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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表協議会  

2007.12.11 スピーチ(聖教新聞2007年下)

前後
1  お会いできてうれしい。ありがとう!
 本年、創価学会は大勝利で進むことができた。
 「1年間、本当にご苦労さま!」と全同志の健闘を讃えたい。そして、明年も勝利するために、きょうは有意義な集いとしてまいりたい。
2  正しき事を為せ
 大文豪ゲーテは歌った。
 「人間は高貴であれ 進んで人を助け善であれ!」
 「ひとり人間のみが不可能を可能にするのだ」
 「倦まず為せ 益あること 正しきことを」(山口四郎訳「くさぐさの歌」、『ゲーテ全集1』所収、潮出版社)
 大文豪は、誇り高き人間の歩むべき道を求めてやまなかった。
 その至高の道を、来る日も来る日も、生き生きと「人間の讃歌」「生命の讃歌」を歌いながら前進しているのが、わが創価の誉れの同志である。
 南極点に初めて到達した、ノルウェーの探検家アムンゼンは言った。
 「もし行動においてより大いなるものへの憧憬を持たぬなら、われわれは人生に忠実であるとはいえない」
 「人間は戦わなくてはならない。戦うことによって、われわれは完成される」(エドワール・カリック著、新関岳雄・松谷健二訳『アムンゼン』白水社)
 全くその通りだ。
 広宣流布という、最も偉大なる目的のために「戦い続ける」ことこそ、一生成仏という、人間生命の究極の完成への軌道である。
 そしてまた、広宣流布は、永遠に大難との戦いである。
 広宣流布を阻む「三類の強敵」と戦う。強い力をもった悪人と、断固として戦う。これが地涌の菩薩である。
 仏敵と戦えない。相手の力が強いと怖じ気づく。それは真の仏法者ではない。
 相手がだれであろうと、少しでも学会の師弟をばかにしたり、真面目な学会員を見下す人間は許さない!──学会は、この破邪顕正の大精神で進むのだ。
3  師弟を守れ
 釈尊の時代、三逆罪を犯した提婆達多は、釈迦族の出身で、釈尊のいとこであったとも言われる。
 日蓮大聖人、日興上人の時代には、五老僧をはじめ、教団の中枢から仏法を破壊する者が出た。
 遠くではなく、最も身近な存在の中から、広布を破壊する大悪が現れる。
 学会の歴史においても、残念ながら、同志の模範となるべき幹部の中から、増上慢となり、転落していく人間が出た。
 そうした人間を厳しく糾弾しなければ、清浄な広宣流布の世界は守れない。和合を築けない。師弟という一点に、寸分たりとも狂いがあってはならない。
 「増上慢の人間は許すな!」
 これが戸田先生の遺言であられた。
 仏法の因果の理法は厳しい。
 師弟の世界を壊す増上慢を放置するならば、結局、自分自身の命も、増上慢の方向へ、師弟からはずれた方向へと流されていってしまう。
 だから、私は厳しく言うのである。
4  私は、戸田先生を守るために、命をかけて戦ってきた。
 ある時は先生の事業を再建するために。そして、先生の願業である広宣流布を実現するために。
 青年時代から折伏をやり抜いた。拡大の指揮を執ってきた。
 独身時代に住んだ青葉荘(大田区)の狭い一室も、旧小林町(同区)にあった小さなわが家も、座談会場となり、折伏と激励の舞台となった。
 先生は、私の病弱を心配し、「俺の命を大作にあげたい」と泣かれた。
 亡くなる直前まで、毎朝、万般の学問を授けてくださった。
 真夜中に呼ばれ、先生のもとへ駆けつけたこともあった。あえて厳しい訓練をしてくださった。
 偉大な先生であった。怖い先生であった。懐かしい先生であった。
 私たち夫婦は、戸田先生の教えのままの生き方を貫いてきた。
 戸田先生を、世界中から賞讃と顕彰を受ける立場にして差し上げるのが、私の夢だった。
 225の名誉学術称号をはじめ、私が世界からいただいた顕彰も、戸田先生の偉大さの証明として、先生に代わってお受けしてきたのである。
 諸君には、この深き深き師弟不二の道を知っていただきたいのだ。
 もし、それを忘れたならば、立場が大きければ大きいほど、その悪も大きくなってしまう。
