Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

信越最高協議会  

2007.8.24 スピーチ(聖教新聞2007年下)

前後
2  豊かな人間性を
 現在、私は、北欧デンマークの著名な教育者ヘニングセン先生(アスコー国民高等学校・元校長)と対談を重ねている。〈月刊誌「パンプキン」に連載中〉
 このデンマークの名門アスコー国民高等学校では、今夏も、わが創価大学生と創価学園生が、充実の研修の歴史を刻んでいる。
 教育が、人類にとってどれほど重要であるか。チェコの教育思想家コメニウスは述べている。
 「教育されなくては(中略)人間は人間になることができない」(鈴木秀勇訳『世界教育学選集24大教授学1』明治図書出版)
 「学校は人間を本当の人間にする」(同)
 英知と豊かな人間性を備えた人材を育てていく。それが教育の真の目的である。
 牧口先生、戸田先生が注目していたアメリカの教育哲学者デューイは綴った。
 「教育は、あらゆる人が、社会全体の幸福に関心を抱くようにさせねばならない。そうすることで、彼らは、人々の状況を良くしようと尽くす中に、自らの幸福を見出していけるようになるであろう」
 自分のことだけでなく、社会や世界のために行動する。それでこそ、より価値のある人生を築いていくことができるのである。
3  デンマークが誇る大哲学者キルケゴールは述べている。
 「人が信念を自分自身の生を通じて、行為の上で現わすとき、これが信念をもっていることの唯一の真の証明ではないだろうか?」(田淵義三郎訳「さまざまの精神における建徳的講話1」、『キルケゴールの講話・遺稿集3』所収、新地書房)
 まったく、その通りと思う。「信念」といっても、口先ではわからない。それが、いかなる「行為」となって現れる、かで決まる。
 キルケゴールは、こうも語っている。
 「確かに、機先を制することはそれだけでも偉大な勝利である。しかし同時に、まさに初心を忘れないように行動することが重要である。
 初めはとてもすばらしくても、その次の瞬間には、まずもって役に立つどころか、邪魔になるような場合ほど、人間にとって破壊的なものは何もないであろう」(浜田恂子訳「四つの建徳的講話」、『キルケゴールの講話・遺稿集2』所収、新地書房)
 深い示唆に富んだ言葉である。「初心」を忘れず進み続ける──その人こそ、栄光の人生を歩むことができるのである。
4  「信仰から不屈の忍耐と勇気が」
 昭和22年(1947年)の8月24日──。それは、大変に暑い一日であったと記憶している。
 その日に、戸田先生のもとで「師弟の道」を歩み始めた青春の「初心」を、私は60年たった今も、いやまして赤々と燃え上がらせている。これが、わが人生の誉れである。
 フランスの大数学者ポアンカレは、こう述べている。
 「行動を起させる動力はすべて信仰です。百折不撓ひゃくせつふとうの忍耐を与へ、勇気を与へるものは信仰のみです」(平林初之輔訳『科学者と詩人』岩波文庫)
 正しい信仰を持った人生ほど、強いものはない。
 戦後、広宣流布のため一人立たれた戸田先生の確信は、それはそれは、すさまじかった。
 ある時は、こう語っておられた。
 「地球上にただ一人、戸田城聖という不思議な人間が生まれてきたのだ。みんな覚悟して、ついてきなさい。私を知った人間は幸せなのだ」
 またある時は、弟子たちを、こう叱咤しておられた。
 「おまえたちは、私の本当の偉さがわかっていない。私の言うことを、『そうだ!』と信じなさい。『そうだ!』と思ってやりなさい」
 先生は戦時中、獄中で唱題を重ねる中で“我、地涌の菩薩なり”との大確信を得られた。広宣流布という自らの使命を、深く深く覚知された。
 妙法流布の指導者としての大確信と覚悟があったからこそ、先生の指導は厳しかった。魂を射抜くような鋭さがあった。
 そして先生は、実際に75万世帯の弘教を成し遂げ、広宣流布の基盤を築かれたのである。
