であっても、女性には開かれていなかったのです。
 勉強したくてもできないことが、どれほどつらいことか。私は自分の経験からも、痛いほどわかります。
 私たちの世代は、最も勉強に励める10代の青春を、戦争で滅茶苦茶にされたからです。
 マーニャは、16歳のころから、家計を助けるために家庭教師を始めました。
 とともに、自らの学問への熱情は、いささかもやむことがなく、「移動大学」で学んでいったのです。
 「移動大学」は、正規の大学ではありません。祖国ポーランドの復興を目指す青年たちが、自発的に設立した“秘密の大学”です。
 なぜ、「秘密」か?
 もしも、集まって勉強しているところを、警察に見つかれば、ただちに投獄されたからです。
 監視の目をかいくぐって、場所を転々と変えながら、青年たちは、ときに教師となり、ときに学生となって、教え合い、学び合い、互いの知性を錬磨していったのです。
 独立のために幾たびも勇敢に蜂起し、過酷な弾圧を受けてきたポーランドの人々は、「暴力で社会を変えることはできない。教育によって、民衆に力をつけていく以外にない」という結論に深く達していました。
 学ぼう! 苦しむ同胞のために!
 力をつけよう! 未来のために!──青年たちの勉学の原動力は、この崇高な使命感でした。汝自身の使命を深く自覚することは、人間としての根を深く張ることです。その人は才能の芽を急速に伸ばしていけるのです。
14  現実の厳しさを生きた人間学に
 キュリー夫人は、書いています。
 「ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能です。
 ですから、各人が自分の運命をきりひらいていこうと努力しながら、しかも同時に全人類にたいして責任をわけもたねばならないのです。
 なぜなら、自分がいちばん役に立ってあげられるひとびとをたすけることは、わたくしたちひとりひとりの義務だからです」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)
 一人の人間の運命を変革せよ!
 人類に対する責任を自覚せよ!
 苦しんでいる人々に手を差し伸べよ!
 これが、マリー・キュリーの信念でした。それは、創価の「人間革命」の理念とも響き合っております。
 17歳のマーニャは、自ら“先生”となり、工場で働く女性たちに勉強を教えました。彼女たちが本を読めるよう、小さな図書室もつくってあげたといいます。
 日中は家庭教師として市内を駆け回る。工場で女性たちに授業をする。そして、移動大学の秘密講義を受けるという毎日でした。
 マーニャにとって、最大の希望は、フランスのパリ大学へ行って勉強することでした。また、姉のブローニャも、同じ望みを持っていました。
 パリ大学では、女性に対して門戸が開かれていたのです。
 パリに行って勉強して力をつけた後、祖国ポーランドに舞い戻り、人々のために、人々とともに働きたい。これが、彼女たちの熱い願いでした。
 花のパリへ──しかし父の給料と、姉妹のわずかな家庭教師の収入だけでは、いつまでたっても留学できる目処が立ちませんでした。
 そこでマーニャは、姉のブローニャに、一つの提案をしました。
 ──まず、姉がパリへ行く。自分はポーランドに残り、住み込みの家庭教師をして仕送りをする。
 そして姉が学業を終えて帰ってきたら、今度は自分がパリに行く──
 二人の姉妹は、父親にも相談し、この約束を実行に移しました。
 当時、女性の家庭教師は、下に見られることもあった。マーニャは、傲慢な、大嫌いな人のもとで働かなければならないときもあったようです。
 彼女は若くして、現実社会の厳しさを嫌というほど味わいながら、その一つ一つを、生きた人間学の糧に変えていったのです。
 マーニャは、友人への手紙に書いています。
 「人間というものがどういうものか、少しわかるようになったのは収穫でした。小説の人物みたいな人が実際にもいるとわかったし、お金で堕落した人たちとつき合ってはいけないということも、学びました」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
 つらいとき、苦しいとき、彼女は友人と語り合ったり、手紙のやりとりをしたりしては、励まし合っています。良き友情は、青春の最高の力であり、宝です。
15  真心の手紙
 もっと収入を多くするため、マーニャは親元を離れ、ポーランドの地方に出て働く決心をします。
 愛する父に別れを告げ、汽車で3時間、橇で4時間。生まれてはじめて、家族と遠く離れての生活となりました。
 この間、マーニャは、何度もワルシャワのお父さんに手紙を書き送っています。
 彼女は、父思いの心の優しい娘でした。
 老いた父は、自分に大きな収入がなく、しかも投機の失敗で財産を失い、子どもたちに十分な教育を受けさせてあげられないことを、ずっと気に病んでいました。
 けれども、そんなお父さんに、マーニャは綴っています。
 「わたくしは、おとうさまがわたくしにかけてくださったご厚恩にたいして、永遠に感謝の念を忘れないつもりでおります。
 わたくしの唯一の悲しみは、わたくしたちの受けたご恩をお返しすることができないことです。人間の力でできるだけ、おとうさまを愛し敬うことしかわたくしたちにはできません」(エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)
 娘から、こんな手紙を受けとったお父さんは、どれほどうれしかったことでしょう。
 この親孝行の振る舞いのなかに、マリー・キュリーという女性の深き人間性と知性が凝結していることを、賢き皆さんは感じ取ってください。
 仏典には、「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度え(笑)みて向へとなり」と説かれています。
 親孝行といっても、特別なことではない。
 「一日に、二、三度の笑顔」でもいい。元気な声でもいい。親元を離れている人も、今は電話があります。もちろん、手紙も、葉書もあります。
 大切なのは「心」です。「真心」です。「智慧」です。
 「親孝行」が、人間としての成長の証しなのです。
16  誇りも高く試練を越えよ
 この地方で暮らした家庭教師の3年間は、マーニャにとって、辛抱の時でありました。
 勉強も続けましたが、まったくの独学です。
 憂鬱もあった。焦りもあった。
 絶望もあった。落胆もあった。
 しかし、彼女は、ある手紙にこう書いています。
 「とてもつらい日々がありました。でも、その思い出を和らげてくれる唯一のものは、いろいろあったにもかかわらず、正直に誇り高く、それを乗り越えることができたということです」(スーザン・クイン著、田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
 青春時代は、悩みの連続です。どれも皆、自分が強く、賢く、大きくなっていくために必要な試練なのです。
 それらを、マーニャのように、「誇り高く」乗り越えていってください。
17  マーニャは独学を続けるうち、科学の分野で社会に貢献しようと思うようになりました。
 姉がパリに発ってから5年。
 医者としての道を歩み始めた姉から、パリに来るようにとの手紙が、ついに届きました。
 マーニャは、父を残していくことを考えると、後ろ髪を引かれる思いでしたが、パリ行きを決意します。
 そして、1891年11月、父に見送られながら、ワルシャワの駅を出発したのです。
  「ああ! 女子学生の青春は早瀬のようにすぎていく
   まわりの若者たちはつねに新しい情熱で
   安易な楽しみに走るばかり!
   孤独のなかで
   彼女は生きる 手さぐりしながら けれど幸せに満ちて
   屋根裏の部屋で 思いは燃え
   心ははてしなく 広がっていくから」(前掲、河野万里子訳)
 これは、マリー・キュリーが、母国語のポーランド語で書いた詩の一節です。
 姉のブローニャは医師の免許をとり、パリでポーランド人男性と結婚していました。
 パリで留学生活を開始したマリーは、当初、姉夫婦と一緒に暮らしましたが、勉学に専念できる環境を求めて、大学に近いカルチェ・ラタン(学生街)で一人暮らしを始めます。
 1989年の6月、私は、創価大学と教育交流を結んだパリ第5大学を訪問し、オキエ学長らの温かき歓迎をいただきました。
 多くの英才たちとも語り合いました。
 カルチェ・ラタンの街並みを、青年とともに歩いたのも、思い出深いひとときとなりました。
 ちなみに、今日の「パリ大学」とは、フランスのパリを中心に存在する13の大学の総称です。
 このうち、パリ第6大学は、現在、キュリー夫妻の名前を冠して、「ピエール・エ・マリー・キュリー大学」と呼ばれています。
18  「今までの百倍、千倍の勉強を!」
 希望にあふれて、パリでの勉強を始めたマリーでしたが、思わぬ壁にぶつかりました。
 フランス語には十分な自信があったのですが、実際に講義を受けてみると、聞き取れなかったり、ついていけなかったりすることが、たびたびあった。
 わが留学生の皆さんの苦労にも通ずることでしょう。
 さらに、自分なりに積み重ねてきた独学の知識が、同級生たちに比べて、あまりにも貧弱であることがわかってきました。
 しかし、そのようなことで、くよくよと落ち込んでいるマリーではありませんでした。
 勉強が足りない?では、もっと勉強すればいい!
 まだ足りない?では、もっともっと勉強すればいい!
 今までの十倍、百倍、いや、千倍も!
