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日蓮大聖人・池田大作

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山梨県最高協議会  

2007.9.9 スピーチ(聖教新聞2007年下)

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2  山梨といえば、16世紀の武将・武田信玄が有名である。
 上杉謙信と覇を競った「川中島の戦い」。徳川家康と織田信長の連合軍を破った「三方原みかたがはらの戦い」。武田軍団は「最強」とさえ言われた。
 信玄に対する人物評はさまざまだが、戦乱の世に、飢饉や疫病にも襲われるなか、戦い続け、勝ち抜いた。甲州の黄金時代を築いた足跡は、歴史に不滅である。
 我らの広宣流布の言論戦にあっても、山梨は、皆が刮目する、偉大なる人材城を築いていただきたい。首都圏を、さらには日本と世界を、堂々とリードしていっていただきたい。
 そうした期待をこめ、数ある信玄の逸話の一端に触れておきたい。
3  「実力主義」の人材登用
 信玄は、実力主義で人材を登用した。適材適所で人を生かした。社会的地位や肩書などではなく、「行動」と「結果」を重視したのである。
 甲州武士の歴史物語に『甲陽軍鑑』がある。
 このなかに信玄の言葉として、忠義を尽くし功労を立てた武士には、立場や身分にかかわらず、その手柄に応じた恩賞を与えることが記されている。〈品第39〉
 さらに『甲陽軍鑑』に、信玄の戒めとして次のように綴られている。
 「ほんとうの手柄のないものは、そのためかならず軽薄をもって上辺をつくろい、お追従などいってごまかそうとする。またほんとうの忠節や忠功の人をそねみ、悪口をいって、自分につごうのいい仲間だけをほめてしまう」(品第39。上野晴朗著『武田信玄』潮出版社から)
 どす黒い嫉妬は許さない。本当に戦っている人に最大に報いる。それが信玄の心であった。
4  『甲陽軍鑑』のなかでも、国を滅ぼす武将についての指摘は重く、鋭い。〈以下、佐藤正英校訂/訳『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫を参照。品第11〜14〉
 その一つ、「愚かな武将」は、「わがまま」で「自惚れ」。「家臣の誉めるままにいい気になって、自分がなすことのよしあしもわからなくなってしまう」
 また、「利口過ぎる武将」──すなわち、ずる賢い武将も、「すぐ天狗になるかと思うと、意気消沈しやすい」「口では立派そうなことをいっていても、心底は無慈悲である」。
 そして「臆病な武将」は「愚痴っぽく」「他人をそねみ、こびへつらい」「ことをこねくりまわしすべてを遅怠させる」。
 さらに、「強過ぎる武将」は、「前もって考えず」、正しい「諫言」も聞かず、「気負ってばかり」で、ついには滅びると述べている。
 ともあれ、悪い人間がリーダーになれば、皆が苦しむ。よい人間がリーダーになれば、皆が力を発揮する。
 すべては「人」で決まるのである。
5  民の生活を守れ
 信玄は中国古典の素養も深かったようだ。
 実弟・信繁によるとされる武田家の家訓にも、中国の古典の引用が多い。書経からは、次の言葉も引かれている。
 「徳とは善政を施すことであり、為政とは民の生活を守ることである」(佐藤正英訳)
 また、信玄が制定した法律に「甲州法度之次第」がある。その中には、信玄自身が法度の趣旨に反したことがあれば、“貴賎を問わず陳状をもって申し立てよ”と明確に記されている。
 「民の声」を「天の声」として重んじる。そうした理念がうかがえよう。
6  「人は石垣」「人は城」
 武田信玄は、地域の経済を発展させ、人々の暮らしを安定させる指導者としても、類いまれな手腕を発揮した。
 甲府盆地は昔から水害が多かった。よく知られるように、信玄は大規模な治水に力を入れた。それにより、新田開発も進んでいった。
 「信玄堤」と呼ばれる堤防は、子々孫々に恩恵をもたらしたのである。
 どれだけの人が幸福になったのか。それが、地域の発展を示す、根本の指標といえよう。
7  口先だけ、要領だけでは、皆の心はつかめない。人も育たない。
 未来の決勝点を目指して、粘り強い行動を重ねることだ。
 「人は石垣」「人は城」──何よりも、一人一人を大事にすることだ。皆を尊敬することである。傲慢に見下すことなど、あってはならない。それは権力の魔性の姿だ。
 友を守る。友に尽くし抜く。それを貫いてこそ、何があっても揺るがない、正義の「石垣」が築かれる。人材の「城」が、そびえ立つ。
 育て上げられたその人自身が、難攻不落の「城」となるのである。
8  歌声とともに勝利の大行進!