 また、先生は語っておられた。
 「迅速果敢な行動──そこに勝利がある!」
 私は、この指導のままに行動した。大変なところがあれば、飛ぶようにして駆けつけた。電光石火で手を打った。そして、各地で勝利の旗を打ち立てた。
 折伏でも勝った。先生の事業の苦境も打開した。
 先生は、本当に喜んでくださった。「本物は大作だけだ。大作がいて、私は本当に幸せだった」とまで言ってくださった。
 師匠のため、広宣流布のために、汗を流す。痩せる思いで戦う。それが真実の弟子だ。私は、この覚悟でやってきた。
 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは述べている。
 「行動においては杜撰ずさんになるな。会話においては混乱するな。思想においては迷うな」(神谷美恵子訳『自省録』岩波文庫)
 綿密かつ大胆な行動。敵の肺腑をえぐるような鋭い言論。そして、確固たる哲学──これがあれば、すべてに勝っていくことができるのだ。
5  一つ一つが挑戦
 60年前、私が入信した当時は、勤行をはじめ、入信のための儀式が非常に長かった。
 私は、戸田先生の人間性には深い感銘を受け、先生についていこうと決めていた。しかし、信心のことは、まだよくわからなかった。
 戦争が終わり、ようやく自由で、新しい世の中になった。私は19歳の青年。青春のさなかである。
 正座をしてお経をあげたりすることが、なんとなく時代遅れで、気恥ずかしく思ったことも事実だ。
 また、実家には先祖代々の宗教があった。信心を始めることについて、家族に理解してもらうのも簡単ではなかった。一つ一つが挑戦であった。
 そのころから、宗門の坊主はずいぶん、威張っていた。衣の権威をかさに着て、学会を従わせようとさまざまな文句や注文をつけてきた。
 戸田先生は、こうした宗門の体質を見抜いておられた。
 だからこそ、広宣流布を忘れた坊主を厳しく責められた。日蓮大聖人の精神に立ち返れと、叫ばれたのである。
6  一歩ずつ着実に
 私はこれまで多くの世界の指導者と語り合ってきた。
 その中でも、とりわけ印象深い一人が南アフリカの大統領を務めたマンデラ氏である。
 氏は、1万日に及ぶ獄中闘争を乗り越え、アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃に導いた、人権の闘士である。
 出獄した年に来日し、私に会うために東京の聖教新聞本社を訪れてくださった(1990年10月)。大統領に就任された後、迎賓館でお会いしたことも忘れられない(95年7月)。
 マンデラ氏は述べている。
 「人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能なのです」(東江一紀訳『自由への長い道──ネルソン・マンデラ自伝(下)』日本放送出版協会)
 不正や抑圧とは断固として戦う。よりよい社会を求めていく。それが本当の人間である。
 氏は、こうも言う。
 「指導者には、民衆を正しい方向へ導いているという自信のもとに、群れより先を行き、新たな針路を拓かなくてはならないときがある」(同)
 リーダーが先頭に立って戦う。道を開く。それでこそ、大きな戦いのうねりを起こすことができるのだ。
 「勝利をつかむその日まで、一歩ずつ、着実に進んでいきます」(前渇『自由への長い道(上)』)
 これも、氏の言葉である。少しずつでもいい。前へ、前へと歩み続けることだ。絶対にあきらめないことだ。
 イギリスの歴史家トインビー博士は、私との対談で語っておられた。
 「あらゆる生物は、本来、自己中心的であり、貪欲ですから、権力を握った人間は、その掌中にある人々の利益を犠牲にしても、なおその権力を己の利益のために乱用したいという、強い誘惑にとらわれるものです」
 権力は魔性である。だからこそ、権力者を厳しく監視していかねばならない。これは、戸田先生が強く訴えておられたことである。