 一人暮らしを始めたマリーは、きっぱりと「千倍も猛勉強している」(前掲、田中京子訳)と書いています。
19  使命ある留学生
 パリの学生生活で、はじめマリーは、なかなか仲間と打ちとけられませんでしたが、やがて学問の情熱に意気投合し、多くの親しい友人ができていきます。
 また、このころ出会ったマリーの友人には、その後、世界的な音楽家となり、ポーランドの首相になるような人物もいました。
 留学生の方々は、それぞれの国の指導者となっていく、深き使命を帯びています。
 マリーは、のちに大成してからも、各国からの留学生や研究者を、真心こめて大事にしました。それぞれの祖国への賛辞も、惜しみませんでした。
 「あなたの美しいお国は、よく存じています。お国の方がたは、わたしをほんとうに歓迎してくださいました」(前掲、河野万里子訳)等と。
 私は、留学生の方々は、その国の宝の人材であるとともに、人類全体の「平和の宝」であり、未来への「希望の宝」と思っております。
20  屋根裏の日々がわが「英雄時代」
 このころ、マリーが一人暮らしをしたのは、7階建ての建物の屋根裏部屋でした。
 当時、マリーは、父からの少しの仕送りと、自分の貯金とを合わせて、わずかなお金でやりくりしなければなりませんでした。
 冬は、暖房の石炭代を節約するためにも、ずっと大学や図書館で勉強。家に帰って、寒さに震えながら、さらに勉強。
 「わたしは自分の勉強に専念した。わたしは時間を講義と実験と図書館での自習に分けた。夜は自室で勉強する。ほとんど徹夜のこともある」(前掲、田中京子訳)
 何週間もの間、バターをぬったパンしか食べられないこともありました。くだもの一つ、チョコレートひとかけらが、どれほど大切な滋養であったか。
 しかし彼女に、わびしい悲愴感はありませんでした。むしろ、澄みきった明るさを抱いていました。
 自分の大いなる目標のために苦労することは、苦しみではない。
 むしろ、喜びである。誇りである。青春時代の苦労こそ、不滅の財宝なのです。
 「この期間がわたくしに与えてくれた幸福は、筆にも口にもつくせぬほど大きなものでした」
 「未知のことがらをまなぶたびによろこびが胸にあふれる思いでした」(前掲、木村彰一訳)──マリーの後年の述懐です。
 華やかな社交がなくとも、古今の大偉人たちとの心躍る知性の対話があった。
 贅沢な御馳走がなくとも、人類の英知の遺産が豊かに心を満たしてくれた。
 流行のファッションがなくとも、大宇宙の真理の最先端の発見が光っていた。
 彼女は、どんな殿堂よりも荘厳なる「学問の王国」で、王女のごとく青春を乱舞していたのです。
 マリー・キュリーにとって、貧しさと孤独の中で、全生命を燃焼させて勉学に励んでいった、この時期は、「生涯における英雄時代」であったと言われています。
21  深き青春の原点を胸に
 私も妻も大好きな歌に、短大の愛唱歌「白鳥よ」があります。
  ♪白鳥よ
   深き縁の白鳥よ
   いづこより
   碧き泉に
   青春 二歳ふたとせ 誉れあり
   未来みつめて
   いつの日か
   ああ聡明の笑み光る
   白鳥よ
   清き心の 白鳥よ
   いづこより来し
   緑の丘に
   青春 二歳 誉れあり
   平和語りて
   いつの日か
   ああ幸福の華開く
   白鳥よ
   澄みし瞳の 白鳥よ
   いづこより来し
   理想の庭に
   青春 二歳 誉れあり
   心鍛えて
   いつの日か
   ああ大空へ舞い上る
 この歌に高らかに歌い上げられているように、皆さん方にとっては、この短大での「青春二歳」が、かけがえのない「人生の誉れの英雄時代」なのであります。
 二女のエーヴ・キュリーは、母親の学生時代について、「彼女がつねに仰望した人間の使命の最高峰にもっとも近い、もっとも完全な時代であった」(前掲、川口篤ほか訳)と述べています。
 猛勉強の結果、マリーは、1893年に物理学の学士試験を1番で、翌年は数学の学士試験を2番で合格しました。
 「激しいぜいたくと富への欲望の支配する我々の社会は学問の値打を理解しない」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)
 これは、マリーの慨嘆です。今は残念ながら、マリーの時代以上に、そうした風潮に満ちているかもしれません。
 しかし、だからこそ、わが短大の真剣な向学と薫陶の校風が、清々しく光ります。
 マリーは、勉学に明け暮れた屋根裏部屋を「いつまでも変わらずたいせつな心の部屋」と謳いました。
 「そここそ ひとりひそやかに挑み その身を鍛えつづけた場
  今もあざやかな いくつもの思い出にいうどられた世界」
 と振り返っているのです(前掲、河野万里子訳)。
 悩みに直面したときに、立ち返ることのできる原点をもった人生は、行き詰まらない。この短大のキャンパスは、皆さん方の永遠の前進と勝利の原点の天地です。
22  学問に王道なし
 短大の「文学の庭」には、マリー・キュリー像に向かい合うようにして、ハナミズキの木が植えられています。
 桜花の季節が終わると、そのバトンを託されたように、ハナミズキが一斉に開花して、行き交う新入生たちの心を明るく照らします。
 これは、キュリー像が除幕された1カ月後、あのアメリカの人権の母、ローザ・パークスさんが来学され、記念植樹してくださった木です。
 1992年、創価大学ロサンゼルス分校(当時)を訪問したパークスさんを、語学研修中だった短大生が歓迎しました。パークスさんは、この出会いを、生涯の宝とされておりました。
 「彼女たちとの出会いは、私の一生における新しい時代の始まりを象徴するように思えてなりません」とまで語っておられました。
 その2年後、誕生したばかりのキュリー像が見守るなか、パークスさんが八王子の短大と創価大学を訪れました。
 キャンパスを案内したとき、「万葉の家」のそばで、私の言葉が刻まれた石碑を、じっと見つめておられた姿が印象的だったそうです。
 この言葉を、今ふたたび、皆さんに贈ります。
  「学問に王道なし 故に学びゆく者のみが 人間としての 王者の道を征くなり」
23  私が家族ぐるみで親しく交流させていただいた方に、「現代化学の父」ライナス・ポーリング博士がおられます。博士はキュリー夫人に続き、2つのノーベル賞を受賞した知の巨人です。
 1990年、創価大学のロサンゼルス分校(当時)で、研修中だった短大生と一緒にポーリング博士を歓迎しました。
 「笑顔で迎えてくださり、うれしい。こちらまで笑顔になります」と、博士は喜色満面であられた。
 ポーリング博士は若き日、夫妻でヨーロッパに行き、マリー・キュリーのもとを訪問することを考えていたようですが、実現はしませんでした。
 ポーリング博士も、マリーと同じく、幼き日に親を亡くしています。〈9歳で父が急死〉
 病弱なお母さんや、妹たちを抱え、経済的にも苦しい――若き博士は、道路舗装の検査員など、さまざまな仕事をして家族を支えながら、忍耐強く努力を貫き通し、自分自身を鍛え上げた。そして、苦学に苦学を重ねて、世界的な業績を残していかれたのです。
 心強き人にとって、苦労は、ただの苦労で終わらない。苦労は「宝」である。
 学生時代の労苦を振り返って、博士は「どうしても一生懸命に長時間働く必要があったので、懸命に長時間働く習慣が身についたことはプラスだと思います」と、さわやかに語っておられました。
 ポーリング博士が受けた2つのノーベル賞は、「化学賞」と「平和賞」です。博土の核廃絶と平和への貢献は、最愛のエバ夫人と一体不二の戦いでした。
 「私が平和運動を続けてきたのは――『妻から変わらぬ尊敬を得たい』と思ったからでした」
 そう率直に語っておられた博士の声が蘇ります。
 崇高な理想に結ばれた夫婦――ポーリング夫妻も、そしてキュリー夫妻も、まさしくそうでした。
24  正義の人を正しく評価
 マリーがピエール・キュリーと初めて出会ったのは、1894年の春のことです。マリーは26歳、ピエールは35歳でした。
 このときすでにピエールは、物理学の世界で、いくつかの重要な業績をあげていました。
 しかし、いわゆる有名校を出ていなかったため、国内ではあまり評価されていなかった。
 ピエールは生涯を通じて、名声を得ようとか、自分を売り込もうとか、少しも考えなかった人です。“評価されるのは誰であれ、人類のために科学が発展しさえすればいい”という高潔な信念の持ち主でした。
 しかし、心ある人は、ピエールの力と功績を知っていました。英国の大物理学者ケルビン卿など、具眼の士から、特に国外で高く賞讃されていたようです。
 ケルビン卿は、あのグラスゴー大学の教授でありました。
 グラスゴー大学は、名もなき職人ワットを擁護し、ワットは「蒸気機関」を開発。産業革命の新時代を開く原動力となりました。
 グラスゴー大学には、いかなる偏見や風評にも左右されず、正義の人を正しく評価せずにはおかないという信念の気風が脈打っています。
 マリー・キ一リーは、このグラスゴー大学をはじめとする世界の大学・学術機関から、21の名誉博士号・名誉教授称号を受けています。〈創立者には1994年6月、グラスゴー大学から名誉博士号が贈られている〉
 ピエールは、自然を深く愛する人物でした。文化の国・フランスへの感謝を込めて私が創立したヴィクトル・ユゴー文学記念館はビエーブルにありますが、ビエーブル川周辺の森も、よく散策していたようです。
 ピエールもマリーも、過去に恋愛で苦い経験をしており、二人とも、そうしたことには重きを置いていませんでした。学問こそが、二人の恋人でした。しかし、出会ったときから、お互いの中にある、崇高な、その魂に気づいたのです。
 二人は、科学に関する語らいや、手紙のやりとりなどを通じて、お互いへの尊敬の念を深めていきました。
 しかし、生まれた国が違うなど、いくつかの障害もありました。特にマリーには、祖国ポーランドに帰って、同胞のために尽くしたいという思いがありました。
 結婚に際しては、ピエールのほうが強い熱意を持っていたようです。
 二女のエーヴは、母の美しさについて、「ほとんどなにもないような小部屋で、着古した服に身をつつみ、情熱に輝く意志の強い面差しのマリーほど、美しく見えたものはなかった」(河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)と綴っております。
 それは「内面の精神性」の輝きであり、自らの力で勝ち取った深き人格の美しさでもありました。
