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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表者会議  

2007.10.30 スピーチ(聖教新聞2007年下)

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2  創価学会は、自由な世界であり、一番信頼できる関係である。
 永遠の生命の次元から見れば、麗しき兄弟姉妹の集いである。心を開いて語り合い、励まし合っていきたい。
 私たちの人生には、天気の日もあれば、曇りの日もある。雨の日もある。家族が病気で苦しんでいる人もいるだろう。
 しかし、負けてはいけない。
 長い目で見れば、必ずや勝利の人生の大道を歩んでいける仏法である。
 皆さんが功徳に満ちあふれ、健康になり、幸福になられるように、私は、毎日、真剣に祈っている。
3  「ついて来るならば来い」
 私は、19歳で戸田先生にお会いし、21歳から戸田先生のもとで働き始めた。
 東京・西神田にある小さな会社で、朝から晩まで、それはそれは厳しい薫陶を受けた。
 天才中の天才の先生である。何事にも正確で、間違った報告などをすると、瞬時に見抜かれて、落雷のごとく叱られた。
 「私から逃げるならば、逃げろ! ついて来るならば、ついて来い!」と激しかった。
 だれに何と言われようが、「私は牧口先生の一番の弟子である」との揺るぎなき誇りが、戸田先生の全身には、みなぎっておられた。
4  大宇宙と共に!
 大聖人の仰せのままに、南無妙法蓮華経を広宣流布している団体は、創価学会しかない。
 南無妙法蓮華経と唱え、それを広宣流布していこうという心は、創価学会にしかないのだ。
 この大法則に則って進む学会が、どれほど偉大か。
 広宣流布しようという私たちの心が、どれほど尊いか。
 いわば、南無妙法蓮華経は、大宇宙を貫くリズムであり、私たちの住む太陽系も、南無妙法蓮華経の音律で大驀進しているのである。
 こうした深遠なる妙法を分からずに、学会の存在を軽く考えたり、使命深き学会員を見下すような者がいたならば、その末路は、あまりに厳しい。私も長い間、多くの人を見てきて、明確にそう言い切ることができる。
5  心で決まる!
 信心は「心」で決まる。
 功徳も心一つ。仏罰も心一つ。「心こそ大切なれ」である。
 戸田先生が事業に失敗され、体調を崩され、一番大変だったときに、若き私は、ずっとそばでお仕えし、お護りした。
 望んでいた学校も断念した私に、戸田先生は「君だけには、教えておきたいんだ」と個人教授をしてくださった。
 難解な「当体義抄」などの諸御抄も講義してくださった。
 修了の証書をいただいた際、私が「宝にします」と申し上げると、戸田先生は、ニコッとされ、「そのうちに、大作は、世界から表彰されるような男になるよ」とおっしゃった。
 今、先生が言われた通りになった。すべては、広宣流布の師匠にわが身を捧げた福徳であると深く感謝している。
6  「学会員さんに会えますね」
 また私の家庭のことになって恐縮だが、私が第三代会長になった日、私の妻は、きっぱりと、「きょうは池田家のお葬式です」と語った。
 わが家のことは顧みず、ただ、仏法のため、学会員のための人生を、との心であった。
 そして、その言葉通り、命がけで務めてきた第三代会長を辞任した日、私の妻は、変わらぬ明るい笑顔で言ってくれた。
 「これからは、今までお会いできなかった大勢の学会員さんのお宅へ行けますね。海外の皆さんともお会いできますね」と。
 このような心で、私を支えてくれたのである。
7  トツプ当選!