7  「原点がある人は揺るがない」
 今年は、「日中国交正常化」35周年である。
 その記念の意義も込めて、私は、中国学術界の至宝であられる、国学大師の饒宗頤じょう・そうい願先生(香港中文大学・終身主任教授)と対談を進めている。
 司会は、傑出した言論人の孫立川そん・りつせん博士(香港最大の出版社「天地図書」副総編集長)が務めてくださっている。
 〈この対談「文化と芸術の旅路」は、香港文壇の最高峰である月刊の中国語文芸誌「香港文学」と、日本の月刊誌「潮」の両方で、掲載されている〉
 対談では、「師弟」という人間の真髄の道について、幾重にも語り合ってきた。
 私は、饒先生に申し上げた。
 「青春時代の私の誇りは、事業の蹉跌などで師が最も苦境に立たされた時に、ただ一人、支え抜いたことです。
 そのために進学も断念した私に、戸田先生は約10年間にわたって、毎朝のごとく個人教授をしてくださり、それは文学や科学、政治、歴史など学問全般に及びました」
 「私という人間の98%は、戸田先生から受けた薫陶によるものと言っても過言ではありません」
 饒先生は、私の真情に深く共感され、こう応じてくださった。
 「どこまでいっても、師弟一体なんですね。
 この人生の原点を持った人は、何があっても揺らぎません」
 「師弟」という原点を持つ人生には、揺らぎはない。恐れもない。後退もない。「師弟」こそ、人生の勝利の究極の力である。
8  学生のために! 戦火の中の教育
 対談では、戦時下における、饒先生の不屈の教育闘争も話題となった。
 饒先生は1943年の秋、桂林の地で、中国学術史に輝く、有名な学府「無錫国専むしゃくこくせん」の教壇に立たれている。
 この学府は、本来、江蘇省こうそしょうの無錫にあったが、戦乱によって閉鎖を余儀なくされ、桂林に分校を開いたのである。
 非道な日本軍は、この麗しき桂林にまで攻撃を加え、饒先生をはじめ「無錫国専」の先生方や学生たちは、さらに南の蒙山もうざんに避難された。
 その筆舌に尽くせぬ苦難のなかでも、饒先生たちは、断じて教育と学問の火を絶やされなかった。避難の地である蒙山でも、学生たちのために、授業を続けられたのである。
 そうした姿は「山の洞窟に教室を開き、学生を育成する。文化の光は、戦争を圧倒するにちがいない」と歴史に讃えられている。
 以来、60余星霜──先日、私たちの対談の名司会の孫博士は、この蒙山を訪問されて、戦時中、饒先生が心血を注いで教えられた方々に出会った。
 その一人は、戦乱と混迷のさなか、教育をしてくださった饒先生へのご恩返しをしたいと、その後の生涯を、小学校教育に捧げておられたというのである。
 自分の使命の場所に厳として立って、断じて恩に報いる。これほど神々しい人生はない。
9  饒先生と私は、中国の書の歴史に名高い、大詩人・蘇東坡そ・とうば(=蘇軾そ・しょく)と黄山谷こう・さんこく(=黄庭堅こう・ていけん)の師弟についても語り合った。
 11世紀に活躍した蘇東坡は、「宋の四大家」の一人として著名な書家でもある。
 しかし、技術以上に「人間性」を重んじて、新たな書の歴史を切り開いた蘇東坡は、波乱に富んだ人生を送り、さまざまな中傷を受けた。
 そうした中、弟子の黄山谷は、師匠に浴びせられた、いわれなき誹謗に断固と対抗して、繰り返し、また繰り返し、師匠を宣揚していったのである。
 黄山谷は記した。
 「本朝(わが国=編集部注)の能書家は、蘇東坡をもって第一とすべきである」
 「東坡先生の晩年の書は豪壮をきわめ、海上の風やなみのような気象をもっている。こうした点が、他人のどうしても到りえないものなのである」
 「俗人たちが喜んで妄りに先生の書を譏るので、このような文を書いておく」(以上、足立豊訳「山谷題跋」、『中國書論大系 第4巻』所収、二玄社)
 わが師匠の真実を、厳然と語りに語り、書きに書いて、広め抜いていく。この弟子の執念の闘争に、師匠への報恩の誠がある。
10  使命の大道を!
