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日蓮大聖人・池田大作

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関西最高協議会  

2007.11.6 スピーチ(聖教新聞2007年下)

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1  7年ぶりに、大好きな関西の地に、ついに来ることができました。お元気な皆様にお会いできて、うれしい!本当にうれしい!
 わが関西は、1年ごとに大発展し、それはそれは、盤石にして完壁なる「常勝不敗の大城」をつくり上げてこられた。
 素晴らしい大関西になった。
 21世紀に入ってからも、関西の同志は、あらゆる広宣流布の戦いを、一切、威風堂々の完全勝利で勝ってくださった。私は、心から、うれしく思っております。
 これからも、関西が、ありとあらゆる次元から見て、日本全国、いな、全世界の模範となり、手本となって、広宣流布のために、光り輝く創価の大前進をされゆくことを祈りたい。
2  常勝第2幕を!
 仏法は勝負である。勝てば、皆が歓喜し、誇りにあふれる。
 負ければ、人にみくびられ、ばかにされる。
 戦うからには、断じて勝たねばならない。
 ともあれ、きょうは、久方ぶりに、関西の最高協議会に参加することができた。
 関西は、「わが家」である。家族の集いである。楽しくやりましょう!
 栄光の「常勝第2幕」が晴れ晴れと開かれたことを、互いに喜び合いたい。
3  「新しい時代」である。「新しい、発想」で、「新しい人材」に光を当てながら、「新しい陣列」を築き上げたところが、必ず勝利する。
 どうか、今回はお会いできなくとも、思い出多き同志の方々に、くれぐれも、よろしくお伝えください。
 「関西」と聞くと、あの友、この友の懐かしいお顔が、すぐに思い浮かぶ。
 今も、草創の同志が、第一線でかくしゃくと頑張ってくださっている。さらに、後継のご家族が立派に戦っておられる。私は本当にうれしい。
 さすが関西と、喝采を贈りたいのである。
 また、とくに、深き真心で、題目を送ってくださっている婦入部、女子部の皆さま方、本当にありがとう!
 この真剣な同志の題目に勝る力はない。
 まさに大関西の常勝城ができ上がった。
 私と妻も、大阪、京都、滋賀、福井、兵庫、奈良、和歌山の関西7府県の限りない大発展、そして、愛する全同志の無事安穏と幸福常勝を、心からお祈りしています。
 きょうは、記念の一首をお贈りしたい。
  偉大なる
    常勝関西
      三世まで
    広宣流布の
      創価を護れや
4  強くあれ!
 人生には、喜びの山もあれば、苦しみの坂もある。
 何が本当の幸福となるのか。
 たとえ、幸せそうな結婚をしても、現実は、不幸のどん底という場合もある。一方、独身で毅然と幸福を勝ちとっておられる方々も多い。
 所詮は、だれかに幸福にしてもらうのではない。自分自身が強くなるしかないのだ。
 そして、創価学会という麗しき“家族”のなかで、広宣流布に生き抜いていく。、これ以上の幸福はないことを知っていただきたい。
 ともどもに、仲良き関西家族として、わが人生を勝ち抜いていきましょう! 頼むよ!
5  仏法の根本は、「恩を知り」「恩に報いる」ことである。
 信心の世界で、学会に、先輩に、お世話になってきた分、妙法に尽くし、同志に尽くしていく。それが創価学会の心である。
 反対に、同志のおかげで社会的に偉くしてもらったにもかかわらず、見えっ張りになり、有頂天になって、創価学会を下に見るならば、何という増上慢か!