 このほど、学生部の有志が貴重な資料を届けてくれた。
 それは、学会の支援活動の初陣となった、昭和30年(1955年)4月の統一地方選の記録である。
 当時、27歳だった私は、東京・大田区(都議選)と横浜・鶴見区(市議選)の支援責任者に任命された。どちらもトップ当選である。
 時代は異なるが、若くとも、これだけの戦いができるということの参考として、青年部に伝えておきたい。
 ここには、27歳の人はいますか?〈「はい」と数人の手があがる〉
 昔の学会をよく知る人が、「今の学会は、なんだか年をとってしまいましたね」と言うのだ。
 私たちの時代は、歩くのでも、若々しく、若鮎のようだった。
 「おはようございます!」「こんにちは!」「こんばんは!」と、皆がはつらつとして、花が咲き、音楽が鳴り響くような学会だった。
 青年部の皆さん、頼むよ!〈「はい」と力強い返事が〉
 〈資料を作製した学生部の友は、「若き日の名誉会長のこの2つの大金星は、本末究竟して、永遠の民衆の勝利の道を開いてくださった」との感激を込めて、その歴史を詳細に記し残している〉
8  率先の行動者に
 戦いの要諦は、リーダーの「率先の行動」である。
 難しいこと、面倒なことは人にやらせて、自分はやっている格好、やっている振り、ではいけない。
 リーダーは、人々の中へ、最前線へ、飛び込んでいくのだ。
 人にやらせようという、ずるい考えではなく、自分が先頭を切って、動き語るしかない。
 真っ先に行動する。そして、堂々たる結果を出す。そのように、私はやってきた。
 昭和26年(1951年)、戸田先生は、第二代会長に就任され、75万世帯の達成を掲げられた。しかし、周りの幹部は夢物語としかとらえられず、最初は遅々として進まなかった。
 毎月の折伏成果は、力のある支部でも、100世帯前後が限界であった。「これでは、広宣流布は5万年かかってしまうな」と嘆かれる戸田先生。
 「大作、なんとか折伏できないか」と言われて、私は立ち上がった。
 そして、。蒲田の支部幹事として指揮を執り、1カ月で201世帯の折伏を推進した。そこから学会の怒濤の大行進が始まったのである。
 昭和31年(1956年)には、大阪の戦いの責任者を務めた。
 戸田先生の命を受けて、最も大変なところへ行った私を、「できるものならやってみろ」という意地悪な気持ちで見ていた先輩の幹部もいた。
 そのなかで、私は、愛する同志と心を一つにして、勝てるはずのない大阪で、断固と勝った。
 一方、勝てるはずの東京は負けた。
 戸田先生は、大阪の勝利を、それはそれは喜んでくださった。
 戸田先生は幸せであった。強き信心で戦い勝つ、「本物の弟子」がいたからである。
9  「創価学会の勝利」が「広宣流布の前進」である。学会が勝たなければ、広宣流布は進まない。皆もついてこない。
 また、広宣流布の戦いであるがゆえに、戦った人は、絶対に功徳が出る。
 広宣流布に生き抜く私たちは、社会に民衆勝利の偉大な足跡を残しているのである。
10  「ローマは一日にして成らず」
 創価学会は、間もなく77周年の創立記念日を迎える。
 初代会長・牧口先生の峻厳な殉教。二代会長・戸田先生の烈々たる闘争。
 そして三代会長である私の時代における、壮大なる世界への展開によって、人類の平和と幸福を建設しゆく「一閻浮提広宣流布」の礎は、盤石に築かれた。土台はでき上がったのである。
 「ローマは一日にして成らず」。これは、あまりにも有名な格言である。
 伝承によれば、古代ローマの建国は紀元前8世紀にさかのぼる。紀元前509年には王制から共和制となった。初めは、イタリア半島の小さな都市国家であった。
 それがヨーロッパ、中近東、北アフリカを含む広大な地中海世界を治める大帝国へ発展するまでには、じつに粘り強く、幾百年もの歳月が積み重ねられてきたのだ。
 人類史を彩ったローマ帝国の発展と衰亡の歴史は、私たちに多くのことを教えてくれる。
 なぜ、古代ローマが大発展を遂げたのか。
 さまざまに論じられるが、その理由の一つは、ローマが最大の逆境を乗り越えて、最強の軍団をつくり上げたからである。
 ローマは宿敵カルタゴとの「第2次ポエニ戦争」の最中、敵将ハンニバルの活躍によって、一度は滅亡の危機にまで追い込まれた。紀元前216年ごろのことである。
