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日蓮大聖人・池田大作

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首都圏合同研修会  

2007.8.19 スピーチ(聖教新聞2007年下)

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1  楽しくやりましょう!
 きょうは、東京、東海道、関東の代表の皆様が集っておられる。
 生き生きと進もう! 生き生きとしていなければ、連帯の強さは生まれない。
 とくにリーダーは、草創期のような燃える息吹がなければならない。
 戸田先生は言われていた。
 「学会は、人材が、どんどん抜擢されるような、生き生きとした組織でなければならぬ」
 そのためにも、大事なのはリーダーの成長だ。
 皆と協議をする場合にも、そっけない、機械的な言い方はいけない。それでは心に入らない。
 わかりやすく、ていねいに説明し、「これで、よろしいでしょうか」と声をかける。それでこそ皆が安心する。独善になってはいけない。
2  戸田先生は本当に鋭かった。急所を見逃さない。いつも「陰の人」を大切にされた。
 「陰の力」がどれだけ大事か。
 たとえば、会社でいえば、経理や人事。目立たなくとも、一番の要であり、死活にかかわる立場である。
 先生は、陰で真剣に戦う人こそ、ほかのだれよりも大事である、大功労の人である、しっかり頼むと励まされた。
 私たちも、広布を支えるすべての友に、心からの賞讃と感謝を捧げてまいりたい。
3  会長就任の日から死身弘法で
 私自身、同志を護り、広布を進める陰の力になろうと決めてきた。誠実に、急所、急所に取り組んだ。真剣に祈りに祈り抜いてきた。
 昭和35年(1960年)5月3日。
 私は、戸田先生のあとを継ぎ、第三代会長に就任した。日大講堂に2万人の同志が集っての晴れの式典であった。
 その日、家に帰ると、妻は言った。
 「きょうは、わが家のお葬式だと思っております。思う存分、創価学会のため、学会の皆様のために尽くしてください」
 “お葬式”に、赤飯はおかしいからと用意もしていなかった。
 この峻厳なる決意と死身弘法の覚悟で、私ども夫婦は、学会を護りに護ってきた。
 19年後の昭和54年4月24日、私は会長を辞任した。嫉妬に狂った邪宗門と、恩を忘れた反逆者の謀略であった。
 しかし、私は何も変わらない。何も恐れない。私は戸田先生の直弟子である。
 その日、妻に、会長を辞めたことを伝えた。妻は何も聞かずに言った。
 「ああ、そうですか……。ご苦労様でした。健康でよかったですね」
 いつもと変わらない笑顔であった。
4  仏法の根幹は師弟である。
 大事なことは、いかなる逆風が吹き荒れようとも、「師弟の魂」が、わが五体を貫いているかどうかである。
 たとえ、最高幹部であっても、師弟という柱が腐れば、魔に食い破られる。仏罰は免れない。仏法の因果律は厳しい。
 役職ではない。立場ではない。師弟の魂が燃えているかどうかだ。
 初代会長の牧口先生に命をかけて尽くされたのが、第二代会長の戸田先生である。
 戸田先生に命を賭して尽くしてきたのが、第三代の私である。
 この三代である。厳粛にして深き、世界一の師弟のつながり──ここに学会の一切がある。
 戸田先生は私を徹して鍛えてくださった。教育してくださった。その厳愛の薫陶ありて、今の学会がある。
 鍛錬を避けていては、師弟不二にならない。
5  油断を排せ!
 日蓮大聖人は、迫害と戦っていた弟子の四条金吾に、こう忠告されている。
 「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし
 「心にふかき・えうじん用心あるべし
 油断してはならない。
 「敵と申す者はわすれさせてねらふものなり」とも仰せである。
 50年前の昭和32年(1957年)の8月、戸田先生は、北海道を訪問された。
 夕張炭労事件の直後のことである。
 私は、事前に、警備や安全面など、あらゆる準備を完壁に整えた。
 先生は、若き力みなぎる、北海道の体育大会に出席してくださった。
 先生がどこに行かれるときも、私は、身に影の添うごとく、先生を厳護し抜いた。それが弟子である。
6  同志を護り抜く
 大聖人は、“人の心が固ければ、諸天善神の守りは必ず強い”という法理を、繰り返し教えておられる。