 人間の本当の美しさ、それは「生命」それ自体の光彩でありましょう。大いなる理想を目指して真剣に打ち込む生命こそ、この世で最も美しい光を放つのです。
25  理想主義から精神的な力
 牧口先生は、「遠大な理想をいだき、目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活である」と訴えておられます。マリーは、この「正視眼」を持った女性でした。
 のちに長女のイレーヌは、母マリーの結婚観は「生活のよき伴侶となれる夫が見つかったときにだけ、結婚すべきであるという考えでした」(内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)と書いています。
 さらにまた、マリーは、二女のエーヴに、このように書き送りました。
 「わたしたちは理想主義のなかで、精神的な力を求めていくべきだと思います。
 理想主義によって、わたしたちは思いあがることなく、自分のあこがれた夢の高みに達することもできるのです。
 人生の関心のすべてを、恋愛のような激しき感情にゆだねるのは、期待はずれに終わると、わたしは思っています」(前掲、河野万里子訳)
 真摯に人生を生き抜くなかで深めてきた恋愛観であり、結婚観であるといってよいでしょう。
 この点、私の恩師の基準は明快でした。
 「恋愛をしたことによって両方がよくなれば、それはいい恋愛だ」「両方が駄目になってゆくようであれば、それは悪い恋愛だ」と。
26  信念を深く共有した結婚
 マリーは自ら書いたピエールの伝記の中で、科学の発展に生涯を捧げた大学者パスツールの次の言葉を引いています。
 「科学と平和とが無知と戦争とにうち勝つであろう」(渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社)
 この言葉は、二人の共通の信条とも言えるものでした。
 信念を深く共有できたからこそ、ピエールとマリーは結婚を決めたのでありましょう。
 結婚のため、マリーは、ずっとフランスで暮らすことになりましたが、ポーランドの実家の家族は、皆、心から祝福してくれました。
 結婚という、人生の大きな決断をする際には、お父さんやお母さん、そして、よき先輩や友人と、よく相談して、皆から祝福される、賢明な新出発を心がけることが大切です。
 ピエールとマリーの結婚は、1895年の7月26日でした。
 結婚式は、親しい家族や友人だけで祝う清々しい集いでした。
 豪華な衣装も、ごちそうも、結婚指輪もありませんでした。
 二人とも、財産といえるようなものは何も持っていなかった。しかし、そこには誠実な心が光り、聡明な知恵が冴えわたっていました。
 “新婚旅行”は、自転車に乗って、フランスの田園地帯を駆け回ることでした。
 そして、多くはない収入でやりくりするための家計簿を買ったのです。
 私と妻の結婚に際しても、恩師からアドバイスをいただいたことの一つは、「家計簿をつけること」でした。現実の生活を、一歩一歩、賢明に、堅実に固めていった人が、勝利者です。
 マリーとピエールの二人の新生活は、めぼしい家具など何一つない、質素なアパートで始まりました。
 「わたくしたちは、そこで生活し、そして仕事をすることのできる小さな一隅以上のものは望んでいませんでした」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)と、マリーは綴っています。
27  科学の世界の新しい扉を開く
 結婚から2年が経ち、マリーは長女イレーヌを出産して母となりました。博士号を取得する研究の取り組みも始まりました。
 当時、フランスの物理学者アンリ・ベックレルは、「ウラン化合物が不思議な放射線を発すること」を報告していました。
 この現象の正体は何か? なぜ、このような現象が起きるのか?
 まだ、ほとんど誰も手をつけていなかったこの現象の究明が、マリー・キュリーの挑戦となりました。
 さまざまな実験を重ねた末に、キュリー夫妻は放射線を発する性質を「放射能」と名づけました。
 さらに、調べている物質のなかに、まだ人類に知られていない元素があることを突き止めていったのです。
 この解明によって、マリーは、物理学における「新しい世界」の扉を大きく開く一人となりました。
 すなわち、マリーをはじめ、優れた科学者たちの心血を注いだ研究の積み重ねによって、それまで物質の最も小さい単位と考えられていた「原子」は、さらに小さい「素粒子」で構成されており、そこには限りない可能性が広がっていることが明らかになっていったのです。
28  故郷を忘れない
 ピエールとマリーは、初めて発見した元素を「ポロニウム」と名づけました。
 マリーの祖国ポーランドヘの、万感の思いを込めた命名です。
 彼女は、その研究論文を、かつてお世話になったポーランドの恩人に送りました。
 今なお圧制のもとで苦しんでいる故郷の人々の存在は、彼女の胸から片時も離れることはなかったのです。
 現在、うれしいことにこのポーランドでも、またフランスでも、さらにヨーロッパ各地をはじめ世界中で、短大白鳥会のメンバーが生き生きと活躍されています。
29  ヤング・ミセスの溌剌たる活躍
 さらにマリーは、第2の未知の元素を発見しました。
 二人はその元素を「ラジウム」と名づけました。ラジウムとは「放射」を意味するラテン語に由来します。
 これらは、若き妻として家庭を支え、母として幼子を育みながら積み重ねていった業績です。
 いわゆる「ヤング・ミセス」と呼ばれる年代に、マリーは、現実と悪戦苦闘しながら、その持てる生命の智慧と力を、遺憾なく発揮していったのであります。
 皆さんの多くの先輩方も、全国各地で、「ヤング・ミセス」のリーダーとして溌剌と前進されています。
 短大出身者の弾けるような生命の息吹と、同窓の麗しき励まし合いの絆は、新時代の希望と光っており、私と妻は、いつも喜んでいます。
30  明確な実証を
 マリーにとって、果てしなく困難な作業が待っていました。
 ラジウムの存在を完全に証明するために、“実際に手に取れる形”で取い出すことに挑み始めたのです。
 理論だけでは、まだ不十分だ。目に見える形で、決定的な証拠で万人を納得させる必要がある――これがマリーの固い決意でした。
 理論や説明で納得してくれる人もいるかもしれない。しかし、そうでない人もいます。そうした人に対しては、反論の余地のない、明確な実証を示していく。目に見える結果があってこそ、その正しさを完全に立証できるのです。
 ピエールとマリーは、懸命に働きました。当時のノートには、マリーの筆跡と、ピエールの筆跡が、交互に記されています。まさしく、夫婦一体の協同作業でした。
 私はあきらめない! ラジウム発見の苦闘
 どんな場所でも立派な仕事ができる
31  不遇な環境で地道な労作業
 ラジウムを取り出すためには、本来、大きな実験室が必要でした。しかし、キュリー夫妻に、満足な設備はありません。パリ大学にある多くの建物の一つを貸してもらおうと奔走しましたが、結局、認められませんでした。
 やむなく二人は、物理化学学校の医学生の解剖室だったという、物置小屋のような建物を借りることにしたのです。部屋には何の装置もなく、使い古したテーブルと、あまり役に立たないストーブ、そして黒板があるだけでした。
 雨が降れば雨漏りした。冬は身を切るような寒さに悩まされた。夏は焼けるような暑さ。化学処理で生じた有毒ガスを排気する換気装置もありませんでした。
 「馬小屋ともジャガイモ貯蔵庫ともつかないもの」と形容される倉庫です。
 ラジウムが含まれていると思われる鉱物の調達にも苦労しました。さまざまに手を尽くして、やっとのことで、オーストリアの政府が、工業で使った残りかす1トンを無償で提供してくれることになりました。
 科学の歴史を劇的に変えた大発見も、その過程は、あまりにも地道な、単調な作業の繰り返しでした。
 大量の鉱物を大きな容器に入れて、ぐつぐつと煮る。化学処理を行う。それを何度も何度も、繰り返すのです。重い容器を運んだり、何時間も大きな鉄の棒でかき混ぜ続けたり、大変な肉体労働の連続です。一日の終わりには疲労のあまり倒れそうになりました。
32  自分との戦い
 マリーは、こう書いています。
 「実験室における偉大な科学者の生活というものは、多くの人が想像しているような、なまやさしい牧歌的なものではありません。それは物にたいする、周囲にたいする、とくに自己にたいするねばりづよいたたかいであります」(前掲、渡辺慧訳)
 “闘い続ける人”の叫びです。さらにまた、マリーは語っております。
 「みのりの多い多忙の日々の間に、なにをやってもうまくいかない不安な日々がはいりこんできます。そういう日には研究対象そのものが敵対心をいだいているかとさえ思われてきます。こういうときこそ、じぶんの気弱さや落胆とたたかわなければならないのです」(同)
 この言葉は、科学研究だけでなく、人生の万般に通ずる大切な哲学といってもよいでしょう。
 「なにをやってもうまくいかない」――ラジウムの抽出に挑戦する作業は、ときとして絶望的に思えました。そもそも、こうした作業は化学者の領域であり、ピエールやマリーのような物理学者が得意とすることではなかったのです。
 強い信念を持ったピエールですら、果てしない戦いに疲れ果てて、あきらめかけました。
 この障害を乗り越えるのは難しい。もっと、将来、条件がよくなってから再挑戦したほうがいいのでは? ぼろぼろになって研究を続ける妻のことを気遣い、ピエールは、ひとたびの「休戦」を勧告しました。
33  志ある人は強い
 しかし、マリーはあきらめませんでした。彼女は、「あきらめる」ということを知らなかったのです。
 ラジウムは必ずある! どんな苦労を払ってでも、必ず取り出してみせる!」
 いざというとき、志の定まった女性というのは本当に強い。
 マリーは、「どんなに不適当な場所にいても、やり方しだいで、いくらでもりっぱな仕事ができるものだ」(前掲、木村彰一訳)と自伝に綴っています。
 今、短大に学ぶ皆さんは、自分を鍛える「青春という闘い」の真っ只中にいます。
 また、卒業した皆さんのなかには、描いていた理想と違う、不本意な環境で働いたり、厳しい現実の中で生きている人がいるかもしれない。
 大事なことは、強い自分になることです。「自分しだい」で、新たな道を開くこともできる。必ず立派に成長できる。
 「大変だった。でも、私は勝った!」と、笑顔で後輩に語れる、強い朗らかな皆さん方になってほしいと、私は願っています。