 こうした恩知らずを、関西は絶対に許してはならない。
6  わが身を削って
 私は、戸田先生に報恩の誠を尽くしてきた。ご家族も真剣にお護りしてきた。
 一点の悔いもなく「師弟の道」を歩んできたと、私は、御本尊の前で誓って申し上げることができる。
 わが師が苦境にあったときである。師匠が難に遭い、苦しんでいるのを、面白がって見ている幹部がいた。
 師匠を倒せば、自分が威張れる。そういう醜い魂胆の幹部もいた。
 人間の心は怖い。心で決まる。「心こそ大切なれ」(御書1992㌻)である。
 私にとって信用できるのは、戸田先生だけであった。
 苦難の烈風のなか、戸田先生は私に言われた。
 「君が一人いればいいんだ!」「大作、頼んだぞ!」と。
 私は、一人、敢然として、忘恩の人間、裏切りの輩と戦い抜いてきた。
 宗門と退転者が結託した、学会乗っ取りの陰謀も、断固と打ち返し、勝ってきた。
 書いて書いて書き続けて、著作の印税も、学会や創価学園、創価大学などのために使ってきた。
 疲れ切った体で、夜遅くまで、小説や詩を口述し、それを、妻が書き取ってくれたことも、たびたびである。
 いずれにせよ、自分のために何かを残そうという考えなど、まったくなかった。
 わが身を削って、世界一、宇宙一の人間主義の組織をつくってきたのである。
 大切な関西の皆さんだからこそ、明快に申し上げておく。
7  関西が師弟の心を護り抜け
 牧口先生と戸田先生。戸田先生と私。ここにのみ真実の師弟がある。
 そして、いよいよ関西に、本物の「師弟」の人材城を築き上げていく時である。
 東京など、はるかに見おろして、関西が一段と模範になっていく時代に入ったと、私は宣言したい。
 関西が、私の後を継いで、「師弟」を叫びきっていくのだ。
 関西が、一致団結して、本当の「師弟の魂」を護っていくのだ。
 それが、わが関西の決心であり、誓いであっていただきたい。
 関西の皆さん、頼みます!
 なんの遠慮もいらない。常勝関西の大前進で、全国を、全世界を揺り動かしていただきたい!
8  「世界の関西」である。
 今回、SGIの秋季研修会に来日された、世界60カ国・地域220人の広宣流布の指導者の方々も、喜び勇んで関西に集われる。全世界の同志にとって、大関西は憧れの天地である。
 この関西から、世界広宣流布の新時代へ、スクラムも固く、新たな、晴れ晴れとした勝利の一歩を踏み出しゆく意義は、計り知れない。
 運営の皆様方にも、さまざま、お世話になります。心から御礼申し上げます。
 ここ関西池田記念会館から、車で約50分――。
 先般、神戸の関西国際文化センターで開催された、中国の学術界・芸術界の至宝であられる、国学大師の饒宗頤じょう・そうい先生の芸術展も、おかげさまで大成功であった。
 中国と日本の「国交正常化35周年」を慶祝するにふさわしい、まことに歴史的な展覧会となり、改めて感謝申し上げたい。〈開幕式は10月2日。同28日に閉幕〉
 饒先生も心から喜ばれ、関西の皆様方に御礼の思いを述べておられた。
 じつは、世界各地へ学究の歩みを運ばれた饒先生が、海外への第一歩を印したのは、日本の神戸であった。
 それは、1954年(昭和29年)の春のことである。
 その思い出深き関西での展覧会に来日された饒先生は、今回の滞在中、6篇の詩をつくられた。
 その中で、饒先生は、法華経の「如来寿螢品第16」の「我浄土不毀」(=我が浄土は毀れず)の経文を踏まえて、詠まれている。
 「崎嶇きく(=険しい道)こそ浄土であると心に刻む」と。
 その心情を、饒先生は私に語ってくださった。
 「今回、最も感動したことは、神戸の方々が大震災を乗り越えて、美事に復興されたことです。
 そして大地震を経ながらも、希望のシンボルとして、創価学会があのように素晴らしい文化の城(関西国際文化センター)を築いたことです。
 私は、復興に向けてのお話を聞きながら、『崎嶇こそ浄土である』と感じたのです。
 私が『崎嶇』の二文字を使ったのは、『繁栄』も容易なことではないと言いたいためです。
 歴史に残るような偉大なことは、大きな艱難があって、それを乗り越えて成し遂げられる。
 これは、学間や芸術についても同じであり、はじめに『崎嶇』ありきなのです。
 これが私自身の体験から言えることであり、強く感じていることです」と。まことに、味わい深いお話である。
 「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも謳われる饒先生は、わが大関西の強さの本質を、鋭く、また的確に洞察されている。