 「見栄」や「気取り」は必要ない。それは、慈悲とかけ離れた姿である。
 人間、だれが一番、偉いのか。法のため、人のため、一生懸命に折伏をし、友の激励に歩く、その人が偉いのである。
 名声がある。社会的地位がある。それは、信仰とは関係ない。
 無名で、華やかな脚光を浴びることはなくとも、真面目に広宣流布のために働く庶民!。
 学会は、永遠にその人の味方である。
5  母の笑顔は冬の陽ざしのごとし
 その意味でも、私は、この1年の全国、全世界の婦人部の皆様方の尊き平和と正義の大行進に、心からの感謝を捧げたい。
 母の力に勝るものはない。
 世界の識者との語らいにあっても、必ず大きな焦点となるテーマは、「母の偉大さ」である。
 現在、私は、現代中国を代表する高名な歴史学者の章開沅しょう・かいげん先生と、対談を続けている。その連載も開始された。〈「人間勝利の世紀をめざして」と題し、『第三文明』2008年1月号からスタート〉
 ここでも章先生は、ご自身の来し方を振り返り、こう語っておられた。
 「母から強い影響を受けました」
 「母は屈強な精神の持ち主で、悪を仇敵のごとく憎み、義を重んじ、金銭を軽んじ、熱心に人助けをしました。そして、これらのすべてが、私の生き方に目に見えない感化を及ぼしたのです」
 章先生のご一家は、日中戦争の戦火を逃れるため、安徽省あんきしょう蕪湖ぶこから四川省の重慶まで、長江に沿って西へ西へと、直線距離で約1,400キロに及ぶ、厳しい疎開を余儀なくされた。
 この時、お母さまは身重で、すし詰めの蒸気船の中で、男の子を出産せざるをえなかった。
 しかし、命からがら重慶にたどり着いて間もなく、その生まれたばかりの最愛の子を、病気で失ってしまったのである。
 そうした波瀾万丈の苦しみや悲しみを、健気に耐え抜かれた、お母さまであられた。
 その母が、幼い章先生に、繰り返し教えた言葉があったという。
 それは、「天に袋小路はない」という一言である。
 正しき自然の法則に則って行動していくならば、道は自ずと開かれる。決して行き詰まりはない──という意味である。
 苦悩も苦難も突き抜けた、偉大なる希望の哲学である。
 この母の教えは、章先生の心の奥深くに刻まれた。
 戦争や文化大革命の嵐を乗り越える支えとなり、いかなる試練も敢然と勝ち越えゆく力となった。
 懸命に戦う母の強さ。母の朗らかさ。母の聡明さ。
 それは必ず、わが子に、わが後継者に、脈々と流れ伝わっていくものである。
 我ら創価学会の明るさも、ひとえに、太陽の婦人部の皆様方がおられるからである。
 日本の文豪・島崎藤村は語った。
 「好い笑は、暖かい冬の陽ざしのようなものだ。誰でも親しめる」(『藤村全集』第13巻、筑摩書房、現代表記に改めた)
 まさしく、創価の母の笑顔の力である。
6  北海道から友好の対話
 地道な草の根の対話ほど、強いものはない。
 今、寒風の中を前進されゆく北海道。10月には全地区で「地域友好大会」が開催された。
 これには、地域の市長、町長、村長などの来賓をはじめ、多くの友人が出席され、あわせて18万人が集い合って、大いに有意義な語らいが広がった。
 〈ある地区では、壮年部の有志が意気軒高に「滝の詩」を大合唱した。それを聞いて感動した地域の名士が、その歌詞カードを持ち帰って執務室に飾ったというエピソードも〉
 石狩市のある地域の大会には、札幌に駐在されている中国の胡勝才こ・しょうさい総領事も参加してくださった。
 この胡総領事は、友人に創価大学に留学した方もおられ、創価の平和・文化・教育の運動に注目してこられた。
 友好大会に出席された総領事は、その所感を、聖教新聞の北海道版(11月16日付)に寄せてくださった。
 こう語っておられる。
 「初めて創価学会の会合に参加しましたが、あらゆる年齢層の方が集い、明るく、家庭的な温かい雰囲気でした」
 「皆さんは、地域を良くしようと団結し、正義感にあふれています。また、道徳的で、人柄の良さも伝わってきました」
 「創価学会は、地域に根ざした市民交流、地域の発展を願った行動を実践しています。
 皆さんの平和理念、調和のとれた社会構築の考え方を、研究していきたいと思います」
 深いご理解に、心から感謝申し上げたい。