 戸田先生は、天下の要所である山梨をこよなく愛し、大切にされた。この地で、青年を薫陶してくださった。
 山梨には、創価の師弟の深い縁がある。重大な使命の天地なのである。
 山梨創価学会の前進は、まことに立派である。偉大なる広宣流布の歴史を現実に大きく切り開いてくださっている。
 私はいつも、戸田先生のお心を思い、そして、広宣流布の新時代を展望して、山梨を訪問させていただいている。
9  武田軍の心意気を歌った「武田節」は、多くの人に愛されてきた。
 勇ましい「武田節」の歌詞は、学会魂と響き合う。
 どうだろう、ひさびさに、皆で歌おうではないか!〈ここで、参加者が、名誉会長とともに、力強く「武田節」を歌った〉
 いい歌だ。この「武田節」を声高らかに歌いながら、山梨の皆様は、朗らかに前進していっていただきたい。
 皆、武田節の英雄として! 心も軽く! ゆとりと微笑みをもって!
 歌にこめた「戦う心」は、一念三千の法則で、勝利のリズムをつくり、大いなる前進の力となっていく。
 学会は、歌を歌いながら勝ってきた。大事なことは、いかなる苦難も吹き飛ばすような強さと明るさで、生きて生きて生き抜くことだ。
 我らには「法華経の兵法」がある。
 楽しく肩を組みながら、わが同志とともに、常勝の大行進を続けていこう!
 〈武田信玄については編集部でまとめる際、柴辻俊六編『武田信玄大事典』新人物往来社、小和田哲男著『史伝 武田信玄』学研M文庫、笹本正治著『武田信玄』ミネルヴァ書房、同『武田信玄』中公新書、平山優著『武田信玄』吉川弘文館、小和田哲男著『甲陽軍鑑入門』角川ソフィア文庫、酒井憲二編著『甲陽軍鑑大成』汲古書院、磯貝正義・服部治則校注『戦国史料叢書 甲陽軍鑑』人物往来社などを参照した〉
10  弟子を愛した師 師を守った弟子
 さて、戸田先生が亡くなられてから、明年で、ちょうど50年となる。
 ご逝去されたのは、昭和33年(1958年)の4月2日。その直前の3月に、ある幹部が戸田先生に質問をした。
 「これからの学会の前進のために大事なことは何でしょうか」
 戸田先生は、明快にご指導された。
 「第三代会長を、全魂込めて、皆で護ることだ。
 第三代会長を中心に、仲良く生き抜いていくことだ」
 戸田先生は、弟子を何よりも大切にしてくださった。
 何がどうなろうと君さえ健在ならば、学会の未来は安心だ。君が大事なのだと言って、私を、心を尽くして育ててくださった。
 そして私は、戸田先生を、命をかけてお守りした。戸田先生のため、あらゆる戦いを勝った。
 戸田先生は、広宣流布の大指導者であられる。ゆえに、その戸田先生に、私は命を捧げた。
 私は、ただ師匠のために戦った。
 師匠に直結しない戦いは、いかなる戦いも意味がない。そう、私は決めていた。
 全部、戸田先生の言われる通りに戦ってきた。
 これが師弟である。
 口先だけの生き方は、結局は不幸である。嫉妬や偏見は、何の得にもならない。自分も、子孫も、損をするだけだ。
 山梨の皆様には、本物の師弟直結の人材城を築いてもらいたい。
 皆様はどうか、私とともに、真実の師弟の道を歩み抜いていただきたい。そして、勝ち抜いていただきたい。
 師弟の精神が盤石であれば、それが土台となり、因となって、「大山梨」を築くことができる。