 しかしローマは、この敗北に屈しなかった。
 国家の総力を結集し、軍団への厳しい訓練を重ねるなどして、断固と反撃に打って出たのである。
11  平和の指導者を育てる上でも、訓練が大事である。
 例えば、きょうのように会合に集い、皆で呼吸を合わせていく。心を合わせていく。これも一つの「訓練」だ。
 学会の幹部は、どんなに役職が上になっても、決して威張るようなことがあってはならない。
 さまざまな機会を通して、常に自分自身を訓練していく。また、後輩を訓練していく──そういう姿勢が大切だ。
 これは、どんな団体においても同じであろう。
12  逆境を越えてこそ大発展
 ローマの反撃が成功した背景には、若き大指導者スキビオ(大アフリカヌス)の存在があった。
 彼は、カルタゴとの戦いで父と叔父を失っていた。その仇討ちの勝利ともいってよい。
 トインビー博士は鋭く洞察されていた。
 ローマ人は断じて絶望することなく、窮地の中から立ち上がり、猛然と戦った。そして、強敵を打ち破った、この勝利こそがローマの成長につながったのだ、と(『歴史の研究第3巻』「歴史の研究」刊行会)。
 敗北した時こそ、次に勝ち、永続的な勝利の道を開くチャンスなのである。
 思えば、かつて戸田先生も事業の破綻という“敗北”を経験された。しかし、そこから厳然と立ち上がって広宣流布の道を切り開かれた。
 あのころは、本当に大変だった。
 多くの債権者が戸田先生のもとへ押し寄せた。
 「戸田の馬鹿野郎!」などと、先生のことを口汚く罵る人間もいた。騒ぎを聞きつけて、新聞記者も取材に来た。
 多くの人が先生のもとを去っていくなかで、私はただ一人、最後まで戸田先生を守り抜いたのである。
13  ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、帝国の軍団を自然環境の厳しい辺地や、防衛の第一線に送り、鍛錬を持続した。そうすることで、兵士たちが安逸にふけり、弱体化するのを防ごうとしたのである。
 このことによって、「ローマ帝国の寿命はおよそ400年延びたのである」(同)とトインビー博士は述べておられた。
 常に若い人材を鍛え、新しい陣列を強化していくところが、勝ち栄えていける。
 大事なのは、未来のために、青年を伸ばしていくことだ。
 戸田先生は、何よりも青年を大切にされた。徹底して鍛え、訓練してくださった。
 そして若かった私を抜擢し、後継者と定めた。私は、戸田先生が亡くなられた後も、すべて先生が言われた通りにやってきた。
 だからこそ、学会はここまで発展することができたのである。
14  “下から上を変えていけ”
 トインビー博士とは、ロンドンで40時問にわたって語り合った。忘れ得ぬ思い出である。
 この対談は、博士から“会って語り合いたい”との要望があり、実現したものであった。
 当時、博士はすでに一流の歴史学者として世界に名を知られていた。それに対して私は、いわば無名の存在であった。
 その私が、ロンドンの自宅を訪れた時、博士は本当に喜んでくださった。その時の様子は、私の妻が一番よく知っている。
 博士のお宅では、二人で朝から何時間も語り合った。ティータイムになると、ベロニカ夫人が紅茶を入れてくださった。
 対談の内容が難しくて通訳がうまくいかず、困ったこともあった。何人かの人に通訳をお願いし、工夫を重ねながら対談を進めたことが懐かしい。
15  繁栄を極めたローマ帝国が、なぜ衰亡したのか。
 さまざまな要因が挙げられるが、その一側面として「財政の破綻」があった。
 軍団への多大な出費。贅沢に慣れた特権階層は、ひとたび味わった享楽や利益を手放さず、内部の改革が進まなかった。
 “上”が堕落し、享楽にふける──そうなったら危ない。
 これまで学会の大幹部の中にも、学会を利用して金儲けをたくらんだり、堕落した生活を送って退転し、ついには反逆していった人間がいた。そうした人間を出してはならないし、許してもならない。
 大事なのは、一人一人が強くなることである。
 牧口先生は“下から上を変えていけ”と言われた。上に対しては、どんどん意見を言う。おかしいと思うことがあれば、正していくことだ。
 もちろん、単なる感情や、自己中心的な考えによるものであってはいけない。