 〈総領事はこのインタビューの中で、名誉会長の日中国交正常化提言の先見性や、青年交流、教育交流、文化交流への尽力を高く評価し、次のように述べている。
 「今日の素晴らしい中日関係を結ぶために尽力された池田名誉会長を、心から尊敬し、感謝しています」
 「私たちは、池田名誉会長の貢献とその恩義を、いつまでも忘れることはないでしょう」〉
7  桜梅桃李で進め
 ともあれ、最も身近な、学会のありのままの姿を見ていただく地域友好の活動が、そのまま世界の平和へと連動していくことを、確信していただきたい。
 古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの有名な言葉に「相違するものから、最も美しい音律が生まれてくる」(田中美知太郎訳「ヘラクレイトスの言葉」、『世界人生論全集1』所収、筑摩.書房)とある。
 千差万別の個性を尊重し合い、生かし合いながら、団結して、広宣流布へ前進していくのが、我ら創価の人間共和のスクラムである。
 「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」と仰せの通り、ここにこそ、生命の最極の調和の世界があるのである。
8  尊き献身に感謝
 きょうは、医師の集いであるドクター部、看護に携わる方の集いである白樺会・白樺グループの代表も出席されている。
 皆様が、これまでどれほど学会のため、同志のため、広布のために尽くしてくださったか。
 私は、よく存じ上げているつもりであるし、その尊き献身の歴史は決して忘れない。
 皆様は、この1年も「生命の世紀」「健康の世紀」の先頭に立って、多くの人々のために尽くし抜いてこられた。広宣流布の原動力として、それぞれの立場で見事な実証を示してこられた。
 私たちは、会合への出動をはじめ、さまざまな形でドクター部、白樺の皆様のお世話になっている。
 この場をお借りし、全同志を代表して、心から御礼を申し上げたい。
9  「人間」という原点を忘れるな
 世界的な心臓外科医で、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長のウンガー博士と私の対談集『人間主義の旗を』には、各界から多くの反響をいただいている。
 この対話を通して、博士と改めて確認したことがある。
 それは、“生命こそ最高の価値であり、その尊厳を絶対に冒してはならない”ということであった。
 また博士は、生命に対する「慈しみ」こそ、医師にとっての大切な条件であるとして、次のように語っておられた。
 「患者は医師やヘルパーの慈しみをはっきりと確認したとき、はじめて自分が大事にされていると感じるものなのです」
 さらに、「慈しみをもって患者に接することは無条件で重要であり、治療にとってはより重要な要素」と述べておられた。
 そして「慈しみが最初の癒しの土台」であり、「慈しみというものは、太古の昔からあるものであり、人間的なものであり、健康であっても病気であっても、あらゆる人に必要であり、他のなにものにも代えられないものです」とも訴えておられた。
 たしかに、医療技術の発達は日進月歩であり、まことに目覚ましい。
 しかし、人間の生命の本質は不変である。
 どれほど技術が進歩しても、いな、技術が進歩するほど、「人間」という原点に立ち返り、「慈しみ」の力を大切にしていく必要があるのではなかろうか。
 この点、博士は“温かな声をかけること”“相手の言葉に心から耳を傾けること”など、患者の人間性を尊重することが、病気の回復を助ける力になると指摘しておられる。
 また、「たえず必要とされることは、つねに患者の側に立つために教育を続けることなのです」と強調されていた。
 そして、医学の道を歩みゆく青年は、人々と対話をし、人々の苦しみを理解することを学ばねばならないと述べておられた。
 うれしいことに、私が創立した創価学園出身のドクター、看護師の活躍も、社会で光っている。
 慈悲と同苦の実践に励みゆかれる、創価の薬王菩薩であるドクター部、そして白樺の皆様が、どれほど大切であるか。
 多くの人々に「生きる力」と「希望」を送る存在として、いっそうの活躍を念願したい。
10  大勇猛心で人々を救え!