 そうした見事なる「大山梨」ができれば、日本中、いな、世界中に、勝利の波動は広がっていくのである。
11  幸福の最高峰へ
 いよいよ、「行動の秋」「挑戦の秋」「新しい前進の秋」がやってきた。
 9月9日は「重陽の節句(節供)」である。重陽とは、中国で、めでたい数とされる「九」が重なる吉日という意味である。
 また中国語では「九」と「久」の発音が同じであることから、“長久の繁栄”を願う日ともされているという。
 中国では古来、この佳き日に、「登高とうこう」といって、秋の澄み切った大気の中、高き丘や山に登る風習がある。そこには、さらに高い境涯を目指そうという意義も込められているようだ。
 日蓮大聖人は五節句の意義を釈され、9月9日は妙法蓮華経の「経の一字の祭り」(御書1070㌻、通解)と説かれている。
 「経」とは、三世常恒を表し、声を表す。
 あの王者の富士のごとき、永遠の幸福の最高峰に向かって、私たちは、勇んで語り、行動してまいりたい。
12  皆が元気になる賢明な指揮を
 季節の変わり目である。疲れをためないよう、上手に休息をとりながら、聡明に、健康第一で進んでいきたい。
 題目を朗々とあげ、生命力を満々とたたえて、価値ある一日一日を勝ち取っていくことだ。
 リーダーは、皆が元気になる、賢明な指導をお願いしたい。
 同志を大きく包容し、一人一人が胸を張って進めるよう、名指揮を執っていただきたい。
 全同志の皆様のご健康、ご多幸、そしてご長寿を、私も妻も、毎日、一生懸命、祈っています。
 ともどもに、偉大なる師弟の勝利劇を綴り残してまいりたい。
13  私が創価学会の第三代会長となった昭和35年(1960年)の秋、11月。アメリカのケネディ大統領誕生の知らせを、山梨の地で聞いた。
 彗星のごとく、さっそうと現れた、若き英邁なリーダーであった。私には、ケネディ大統領と会見する予定もあった。
 残念ながら実現しなかったが、後に、大統領の心を携えて、弟のエドワード・ケネディ上院議員が、わざわざ聖教新聞社へ来訪してくださった。わが忘れ得ぬ歴史である。〈昭和53年(1978年)1月12日〉
 ケネディ大統領は、こう凛然と語っている。
 「われわれは、ひとりよがりや、尻ごみや、とまどったりしてはいられない。
 現在は、勇気と行動のときなのである。強い指導者に出てもらわなければならぬ時代である。
 新しい開拓線を恐れない指導者、事実を恐れない指導者、また、われわれの夢を現実化することのできる指導者を求めているのである」(古幡公靖著『ケネディ語録』しなの出版)
 現在も大きな転換期である。
 地球一体化のなかで、平和へのうねりを一段と高めていかねばならない。
 勇気と情熱と行動力のある指導者、民衆の期待に応える強い指導者が、今ほど、求められている時はない。
 ケネディ大統領は、こうも述べている。
 「指導力の唯一の有効なテストは、先に立つ能力、それも旺盛な気迫をもって先導する能力ある」(ウェスレイ=ピーターセン編『ケネディの遺産』講談社)
 民衆のために先頭に立って戦う。それが指導者の当然の責務だ。
 そもそも、民主主義の社会である。民衆が支持するから、指導者がいるのだ。
 その原点を、指導者が忘れて、私利私欲のために立場を悪用する。そんな人間がいたら、民衆の手で叩き出すのだ。遠慮などいらない。断じて許してはならない。
14  平和へ! 歴史の底流を創りゆけ