 大事なのは、広布に生きる「強き一念」である。その人を、諸天は断じて守るのだ。
 邪悪な勢力に付け入る隙を与えない。
 それには、現実の「行動」と「祈り」がなければならない。
 「師弟の大城である学会を、断じて護る!」
 こう深く一念を定めた真剣な婦人部の、とっさの機転と連携で、一大事を未然に防いだこともあった。
 そういう方こそ大功労者であると、私は最大に讃嘆してきた。
7  私は、これまでも全職員が帰ったあと、しばしば本部内を点検に回った。真夜中に巡回したこともある。
 昼夜を問わず、恩師を厳護してきた私は、そうした行動が、わが身に染みついている。
 そういう幹部がどれだけいるか。学会厳護──この精神なくして、リーダーの資格はない。
 牙城会の若き青年とともに、本部周辺を見回ることもあった。
 何か異常はないか。花壇に懐中電灯をあて、不審物の有無を確認しながら、パトロールに歩きもした。
 無事故といっても、かけ声だけでなく、具体的に、一つ一つ、手を打つことである。
 たとえば、灰皿には、必ず水を入れておく。
 暗い場所や死角をつくらない。
 そして、何があっても動じない気概をもつことである。
 とともに、何も起こさせないという注意力が大事だ。事前の確認を怠ってはいけない。
 私は、会員の皆様を厳護するために、万全の態勢を確立してきた。
 師匠を護り抜く! 同志を護り抜く!
 今、その精神は、大切な行事を支えてくださる役員の方々、全国の牙城会、創価班の友に、厳然と受け継がれていると確信する。
 私は「いつも、ありがとう! 本当にご苦労さま!」と心から感謝申し上げたい。
 「新しい課題を得るたびに若返っていく」 スウェーデンの作家・ストリンドベリ
8  「皆に信心の楔を打ってくるんだ」
 「新しい課題を与えられる度に、若返って行く」(千田是也訳『俳優論』早川書房。現代表記に改めた)とは、スウェーデンの作家ストリンドベリの言葉である。
 戸田先生は、常に私に「新たな課題」を与えてくださった。
 きょうは関東の代表も見えられている。青春時代、埼玉の川越を何度も訪れたことは忘れられない。
 昭和26年の9月。戸田先生は、志木支部川越地区の「地区講義」の担当者に、私を任命した。
 弱冠23歳である。
 先生は私に「一番遠いところへ行ってこい」と言われた。
 志木支部は埼玉初の支部である。いわば先生は、埼玉の未来を私に託されたのだ。
 先生は言われた。
 「皆に信心の楔を打ってくるんだ!」
 「戸田の名代として、毅然として行ってきなさい!」
 私は、どんなに体が疲れていても、真剣に研鑚し、題目をしっかり唱えて御書講義に通った。
 足かけ3年、10度にわたった。
 「佐渡御書」「聖人御難事」「生死一大事血脈抄」などを満々たる生命力で講義した。
 男らしく! 青年らしく! 新たな波動を広げていったのである。
9  昭和30年4月の統一地方選挙は、学会が支援した初めての選挙であった。
 東京・大田区(都議選)と横浜・鶴見区(市議選)の2つの選挙区である。
 戸田先生は、「民衆の幸福のために頼む」と、私を両方の支援の最高責任者に指名された。
 私は、恩師の命のままに、わが身を投じた。そして、どちらも最高点で当選を果たしたのである。
 戸田先生は、会心の笑みを浮かべられた。
 「大作はすごいな」
 「大作は、宝の中の宝だ。私の最高の誇りだ」
 こんな、うれしい言葉はない。
 皆さんも、何でもいい、何かで「あの人こそ誉れだ」と言われる人になっていただきたい。
10  東海道の方々も、ようこそ!
 静岡の夏季講習会で語られた戸田先生の指導を贈りたい。
 「御本尊の功徳は、決して言葉では言い尽くせない。しかし、信心が弱くてはいけない。願うだけで行動がないといったような横着な信心では、決して願いはかなわない」
 まず祈る。そして勇んで一歩を踏み出すことだ。必ずや、「福智」あふれる未来が開ける。
11  戸田先生は「後継の弟子」に期待された。
 「若々しい生命、若々しい境涯で一生を送れる人は、もっとも偉大である」と語られていた。
 青年こそ次代の宝である。青年の成長を、世界が待っている。
 青年部の諸君! 一切をよろしく頼む!
 戸田先生も読まれた近代日本の思想家・高山樗牛の言葉を贈りたい。
 「青年の上に築かれたる勢力は、天下の一大勢力也」(『樗牛全集第2巻』博文館)
 青年の手で、新たな創価学会の時代を築き上げるのだ。「慈悲」と「勇気」の宝剣を掲げて!

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