 ウンガー博士は訴えておられた。
 「現代医学における人間の定義の上での過ちは、人間を肉体の見地からのみ見たことにある」
 そして、「私の主張は、人間は肉体と精神が一体になったものであるということに基づいております」と述べておられた。
 「色心不二(肉体と精神が不二であること)」を説き明かした、仏法の生命観と相通ずる哲学である。
 博士は言われた。
 「医師が、苦しんでいる人の困窮のすべてを、人間として知っていくならば、医学は医師の芸術となり、病人に奉仕する医術となっていくでしょう。
 患者は至極当然のこととして、医学の本質から最善の医療を受けることになるでしょう」
 患者の苦しみは、肉体面だけにとどまらない。
 苦悩し、沈んでいる「心」に、どう手を差し伸べていくか。
 そこにこそ、医学がより大きな力を発揮していくためのカギがあるといえよう。
 大乗仏教の論師・竜樹が著した「大智度論」には、こう説かれている。
 「菩薩摩訶薩は、大医の病として知らざる無く、薬として識らざる無きが如し」(眞野正順訳『国訳一切経印度撰述部 釈経論部二』大東出版社)
 この「菩薩摩訶薩」とは、法華経に登場する菩薩のことである。
 多くの衆生の中にあって、大慈悲を起こし、大勇猛心をもって、人々を救おうと行動を続ける存在といってよい。
 偉大な名医が、病について知らないことがないように、この菩薩は、人々を苦しめる悪業を知り尽くしている。
 そしてまた、この菩薩は、偉大な名医が、どんな薬にも通じているように、人々を救いゆく方途を正しく知って、民衆救済の行動に打って出ていくというのである。
 まことに、「菩薩道」と「医道」は、その精神性において、深く響き合っているのである。
 さらに「大智度論」では、仏を「大医王」に喩えつつ、「名利を求めず衆生を憐憫する精神」や「貴賤の差別なく患者の病を除く精神」について説かれている。
11  全体人間を育成
 先日、光栄にも私に名誉教授を授与してくださった、中国の名門・温州医学院の仇毅きゅう・き校務委員会主任も、医学の変遷に論及しつつ、こう語っておられた。
 「医学は、技術の革新のみが追究され、高い技術があれば、病は治せると考えられていました。しかし、現代において、それだけでは足りないことがわかってきました。心の健康も大切なのです」
 「医学も、健康科学も、人文学も、すべては人類の幸福のためです」
 温州医学院では、この「人間の幸福」「人類の幸福」という目的を掲げ、優れた研究に取り組んでおられる。
 そしてまた「心身の健康」という指標を掲げながら、大中国の未来を担い立つ全体人間の育成を目指しておられる。
 私は、心からの敬意を込め、ドクター部の友、白樺の友を代表する思いで、同学院の名誉教授の称号をお受けした。
 〈仇毅校務委員会主任は、述べていた。
 「人々が強い心を持つよう、理想や志、遠大な夢を与えてこられたのが、池田先生です」
 「先生は生涯をかけ、人類の幸福と文化の向上に尽くされてきた世界的に高名な方です」
 「医学といっても、目的は人々の幸福であり、ゆえに池田先生の人類幸福の思想、哲学は、今後の医学発展のために大変に重要です」〉
 同学院の陳恵生ちん・けいせい学長顧問は、創価大学を訪れた際、芳名録にこう記してくださった。
 「人類の美しい事業のために努力、奮闘する人は、世の人々から、永遠に尊敬される」
 我ら創価の大前進は、人類の平和と幸福を建設するための闘争である。世界の知性が讃えるこの道を、さらに快活に、誇りも高く進んでまいりたい。
12  不撓不屈の挑戦
 「人類の恩人」と讃えられる、ドイツの医学者コッホ(1843〜1910年)。
 コッホは、結核菌やコレラ菌の発見など、人類を脅かす病の原因を追究し、病と徹して戦い続けた「細菌学の祖」である。
 コッホの辛抱強い人柄は有名である。
 ひとたび目標を立てると、不撓不屈の精神で、それを達成するまで挑戦をやめなかった。
 彼は「あいまいにしてはおけぬ」と常々語っていたという(高野六郎苦『ローベルト・コッホ』主婦之友社)。
 また、困難な問題に取り組んでいる時、「けっして降参するな」と言って、同僚を励ました(トーマス・D・ブロック著、長木大三・添川正夫訳『ローベルト・コッホ』シュプリンガー・フェアラーク東京)。
 世界的名声を博したコッホだが、次のように語っていた。
 「私は、実際に皆さんが毎日なさっていること以上には何もしておりません。私がしたことといえば、懸命に働いて私の責務を遂行したことだけであります」(同)
 特別なことをしたのではない。ただ必死に、目的に向かって闘ったのだ──コッホの心情が伝わってくる、味わい深い言葉だ。
13  賢人の道を!