 「浄土」と言い、「寂光土」と言っても、何の苦難も、何の障害もない世界のことを言うのでは決してない。
 それは、いかなる艱難にも断じて負けない、いな、艱難があればあるほど燃え上がる、人間生命の常勝不敗の一念にこそあるのだ。
 この不敗の一念こそ、わが「関西魂」であり、わが「関西スピリット」である。
 また饒先生は、法華経の「我が浄土は毀れず」について、火の海にも焼けない「浄土」とは、「心の中にあるもの」とも語っておられた。
 ともあれ、どんな厳しい戦いにあっても、断固として乗り越え、勝ち越えてみせる、関西の大行進が、世界に、そして人類に、どれほど大きな「勇気」と「希望」を贈り続けゆくことか。
 その使命と栄光を、誇り高く、朗らかに自覚しながら、厳然と勝利また勝利の歴史を重ねてまいりたい。
9  自分を変えたい 他の人に学ぼう
 饒先生は、はつらつと語られていた。
 「私は、80年以上にわたり書をしたためてきましたが、今でも師匠が必要だ、他の人に学ぼう、より多くの分野を学ぼうと思っています。こうした心により、力も増してくると思います」
 「自分は90歳になりましたが、いまだに満足していません。まだ自分を改革したい。だから、自分の作品は変化が多い。最近、どんどん違ってきています」と。
 生ある限り、惰性を排し、停滞を打ち破って向上を止めない。
 創造の生命を躍動させて、「自己変革」を続け、「人間革命」の旅路を続けゆく人が、人生の勝利王だ。
 その究極の推進力こそ「師弟の道」なのである。
 法華経の「如来寿量品」には、「未曾暫廃(=未だ曾てくも廃せず)」とも説かれる。
 戸田先生も、よく言われた。
 「仏が『未曾暫廃』であられたのだから、使命に生き抜く私も頑張らなければならない」と。
 もちろん、青年こそ「未曾暫廃」であらねばならない。
 また、関西は、錦宝会の同志も意気軒高であられる。
 ますます、お元気で! お達者で!──と祈りつつ、一首を贈りたい。
  真心の
    また真心の
      三世まで
    変わらぬ心は
      仏になるらむ
10  丁寧な言葉 細かい配慮
 先日、「中華全国婦女連合会(婦女連)」の代表団が来日された。
 王乃坤おう・ないこん団長(婦女連の書記処書記)はじめ一行の方々は、大阪、兵庫を訪問し、関西婦人部の皆さん方と交流された。
 聡明な女性指導者である王団長は、感嘆しておられた。
 「婦人部のリーダーの皆さんは、とても元気で、太陽のような輝かしい笑顔、礼儀正しく、言葉遣いも親切・丁寧です。細かいところまで配慮される姿勢を、私たちも学ばせていただきました。池田先生の指導通りに行動され、他者のために尽くされる姿勢を感じました」
 地道な婦人部の皆様方の、誠実な、人間性の極致の振る舞いこそ、友好を広げ、平和の文化を創出していく力である。
 戸田先生は言われていた。「広宣流布は、女性の力でできる。『女性は偉大なり』である」と。
 心を動かすのは、策ではない。行動せずして、ただ会議だけを重ねているのは、空転である。
 私は一つ、また一つと、基本を大切にして、誠心誠意、言葉を尽くし、相手の幸福のために手を打ってきた。だからこそ今日の学会がある。この一点を、後継のリーダーの皆様は知らねばならない。
 王団長は、東京牧口記念会館の芳名録に「創価精神 永世相伝」(創価の精神を、ともに永遠に伝え広めていきましょう)と記してくださった。深い友誼と理解に、心から感謝申し上げたい。
 〈王団長は、こうも語っている。
 「英知が光り輝く高邁な人格者──それが池田先生です。
 先生は、創価学会の婦人部に信頼を寄せ、励ましを送り続けられています。婦人部の皆さんはとても幸福だと思います。
 創価学会には婦人部が設置され、女性会館が建設されています。創価女子短期大学もあります。先生が、どれだけ女性に対して尊敬の念を持たれているかが分かります。
 先生がここまで信頼されるのも、婦人部の皆さんが、各分野で活躍をされ、大きな役割を果たしておられるからだと感じます。先生の平和・文化・教育の理念を実現するために、多大な貢献をなされているからです」〉
11  私ども夫婦が深い交友を結ばせていただいた偉大なる女性に、中国文学の母・謝冰心しゃ・ひょうしん先生がおられる。
 私と妻は、1980年(昭和55年)4月、静岡と北京で、2度、お会いした。
 〈2004年9月に、「冰心文学館」から名誉会長に同館の「名誉館長」、名誉会長夫人に「愛心大使」の称号が贈られた〉
 謝冰心先生は謳われた。
 「風よもっと吹け! 若き心を試すがよい。
  風よもっと強く吹け!