 国と国の間においても、忘れてはならない文化の恩義がある。
 私は、仏教伝来の大恩ある中国、韓国、またインドなどの国々と、深い報恩の心と、未来の青年の道を開く決心をもって、平和友好の橋を結んできた。
 そうした私の行動を、饒先生は深く温かく理解してくださっている。
 〈対談で、饒教授は述べている。
 「池田先生は、1968年、いち早く中国の国際社会への復帰を盛り込んだ『中国提言』を発表し、中日友好の先鞭をつけられた方です」
 「(次代を見据えて池田先生が推進される)『青年』『教育』に焦点をあてた交流は、実に素晴らしい。
 中国と日本の架け橋として尽力された方は少なくありませんが、池田先生のように、“未来”という縦軸と“民衆”という横軸に、友好の心を広げてきた方は稀なのではないでしょうか」〉
 私は、さらに一段と、平和への対話の波を広げてまいりたい。これが、恩師から託された使命の大道だからである。
11  知恵は現場にあり──第一線の友に学べ
 知恵は“現場”にある。
 どうすれば、皆が戦いやすいか。歓喜に燃えて動けるか。どうすれば、人材が育つか。結果が出るか。勝てるか。それは、現場で戦っている第一線の同志が一番よく知っている。
 真面目な婦人部の皆さん方が一番よく分かっている。その方々の意見を、しっかりと聴くことだ。現実に即した、いい意見を、どんどん出してもらうのだ。
 人にやらせてばかりのずるい幹部になってはいけない。戦っている同志から学ぶのだ。自ら同志の中に入っていくのだ。
 役職云々ではなく、同じ人間として、人間らしく、尊い同志とスクラムを組んで一緒に進んでいくことだ。
 そこから、新たな発展が生まれる。
12  大信力を起こせ
 人生とは、行き詰まりとの戦いである。
 戸田先生は、こうおっしゃった。
 「行き詰まりを感じたならば、大信力を奮い起こして、自分の弱い心に挑み、それを乗り越え、境涯を開いていくことだ。それが我々の月々日々の『発迹顕本』である」
 先生は、こうも言われた。
 「御本尊の力というものは広大無辺である。『こうせよ!』『ああせよ!』と心に教えてくださるのである」
 根本は祈りである。常に祈りから出発するのだ。
 祈って戦った人は、聡明になる。福運がつく。
 人の見ていないところで、表面に出ないところで、100%頑張れる人が、偉大な人である。だれが見ていなくとも、戦った足跡は、わが生命に厳然と残る。
 御本尊がすべてお見通しなのである。
13  先生は叫ばれた。
 「敵のいない人間など信用できるか!」と。
 権威や権力を恐れてはならない。
 幹部が保身になり、いい子になっては会員を守れない。学会を守れない。
 偉ぶっている人間にこそ、言うべきことを言っていくのだ。
 ナポレオンは語った。
 「私と他の君主の唯一の違い」──それは、「彼らにとって、困難は行動を妨げるものであるが、私は困難を乗り越えるのが好きなのだ」(『波瀾万丈のナポレオン』潮出版社から)
 行学の二道で進め──任用試験大成功へ
14  学んだことは話せば身につく
 創価学会は、どこまでも御書根本である。
 思えば、60年前の座談会で、戸田先生に最初にお会いした折も、先生は、御書の「立正安国論」を拝して、お話をされていた。
 この秋には、伝統の教学部任用試験も行われる予定である。
 皆で真剣に御書を拝し、「行学の二道」に励んでまいりたい。
 戸田先生は言われた。
 「学会の教学では、御書を、身・口・意の三業をもって拝するのです。御文に『声仏事を為す』と仰せのように、仏法で学んだことは、どしどし、口に出して話しなさい。そうすれば、やがて身につくものです」
 先生は「観心本尊抄」の講義に際し、仰せになられた。
 「たとえ、いかほどに観心本尊抄の研究や勉学を積むといえども、肝心の御本尊に対する信仰と感激と広宣流布の決意がなければ、まったくその深意に到達しえないのみか、かえって懶惰解怠の徒となり、謗法の徒輩となって無間地獄に沈むのである。じつに誡心すべきことである」
 まことに重大なご指導である。
 さらに先生は、こうも語られた。
 「御書には、一字一句にも、大聖人のお心が込められている。それを心から一句でも読めたら偉いものだ。私は心から拝して講義をしている」
 「御書を分かろうとするんじゃない。大聖人の御精神に触れて感動することだ。そうすれば、昔、習ったことを思い出すようになるんだ。諸君も必ず過去世に習ったのだから! だから、この御書を感動しないで教えても、それは講義にはならんぞ」
 「剣豪の修行」のごとき真剣勝負の心をもって、御書を学んでいくことだ。
15  永遠に一緒に!