 なおコッホは、愛弟子の北里柴三郎博士に対して、「人は利害に執着し利己に流れる」と綴っている(前掲高野著『ローベルト・コッホ』)。
 人間は、どうしても自身のエゴにとらわれて、“人々のため”“社会のため”という大目的に生ききることが難しい。しかし、こうした「利害」の壁や「利己」の弱さを乗り越えて、人類のため、世界のために戦い続ける人こそが、本当に偉大なのである。
 自己の小さな殻を打ち破って生き抜く人が、最後は、真の勝利者と輝くことを、私たちは忘れてはならない。
 日蓮大聖人は、ドクター部の先達というべき四条金吾に、仰せになられた。
 「賢人は、八風といって、八種の風におかされない人を賢人というのである。八風とは、うるおいおとろえやぶれほまれたたえそしりくるしみたのしみである。おおよその意味は、世間的利益があっても喜ばず、衰えるのを嘆かないなどということである。この八風におかされない人を、必ず諸天善神は守られるのである」(御書1151㌻、通解)
 小さなことに紛動されず、どこまでも「人類の幸福の実現」という広宣流布の大目的に生き抜いていく。
 この賢人の中の大賢人の道を、皆様は歩み抜いていただきたい。
 友よ築け! 人生最高の金字塔を
14  日蓮大聖人は、仰せになられた。
 「第六天の魔王が、私の身に入ろうとしても、かねての用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに、天魔は力及ばずに、王や臣下をはじめとして良観などの愚かな法師たちに取りついて、日蓮を怨むのである」(御書1340㌻、通解)と。
 仏法は、永遠に「仏」と「魔」との戦いである。
 「魔」というものは、自分自身の心に巣食い、身近なところに忍び寄ってくるものだ。
 だからこそ、「油断大敵」である。
 「月月・日日につより給へ」の信心で、「さきざきよりも百千万億倍」の用心で、あらゆる魔を打ち破っていくのだ。
 断じてスキがあってはいけない。御本仏が“百千万億倍の用心をしていきなさい”と仰せなのである。これが根本でなければならない。
15  青春の新記録を
 戸田先生亡き後のことである。
 ある指導者のところに、あいさつにうかがうと、「あなたのことは、戸田会長から聞いていました」と、大変に丁重に迎えていただいた。
 大事な人、大事な所に、一つ一つ、先生の的確な手が打たれていた。
 弟子を思う師匠の深き心を、改めて実感したものである。本当に、偉大な先生であられた。
 威張る人間には、徹して強い態度で応じられた。庶民には、慈父の優しさで振る舞われた。
 言葉には英知が光り、教養が格段に深かった。
 ただし、獄中に2年間いて、時が合わず、戦後は、事業に失敗される。
 折伏も進まず、学会の再建も、思うように、はかどらなかった。
 当時、私は20代。無名の一青年である。
 戸田先生に仕えた私は、猛然と働いて、借金を返済し、事業を軌道に乗せていった。
 そして次は、学会を何とかしようと立ち上がった。
 蒲田で、文京で、札幌で、大阪で、山口で、行く先々で、折伏に突き進んだ。
 尊き同志と心を一つにして、拡大の新記録をつくったことは、皆さんがご存じの通りである。
16  美しき魂の結合
 戸田先生は、私たち青年を「革命児」として訓練してくださった。
 学会が初めて支援した選挙戦(1955年)。
 先生は、私を、大田と鶴見の責任者に命じられた。ともに最高当選を果たした。
 そして、絶対に勝てるはずがないと言われた、大阪の参院選(1956年)では、「まさかが実現」と世間も驚く大勝利を勝ち取ったのである。
 あの戸田先生のうれしそうなお顔は、生涯、忘れることはない。
 皆さんも、戦うならば、何かの歴史を残してもらいたい。
 「私はやり切った!」「微塵も悔いはない!」「一人残らず全員が勝った!」と心から満足できる、人生最高の金字塔を打ち立ててもらいたいのである。
 格好でも、口先でもない。行動であり、忍耐であり、執念である。
 私は、厳然と結果を出して、学会を護り、同志を護り、師匠をお護りした。