  汝に鍛えられて、我らは、濁悪の社会と戦う力を蓄えるのだ」
 関西婦人部、女子部に光る学会精神もまた同じだ。きょう私は、晴れ晴れとした心で、関西婦人部の皆様に詠み贈りたい。
  常勝の
    大関西を
      飾りたる
    花華はなばな絢燗
      幸の婦人部
12  苦楽を共に戦い続けてきた、関西の草創の同志が、私の心から離れることはない。
 亡くなられた忘れ得ぬ大功労の方々には、懇ろに追善の題目を送らせていただいている。今朝も、妻とともに真剣に唱題をさせていただいた。
 関西の同志は、どの友も懐かしい。
 初代の大阪支部長だった白木義一郎さんのことを、私は「っちゃん、義っちゃん」と呼んでいた。
 白木さんは、初代の大阪支部婦人部長を務めたふみ夫人とともに、「常勝関西」の土台をつくりあげてくださった。
 関西の皆様に思いを致せば、尽きることがない。ここでは、代表の方々のお名前をあげさせていただく。
 矢追久子さん(大阪支部常任委員)。
 沖本泰幸さん(大阪支部・支部幹事)。
 玉置正一さん(初代松島支部長)。
 大井満利さん(第2代大阪支部長)。
 立花仁六さん(理事)。
 佐伯幸一さん(大阪支部・初代地区部長)。
 川坂久子さん(初代堺支部婦人部長)。
 福生伊八さん(旧関西本部の初代管理者)。
 京都の宮下芳郎さん(初代京都支部長)。
 丸鈴子さん(初代京都支部婦人部長)。
 広谷キヌさん(第2代京都支部婦人部長)。
 滋賀の田中喜代三さん(本部指導長)。
 福井の刀根新兵衛さん(初代敦賀支部長)。
 兵庫の浦嶋秀雄さん(初代湊川支部長)。
 北角巌さん(初代神港支部長)。
 幸田龍一さん(初代西宮支部長)。
 岡本富夫さん・京子さん夫妻(初代梅田支部長・支部婦人部長)。
 奈良の有馬猶二郎さん(初代奈良支部長)。
 和歌山の坂井増蔵さん(田辺支部・支部幹事)。
 草創の創価の父母たちの心を受け継いで戦う、後継の皆様方に、私は贈りたい。
  父母も
    いつも微笑み
      見つめなむ
    あなたの法戦
      勝利の指揮をば
13  先日、来日された、3億5,000万人の若人の大連帯である、「中華全国青年連合会」(全青連)の代表は、関西青年部との交流を、ことのほか喜ばれていた。
 中国の未来を担う新世代の青年指導者たちとも、深い友情と信頼を結ぶことができた。両国の世々代々の平和友好にとって、これほど頼もしいことはない。
 近代中国の大思想家である、李大釗り・たいしょう先生は言った。
 「青春の我をもってして、青春の家庭を、青春の国家を、青春の民族を、青春の地球を、青春の宇宙を創造しゆくのだ」
 青年に勝る「創造の活力」はない。
 青春に勝る「生命の宝財」はない。
 わが関西青年部は心広々と、日本中、世界中の青年と連帯して、新たな「青春の常勝の世紀」を創造していってくれたまえ!