  わが母校
    見つめて勝ちゆけ
      わが友と
34   青春乃
    英智の朝日は
      昇りける
    嵐の時にも
      笑顔たたえて
 嵐のような環境にあっても、笑顔を忘れない。その人は、人間としての勝利者です。
 わが家のことで恐縮ですが、私の妻は、いかなる試練の時も、笑顔をたやさず、共に進んでくれました。私は妻への感謝を込めて「微笑み賞」を贈りたいと話したことがあります。
 どうか、皆さんも、どんな時も朗らかな笑顔を輝かせていける、強き女性になってください。
35  価値ある仕事は地道な積み重ね
 ラジウムを取り出そうとする、キュリー夫妻の労作業は続きました。実に4年間、二人は実験室での苦しい闘いに没頭したのです。
 そして、ついに1902年、二人はラジウム塩の抽出に成功します。世界初の快挙でした。
 取り出した量は、わずか「0.1グラム」です。数トンの鉱物から、たったの0.1グラム――。
 マリーは後に回想しています。
 この苦労に満ちた日々こそが、「もっともすばらしい、もっとも幸福な時代」「ふたりがともにすごした生涯の英雄時代」だったと(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)。
 恵まれた環境だからといって、偉業が達成できるわけではない。また、一見、華々しく見える活躍が、必ずしも大きな価値を持っているわけでもない。
 本当に価値のある仕事、歴史に残る事業というものは、目立たない、地道な積み重ねである場合が多いのです。
 仕事は戦いです。また、自分自身の一念しだいで、仕事を通して、自分を磨き、強めていくこともできる。
 戸田先生の会社で働いていた時、先生は私たちに、こう語られたことがあります。
 「仕事に出かけるときは『行ってまいります』というけれども、仕事は戦いなんだから『戦いに行ってまいります』というべきだ」と。
 厳しき現実社会で戦う人間が、根本に持つべき心構えを教えてくださった。
 社会は、思うようにいかない苦闘の連続です。希望通りの進路にならなかった場合もある。しかし、そうしたことで大切な自分を見失ってはならない。
 若き日にマリーは、兄に宛てて次のような手紙を書いています。
 「人生は、私たちの生涯にとっても生やさしいものではないようね。
 でも、それが何だというのでしょう。
 私たちは自身に忍耐力を、中でも自信を持たねばなりません。
 私たちが何かについて才能に恵まれていることと、どんな犠牲を払ってもそれが実現されねばならないこととを私たちは信じるべきです。
 多分、ほとんど予想もしない瞬間にすべてがうまくいくことになるのでしょう」(桜井邦朋著『マリー・キュリー』地人書館)
 私はこのマリー・キュリーの言葉を、健気な短大生の皆さんに贈りたい。
 特に、これかから社会に旅立つ、卒業生の皆さんに贈りたいのです。
 何があっても、忍耐と自信をもって、強く前進しつづけることだ。「進む」なかで、「動く」なかで、自分にしかない才能が見つかり、自分にしか果たすことのできない使命の道を開くことができるのです。
36  悲観主義でなく楽観主義でいけ
 フランスの故・ポエール上院議長は、私が20年以上にわたって、お嬢さんやお孫さんも含めて、家族ぐるみで深く親交を結んだ方です。
 第2次世界大戦で、命がけでレジスタンス運動を戦い抜いた正義の闘士です。
 その議長が政治家を目指したきっかけは、戦火の中だったという。
 議長は、防空壕を掘って、自分は死んでもいいから一人でも多くの人を救いたいと救助に当たっていた。
 その時、「自分には人々を安心させる力がある」と気づき、政治家への道が始まったと回想しておられました。
 ポエール議長は青年に対し、こう語られています。
 「将来を信ずることです。勇気と希望を失わないことです。未来へ参加していくことです。青年なくして未来はありえない」
 「絶対に悲観主義ではいけない。楽観主義でいくべきです。物事は、いろいろと変化していくものですから」
 「また何かやろうとするときは、自分自身を信じることです」
 幸福は、どこにあるのか。
 それはわが生命の充実感の中にある。そしてこの充実感は、労苦を勝ち越える挑戦から得られる。
 人知れぬ地道な、信念に徹する闘争のなかに、何ものにも侵されない、人生の喜びと悔いなき満足が生まれるのです。
37  「ラジウムは万人のもの」
 1903年、ピエールとマリーの二人は、放射線研究の先駆者であるアンリ・ベックレルとともにノーベル物理学賞を受賞します。
 ラジウムは、にわかに世界の注目を集めました。ガンの治療などに効果があることが明らかになってきたからです。
 今日、ガンに対して用いられる放射線治療は、「キュリー夫妻のラジウム発見に始まる」と言われています。
 世界のさまざまな国が、ラジウムを求め始めました。しかし、ラジウムを抽出する技術を知っているのは、キュリー夫妻だけです。
 この技術の特許をとれば、莫大な財産を築くことができる。子どもたちの将来の生活も保障してあげられる。何よりも、立派な実験室を持って、思う存分、研究に精を出せる――。
 あるときピエールが、この考えについて、マリーに尋ねました。マリーは、こう答えた。
 「それはいけません。それでは、科学的精神に反することになるでしょう」(エーヴ・キュリー著、川□篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)
 「ラジウムは病人を治すのに役だつでしょう……。けれど、それから利益を引き出すなんてことは、わたしできないと思います」(同)
 ピエールも、マリーの意見に同意しました。
 のちにマリーは、特許をとれば大金持ちになれたのにと話す人に対し、毅然と答えています。
 「誰もラジウムでお金持ちになってはいけません。あれは元素です。ですから万人のものです」(オルギェルトヴォウチェク著、小原いせ子訳『キュリー夫人』恒文社)
 二人は、健康を害し、寿命を縮め、筆舌に尽くせぬ苦闘を通して得た技術を、世界に、人類に、未来に捧げました。
 その生き方は、仏法で説く「菩薩道」の人生と深く一致しています。
38  突然の別れ
 ラジウムの発見、ノーベル賞受賞といった偉大な功績が認められ、1904年、ピエールはパリ大学の教授に就任します。
 マリーも、夫の研究室の主任となりました。さらに翌年、ピエールは科学学士院の会員に選ばれました。
 〈創立者は1989年6月、フランス学士院で「東西における芸術と精神性」と題して講演を行い、「この講演は偉大なる一編の詩であり、生命の真髄への探究に捧げられた芸術です」(同学士院芸術アカデミーのランドフスキー終身事務総長)等の大きな反響が寄せられた〉
 ピエールがパリ大学の教授となった年には、二女のエーヴが生まれています。キュリー夫妻は、人生の幸福と、研究の充実の真っ只中にありました。
 1906年の4月。ピエールとマリーは、2人の娘と一緒に、田園風景を楽しみました。
 久しぶりの休日。自転車に乗ったり、牧場に寝ころんだり、美しい森を散歩したりして、家族で和やかな一日を過ごしたのです。
 ピエールは、元気に跳びはねる、かわいい娘たちを、そして最愛のマリーを、幸せそうに見つめていました。
 二人の人生が、本格的な開花の季節を迎えようとしている。そう思えてならない、春の美しい日々でした。
 その数日後、4月19日――。
 突然の悲劇がキュリー家を襲いました。
 ピエールがパリの街で、馬車にひかれてしまったのです。ピエールは亡くなりました。1カ月後に、47歳の誕生日を迎えるところでした。
 「ピエールが死んだ?……死んだ?……ほんとうに死んだの?」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キユリー夫人伝』白水社)
 マリーは、「ピエールが死んだ」という言葉の意味がわかりませんでした。しばらくは、悲しみを感じることすらできませんでした。心を失ったロボットのようになってしまいました。
 しかしマリーは、それでも生き抜かなければならなかった。このとき38歳。8歳のイレーヌと、1歳半にも満たないエーヴの、2人の娘が残されました。
 絶望に沈むマリーの脳裏に、ある日の光景が蘇りました。
 その日、肉体的にも、精神的にも苦しい実験作業を続けていたなかで、ふとピエールが、「それにしても、きついな、われわれが選んだ人生は」と漏らしました(同)。
 最悪の事態があるかもしれない。もしどちらかが死んだら、残った一人は生きていけない。そうでしょ?――と、マリーは聞いた。
 ところがピエールは、厳としてこう言ったのです。
 「それはちがう。なにがあろうと、たとえ魂のぬけがらのようになろうと、研究は、つづけなくてはならない」(同)と。
 何があろうと、たとえ一人になったとしても、生きて生きて生き抜いて、二人の使命を完遂する――これが二人の誓いでした。
 悲哀の底にいるマリーを、この「誓い」が支えてくれたのです。
 彼女の生涯には、多くの苦難が襲いかかりました。
 しかしそれらが束になってかかってきても、彼女の「誓い」を破壊することはできなかった。
 「誓い」を捨てることは、「自分」を捨てることであり、“戦友”である夫を裏切ることでした。それは魂の死を意味する。
 ヴィクトル・ユゴーは綴りました。
 「死ぬのはなんでもない。生きていないことがおそ恐ろしいのだ」(辻昶訳『レ・ミゼラブル3』潮出版社)
 残酷なまでの試練を経て、マリーの誓いは清められ、鍛えられ、高められていきました。誓いを果たすことが彼女の人生になった。彼女の生命は、まさに「使命」そのものと化した。
 苦しみに鍛えられることによって彼女は、永遠に朽ちない「真金」の人となったのです。師であり同志であったピエールと「不二」になったともいえるでしょう。
 また、計り知れない苦難に遭いながらも、人々のために生き抜かんとする人生は、自らを燃焼させて万物を照らしゆく太陽のごとく、宇宙の本源的な慈悲の法則に合致しゆくといってもよい。
39  「再生」の第一声
 やがて、パリ大学は、亡きピエールが受け持っていた講座をマリーに引き継いでもらう決定をしました。これは重大な出来事でした。歴史上初めて、学問の最高峰・パリ大学で、女性が講義を受け持つのです。
 1906年11月5日、マリーは教壇に立ちました。
 パリ大学で女性が初めて講義をする! いったい何を話すのか? しかもそれは、あのマリー・キュリーだ!