 わが信越の同志は、創価学会の苦難の時に、どこよりも勇敢に、どこよりも誠実に、どこよりも忍耐強く、私とともに戦ってくださった。
 あの嵐の昭和54年(1979年)の8月24日を長野研修道場で皆様方と一緒に迎えたことも、永遠に忘れ得ぬ歴史である。
 信越ゆかりの門下である阿仏房と千日尼夫妻にも、大聖人は多くの御手紙をしたためられた。
 亡くなった阿仏房を偲ばれ、千日尼を励まされた御聖訓にこうある。
 「亡くなられた阿仏房の聖霊は、今、どこにおられるであろうかと人は疑っても、法華経の明鏡をもって、その影を浮かべてみるならば、霊鷲山の山の中、多宝仏の宝塔の内に、東向きに座っておられると、日蓮は見ております」(御書1319㌻、通解)
 この宝塔とは、御本尊である。広布に生き抜いた生命は、御本尊の中に抱かれて、必ず成仏しているとの御断言である。
 亡くなった方は、あくまでも「方便」として「涅槃」の姿を現じたのに過ぎない。
 姿は見えなくとも、御本尊の中におられる。永遠に一緒に、楽しく朗らかに生命の旅路を歩んでいけるのである。
 わが創価の同志は、釈迦仏をはじめ、三世十方の仏菩薩に包まれ、守られながら、「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯を遊戯していくことができる。これが、大聖人の絶対の御約束であられる。
 そして、故人の成仏は、後継の家族が信心の大王者、大長者となってますます栄えていく姿を通して、現実に証明されていくことは、皆様方も実感している通りである。
 大聖人はまた、別の門下に「この法華経を受持する人々は、他人であっても同じ霊山に参られて、また会うことができるのです。まして、亡くなられたお父さまも、あなたも、同じく法華経を信じておられるので、必ず同じところにお生まれになるでしょう」(同1508㌻、通解)と仰せである。
 亡くなった家族も、また同じところに生まれ合わせ、一緒に生きていくことができるのである。これが妙法である。
16  人生は、だれ人たりとも、「生老病死」との戦いである。
 しかし、妙法の大良薬を持ち、広宣流布を断行しゆく創価学会という、生命の究極の安全地帯で生き抜く人生は、いかなる苦難があろうとも、一切を「常楽我浄」へ転じていくことができる。
 肺を患い、無理に無理を重ね、「30歳まで生きられない」と言われていた私が、わが同志の真心の祈りに包まれて、かくも元気に世界広宣流布の指揮を執ることができている。
 この姿それ自体が、大仏法の「更賜寿命」の仏力、法力の証明であり、「不老長寿」の大生命力の実証と、私は感謝申し上げたい。
17  民衆に力を!