 思えば、昭和60年(1985年)の春3月、ゴルバチョフ氏が、ソ連の新書記長として登場したニュースを聞いたのも、山梨であった。氏は、私の大切な友人の一人である。
 きょうもまた、私は世界各地から、さまざまな報告を受け、未来への手を打っている。次の時代を切り開いている。
 今再び、新しい広布のリーダーが陸続と躍り出ることを、私は、だれよりも信じ、深く祈っている。
 ケネディ大統領は語った。
 「新聞の大見出しやテレビのスクリーンは、われわれにその場その場の短期的な見解を伝える。
 それはわれわれに歴史の大きな流れを見失わせるほど大量の詳報をとめどなく伝える。
 しかし将来を形作るものは、その場限りの興奮ではなくて、深いところを流れている底流である」(前掲『ケネディ語録』)
 私が対談したトインビー博士も、歴史を創るのは水底みなぞこのゆるやかな動きであると見ておられた。
 私たちの広宣流布こそ、平和への歴史の底流を厳然とつくりゆく運動である。最も確かな未来創造の力であることを、確信していただきたい。
15  そしてまた、ケネディ大統領は、人々に、こう訴えている。
 「結束すれば、多くの新しい、協力して行なう冒険的事業において、不可能なことはなにもない。
 分裂すれば、われわれは無力にちかい──なぜなら、互いに争い、ばらばらに分裂していては、とうてい手ごわい挑戦に立ち向かうことはできないからである」(高村暢児編訳『ケネディ登場』中央公論新社)
 その通りである。団結こそ勝利だ。
 山梨は、最強の武田信玄の軍団を生み出した天地である。
 同じ生きるなら、誇り高く生きるのだ。
 仲良く前進! 朗らかに勝利! そして日本一の充実した山梨を築いていただきたい。
 何かで「日本一」を目指すのだ。折伏日本一! 人材日本一! それも、すごい。
 「団結日本一!」「朗らか日本一!」。これもまた素晴らしい。
 ──あの山梨の団結を見よ! 山梨は、どこか違う。あの姿の中に、真実の創価学会の魂がある!──こういわれる模範の県を、築いていただきたいのだ。
 それには、お金はいらない。心で決まる。難しい話も、必要ない。心一つで決まるのだ。
 ほかのどこよりも麗しい、異体同心の前進をお願いしたい。
16  立ち上がれ! 波を起こせ!
 エドワード・ケネディ上院議員は語られていた。
 「私は創価学会の活動を大変に尊敬しています」
 「私は思います。人々が互いに理解し合うには『まず自分が人間的行動を起こす』ことだと。
 私は池田会長の思想に賛同します。復帰すべきところは『人間』です。『人間に帰れ』です」
 あらゆる変革は、自分自身の人間革命から始まる。
 ケネディ上院議員はまた、今年の7月、アメリカSGIの東部方面総会にメッセージを寄せ、兄君の故ロバート・ケネディ司法長官の次のような言葉を紹介してくださった。
 「信念のために立ち上がるたびに、ひとびとの幸福のために行動するたびに、そして、不正に立ち向かって闘うたびに、人は、小さな希望のさざ波を起こすことができる。
 幾百万の情熱と勇気を泉とするこうしたさざ波は、互いに交差し、重なり合いながら、やがて大いなる潮流となる。
 この潮流は、抑圧や抵抗の強固な壁をも押し流す力となるのである」
17  波を起こすのだ。
 外へ、外へと打って出るのだ。折伏精神を胸に!