 晩年、戸田先生は、私に言ってくださった。「お前がいてくれたから、俺は幸せだった」と。
 厳粛な、神々しいまでに美しい、魂の結合であった。これが、創価の師弟である。この魂を、皆に受け継いでいただきたいのだ。
17  人材を育てたところが勝つ
 きょうは、経済界の最前線で活躍されている代表も出席されている。
 「一切の法は皆是れ仏法なり」である。
 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」である。
 大聖人は、「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ」と結論されている。
 この「仏法即社会」「信心即仕事」の正道を堂々と歩まれている皆様方の労を、私は心からねぎらいたい。
 私が対談集を発刊した、世界的な大経済学者でハーバード大学名誉教授であられたガルブレイス博士は、世界は「人材開発競争の時代」と達観しておられた。
 人材を集め、人材を育てたところが勝つ。
 この人材の要件として、「基本」「基礎」が大事であることは、いうまでもない。
 この点、経済産業省では、社会人に必要な“3つの基礎力”(社会人基礎力)と、その基礎力を構成する“12の能力要素”を提示している。
 〈同省によれば、「社会人基礎力」とは、職場や地域社会の中で多様な人々とともに仕事を行っていく上で必要な基礎的な能力をさす〉
 その第1は、「前に踏み出す力」(一歩前に踏み出し、失敗しても粘り強く取り組む力)。
 その能力要素として、「主体性」「働きかけ力」「実行力」。
 第2に、「考え抜く力」(疑問を持ち、考え抜く力)。
 その能力要素として、「課題発見力」「計画力」「創造力」。
 第3に、「チームで働く力」(多様な人とともに、目標に向けて協力する力)。
 その能力要素として、「発信力」「傾聴力」「柔軟性」「情況把握力」「規律性」「ストレスコントロール力」。
 いずれも、人材の重要な要件である。
 そして今、そうした一切の力を育む薫陶が、仏道修行、すなわち、学会活動のなかに含まれていることを、多くの慧眼の士が指摘しておられる。
 また、うれしいことに、学会で訓練を受けた一騎当千のリーダーたちが、それぞれの職場で見事な貢献の実証を示し、深い信頼を勝ち取っている。
18  ダイヤモンドの不思議な性質
 今年の7月、私が「名誉教授」称号を拝受したロシアの極東国立工科大学のトゥルモフ最高顧問(前総長)は言われていた。
 「ダイヤモンドには、人間と同じように不思議な性質がある。一つとして同じものはなく、その一つ一つが、かけがえのない存在である」と。
 さらにトゥルモフ最高顧問は、ダイヤモンドは研磨されることで光を増すことに触れ、「ダイヤモンドのように、人々は自分の生き方と、人生で出会う人々によって磨かれる」と述べておられた。
 その通りである。
 人間は人間によってしか磨かれない。その金剛の「人材錬磨」の最高の青春の舞台こそが、学会活動である。
 青年は、勇んで訓練を受けながら、思う存分に自らを鍛え上げていただきたい。
 「くろがねは炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」との佐渡御書の一節を、よくよく心肝に染め抜くことだ。
19  絶頂の時が危険
 戸田先生は、よく青年に語られた。
 「あれだけ有名な会社が倒産したのは、なぜなのか。
 あの栄えた大国が滅亡に至った理由は何か。
 それを追究し、知っておかなければ、偉大な指導者にはなれない」
 歴史は、とくに金銭の乱れ、浪費や贅沢、不正が、破綻の兆候であり、没落の前兆であることを示している。
 古代ローマの歴史家ポリュビオスは、鋭く警鐘を鳴らしていた。
 「国家が次々に現われる重大な危機を切り抜けて、無敵の覇者になり絶頂に達すると、当然のことながら、長く続く繁栄に浮かされて生活はしだいに贅沢に傾き、人々は官職獲得などさまざまな競争に過度に熱を上げるようになる」(城江良和訳『歴史2』京都大学学術出版会)