 互いに建設的な意見を言い合えるところは伸びていく。一度で聞かなかったら、二度、三度と言っていくのだ。
 それは「ケンカ」ではないし、ただ「逆らっている」のとも違う。
 学会のため、広宣流布のため──その真剣な思いがあれば、必ず通じていくものだ。
16  慢心、油断と戦え
 英国の歴史家ギボンは指摘している。
 「ローマの敵は常にその懐中に──暴帝と軍人とに──あった」(村山勇三訳『ローマ帝国衰亡史(1)』岩波文庫)
 帝国内の指導者層や軍団の腐敗・横暴・対立は、内部の混乱を招き、外部の敵への抵抗力が弱くなった。
 そこに、敵から攻撃される隙が生まれ、帝国内に侵入される結果となったのである。
 この点、トインビー博士は、“文明が挫折する根本の原因は、内部の不和と分裂である”と喝破しておられた(『歴史の研究第9巻』「歴史の研究」刊行会)。
 敵は内部──これは、あらゆる団体に通じる教訓であると思う。学会もそうだ。
 今、学会は日本一の民衆の団体となった。施設などの面でも、昔から比べれば格段に充実し、豊かになった。
 だからこそ、常に慢心や油断、堕落といった“内部の敵”と戦わねばならない。
 まず最高幹部が毎日、生き生きと、新鮮な気持ちで戦っていくことだ。少しも気をゆるめてはいけない。
 「建設は死闘、破壊は一瞬」である。このことを決して忘れてはならない。
17  自分から変われ
 私が対談した、世界的に有名な経済学者のレスター・C・サロー博士も、ローマの滅亡について、こう洞察しておられる。
 「自国に対する自信を失い、変化する状況に対応できなくなった時に滅びたのだ」(三上義一訳『知識資本主義』ダイヤモント社)
 全くその通りだ。
 自らを創り変えていく力を持つところが勝つ。そのためには、まず指導者が、自分自身を変えるしかない──博士との語らいでも、深く一致した結論であった。
 リーダー自身が成長することだ。人間革命に挑戦していくことだ。それがひいては、同志のためにもなる。
 ともあれ「油断は大敵」である。ちょっとした油断の中に、後々の敗北の因がつくられる。
 戸田先生は遺言なされた。
 「少しでも油断をすれば、濁流に流されてしまう」
 「人生は、永遠に挑戦であり、永遠に闘争である。ゆえに、永遠に勝利せよ! 永遠に勝利しゆくことが仏法である」
 「永遠の勝利の道を確実に築きゆく、その最大の力は何か。
 青年である。ゆえに、青年を育てよ!」
 学会は「進まざるは退転」の心で、常に時代の変化を先取りしてきた。迅速に新しい道を開き、勝ち抜いてきた。
 これからも、断じてそうあらねばならない。
 庶民の味方たれ
18  私は1961年(昭和36年)の10月20日、古代ローマの遺跡(フォロ・ロマーノ)の前に立ち、一首を詠んだ。
  ローマの
    廃墟に立ちて
      吾思う
    妙法の国
      とわにくずれじ
 人類の真実の幸福のために、世界の恒久平和のために、私たちが築くべきものは「永遠の人材の城」である。「永遠の勝利の都」である。
 「学会は、いかなる時代になろうとも、どこまでも庶民の味方になり、庶民を立派に育て、守っていくのだ。そうすれば、学会は永遠に栄えていける」
 「学会は、永遠に師弟を根幹にして、異体同心の団結で勝っていくのだ」
 この恩師の教えのままに、どこまでも進んでまいりたい。
19  日蓮大聖人は、苦楽を共にした弟子のことを「いつの世にか思い忘るべき」と仰せである。
 永遠に忘れることはない──と。
 私の生命からは、広宣流布のために、真剣に、誠実に、責任をもって戦ってくれた同志のことは、絶対に離れない。
 この30年以上、私の世界への旅に随行して、真実の歴史をカメラに撮り続けてくれたのが、聖教新聞社の牛田恭敬君と斎藤亨君や、シナノ企画の宮崎悟君、高橋英彦君たちである。一瞬一瞬、真剣勝負で映像を残してくれた。
 記者では松岡資君、佐々木捷祐君、松島淑君、白井昭君、外松登君らがいる。広宣流布のために働いた執筆は、見事であった。
 トインビー博士やコスイギン首相など、歴史的な会見の重要な証言者でもある。
 ここで、人知れぬ功績を讃え、広宣流布の歴史に残させていただきたい。
20  新しき時代へ 若き君たちよ雄々しく進め!