 小さな世界にいるだけでは、新しい発展はない。停滞してしまって、傲りの心、退転の心に侵されてはならない。
 列車も、飛行機も、どこかへ向かっていく。進まなければ、目的地には着けない。これが道理である。
 人もまた、生き生きと、新天地に向かって飛び出すのだ。心を外へ開くのだ。自分の殻を破るのだ。そこに希望の拡大がある。幸福の光が広がる。
 勇んで、外へ打って出る──これが、勝利し、発展し続けていくための原則なのである。
 山梨だけにとどまらないで、「よし、私は関西へ対話に行こう」「私はヨーロッパに友情を広げよう」──それくらいの大きな気持ちで、悠然と進んでいっていただきたい。
18  日蓮大聖人の総仕上げの旅
 さて、ここ山梨・身延から東京・池上に向かわれた、日蓮大聖人の御一代の「総仕上げ」の旅について振り返りたい。
 弘安5年(1282年)9月8日。大聖人は、身延を出られ、旅を始められた。
 身延から池上までは、通常、富士山の南側の駿河を通る旅となる。比較的、緩やかな道である。
 しかし、大聖人は、富士山の北側を通る、坂の多い甲斐の道を選ばれたとされる。
 ある伝承によれば、次のような行程であられた。
 身延を出られて、下山、鰍沢から笛吹川沿いに曽根、黒駒へ。御坂峠を抜けて、河口、暮地。三国峠を経て、竹之下、関本、平塚、瀬谷、池上へ、という行程であられたようだ。
 約200㌔におよぶ道のりであり、馬に乗られていたようだが、病身には決して楽な旅ではなかったにちがいない。
 先ほどの記録によれば、大聖人はこの旅路では、門下の家に泊まられていったようである。
 一人でも多くの弟子たちを激励し、信心の魂魄を留める──仏法は、どこまでも一対一の対話を重んじる。一人また一人と励ましを続けていくのだ。
 ここにこそ、広宣流布の大道がある。釈尊もそうであった。最後の最後まで、一人でも多くの仏縁を結んでいく歩みを貫き通したのである。
19  9月18日、大聖人は武蔵国の弟子・池上宗仲の屋敷に到着された。
 釈尊も、そして大聖人も、最後まで、民衆のために「進み続ける」「戦い続ける」足跡を残された。
 伊勢法印という学僧が問答を求めてやってきた。この時、大聖人は若き日目上人に命じて法論させ、弟子の勝利の姿を喜ばれた。
 9月25日には、門下に対して立正安国論の講義をなされた。
 大聖人は、病身をおして御入滅のその時まで、弟子たちに「広宣流布の大願」を訴えられ、「立正安国の戦い」を託されたのである。
 大聖人が身延を離れて、最後の指揮を執られたこの池上は、鎌倉、安房、上総、下総から、主な門下が集いやすい場所であった。
 そこで大聖人は、広宣流布の大闘争の総仕上げをされたのである。
20  まことに宿縁深厚にも、大聖人が入滅なされた池上(東京・大田区)の天地は、わが創価学会の広宣流布の大前進の起点となった。
 戦時中、創立の父・牧口先生は、特高警察の監視のなか、この大田で、師子王のごとく大法弘通の座談会を行われた。
 私の妻は、幼き日に、その牧口先生の手を引いて自宅に案内し、「不惜身命」「死身弘法」のお姿を生命に焼き付けたのである。
 戸田先生も、大田へは、幾たびも足を運ばれた。そして、大田での座談会で、私は先生にお会いした。
 その時、戸田先生が講義されたのが「立正安国論」であったのである。
21  恩師の精神を人類の規範に
 戸田先生の「原水爆禁止宣言」の50周年を記念する行事が、日本列島の各地、そして全世界で、有意義に行われた。
 先生も、さぞかし喜んでくださっているにちがいない。
 核廃絶を目指す科学者の連帯である「パグウォッシュ会議」のスワミナサン会長は、私との対談のなかで、こう語ってくださった。