 多くの群衆、記者、カメラマン、有名人が教室に集まりました。
 固唾をのんで見守る人々。まっすぐに前を見つめるマリー――。
 彼女は、何の前置きもなく、静かに話し始めました。
 「この10年のあいだに成しとげられた物理学の進歩について、考えてみますと、電気と物理に関する概念の変化には、驚かされます……」(前掲、河野万里子訳)
 それは、夫ピエールが“最後の講義”を結んだ言葉でした。マリーは、まさしくピエールが講義を終えたところから、講義を始めたのです。
 最愛の夫であり、学問探究の不二の同志であった夫の魂を継いで、勇敢に生きゆく「再生」の第一声を、凛然と発したのです。
 マリー・キュリーの教え子の一人は、当時の彼女の姿を、次のように描いています。
 「万人に近寄りがたくなり、自らに課した超人的な任務に向かってひたすら緊張している、この時ほど彼女が偉大であったことはない」と(ウージェニィ・コツトン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)。
 私たち夫婦が、忘れ得ぬ出会いを結んだ方々のなかにも、夫に先立たれた女性がいました。
 インドのソニア・ガンジー女史。フィリピンのコラソン・アキノ元大統領。法華経研究のヴォロビヨヴァ=デシャトフスカヤ博士。香港の方召麐画伯。
 中国の周恩来総理夫人である、鄧穎超女史もそうでした。
 鄧女史は、ひとりの女性を次のように励ましています。
 「私は、女性が泣くのが一番、きらいです。泣いてどうなるの?
 泣いて、自分の運命が変えられますか。女性は自立しなければなりません。向上し、強くなり、戦わなければなりません。泣き虫はバカにされるだけです。
 私は、恩来同志が死んで、この上なく悲しく、3回だけ泣きました。しかし、泣いても、彼は生き返りません。私は、悲しみを強くはねのけて、更に強く生きていかねばなりません」
 そして、夫の周総理の精神を受け継ぎ、それまで以上に、大中国の発展のために、力を尽くして戦っていかれたのです。
 鄧女史が、逝去の2週間前に残した言葉は、「生き抜き、学び抜き、革命をやり遂げる。命ある限り、私は戦いをやめない」でした。
 私は折に触れて、「この人ありて、周総理の勝利はあったのだ!」と、偉大な女史の勝利の一生を、最大に讃えてまいりました。
 夫を亡くしても、その悲しみに負けず、勇気をもって生き抜く女性は、「生命の女王」の境涯を悠然と開く人です。
 そして「幸福の博士」として、あとに続く人々の希望となり、模範となって光り輝いていくのです。
40  「必ず晴れる日は来る!」
 マリーの偉大さ、それは、最大の悲劇があったにもかかわらず、その苦悩のなかで、大いなる使命を果たし抜いていったところにあるといってよいでしょう。
 彼女は、それまで夫と二人で分かち合っていた重荷を、一人で担って歩んでいく決意をしました。家族を自分の収入で養い、子どもを育て上げるとともに、夫と切り開いた学問分野を発展させ、さらに、後輩たちを誠心誠意、育成していったのです。
 ピエールの死から8年後、第1次世界大戦の戦火が迫るなか、マリーは娘のイレーヌにこう書き送っています。
 「わたしたちには大きな勇気が必要です。そして、その勇気をもつことができるようにと望んでいます。
 悪い天気のあとにはかならず晴れた日がくるという確信を堅くもっていなければなりません。愛する娘たち、わたしはその希望をいだいてあなたがたを強く抱き締めます」(前掲、川口篤ほか訳)
 この言葉こそ、波乱の人生を生きたマリーの一つの結論でした。
 「生きる」とは「闘う」ことです。
 そのために必要なのは「勇気」です。
 勇気は逆境を切り開く宝剣です。限界の壁を打ち砕く金剛の槌です。絶望の暗黒を照らす不滅の光です。
 私も妻も「勇気」の二字で、ありとあらゆる中傷・迫害と戦いました。そして「勇気」の二字で、あらゆる苦難に勝ちました。
 私たち夫婦は、わが最愛の娘である皆さん方に、この「勇気の冠」を譲り託したいのです。
  勇敢な
    魂いだける
      白鳥会
    悲しみ乗りこえ
      常に朝日が
41  1995年の4月20日、フランス・パリのパンテオン(偉人廟)は、いつにもまして、厳粛な空気に包まれていました。
 キュリー夫妻の棺を、それまで埋葬されていたリ郊外のソーの地より、パンテオンへ移す式典が執り行われたのです。
 多くの列席者を前に、フランスのミッテラン大統領が、厳かに語り始めました。
 「ピエール・キュリーとマリー・キュリーの遺骸を、わが国共通の記憶を祭る神殿に再葬することによって、フランスはただ単に感謝を表するだけでなく、科学と研究への信頼を表明し、かつてのピエールとマリー・キュリーのように、科学に人生を捧げる人々、および、その力と人生に尊敬の念を表明するものであります」
 壇上には、来賓として、マリーの祖国ポーランドのワレサ大統領が座っています。ピエールとマリーの子孫たちも列席しています。
 かつて私は、ミッテラン大統領とも、そしてワレサ大統領とも会談いたしました。ミッテラン大統領とは、89年6月、パリのエリゼ宮(フランス大統領府)で親しく語り合いました。
 夫妻が眠ることになったパンテオンは、不思議にも、マリーが創設したラジウム研究所と、二人が努力の末にラジウム抽出に成功した粗末な建物があった場所との間にあります。
42  女性で初めて「偉人廟」に
 ミッテラン大統領は、言葉を続けました。
 「本日の式典は、その独自の功績により歴史上最初の女性がパンテオンに入るという点で、とくに輝きわたるものであります」
 そうです。マリーは、パンテオンに列せられた初めての女性なのです。
 キュリー夫妻は今、ユゴー、デュマ、ヴォルテール、ルソー、ゾラ、そして私が対談集を発刊したアンドレ・マルローといった、歴史的偉人たちとともに眠っています。
 2003年、EU(欧州連合)は、すぐれた科学者を顕彰する「マリー・キュリー賞」を創設しました。
 マリー・キュリーは、フランス、ポーランドのみならず、ヨーロッパが最大に誇る人物として、揺るぎない存在となっているのです。
 強く生き抜き、数々の業績を残したマリーの人生を思うとき、彼女のことを、剛毅な性格と冷徹な頭脳の持ち主のように想像する人もいるかもしれません。
 しかし、実際の彼女は、人一倍、繊細な感受性をもち、他者の苦しみを思いやる、優しい心の女性でした。
 ただ彼女は、不正と妥協すること、横暴な権威に屈することが、どうしてもできない――そういう女性だったのです。
43  「短大生の姿に活躍を確信」
 一昨年の6月、アメリカの著名な女性詩人で、アメリカ・エマソン協会会長のワイダー博士が、創価女子短大を訪問され、講演でこう語られました。
 「女性は簡単に恐怖に負けたりはしません。女性は、心身でも精神でも強いものです。
 また何かを恐れているような贅沢な時間はありません。人々に安らぎを与えるために時間を使わねばならないからです。
 こうした強い女性たちのことを思うならば、恐怖に負けて降参する時間などないことがわかります。
 多くの女性たちは、平和と正義の声を大にして、世界へ訴えかけています」
 まさにマリー・キュリーは、自ら信ずる正義のために、断固として生き抜いた女性でした。
 このワイダー博士をはじめ、わが創価女子短大に来学された多くの世界の識者が、短大生の姿に触れて、感動の声を寄せてくださっております。
 昨年9月に短大を訪問した、国立南東フィリピン大学のオルティス前学長は「短大生の溌剌とした姿を拝見して、日本の未来における女性の活躍も目覚ましいものになることを強く確信しました」と語られました。
44  「思いやりのある世界を」
 また、1995年の春3月に短大を訪れた、エジプトのスザンヌ・ムバラク大統領夫人は、「知性と福徳ゆたかな女性」「自己の信条をもち人間共和をめざす女性」「社会性と国際性に富む女性」と掲げた、短大の「建学の指針」に触れて、強調されていました。
 「女子短大の崇高な建学の精神にある資質を、未来の世代が身につけるなら、この世界を、人類にとって、はるかに善い、思いやりのある場所にできるにちがいありません」と。
 ワイダー博士も、この短大の指針を「世界が求める真実のリーダーシップの姿と賞讃し、「ともに自分たちの強さを確信しながら、『完命に平和な道』を進んでいきましょう」と短大生に語られました。
 世界の多くの識者が、短大の建学の指針に「女性の世紀」の指標を見いだし、この指針を体現した皆さん方に希望を託しているのです。
 「あることが正しければ、それを行わなければならない。たとえ、それをすることを妨げる無数の理由があろうとも」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)――これがマリーの信条でした。
 彼女が生きた時代は、女性が自らの信念にしたがって生きていくには、あまりにも多くの障害がある時代でした。
 少女のころは、とても内気で、人見知りだったマリー。しかし、このマリーが、あとに続く女性たちのために、大きく道をつくり、開いていったのです。
45  道を開いた女性
 マリーがパリ大学に入学したころ、9,000人の男子学生に対し、女子学生は210人しかいなかったと言われています。
 姉のブローニャがパリ大学の医学部を卒業したとき、数千人の卒業生のなかで、女性はたったの3人でした。
 しかもフランス人の女子学生は、まったくといっていいほどいなかった。19世紀末のパリでは、女性が付き添いなしで、一人で外出することすら、常識はずれのことと考えられていたようです(スーザン・クィン著、田中京子訳『マリー・キュリー』白水社を参照)。