 私は民衆のため、正義のために戦ってきた人間である。戸田先生のもとで訓練を受けた人間である。
 本物の信心の人であるかどうかは、すぐに分かるつもりである。
 牧口先生は、厳然と言い残しておられる。
 “究極の目的をもち、その目的が明瞭であってこそ、初めて実践への信念が起こり、勇気が湧くのである”
 私には、広宣流布という、そして師弟という「究極の目的」があった。
 ゆえに、どんな大難にも揺るがなかった。恐れなかった。
21  厳窟王になれ!
 戸田先生は言われていた。
 「青年はあくまで信心というものに挑戦していけ。将来、大成するかどうかは、信心即生活の原理からいって、結局、当面の仕事を真剣にやりきれるかにかかっている」
 夢を描くのもよい。理想を語るのもよい。しかし、目の前の課題に一つ一つ、真面目に、体当たりで取り組んでいく以外に、未来は開けない。
 また「巌窟王のように、何でも貫き通せ! 強い精神はよいことだ!」とも戸田先生は言われた。
 「巌窟王になれ!」──それは、戦時中、過酷な獄中闘争を耐え抜かれた、先生の口癖であられた。
 国家権力によって迫害され、獄死させられた牧口先生の仇を討つ。これが戸田先生の人生であられた。
 戸田先生に仇なした人間たちを見返し、先生の真実を世界に宣揚する。先生の夢であった世界広宣流布を実現する。
 これが私の人生である。そのために、ただ一人、着々と手を打ち、戦ってきた。
 諸君もこの「師弟の道」に続いていただきたい!
22  良書を読み悪書を叩け
 「モンゴルのエンフバヤル大統領が、かつて、おっしゃってくださった。
 「池田会長は、創価学会という最大の組織をまとめ、創価大学など数々の機関を設立されました。平和のために戦ってこられました。私は心から感謝したいのです。
 池田会長にお願いがあります。
 奥様とともに、一度、モンゴルにおいでください。モンゴルの青年と語り合っていただきたい。モンゴルの多くの人々に、会長のお話を聞かせてください」
 本当に、ありがたいお言葉である。
 今、私は青年と語り合いたい。青年に教え、すべてを託したい一心である。
 アメリカの思想家エマソンは「良書を読むのは良い人との交りに似ている」(入江勇起男訳『エマソン選集2』日本教文社)と言った。
 どんなに忙しくとも、青年は、良書をひもとき、あらゆる一流の人間と対話できる力を身に付けてもらいたい。これも私の願いである。
 反対に、悪書を読むことは、悪い人間と付き合うことに通じる。
 戸田先生は、低俗な雑誌を読んでいる青年を見つけると、烈火のごとく叱られた。
 「学会は、崇高な理念をもった大指導者の集まりではないか!」と、大変な剣幕であられた。
 金儲けのために、デマで人を傷つけるような卑劣な言論とは断固戦い、論破していってこそ、青年である。学会魂である。
 また、低俗な次元で、学会の前進に、いわれなき非難を投げかける勢力に対しては、正義の言論で痛快に打ち破っていくことだ。
 私自身、戸田先生のもとで、そうやって行動してきた。
 先生のため、学会のために、どんなところにも一人で勇敢に足を運び、誠実に対話した。偏見と誤解を、理解と共感に変えていった。これが弟子の戦いである。
23  道理が通らない社会を変えよ 