14  生命を賭して苦境を打開
 日蓮大聖人の仏法を広宣流布しゆく原動力は、何か。
 それは「師弟不二」の大闘争である。
 記録によれば、二祖・日興上人が日蓮大聖人に初めてお会いし、大聖人の弟子となられたのは13歳のころとされる。
 伊豆流罪の法難の際、大聖人にお仕えし、大聖人をお護りしたのも、若き日興上人であられた。
 師匠と艱苦を共にする。弟子として、これほどの名誉はない。
 日興上人は、大聖人のもとで薪水の労を取るかたわら、時には周辺の地域にまで足を延ばし、弘教に励まれた。熱海では.真言の僧を破折し、大聖人に帰伏させたとも伝えられる。
 どんな困難な状況にあっても、徹して師に仕え抜く。雄々しき言論の闘争で、敵をも味方に変えていく──。
 戸田先生の事業が最も苦境にあった時、私は、こうした日興上人の闘争を深く心に刻んだ。
 そして、先生に広宣流布の指揮を自在に執っていただくことをひたぶるに祈りながら、師を厳護し、生命を賭して、苦境の打開への道を開いていったのである。
15  戸田先生が第二代会長に就任された翌年の昭和27年(1952年)、蒲田支部で私が指揮を執り、あの「2月闘争」の火ぶたを切った。
 ここから、戸田先生が願業とされた「75万世帯」達成への本格的な回転が始まったのは、皆様がご存じの通りである。
 そして、この年の8月14日──すなわち師と初めてお会いした記念の日に、私は、わが「青春のふるさと」となる関西へ、広宣流布の第一歩を踏み出したのである。
 早いもので、それから今年で55周年を迎えた。
16  身近な所から友情の拡大を
 大聖人が赦免になり、伊豆から鎌倉に戻られると、日興上人は駿河(現在の静岡県の一部)・甲斐(現在の山梨県)方面にたびたび足を運ばれ、折伏を推進された。
 この方面は日興上人が生まれ育った地域であり、親戚も多数おられた。幼年期からの友人や知人も多かったと思われる。
 日興上人は、御自身に縁の深い土地を起点として、新たな「拡大」の突破口を開かれたのである。
 広宣流布とは、正義の大波を、身近な足元から広げていくことだ。
 身近な友と信頼を結び、わが地域に対話の花園を広げていく。仏法の慈悲の精神を社会に生かし、展開しゆく創価学会の運動こそ、最も道理に適った「仏法即社会」の前進なのである。
 日興上人は、大聖人の佐渡流罪にあっても、身に影の添うがごとく師にお供された。
 そして佐渡流罪を終えて、大聖人が身延に入られると、駿河・甲斐方面の弘教に全力を注がれたのである。
 この一帯は大聖人がおられる身延とは距離が近く、連絡を取ることも比較的容易であった。日興上人は、いざとなれば、いつでも師匠のもとに馳せ参じることができた。
 師の心をわが心として、広宣流布の新天地を開拓する。そして、勇んで勝利の結果を師に報告する──。
 日興上入の法戦には、「師弟の精神」が脈動していた。
 日興上人に、後の第三祖・日目上人が、自ら入門を願い出たのも、このころである。
 この時、日興上人は29歳。日目上人は15歳であられた。
 一説には、学匠と仰がれていた人物を日興上人が破折するのを目の当たりにし、深く心を動かされて入門を決意したと伝えられている。
 ともあれ、若き日興上人の御活躍によって、大聖人門下が続々と誕生した。
 次代を担う新たな「人材」が、澎湃として躍り出てきたのである。
17  「人脈」を活用
 日興上人は、どのようにして目覚ましい拡大を成し遂げていかれたのであろうか。
 いくつか要点を挙げてみたい。
 まず、日興上人は御自身の人脈を存分に活用しながら、一人また一人と対話を交わし、仏縁を結んでいかれた。
 日興上人の親戚は、多くが入信している。
 富士南部の弘教の中心者となった高橋六郎兵衛入道も、日興上人の化導で入信した。この高橋入道の妻は、日興上人のおばであった。
 また縁故のあった、実相寺の筑前房らも日興上人の弟子になっている。
 松野家、南条家やその縁者、また旧友たちにも、弘教が広がっていった。
 さらに、実相寺の肥後公、四十九院の日源らが、日興上人の弘教で入信している。