 「いずれ将来この病弊が進行するとき、劣悪への変化の最初の兆候となるはずのものは、官権への欲望と無名であることの不満であり、それに加えて日常生活のなかの虚栄と奢移である」(同)
 これは、歴史の鉄則といってよい。
 フランスの大文豪ヴィクトル・ユゴーは、「虚栄は浪費である」(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』岩波文庫)と喝破した。
 堅実な前進に勝るものはない。
 アメリカの大哲学者デューイ博士は、厳しく言い放っていた。
 「代表者としての立場に伴う権力と威厳を、個人的な利益を追求するために、また、自分の快楽を得るために、そして、私的な財産を増やすために使う人も出る」「そうした行為は裏切りである」
 これが、人間社会の宿命的な流転である。
 それを敢然と大転換していくことが、広宣流布の一次元である。
20  金銭と人事を疎かにするな
 戸田先生は、厳然と言い残しておられた。「金銭にいいかげんな人は信用できない」
 「人事と金銭は、絶対に厳正にして、問題を起こしてはならない」
 「金に汚い根性を起こしてはいけない」
 「金にけじめのない人は福運がつかない」
 また、先生は厳しく指導された。
 「団体に金があると、争いが起こる。
 それをものにしようとする空気が流れる。
 学会においても、少しでも、おかしな状況・動きがあったならば、断固、糾明し、追及せよ。これが、私の遺言だ」
 「昔から戦をするのは、経理の担当者がしっかりしていなければ勝つことはできない」
 「“雇われ根性”が最も醜い。広宣流布という、命がけの仕事、闘争をしているという自覚を持て!」
 どこの世界でも、金銭や人事に厳格なところが最後は勝っている。あいまいなところは敗北している。
 団結と合意を大事にして、完壁な前進をしてまいりたい。
21  言論戦の雄たれ
 きょうは、言論戦を戦う代表も出席している。この1年間も、本当にご苦労さま!
 唐の大詩人・杜甫は、「戸田大学」の漢文の講義でも、取り上げられた。
 中国作家協会・中華文学基金会から、「理解・友誼 国際文学賞」を拝受した折、杜甫の像を記念に頂戴した。
 それは、杜甫が、筆を剣のごとく、また指揮棒のごとく雄渾に揮っている、見事な像である。
 杜甫は綴った。
 ──人々は多くの苦しみを被り、悪人は私利私欲を満たしている。
 君は、言論の力を多く振るって、悪を諫めよ──と(「萬姓瘡痍ばんせいそういあつまる、羣兇嗜慾ぐんきょうしよくゆ」「刺規諫諍しきかんそうを多くせよ」。鈴木虎雄訳註『杜甫全詩集第4巻』日本図書センター)。
 この詩の心を、「聖教魂」にしていきたい。
 日蓮大聖人は、厳寒の佐渡の地で、命に及ぶ大難を忍ばれながら、御執筆を続けられた。
 戸田先生は、師子吼された。
 「新聞は、強い武器だ。これからの闘いは、文だ」
 「聖教新聞は、あらゆる意味で、言論戦の雄とならなければならぬ。
 まず、日本の言論界を左右するだけの衿持と迫力をもったものにしなければならない」
 先生は、聖教新聞に最大に期待されていた。折伏と聖教の拡大を、広布の両輪と考えておられた。
 私は、大聖人の御境涯を拝しながら、また、戸田先生の理想を胸に、強く、また強く信力、行力を奮い起こして、これまで書き続けてきた。
 体調を崩し、高熱のなか、原稿用紙を1枚書きあげるごとに、「正」の字で数えながら、書いたこともある。
 創価学会を護るため、学会員を励ますため、創価の正義を、世界に、後世に留めるために、力の限りに書いて書いて、書きまくる以外になかった。
 命をかけて、戸田先生の偉業を残すために、私は働いた。
 仏法は、死身弘法である。また、師匠に仕える心が、仏法の根本である。
 私は、現実のうえで仏法を弘める“広宣流布の大将”である牧口先生、戸田先生の恩を忘れなかった。師に仕えきった。
 師弟の精神において、インチキやふざけは、絶対に許さなかった。
 もちろん、戦いのなかで、ユーモアは必要だ。前進の活力である。