 牧口先生と親交があり、戸田先生も尊敬しておられた新渡戸稲造博士は、次のように語っている。
 「社会にはろくなことをしないで、賞讃を博している人がたくさんある。悪い奴が社会に大きな顔をしている。また善いことをしておっても社会に悪口言われる人がある」(『人生雑感』講談社学構文庫)
 そういう社会では、優れた人であればあるほど嫌な思いをしてしまう。ゆえに、いい人物が外部に出て行ってしまう。日本の社会にも、あてはまる指摘であろう。
 正しい道理が通らない社会は、改革せねばならない。
 私たちの世界でも、学会員の皆様のおかげで偉くなったことを忘れ、恩を忘れる愚か者が、これまでもいた。断じて許してはならない。
 「知恩」「報恩」こそ、仏道修行の要であり、不惜身命、師弟不二の実践を支える柱であるからだ。
 また、広布が前進すれば、嫉妬の輩が必ず現れる。御聖訓に「仏と提婆とは身と影とのごとし」と仰せのように、これまでの学会にも、そういう輩がいたことは、皆さんもご存じの通りだ。
 これからの時代、青年の君たちは、御本尊にほめられ、庶民にはめられるような人生を生きてはしい。それが勝利者の人生である。
 私は、戸田先生と学会を守り抜いた。謙虚に、師に仕えた。
 私は今、もう一度、新しい学会をつくる思いである。
24  皆が納得できる論調で語れ
 最高幹部は、皆に最敬礼して、誠意を尽くし、真心を捧げていくのだ。
 話をするときも、調和のとれた温かな声で、皆の心に慈愛と安堵を贈ることである。
 ただ一方的に押しつけるだけでは、だれも、ついてこない。新鮮味があり、変化があり、時には短くするなど、工夫しながら、皆が納得できる論調で語らねばならない。
 何よりも、自分自身が、正しい人として光ることだ。エゴや虚栄など、かなぐり捨てることである。
25  かつて戸田先生は、私の妻を“送迎部長”に任命された。
 それは、戸田先生が地方指導に行かれる折に、上野駅、東京駅など、朝早くとも、夜遅くとも、いつも最高の笑顔で、お見送り、お出迎えをさせていただいたからである。
 妻は、弟子として当然の務めと決めていた。それは、駅や空港で戸田先生をお守りする、真剣な「祈り」を込めた戦いでもあった。
 その心を知る戸田先生は、深く喜び、安心しておられた。
 後世のために、真実を伝え残しておきたい。
 「松葉ケ谷の法難の際、なぜ日蓮大聖人は、暴徒の襲撃の中、難を逃れることができたのか。
 御書には、「十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば」と仰せである。
 十羅刹女とは、諸天善神であるが、大聖人をお守りした、具体的な人がいたとも推察される。
 たとえば、大聖人の身に危険が迫っていることに気づき、知らせに走った女性門下の存在があったのではないか──こう考えることもできよう。
26  “急所”を見抜け
 先日、ある大手の会社の首脳が、しみじみと感嘆されていたとうかがった。
 「創価学会の受付は、断トツに優れている。動作も洗練され、すべてがスムーズである。実に訓練されている。わが社も見習うべきだ」と。
 学会本部、聖教新聞社をはじめ、全国で尊き受付業務に携わっておられる皆様に、心から感謝したい。ありがとう!