 そして、日興上人が妙法に帰依させた人々が、さらに自身の縁者を折伏した。人脈は、次から次へと広がり、」拡大が進んでいったのである。
 日興上人とその門下によって、妙法の種が蒔かれた地域は、東北から、信越、関東、東海道、中部、関西、中国、四国、九州と、ほぼ全国に及んでいる。
 新たに入信した人々の立場は、武士やその家人、農民など多彩であった。「一対一の対話」によって、広宣流布は水かさを増していったのである。
18  早朝の電話
 昭和31年(1956年)、28歳の私は、ここ大関西で、未聞の大法興隆、そして師の大願を成就し、同志の願いを成就しゆく歴史を築き上げた。
 この年の5月には、わが大阪支部は、庶民の「勇気」と「誠実」と「忍耐」の力を結集して、1カ月で11,111世帯の大折伏を達成。
 そして、7月には“まさかが実現”と言われた民衆勝利の金字塔を打ち立てたのである。
 決戦の日の朝。東京におられた戸田先生から、関西本部にいた私のもとに電話がかかってきた。5時ごろであった。
 私は受話器を取った。
 「大作、起きていたのか」
 先生は、驚かれたご様子であった。
 「関西はどうだい?」
 私は、即座に答えた。
 「こちらは勝ちます!」
 「そうか。……東京はダメだよ」
 残念そうな声であった。
 結局、勝てると思われていた東京は負けた。しかし、勝てないだろうと言われた大阪が勝った。
 先生は「大作のおかげで勝てた!」「うれしいな」と本当に喜んでくださった。
 「常勝関西」の歴史を切り開いた、尊き同志との共戦の歴史は、忘れ得ぬ“今生人界の思い出”である。
 師弟の精神を胸に、欣喜雀躍と、広宣流布の拡大へ挑戦していく。
 この「関西魂」を忘れない限り、わが創価学会は未来永遠に前進し、勝ち栄えていくことができる。
19  敵陣のただ中で言論戦を展開
 日興上人が駿河地方の弘教の拠点とされたのは、蒲原荘中之郷にあったとされる、天台宗の「四十九院」であった。
 日興上人の弘教によって、天台僧をはじめ多くの人々が大聖人門下となると、強い反感を抱いた四十九院の寺務・厳誉は、日興上人をはじめ、大聖人門下となった僧らの住房、田畑を奪い、追放する暴挙に出た。
 これに対して、日興上人を中心とする門下は、幕府に烈々たる訴状「四十九院申状」を提出し、自らの正義を訴え抜いた。
 そして「早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんと欲す」と、公場対決を迫られたのである。
 日興上人は、どこまでも、臆することなく、敵の真っただ中へと切り込んでいかれた。
 富士郡下方庄熱原郷の地にあった滝泉寺の供僧である日秀、日禅らも日興上人の弟子となっている。
 滝泉寺も、本来、天台宗の寺であった。
 天台宗はもともとは、伝教大師の宗義により法華経を奉じていたが、第3代座主・慈覚、第5代座主・智証に至り、真言を取り入れて天台真言となった。
 滝泉寺においては、やがて念仏までも容認するようになり、正法正義を掲げる大聖人の教団に迫害を加えるようになったのである。
 しかも、熱原を含む駿河の地は、執権・北条家の領地であり、最明寺入道(北条時頼)、極楽寺入道(北条重時)等の後家尼らとつながりの深い土地であった。
 日興上人は、こうした敵陣のただ中で、勇敢に折伏の旗を掲げられたのである。
 迫害は激しさを増し、多くの農民信徒に対して、でっちあげの罪状による非道な弾圧が加えられた。
 日興上人は、門下を守るために、大聖人と弟子の共同作業である「滝泉寺申状」を幕府に提出。堂々と真実を述べ、弾圧の不当であることを訴えた。
 熱原の農民たちは、幕府の権力者・平左衛門尉頼綱の“法華経を捨てろ”との脅しにも屈しなかった。
 そして、神四郎、弥五郎、弥六郎の三烈士が壮絶な殉教を遂げた。熱原の法難である。
20  大聖人直結の祈りと戦いで
 日興上人の拡大の戦いは、どこまでも「師弟不二」に徹していた。
 それは、師恩にお応えせんとする、ひたぶるな弟子の戦いであった。
 日興上人は門下にあてた御手紙で述べておられる。