 しかし、そうした社会のなかで、マリーは「一人の人間」として、敬意を勝ちとっていきました。マリーの努力と英知、人格と業績が、女性への差別や偏見を一つ一打ち破っていったのです。
 マリー・キュリーの生涯を見ると、「女性初」という形容詞が、随所に見受けられます。
 女性初の高等師範学校の教師、女性初のノーベル賞受賞、女性初のパリ大学教授、女性初の医学学士院会員……等々。
 そして、そうした業績は、「初」であるからこそ、妬みによる非難や、反動勢力からの迫害に、常につきまとわれていたのです。
 皆さん方の先輩のなかにも、『短大初』という栄光と重責を毅然と担い立って、後輩の道を切り開いてくれた方々が、たくさんおられます。
46  反動勢力との永遠の戦い
 1910年、マリー・キュリーの科学学士院会員選挙の際、女性の社会進出に抵抗する人々が、こぞって反対の運動を展開しました。
 科学上の業績から言えば、マリーは、会員となることに、まったく問題はありませんでした。
 マリーが「女性」で「外国人」であること、それが大きな反対の理由となったのです。
 数学者のアンリ・ポアンカレなど、著名な科学者がマリーを支援しましたが、マリーの就任を執拗なまでに妨害する人々がいました。
 マリーを中傷する、卑劣なキャンペーンが行われました。狂信的な右派の新聞は、マリーと、彼女を応援する人々を口汚く罵りました。
 1回目の投票で過半数に届かず、2回目の投票が行われました。そして、マリーは2票の差で落選しました。
 彼女は、落選しても悠然としていました。
 もともと、学士院に立候補の手紙を送ってはいなかった。慣例となっている会員への訪問を熱心に行ってもいなかった。
 名声などには、ほとんど無関心だったのです。
 しかし、科学の業績ではなく、女性を会員にするかどうかという問題ばかりが話題にされたことを残念に思っていたのではないでしょうか。
 長女のイレーヌによれば、マリーは「社会進歩のための闘争」が必要であると常に語っていました。そして、その闘争を「反動派」に対する「永遠の戦い」と名づけていたそうです(前掲、「キュリー家の人々」を参照)。
47  未来の建設者
 イレーヌは、「この戦いにおいて、女性は選ばれた地位を占める。彼女たちは教育者だから」(前掲、杉捷夫訳)と述べています。
 女性であること。それは、社会を平和へリードする大きな使命をおびた「選ばれた教育者」であるということなのです。
 「母性は本来の教育者であり、未来に於ける理想社会の建設者」であるとは、創価の師父・牧口先生の叫びでありました。
48  マリーへの風圧は、学士院選挙の落選にとどまりませんでした。
 マリー・キュリーが夫に先立たれた気の毒な境遇と見られていた間は、世間は同情的でした。
 しかし、一個の人間として吃立し、堂々たる実力を発揮していくと、容赦なく攻撃を開始したのです。
 その根っこには、陰湿な「嫉妬」がありました。
 外国人であり、女性でありながら、誰にも真似のできないような業績を成し遂げ、海外から数々の賞讃を受けている――その確固たる偉業に対する根深い妬みが渦を巻いていたのです。
 マリーのプライバシーを非道に侵害し、事実無根のウソを交えて、大衆の好奇心に媚びへつらうような悪辣な記事が、次々と書き立てられました。中には、ピエールは事故死したのではなく、マリーのせいで自殺したのだと、卑劣極まることを言う人間すら現れました。
 「自由の名のもとに放縦が許される」という言論の暴力が、人権を蹂躙して憚らなかったのです。
49  逆境の時こそ真の友がわかる
 亡夫ピエールの兄ジャックは、ウソで固めあられた、でっち上げの報道に対して、「何と下賎で、何と不快で、何と卑劣なことか!」(前掲、田中京子訳)と激怒しました。
 そして自らペンを執り、マリーを賞讃し、彼女の正義を堂々と証明する文章を新聞社に送ったのです。
 「彼女に対する下劣な記事がどれだけわたしの憤激を煽り立てたか言うまでもない」(同)
 「キュリー家の名において、義理の妹が、科学のみならずさまざまな面で卓越していたように、その私生活においても常に完璧で申し分ないと言うことは大いに役立つものと思う」(同)
 逆境の時こそ真実の友が明らかになります。
 多くの友人たちは、マリーを励まし、変わらぬ友情と真心を伝えてきました。
 20世紀を代表する大物理学者アインシュタイン博士も、その一人です。
 博士は、マリーの「精神とエネルギーと正直さ」を、心を込めて賞讃しながら、こう書き送っています。
 「野次馬が大胆にもあなたに反抗する、そのやり口が頭にきたのでこの感情を断然吐露せずにはいられません」(同)
 「野次馬がいつまでもあなたのことにかかずりあっているのなら、もう戯言を読むのはおやめなさい」(同)
 あのポーリング博士が、平和への信念の行動のゆえに事実無根の誹謗を浴びせられた時も、アインシュタイン博士は厳然と擁護しております。
 偉大であり、正義であるがゆえに、嫉妬され、悪口される。そして、それを耐え抜いて、勝ち越えた人が、永遠不滅の勝利と栄光に包まれていくのです。
 仏法では、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」と説かれております。悪口罵詈などに負けてはいけない。
50  言論の暴力は犯罪である
 終始、マリーの家を守り続けたマルグリット・ポレルという女性は、このヒステリックな迫害の嵐は「外国人排斥、嫉妬、反フェミニズムという考え」(同)の産物だとみなしていました。
 マリーをパリから追放しようとする動きさえありました。それに対して母国ポーランドは、戻って研究を続けるよう、彼女に救いの手を差し伸べました。
 しかし、彼女は、それでもフランスに踏み留まりました。“残された使命を果たすために!です。
 マリーは、力強く抗議しました。
 「わたしの行動で卑下せざるを得ないようなものは何ひとつありません」(同)
 「新聞と大衆による私的生活への侵害全体を忌むべきものと思います。この侵害は、高潔な使命と公衆の利益という大切な仕事にその生涯を捧げているのがあきらかな者を巻き込んだときにはとりわけ犯罪ともいえます」(同)
 言論人が永遠に心に刻んでいくべき、高潔な母の獅子吼であります。
 1911年の11月、マリーのもとに、スウェーデンから知らせが届きました。2度目のノーベル賞(化学賞)が授けられることになったのです。今度は、マリーの単独の受賞でした。
 ある伝記作家は、マリーは「国内で策略や困難に出くわしたが、外国のさまざまな機関からの評価によって十二分に報われた」(オルギュスト・ヴォウチェク著、小原いせ子訳『キュリー夫人』恒文社)と述べています。
 ただ、まさにこの時は、マリーに対する卑劣なマスコミの攻撃が行われている最中でした。
 ある人物からは、ノーベル賞を辞退するように勧告する手紙まで届きました。
 しかし、マリーは、「わたしは自分の信念に従って行動すべきだと思います」(前掲、田中京子訳)と書き送り、授賞式に出席し、堂々と講演を行ったのです。
 その姿は、多くの人に、マリーの絶対の正義を印象づけました。
 悪には怯んではならない。卑劣な人間どもには、徹して強気でいくのです。
 その後、マリーは、度重なる疲労と、精神的ストレスにより、病に倒れてしまった。
 言論の暴力が、どれほど人を傷つけることか。それは、生命をも奪う魔力があります。その残忍さ、悪逆さは、当事者にならなければ、決してわからないでしょう。これほど恐ろしい“凶器”はないのです。
 ゆえに、そうした社会悪とは、徹して戦わなければならない。
 もちろん、言論は自由です。しかし、人を陥れるウソは絶対に許してはならない。ウソを放置することは、言論それ自体を腐敗させる。社会のすみずみに害毒が広がり、民主主義の根幹を破壊し、人間の尊厳を踏みにじってしまうからです。
 マリーは、ファシズムの不穏な動きが生じつつあった時代に、警鐘を鳴らしました。
 「危険で有害な見解が流布しているからこそ、それと闘う必要がある」(同)
51  正義の人の名は永遠に残る
 マリーの二女エーヴが執筆した『キュリー夫人伝』は、1938年に出版されるやいなや、たちまち各国で翻訳され、今も多くの人に読み継がれている世界的な名著です。私も若き日に熟読しました。
 私が何回となく対話を重ねた、作家の有吉佐和子さんも、夫人伝を読んで、ひとたびは科学者を志したといいます。
 この長編の伝記をエーヴは、母の死後、3年ほどで一気に書き上げました。
 なぜ、それほど早く書き上げたのか。
 愛娘は、誰かが不正確な伝記を著す前に、母の真実の姿を、広く世界の人々に訴えたかったからです。
 それは、邪悪な言論に対する、娘の正義の反撃でした。
 エーヴは、はしがきに、「わたくしはたった一つの逸話でも、自分で確かでないものはいっさい語らなかった。わたくしはたいせつなことばのただ一つをも変形しなかったし、着物の色にいたるまで作りごとはしなかった」(エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と記しています。
 その静かな言葉の背後には、“大切な母を汚すウソは、一切許さない! 虚偽には真実で対抗する!”――との熱い情熱が漲っています。
 私がともに対談集を発刊したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、この二女エーヴと深い交流がありました。
 昨秋、彼女(エーヴ)がニューヨークで逝去され、102歳の天寿を全うされたことが報じられました。ご冥福を心からお祈りしたい。
 エーヴは、愛する母の真実の姿を描き出し、母の偉大な勝利の人生を、厳然と歴史に留め残した。