 一級の人物は、まず受付に光を当てる。そこから、その団体の実力を判断する。
 ポルトガルのことわざに、「第一印象は永遠に続く」とある。
 そうした"急所"がわからず、本当に重要な役割を担っている人を低く見て威張るのは、愚劣だ。とんでもない間違いであり、自分自身の心がどんどん悪くなってしまう。
27  私は、戸田先生の会社で働いていた時、人を出迎え、見送るにはどうすればいいかを、徹底的に教わった。
 どんな相手であれ、丁寧に、誠実に対応してきた。
 時間通りに来られた方を待たせたり、別れ際、先方がお辞儀をしているのに、こちらが早々に立ち去ったり、そんな態度は論外である。
 そういう基本をわきまえず、ただ威張っているだけの人間は、必ず失敗する。
 私はこれまで、たくさんの人に会ってきた。今も、そうである。
 誠実に相手を迎え、見送る。その模範を率先して示していくように、努力している。これも、すべて戸田先生から学んだことだ。
 〈戸田先生の会社が入っていたビルの受付をされていた女性の方から、次のような証言が寄せられたことがある。
 「池田先生が、いつも礼儀正しく、誠実で『おはようございます!』『こんにちは!』と大きな声であいさつされていた姿が忘れられません」
 「わざわざスイカなどを持ってきていただいたこともあります」
 「いつもいつも、まめに動かれて、戸田先生にお仕えされていました」
 「池田先生は、姿勢が正しく、常に前を向き、堂々とされていましたね。人間はいつも前向きであらねばならないと、私や同僚は、池田先生のお姿から学んだのです」〉
28  良心の声を聞け
 イギリスの“議会の母”と称されたナンシー・アスターの言葉を紹介したい。
 〈アスター(1879〜1964年)は、イギリス初の女性国会議員〉
 「政治家はまず自分の胸に手を当てて、良心の声を聞き、他人の問題に取り組む前に、自分が襟を正さなければなりません」(井上一馬編著『後世に伝える言葉──新訳で読む世界の名演説45』小学館)
 政治家はもちろん、すべての指導者が銘記すべき言葉である。
 大聖人が四条金吾に送られた御書の一節を拝したい。
 「わが一門の中でも、信心を貫き通せない人々は、(初めから信じないよりも)かえって罪があるのです」(1164㌻、通解)
 重要な御聖訓である。
 仏法を持ち、その偉大さを知りながら、愚かにも捨て去ったり、責任ある立場にありながら堕落して反逆するような人間は、信心していない人より、何倍も何十倍も罪が重いのである。
 御本仏の戒めを深く心に刻んでいただきたい。
 人間の偉さとは
 「インドネシアの国民作家であるプラムディヤ氏の言葉に、こうある。
 「行為の偉大さ、思想の偉大さ、魂の偉大さゆえに人は偉大になる」(押川典昭訳『プラムディヤ選集7 ガラスの家』めこん)
 至言である。
 人間の偉さを決めるのは、地位や肩書ではない。財産や名声などではない。
 どのような行為をしているか。どのような思想を持っているか。魂が偉大かどうかなのである。
 プラムディヤ氏はまた、こうも綴っている。
 「ひとりひとりの人間がそうやって強くならないかぎり、人間どうしの真の結びつき、連帯というのは生まれないでしょう」(押川典昭訳『同選集4 すべての民族の子(上)』同)
 「きみが自分の力を自覚すればどんなことだってできる」(前掲『選集7』)
 一人の人間が持っている偉大な可能性を発揮させ、大いなる民衆の連帯をつくりあげていく運動こそ、我らの日々の実践である。
29  古代ローマを代表する詩人の一人、オウィディウスの詩に、こういう一節がある。
 「嫉妬や臆病な悪徳は高潔な性格の中には入らず」(木村健治訳『悲しみの歌/黒海からの手紙』京都大学学術出版会)
 高潔な人格は悪徳を寄せつけない。
 逆に、嫉妬や臆病に心が侵されている者は、高潔な人間ではないということである。そういう人間の悪口など、悠然と見おろして進んでまいりたい。
30  宗教はなぜ必要
 文豪トルストイは、“人類は、宗教なしには生きられない”と論じ、その理由について、こう書いている。
 「第一に、宗教のみが善意の決定を与えるからである」