 「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、成仏していくのである。
 師弟の道を、少しでも誤ってしまえば、同じく法華経を持っていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」
 日興上人は、師匠である大聖人に心を合わせ、師の仰せ通りに戦い、妙法を広められたのである。
 広宣流布の戦いにあって、「師弟」が、どれほど重要であるか。
 御聖訓には、池上宗仲らの勝利について、「日蓮の言った通りにされたから、祈りが叶ったようです」(御書1151㌻、通解)と仰せである。
 一方、後に退転した波木井実長については、「私が期待した通りにはしなかったので、訴訟の結果も思うほどではありませんでした」(同㌻、通解)と述べられ、こう厳然と仰せになられている。
 「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(同㌻、通解)
 関西の勝利の原動力も、大聖人に直結する師弟不二の祈りと戦いにこそあった。
 大関西は、私が深く信頼する同志と共に、三類の強敵と戦い抜いた地である。師匠を厳護し、学会を守り抜いた誉れの天地である。
21  「日蓮の弟子」と誇りも高く
 日興上人は国主諫暁のため、幾度も「申状」を幕府や朝廷に提出されている。
 そのうち現存するものは、正応2年(1289年)、嘉暦2年(1327年)、元徳2年(1330年)の3通である。
 そのいずれの申状でも、日興上人は、御自身のことを「日蓮大聖人の弟子」と、誇り高く明記されている。そして「民衆の安穏と幸福のために、邪法を捨てて正法に帰依すべきである」との師の教えを、一点の曇りもなく訴えておられる。
 この点、権力の弾圧を恐れて「天台沙門(天台の一門)」と称した、五老僧たちの妥協と迎合、保身と臆病の態度とは、天地雲泥の違いがあった。
 日興上人は、大聖人滅後に師に違背した五老僧について、「『師を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(日蓮大聖人)を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われる」(編年体御書1729㌻、通解)と厳しく指弾されている。
 五老僧を破折した「五人所破抄」には、日興上人の峻厳なる叫びが記されている。
 「ただ題目の五字を唱え、たとえ三類の強敵による難を受けても、諸師の邪義を責めるべきである。このことは、法華経の勧持品第13や常不軽菩薩品第20に明確に説かれていることであり、上行菩薩の再誕として出現され弘教された日蓮大聖人が、現証をもって示されたことである」(御書1614㌻、通解)
 この大聖人と日興上人の師弟の闘争を受け継ぎ、三類の強敵の大難を勝ち越えて、正法を弘通し抜いてきたのは、だれか。それは、創価の三代の師弟である。
 そして、その師弟の真髄の精神が、どこよりも生き生きと脈動している天地こそが、常勝関西なのである。
 広宣流布の第2幕とは、弟子が戦い勝つ時代である。その大行進が、今再び、我らの大関西から悠然と始まったということを、私は高らかに大宣言させていただきたい。
22  「あなたの慈悲は私を牢獄にまで」
 戸田先生は、初代会長の牧口先生に仕えきられた。
 牧口先生は獄死され、弟子である戸田先生は、生きて牢を出られた。
 そして牧口先生の3回忌に、「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」とおっしゃったのである。
 その戸田先生を師匠と決めて、私は仕えきった。
 戸田先生の訓練は厳しく、戦いは激しかった。途中で嫌になって去る者もいた。
 先生の事業が危機に瀕した際、先生は理事長職の辞任を発表された。
 ──先生が理事長を辞めたら、違う人が私の師匠になってしまうのか──。私は先生にお尋ねした。
 先生はおっしゃった。