 声が大事である。声が弾丸である。声が剣である。しゃべるのだ。声の力で、相手の心を開き、心に響かせていくのだ。
 また、勇気と誠実で会って語れば、越えられない壁など絶対にない。
 私と妻が今も深い親交を結ばせていただいている、元ソ連大統領のゴルバチョフ氏との出会いも忘れられない。
 「きょうは、大統領と“けんか”をしにきました! 火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう」──クレムリンの一室で初めてお会いした際、開口一番、私はこう申し上げた。
 それを通訳が伝えるや、氏は、あのゴルビースマイルを満面に浮かべ、あふれるユーモアで応戦された。
 「池田会長がこんなに“情熱的”な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです」
 出会った瞬間に心と心が結ばれたのである。〈1990年7月27日。席上、ゴルバチョフ氏は名誉会長に翌年春の訪日を明言し、テレビや新聞で大きく報道された〉
 統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領も、背が高く、きりっとして、「哲人政治家」にふさわしい、品格ある紳士であられた。〈会見は1991年6月12日〉
 ライン河のそばの大統領官邸の一室に案内してくださり、小さなテーブルを囲んで、じっくりと1時間語り合った。
 大統領は言われた。
 「我々人間は、物質的繁栄だけではなく、人間自身のこと、そして人間の連帯、共存ということに関心をもたねばなりません。SGI(創価学会インタナショナル)が、そうした方向へ努力しておられることを私は知っております」
 一流の人物は見るべき点をきちっと見ている。
 冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が崩壊したとき、大統領は、こう演説した。
 「人民が政治に方向性を与えているのです」(永井清彦訳『ヴァイツゼッカー大統領演説集』岩波書店)
 権力が人間の運命を決めるのか。違う。人間自身である。連帯した民衆である──。
 こうした歴史観の上から、大統領は、民衆を結び、民衆に力を与えゆくSGIの人間主義運動に深い信頼を寄せてくださった。
 さらに会見の4年後には、ドイツSGIの平和の城ヴィラ・ザクセン総合文化センターを訪問され、友情の歴史を刻んでくださったのである。
18  尊き金の汗
 研修道場も、守る会(共栄会)の方々をはじめ多くの皆様に、よく整備していただいており、重ねて心から感謝申し上げたい。
 戸田先生も読まれた、庶民の文豪・山本周五郎が、ある日、知人とともに歩いているときのことである。
 周五郎は「これを見たまえ」と山裾を巻いている長い歳月を経た石垣を指し示したという。
 そして、石垣を黙々と築いた人々に思いを馳せ、知人に語った。
 「こんな石垣はどこにでもある、と君は思うだろう」「だが、名利をもとめない縁の下の力持ちたちの努力によってこの世の中が維持されていることが、むしろ多いのだ、わたしは石垣をみるのが好きだ」(木村久邇典著『人間 山本周五郎』小峯書店)
 含蓄のあるエピソードである。いわんや、創価学会という人材の城を築き上げてきた同志が、どれほど尊いことか。
 私とともに気高い金の汗を流して、難攻不落の石垣を積み上げてくださった同志のことを、私は永遠に忘れない。永遠に題目を送り、永遠に顕彰し、永遠に厳護していく決心である。
 これが、創価の三代の師弟の魂であることを、知っていただきたい。
19  師は自ら始める
 インドのマハトマ・ガンジーの言葉と、その弟子ネルー初代首相が師ガンジーを讃えた言葉を皆さんに贈りたい。
 マハトマ・ガンジーは言った。
 「細かい心づかいをしていないで、他人に命令をくだしても、うまくいかないのである。みんなが自分が大将気取りになって、他人をあごで使っていては、結局なんにも行なわれないことになってしまう。ところが、指導者自身が召使いになっているところでは、指導権をねらう競争相手もなくなってしまうのである」(蝋山芳郎訳『世界の名著 ガンジー/ネルー』中央公論新社)
 ここに、創価学会の和合の世界がある。
 さらにネルーは、ガンジーを讃えて言った。
 「彼(ガンジー)が指示するすべての改革案、彼が他人に与えるすべての忠告は、真先に自分自ら実行する。彼は常に自ら始める」(ジャワハルラル・ネルー著、ガンジー平和連盟訳『マハトマ・カンジー』朝日新聞社)
 私自身、広宣流布の大指導者であられる、戸田城聖先生の指示も、忠告も、真っ先に、自分から実行してきたつもりだ。
 これが、私の永遠の誇りである。
 「わが創価の新時代のリーダーも、かくあれ!」と申し上げ、私の入信記念日のスピーチとさせていただきたい。
20  結びに、新潟県中越沖地震で被災された方々に重ねて心よりお見舞い申し上げます。
 被害の大きかった柏崎市を中心とした地域の皆様方も、勇敢に立ち上がり、希望に燃えて再建へ戦っておられることは、よくうかがっています。本当にご苦労さまです。妻とともに、お題目を送らせていただきます。
 長時間、本当にありがとう! またお会いしましょう!

1
2