 「今日、『原水爆禁止宣言』と『ラッセル・アインシュタイン宣言』は、すべての言語で出版されるべきだと思います。
 マスメディアが、毎日ほんの1分ずつでも時間を割いて、2つの宣言のいろんな部分を人々の意識に刻み込んでもらいたいと思うのです」
 世界最高峰の知性の言葉である。
 宣言の発表から半世紀──この間、私は、恩師が青年への「第一の遺訓」とされた精神を世界中に宣揚してきた。
 今このように、恩師の魂を人類の規範として広め、打ち立てることができたことは、弟子としてこのうえない喜びであり、誉れである。
22  きょうという日は、二度と来ない。
 人生、「時」を逃してはならない。とくに青年は、立つべき時に、断じて立つのだ。
 戸田先生は言われた。
 「『百千万の福徳』を得るのだ。『百千万の福徳』を出すのだ。そのために、広宣流布をするのである。広布の陣列に馳せ参じなさい。折伏に、勇んで馳せ参じなさい。そうしないと、自分が損をするよ」
 全人類の宿命を変えゆく根本の道。それは、広宣流布しかない。
 信心とは、無限の智慧だ。何ものをも恐れない勇気だ。その力を、わが生命にみなぎらせるのだ。
 自分も、友も、一緒に、悔いなき勝利の人生を、生きて生きて生き抜いていくのだ。
 広宣流布の同志に、三世永遠の大福徳が輝きわたることは、絶対に、まちがいない。
23  喜んでもらうために会う
 リーダーが友のところへ会いに行く。それは、「喜んでもらう」ためである。
 何かを押しつけて、嫌な思いをさせるのは、愚かなリーダーだ。
 我らには、大いなる夢がある。その実現へ、皆が「喜んで、やろう!」と奮い立つ。それでこそ、名リーダーである。
 久しぶりに会う友も、いるだろう。大事なのは、「喜んでもらうこと」。そのために心を尽くすのだ。
 私も、いつも、そうしてきた。
 喜んで題目! 喜んで行動! そして喜んで、ともに勝利の万歳をしていきたい。
 苦難をも喜びに変える。これが仏法である。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし
 何があろうと「すべてが喜び」──これが仏法の根幹である。
 そうではなく、「すべてが地獄」なら、これほどの不幸はない。それは邪教である。
 ただ、奥さんに叱られた時──これだけは、ご主人は、喜べない。素直に反省して謝ることだ(笑い、大拍手)。
 私たちが日々読誦している法華経の方便品には「悦可衆心」と説かれている。人々を喜ばせ、皆で楽しく進んでいくのが、リーダーの使命である。
 戸田先生は言われた。
 「いつ見ても、広布の闘争が嬉しくて嬉しくて仕方がない。そこにこそ本当の生きがいを感じている。そういう幹部になりなさい」
 リーダーは、ツンとした、威張った顔をしていてはいけない。
 戸田先生が、「威張るために行く幹部もいる。しかし、大作は皆が喜んでくれるために行く」と言われたこともあった。
 ともあれ、リーダーで決まる。リーダーが喜び勇んで前進してこそ、同志も皆、楽しく、充実して、生き生きと戦えるのである。
24  ペンネームに込めた思い
 山梨出身の文豪に、山本周五郎がいる。〈1903〜67年〉
 戸田先生も愛読された。今も庶民の心をとらえて離さない。
 じつは、「山本周五郎」というペンネームは、彼が少年時代に丁稚奉公をしていた、店の主の名前である。
 この店主は、文学にも深い関心をもっていた。若き周五郎の才能を見出し、文学の道を大成していけるよう、あらゆる点で応援を惜しまなかった。
 店主はよく、自らの心情を周五郎に語ったという。
 「わたしがおまえのような好青年にめぐりあえたことは、わたしにとっても大きな仕合せだった。