 しかし、「ユーモア」と「ふざけ」は違う。おっちょこちょいではいけない。
 まじめな人々を前にふざけるのは、軽蔑することになる。
 重大な決戦に臨む者に、ふざけがあれば、戸田先生は容赦なかった。その非を思い知るまで、厳しく叱責された。
 この厳愛が、現在の学会の姿をつくった。尊く峻厳な、創価の師弟の世界をつくったのである。
 心ある諸君は、この精神を受け継ぎ、大事にしていただきたい。
 「未来は、だれにも分からない。しかしなさねばならぬことがある。すはわち、闘うということだ!」 インドネシアの作家
22  増上慢との戦い
 インドネシアの著名な作家プラムディヤは記している。
 「未来がこれからどうころぶか、誰にもわからない。しかしわからなくとも、なさなくてはならないことがある。
 なさなくてはならないこと、それがすなわち、闘うということだ」(押川典昭訳『プラムディヤ選集5』めこん)
 この心が、私にはよくわかる。
 若き日より私は、学会に関する悪質なデマを流す人間に、断固抗議してきた。
 しかし、最高幹部のなかには、師匠が悪口罵詈されて、傍観している者がいた。あまつさえ、喜んでいる者もいた。そうなれば、もはや悪鬼、魔物の存在である。
 皆が苦労してつくりあげた、尊き学会の上に乗って、遊んでいるようなものだ。そういう者がリーダーになった組織は、全員が苦しむ。嫌な思いをする。
 人間の心は、ずるいものである。「なさなくてはならないこと」を忘れてしまう。私たちの次元でいえば、「広宣流布のために闘う」ことを忘れるのだ。
 そして、くだらない嫉妬で徒党を組み、破和合僧の動きをして、大誠実の人をいじめ、苦しめ、喜ぶ。
 そういう増上慢と、私は一人で戦ってきた。そして、師匠と学会を厳護してきたのである。私の妻が一番よく知っている。
 戸田先生にとっての私のような存在を、「本物」を、今、私は探している。
23  生死は不二
 私たちは、三世永遠に同志であり、家族である。
 亡くなられた功労の方々に、私と妻は、朝な夕な、追善の題目を送っている。
 大聖人は、亡き父を偲ぶ弟子の曾谷教信に、こう仰せである。
 「法蓮上人(=曾谷教信)の御功徳は、亡くなられた聖霊(=父)の御財たからです。松が栄えれば柏が喜び、芝が枯れれば蘭が泣きます。こころのない草木ですら、このようなのです。
 まして情のある者はいうまでもありません。また、父子の契りの間柄も、そうなのです」(御書1047㌻、通解)生死は不二である。永遠に妙法で結ばれて、常楽我浄の生命の旅を、共に続けていくことができるのである。
 また、大聖人は、母を亡くした富木常忍に、仰せになられた。
 「我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり」ゆえに、わが身を使って広宣流布に励む功徳は、そのまますべて、父母の生命に伝わっていくのである。
24  「悪に反対しない者は悪の味方」
 結びに、古今の箴言を贈りたい。
 まず、ウズベキスタンの大詩人ナワイーの詩の一節である。
 「敵は容赦なく打ち破り、
  弱き人々を厳然と守り抜いていく人であれ。
  迫害をする者には断固として反撃を加えよ。
  民衆が安らぎと平和の中で暮らせるように」
 次に、11世紀の中央アジアを代表する哲学者イブン・シーナーの洞察である。
 「貪欲になるべからず、誇りを持つのだ」「欲望に侵されたものは、簡単に身を滅ぼす」
 「汝よ、青年を導き、年老いた者を重んじるのだ」
 「正義のために苦しみの道を選びし者は、世の喧噪を越え、幸せを知る」
 また、悪逆のナチスと戦ったドイツの作家トーマス・マンは記した。
 「悪に反対しない者、怒りをもって全力で悪に反対しない者、そういう人間は、結局、悪の味方なのだ」
 「何はともあれ、まず勝利することだ」
 来年も堂々と勝利を!──こう申し上げて、記念のスピーチとさせていただく。
 どうか風邪をひかれませんように。ありがとう!

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