 チェコの作家チャペックは記しました。
 「この50年間、現在の大臣や将軍やその他のこの世界の大人物の名前を、はたして誰が記憶しているだろうか? しかし、キュリー夫人の名前は残るだろう」(田才益夫訳『カレル・チャペックの警告』青土社)
 キュリー夫人を迫害した人々の名前は、今、跡形もありません。しかし、キュリー夫人の名は、さらに輝きを放ち続けています。
52  生涯の味方
 かつて、私の母が、まさに臨終という時に、「私は勝った」と語りました。それは、なぜか。
 「どんな中傷、批判を、受けてもいい、人間として社会に貢献するような、そういう子がほしかった。そして、自分の子にそういう人間が出た。だからうれしいんだ。社会のためにどれだけ活躍したか、挑戦したか、それを見たかったんだ」というのです。
 皆さん方もどうか、短大に送り出してくれた父母の深き真心に応えていってください。お父さんやお母さんが、「私は勝った!」と言ってくれるような娘に成長してください。
 創立者である私と妻は、大切な皆さん方の前途を、皆さんの生涯の味方として、つねに祈り見守っております。
  短大生
    一人も もれなく
      幸福王女たれ
53  キュリー夫人は、優れた教育者でもありました。
 「一国の文明は国民教育に割かれる予算の比率で測定される」というのが彼女の持論でした(イレーヌ・キュリー著、内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)。
 ピエールと結婚してまもなく、キュリー夫人は教員の免許を取り、苦しい家計を改善するために、パリの女子高等師範学校に勤めたことがあります。
 この学校は、一流の大家の授業を女性に受けさせる目的で設立された学校で、マリー・キュリーは、初の女性教師となりました。
54  教え子たちに安心感を与えた
 教え子の一人は、こう振り返っています。
 「キュリー夫人の講義が私に光をもたらした。私たちを眩惑したのではなく、安心感を与え、ひき寄せ、ひきとめた。夫人の性格の率直さ、感受性の細やかさ、私たちのために役に立ってやりたいという願い、私たちの無知と私たちの可能性を同時によく心得ていたこと、そういうものがその原動力だった」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)
 マリーは、学生たちのために入念な準備をして、授業のやり方も、工夫に工夫を重ねました。
 さらに授業の方法や、学校で教える内容自体も、「どうしたら学生のためになるか」を根本に考え、積極的に学校の責任者に訴え、改革していった。マリーは若く、地位も高くありませんでしたが、下から上を変えていったのです。
 また、女子学生たちを自宅に招き、親身に相談に乗ってあげました。家族のこと、勉強のこと、生活のこと、将来の進路についてなど、親切に聞き、真剣に耳を傾け、一人一人の課題に、真心のアドバイスをしています。
 当初、マリーは、厳しそうな、近づきがたい先生に見えました。しかし、その奥に、じつに温かい心があるのを知り、女子学生たちは、彼女を深く慕っていくようになったのです。
55  苦労する学生に手をさしのべた
 マリーは、博士号の取得に挑んだとき、教え子を、学位論文の公開審査の席に招きました。
 どきどきしながら、その光景を見守っていた彼女たちは、試験官の質問に、マリーが的確に、見事に答えるのを目の当たりにし、まるで、わがことのように嬉しくなりました。
 彼女たちの一人は、こう綴っています。
 「ほかの女性に対する何という大きな手本を、励ましを、マリ・キュリーは今ここに与えたことだろうか!」(前掲、杉捷夫訳)
 マリーは、自分が勝利の実証を示すことで、後に続きゆく若き女性たちの心に、自信と誇りを植え付けていったのです。
 皆さん方の先輩たちも、そうした心で、母校の後輩に尽くしてくれていることを、私と妻は、いつも涙が出る思いで見つめております。
 マリーは記しました。
 「実験室において、教授たちが学生に影響を及ぼすことができるのは、彼らに権威があるからではなく、彼ら自身に科学への愛情と個人的な資質が備わっていることによるところがはるかに大きい」(スーザン・クイン著、田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
 「権威」で、若き学生の心をつかむことはできません。マリーは、自分自身が学生時代、大変な苦労をしたからこそ、貧しいなかで勉学に励む学生を見ると、ほうっておけなかった。後輩たちのために奨学金の手配をしてあげたり、さまざまな援助を惜しみませんでした。
 そうした姿は、学生のために尽くされる、創価女子短期大学の教員の先生方、職員の皆さん方とも重なり合います。
56  恩を忘れない
 彼女は、自分が受けた「恩」を忘れない女性でもありました。
 学生時代、マリーは、友人の奔走によって、ある財団から奨学金を受けていました。のちマリーは後に、少ない収入の中から懸命に工面して、奨学金として受けとった全額を持参して財団を訪れております。
 本来、この奨学金は返す必要のないものでした。それを返すというのは、前代未聞のことであり、担当者は大変に驚きました。
 マリーは、自分と同じような境遇の女子学生が困っているかもしれない。だから、一刻も早く返さなければいけないと考えたのです。彼女の律義にして、まっすぐな、そして誠実そのものの人柄をほうふつさせるエピソードです。
 マリーは、ラジウム製法の特許取得を放棄し、生涯、質素に暮らしました。それでも、少ない財産の中から、困っている人々のための援助を捻出していました。
 かつて親切にフランス語を教えてくれた貧しい女性のために、旅費を工面し、里帰りしたいという希望を叶えてあげたこともあります。その後、この女性は思い出を振り返り、マリーの優しさに熱い涙を流して感謝しました。
57  故郷ポーランドのことも、決して忘れたことはありませんでした。
 晩年に彼女が指揮したラジウム研究所には、さまざまな国籍の研究者がやってきましたが、そのなかには必ず、ポーランド人がいました。
 また、ポーランドに放射能の研究所を建設する計画が持ち上がったときは、彼女の最も優秀な教え子たちを派遣しています。その一人に、ヴェルテンステイン博士といろ大学者がいました。
 彼は後に、ポーランド物理学会の創設者の一人となりますが、この方に師事したのが、パグウォッシュ会議の議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したジョセフ・ロートブラット博士です。
 ロートブラット博士と私は対談集を発刊しました。沖縄で会見したとき、博士は、マリー・キュリーが亡くなる2年前に会った思い出を、しみじみと述懐しておられました。ロートブラット博士は、まさに、マリー・キュリーの孫弟子に当たるわけです。
58  戦地を走り負傷者を救助
 第1次世界大戦が勃発すると、マリーは、長女のイレーヌとともに、負傷者の救護に奔走しました。
 48歳で車の運転免許を取り、自ら開発したレントゲン車のハンドルを握り、負傷者の救助のために戦地を駆け回った。彼女は行動の人でもあったのです。
 役人の抵抗に遭いながらも、20台の自動車にレントゲン装置をつけ、さらにレントゲン装置を備えた200の放射線治療室をつくった。そして、220班の救護隊を訓練しました。
 このマリーの取り組みによって、銃弾などが体内のどこにあるかを知ることができ、効果的な治療が可能となったのです。この診察を受けた負傷者は、100万人を超えたといわれます。
 惨状を目にしたマリー・キュリーは、「戦争の理念それ自体にたいしてにくしみ」を抱いていました(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)。
 イレーヌは、「何よりも母が腹をたてたのは、軍事費のためあらゆる国々の富の大半が吸いとられ、有用な活動が阻害されるのを見ることでした」(前掲、内山敏訳)と語っています。
 後年、マリーは「平和のための知性の連帯」を築くため、国際連盟の活動にも参加しています。
59  娘もノーベル賞
 イレーヌは、マリー・キュリーと同じ放射能研究の道に進みました。母と娘は、科学の発展に身を捧げる同志となったのです。
 イレーヌは、人工放射能の研究で、夫のフレデリック・・ジョリオ=キュリーとともに、ノーベル化学賞を受賞しています。
 その受賞理由となった「人工放射能の発見」は、マリー・キュリーの亡くなる半年前のことでした。苦心の末の発見に驚き、喜んだ二人は、母のマリー・キュリーを呼んで、確認してもらっています。
 「あのときのキュリー夫人の、強烈な喜びようといったら、わたしは一生忘れることはないでしょう。おそらく、彼女の生涯で最後の、大きな喜びだったと言えるでしょう」(ノエル・ロリオ著、伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジョリオ=キュリー』共同通信社)とは、イレーヌの夫フレデリックの感慨です。
 放射能の研究に生涯をかけたマリー。
 人生の総仕上げの時期に、後継の子どもたちが、科学の新たな時代の扉を開くのを見届けることができたのは、どれほど嬉しかったことでしょうか。
60  1922年、フランスの医学学士院は、マリー・キュリーを同学士院初の女性会員に選びました。その11年前、彼女を会員にすることを拒んだ科学学士院に対する非難決議とともに、です。
 そして1923年、フランス議会は、ラジウム発見25周年を記念し、マリーの功労に深い感謝を表しました。
 マリー・キュリーは勝ったのです!