 だからおまえが一人前の物書きになれたら、そのときは、だれでもいいおまえの前にあらわれた好青年に、出来るだけのことをしてやってくれ。それが本当の人間の財産というものだ」(木村久邇典著『人間 山本周五郎』小峯書店)
 味わい深い言葉である。
 山本周五郎は、この店主に、終生、感謝と敬愛を捧げた。この恩人の名をペンネームとして、人情味にあふれ、魂を揺さぶる名作を書き続けた。そこには、深き報恩の心があったのだと思う。
 やがて、名を成した周五郎は、恩人の言葉の通り、青年のために心を砕いた。
 周五郎は、自らの原稿を担当した出版社の青年に、恩人の言葉を紹介しつつ、こう強調したという。
 「きみもぼくくらいの年になったら、おやじ(店主=編集部注)やぼくのように心がけてくれたまえ。きみのまえに現れた好青年のために出来るだけのことを尽してやってくれ。もしそのとき、経済的にそうはできない状態であったならば、その心だけは持ち続けてほしい。それがしんじつの人間の財産というものだ」(同)
 世間には、自分の打算から、青年を使う人間が多い。しかし、自らをなげうって、青年を育てる人もいる。
 この無私の心にこそ、人間の精神の宝があろう。
 個人であれ、組織であれ、社会であれ、青年を大切にする心が光っているところ、そして、そうした心が継承されているところには、必ず勝利と繁栄が開かれていく。
 逆に、自分さえよければいいというエゴや慢心、堕落が、どれほど組織や社会を蝕んでいくことか。
 周五郎は、こう綴っている。
 「悪い人間が一人いると、その『悪』はつぎつぎにひろがって人を毒す。いちど悪に毒された者は、容易なことではその毒からのがれ出ることができない」(『五瓣の椿』講談社)
 人々を苦しめる悪は、放置してはいけない。小さな悪の根も、言論の剣で断つのだ。
 創価学会は、清浄無比の世界である。邪悪な勢力から、厳然と護り抜いていかねばならない。
25  大目的観を持て
 戸田先生は、折々に、こう教えてくださうた。
 「人生の本当の偉さというものは、どこにあるのか。それは一つは、若い時に決めた希望、信念というものを、一生涯貫いていく。もう一つは、一生涯、若々しい情熱を持ちきっていけるかどうかである」
 「年齢には3つある。肉体的な年齢、精神的な年齢、生まれてから数えている年齢である。たとえ肉体は老いても、生命力は強く、若々しくなければ駄目だ」
 満々たる勇気と情熱を燃やして、わが信念の道を、生涯、「青年の心」で歩み抜くことだ。
 先生は、こうも語られた。
 「信心の深さが変わらなければ、生活は変わらない。信心が深ければ、生活は一変する。運命の転換ができるのである」
 “信心の深さ”が、“人生の深さ”“人間の深さ”を決める。一切は、一念で決まるのだ。
 「人生に悩みというものがなかったら、人生ではない。その悩みが悩みでなくなってくるところが、菩提である」
 悩みや迷いや苦しみは、だれでも、あるものだ。それを「煩悩即菩提」とし、「変毒為薬」していく。これが妙法の醍醐味ではないか。
 さらに先生は叫ばれた。
 「大目的観を持て! 人生最高の大目的観を持て! そうすれば、生も喜びであり、また死も喜びである」
 広宣流布の大目的に生き抜く人生は「生も歓書」「死も歓喜」の大境涯を開いていくのである。
26  今いる場所で全力を尽くせ
 私は、行く先々で、「歓喜」と「勝利」の波動を起こしてきた。
 「大阪の戦い」は、新聞も後に「『まさか』といっていたその“まさか”が現実になった」などと報じるほど、厳しい戦いであった。
 しかし、困難であればあるほど、闘志を奮い起こした。
 古代ローマの大歴史家タキトゥスは書き残している。
 「逆境を逃れるより耐えることこそ、気高い魂の証拠です。
 勇敢で剛直な人は運命に逆らっても希望を捨てません。恐怖から絶望へ急ぐのは腑抜けの卑怯者です」(國原吉之助訳『同時代史』筑摩書房)