 「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまうが、君の師匠は僕だ!」
 本当にありがたい先生であられた。
 戸田先生は、私が広布の突破口を開くことを確信されていた。私は阿修羅の如く戦った。そして先生の確信にお応えしたのである。
 先生は、ご自身の故郷である北海道の厚田村に私を連れていってくださったこともあった(昭和29年8月。現在の石狩市厚田区)。
 私は、先生が乗られた飛行機が揺れないように真剣に祈っていた。
 懐かしい故郷を目にして、先生はホッとされていた。あの訪問が、戸田先生が厚田を訪れた最後となった。
 どれほどの思いで、戸田先生に仕えたことか。
 今、本物の闘士は、いるか。どこにいるだろうか──私の思いは、この一点にある。
 関西の皆さんは、一段と結束してほしい。関西をもっと堂々と、立派にしていただきたい。
 御義口伝には、「南無妙法蓮華経と唱える日蓮の一門は、一同に『皆、共に宝処に至る』のである。この『共』の一字は、日蓮と『共』に進む時は必ず宝処に至るということである」と仰せだ(御書734㌻、通解)。
 日蓮大聖人の仏法を信奉し、師とともに進む我々は、「宝処」すなわち、「成仏の大境涯」を目指しているのだ。
 世の中には、権力争いに明け暮れる愚かな人々もあろう。出世争いの醜い都もあろう。
 しかし、師弟の心で広布に進む関西は、創価の“宝の国”である。
23  周恩来総理の言葉を、わが関西の同志に紹介したい。
 「われわれは、いつでも、大衆の利益に奉仕するのです。こうして、人民に依拠してゆきさえすれば、活路は必ずひらけるのです」(新井宝雄著『革命児周恩来の実践』潮出版社)広布の戦いは、皆が楽しく集えることが、何よりも大事だ。会合も、皆が喜ぶものにしたい。
 学会のリーダーは、いわば「広布の将軍」である。「大きな展望」を持つことだ。
 小さくまとまっては、いけない。弱々しい声も、いけない。
 また、幹部は学会員の「上」に立つのでは断じてない。皆の「下」になるのだ。大事なのは、一生懸命、学会員のために尽くす「心」である。
 皆、勝とう! 長生きして、健康で!〈参加者から「ハイ!」と元気な返事が〉
24  境涯を広げればすべてが楽しい
 組織のなかには、“どうしても、自分と合わない人”がいる場合がある。
 お互いに、そう思い合っていることもある。
 しかし、「嫌だな」と思っても、こちらから相手を変えることは難しい。人間の性格は、なかなか直らない。皆さんもよくご存じの通りだ。
 では、どうするか。
 「自分が変わる」ことだ。自分が大きくなるのだ。境涯を広げて、自分自身が楽しく戦えるようにしていくのだ。そのほうが利口である。皆のためになる。
 御書には「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」との有名な御文がある。学会にも多種多様な人が集まっている。
 だから広宣流布が進むのだ。一切衆生の成仏を説ききった仏法である。「自分とは合わないな」と思う人とも、一緒に戦っていくことだ。
 「異体同心」とは、「心」が一致することである。皆が勝つために。皆の幸福のために。広布のために、心を一致させれば、勝利に向かう。
 その意味で、関西の同志は、“世界一の模範の家族”であると思う。
 私は、「関西、頑張れ!」と叫びたい。いよいよ総仕上げの、一歩前進の指揮を関西の友と執っていく。できることは、全部するつもりだ。
 壮大なる「常勝関西」をつくろう!
 結びに、全関西の最前線の偉大な同志が、一人ももれなく、大いなる喜びと勝利の人生を歩みゆかれることを、お祈り申し上げます。
  天高く
    富士の如くに
      常勝の
    大関西の
      同志の姿も
 この一首を贈り、私の記念のスピーチとさせていただく。
 きょう、お会いできなかった同志の皆様に、くれぐれもよろしくお伝えください。ありがとう。本当にありがとう!

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