 「第二に、宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを知ることが決してできないからである」
 「第三に、ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである」
 「第四に、宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである」
 「第五に、宗教のみが人間に生の意義を与えるからである」
 「第六に、宗教のみが人間の平等を樹立するからである」(原久一郎訳『大トルストイ3』勁草書房)
 社会における宗教の重要性は、混迷の時代にこそ、いやまして高まっているのだ。
 私がお会いしたインド最高裁判所の元判事で、著名な詩人でもあるモハン博士は、こう語っておられる。
 「理想的な社会をつくりあげていく、そういう働きは宗教、あるいは宗教団体の働きです。したがって、宗教と政治が相容れないというのは、まったくの間違いです。宗教は社会のモラル、道徳などの根幹になっていくものですから」(月刊誌「潮」1996年6月号)
 これが、社会に果たす宗教の役割についての世界の良識の見方である。だからこそ、学会に期待してくださっているのである。我らは、ますますの確信と誇りを持って、社会貢献の大道を邁進してまいりたい。
31  勝ち抜く力を
 戸田先生は、こう指導された。
 「青年は実力である。真剣勝負で自分を鍛えよ! 死にものぐるいになって、勝ち抜く力をつくりあげよ!」
 私も、今の青年部に対して、まったく同じ心情である。
 文豪・島崎藤村は謳った。
 「清さあり何かおそれむ 若さあり何かおそれむ」(『藤村全集第13巻』筑摩書房)
 藤村が昭和の初めに作詞した、長野の松本女子職業学校の校歌の一節である。
 清らかな生命を持ち、若さにあふれた皆様に、恐れるものなど何もない。また、恐れてはならない。
32  藤村は「誰でも人間の笑顔を見たいと思わないものはない」(同、現代表記に改めた)と書いた。
 笑顔は、最高の贈り物である。幹部は、笑顔で同志と語らい、同志を励ましていくのだ。
 不機嫌な表情や、つんとした顔をしていてはいけない。偉そうな態度など、もってのほかだ。
 戸田先生はよく、私の妻に「香峯子の笑顔は、学会の笑顔だよ」と言われていたことを思い出す。
 リーダーは、同志にどこまでも心を配り、その人々のために、一つ一つ手を打っていくことだ。一日に一つ手を打つだけでも、一年で365の手を打つことになる。そうすれば、学会は、何十倍もの力を発揮していける。横着になってはいけない。一つ一つの積み重ねである。
33  友情を結べ
 藤村は、母校・明治学院(現在は明治学院大学)の校歌でも、青春の気概を謳っている。
 「こころせよまなびの友よ 新しき時代は待てり もろともに遠く望みて おのがじし道を開かむ」「ああ行けたたかえ 雄々しかれ 眼さめよ起てよ畏るるなかれ」(『藤村全集第6巻』同、現代表記に改めた)
 青年に対する、文豪の深い深い期待が、胸に迫ってくる。
 未来はすべて、若き君たちのものである。新しい時代へ、雄々しく進むのだ。
 藤村は「好い友情は若いうちに結んで置きたい」(『藤村全集第9巻』同)とも記している。
 藤村自身、青春時代の友情から、生涯にわたって啓発を受けた。若き日の友情は、一生の宝である。
34  いつまでも生き生きと!
 どうか、いつまでも、生き生きと、若々しく生き抜いていっていただきたい。
 何歳になっても青春の気概を忘れず!
 戦っている人は、顔を見ればわかる。目でわかる。輝きと光を放っている。
 どうか体を大事に。病気にならないよう、賢明な生活を送ってほしい。病気になれば、自分が損をする。家族もかわいそうだ。根本は、病気にならないよう、しっかりと祈っていくことである。
 女子部の皆さんは、福運を積んでください。その人が最後は勝つのです。
 皆様が、ますます福徳に包まれ、健康に生き抜かれることを、私たち夫婦は、毎日、真剣に祈っています。
 お父さん、お母さん、ご家族の皆様、同志の皆様にくれぐれもよろしく。長時間ありがとう! ご苦労さま!

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