 あの時、東京は安泰だと言われていたが、結果的に敗北してしまった。指揮を執った幹部のなかには、傲慢な態度を取ったり、遊び半分の人間がいたようだ。
 「ぼやぼやして、動かずにいて、戦いの邪魔になる幹部は、いなくなってもらったほうがよい」と、戸田先生が言われた通りであった。
 私は、師匠のため、学会の勝利のため、全力で道を切り開いてきた。
 イギリスの歴史家カーライルは綴った。
 「お前は、いまいる場所で、元気に最後まで、全力をつくし、闘いをつづけるがよい」(上田和夫訳『過去と現在』日本教文社)
 自分が今いる場所こそが、本有常住の寂光土である。その使命の場所で、勝利と幸福の旗を打ち立てるのだ。
27  アメリカの人権の闘士キング博士は語っている。
 「人生に意味を与えるのは宗教である。宇宙に意味を与えるのも宗教である。よき人生を歩もうと最大限動機づけるのも宗教である」(クレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』日本基督教団出版局)
 古今東西、多くの世界の指導者は、皆、宗教のもつ偉大なる力に注目をしてきた。いわんや、妙法は、大宇宙の法則である。
 妙法を持った皆様方こそ、人間として最も尊い、最も意義ある人生を生きゆく「人間王者」である。
 〈ここで、女子部の代表が「山梨女子部は御書が大好きです!」「日本一の『教学の山梨』を築いてまいります」と、はつらつと述べた〉
 素晴らしい! 偉大なことだ。
 御書を拝せば、聡明になる。心が美しくなる。立派な一家になる。
 題目をあげれば、福智をちりばめた星のように輝く。最後は必ず勝利する。
 信心を貫いている人、御書を心肝に染めている人には、だれもかなわない。地域でも、光る存在となっていく。
 このことは、私の体験の上からも、確信をもって言えることだ。
 女子部は大事だ。これから、長い人生を歩んでいく皆さんである。
 どうか、幸福のため、家族のため、社会のため、聡明に、堅実に進んでいただきたい。
 戸田先生は、女子部に語られた。「鎖の輪は、一つ一つ、ガッチリと組み合って、切れることがない。人間も同じだ。心強き一人ひとりが、固く手を結べば、広宣流布は必ず進む。人と人との輪を作りなさい」
 友情のスクラムを組んで、仲良く、広宣流布の尊き青春を歩み抜いていただきたい。
28  不幸な人は一人もなし!
 信心には、決して行き詰まりはない。
 「私は、朗らかに、そして希望をもって、私のなすべきことに取り組む」
 「さあ、力を合わせて、共に前進しようではないか!」
 これは、イギリスの名宰相チャーチルの叫びである。彼は、ファシズムとの戦いに挑むなか、こうも断言した。
 「われわれの成功はまさしく第一にわれわれの団結、次にわれわれの勇気と忍耐にかかっている」(毎日新聞翻訳委員会訳『第2次大戦回顧録』毎日新聞社、現代表記に改めた)
 敵の猛攻撃による劣勢をはねのけ、世界史を塗り替えるような大逆転劇を綴った英雄のごとく、私たちも、庶民の王者の新時代を開きたい。
 どうか山梨の皆様は、「不幸な人は、一人もあらじ」と、全員が勝利と幸福と栄光輝く人生を歩み抜いていただきたい。
 結びに、戸田先生の指導を贈りたい。
 「法華経に説かれる『未曾暫廃(=未だ曾て暫くも廃せず)』とは、常に勇気凛々と戦うということだ。常に『勇気』の二字で戦うことだ」
 お会いできなかった同志の方々にも、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 さあ進もう! 勇気凛々と! お元気で!

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