 何に? あらゆる苦難に。残酷な運命に。そして、自分自身に。
 すべてに打ち勝って、マリーは、自分自身の使命を完壁に全うしたのです。
61  すぐれた激励者
 晩年のマリーの健康状態は、決して良好ではありませんでした。いつも、しつこい疲れに悩まされていましたし、白内障で失明の危機にもさらされました。
 過酷な研究活動による疲労の蓄積と、長年の放射線による被ばくが、彼女の健康を、いちじるしく害していたのです。
 彼女の手は、ラジウムによるやけどの跡が残っており、固く、たこができていたといいます。
 「この道はあらゆる生活の安易さを断念することを意味しました。しかしかれは決然として、じぶんの思想も欲望も、この理想に服従させました」(キュリー夫人著、渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社)
 彼女は、真理の探究者として茨の道を歩んだ夫ピエールについて、こう書きましたが、それは、そのまま自分自身の生き方でもあったでしょう。
 マリーは晩年、ピエールと自分が創始した学問をさらに発展させるため、研究所の充実と、後継者の育成に力を注ぎました。
 研究所では、誰とも分け隔てなく接し、多くの若き学究者が、常に彼女の周りを取り囲んでいた。
 彼女自身、若い人々と過ごすのが楽しかったといいます。
 「この孤独の女学者は、生来の心理学者的、人間的天分によって、すぐれた激励者としての資格ができていた」(エーヴ・キュリー著、川口篇ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、二女のエーヴは指摘しています。
62  荘厳な臨終
 マリーは60歳を過ぎても、朝早くから、夜遅くまで、研究所で仕事をしていました。
 研究所の上に住んでいたある住人は、「彼女がよく研究所に朝一番に来て、最後に帰っていった」ことを証言しております」(前掲、田中京子訳『マリー・キュリー2』)。
 62歳のマリーは、友人にこう書き送りました。
 「いつも考えているのは、何をなさねばならないかであって、何がなされたか、ではありません」(同)
 マリーの目は、最後の最後まで、未来に向けられていました。死の直前にも、本の執筆をはじめ、さまざまな計画を抱えていました。
 愛娘のエーヴは、こう綴っています。
 「母はずっと、私がこの世に生まれでるはるか前の、夢を追う貧しい学生、マリア・スクウォドフスカ(=故郷ポーランドにいた頃のマリーの名前)としての心のままで、生きていたように思われる」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
 どんな立場になっても、母になっても、年老いても、彼女の魂は、理想に燃える女子学生のときと変わらずに、赤々と燃え続けていた。
 マリーは、「永遠の女子学生」だったのです。
 彼女は、昇りゆく朝日とともに、荘厳な臨終を迎えました。
 「夜が明け、太陽が山々をバラ色に染め、澄みきった空にのぼり始めたとき、輝かしい朝の光が部屋の中にあふれ、ベッドをひたし、くぼんだほおと、死のためにガラスのように無表情になった灰色の目にさしこんだとき、ついに心臓がとまった」(前掲、川口篤ほか訳)
 「白衣を着、しらがを上げて広い額をあらわに見せ、騎士のように荘重でりりしくて平和な顔をした彼女は、いまやこの地上でもっとも美しく、もっともけだかい存在だった」(同)
 1934年7月4日、娘に見守られて、マリー・キュリーは、その崇高な生涯を閉じました。66歳でした。
63  逆境の時こそ本当の底力が
 「わたしは、人はどの時代にも興味のある有用な生を営むことができると思います。
 要は、この生をむだにしないで、《わたしは自分にできることをやった》とみずから言うことができるようにすることです」(同)
 マリーの叫びです。
 どんな人でも、どんな時代に生きても、その人には、その人にしかできない使命があります。
 特別な人間になる必要はない。有名になったり、華やかな脚光を浴びる必要もない。
 平凡であっていい。「自分らしく」輝くのです。
 大切なのは、「私は自分にできることをやりきった!」と言えるかどうかです。
 順境のなかでは、人間の真の力は発揮できない。
 逆境に真正面から立ち向かっていくとき、本当の底力がわいてくる。逆境と闘うから、大いなる理想を実現することができるのです。
64  父娘の絆は永遠とわならむ
  桜花を見つめ 歩みゆく
  知性の乙女は 美しく
  学び求むる わが母校
  れの青春 光あれ
  希望は広がる わが心
  友情ともと学ばむ 晴れの日々
  幸福博士は 胸をはり
  おお白鳥の 幸の道
  くる日くる日も わが歴史
  父娘ふしの絆は 永遠とわならむ
  翼を広げよ 白鳥は
  誓いの空をば 世界まで
65  うれしいことに、2年前の1月に誕生した短大歌「誉れの青春」の歌碑が、このほど卒業生(短大白鳥会)より寄贈され、まもなく除幕されます。これは、短大開学20周年(2005年)、短大白鳥会結成20周年(2007年)を記念して、真心から贈ってくださったものです。
 ここに歌われた通り、気高き誓いを胸に、今春で8,000人を超える卒業生が、世界各地で素晴らしき翼を広げて活躍してくれております。創立者として、これほど誇らしいことはありません。
 大教育者クマナン博士の尽力で開学したインドの「創価池田女子大学」では、この1月30日、第5回の卒業式が行われました。皆さん方と人間教育の理念を共有する、最優秀の女性たちが、社会へ巣立っております。
 牧口先生が先進的な「女性教育」に携わられてより、1世紀――。
 本格的な「創価女性教育の第2幕」がいよいよ開幕したのです。
66  今いる所で光れ
 若き乙女たちが、理想を抱いて行き交う、短大の「文学の庭」。
 キュリー像は、今日も静かに、そして真剣勝負の姿で立っています。
 この像は、無言でありながら、無限の励ましを贈ってくれます。
 ――私は戦いました。たくさん、つらいことがありました。けれども、負けませんでした!
 あなたも負けないで!
 私は勝ちました!
 あなたは、どう生きるのですか?
 今、あなたちの胸にある「誓い」は何ですか?
 一人一人の女性が、今いる、その場所で、この像のごとく、毅然と立ち上がることです。
 そして、それぞれの使命に燃えて、全生命を光り輝かせていくとき、時代は変わり、歴史は動いていきます。
 あのワルシャワの移動大学で、若きマリーたちが声高らかに朗読した詩があります。
 「真理の明るい光をさがせ
 まだ見ぬ新たな道をさがせ」
 「……どの時代にもそれぞれの夢がありきのうの夢想は打ち捨てていく
 さあ、知識のたいまつを掲げ過去の成果に新たな仕事を積みあげて未来の宮殿を築くのだ」(前掲、河野万里子訳)
 わが創価の貴女たちよ、「永遠に学び勝ちゆく女性」として、未来に輝く平和と正義と幸福の大宮殿を築いてくれたまえと、深く深く祈りつつ、記念の講座とさせていただきます。
  世界一
    わが短大は
      花盛り
    学びと幸の
      女王の笑顔に

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