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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表研修会  

2007.8.14 スピーチ(聖教新聞2007年下)

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2  先日、東京・江東の友が、喜んで報告してくれた。
 かつて江東区が、区内の新成人を対象に行った「尊敬する人物は誰か」とのアンケートで、光栄にも、私の名前が上位に挙げられていたというのである。
 〈アンケートは昭和44年から52年の間に行われ、「両親」に次いで名誉会長が筆頭に挙げられた。ほかにケネディ大統領、ヘレン・ケラー、野口英世、松下幸之助、福沢諭吉らが挙がった〉
 「感動した本は何か」との問いには、私の『人間革命』『私の人生観』が挙げられたそうである。ありがたいことだ。
 江東の友は「わが地の誇り高き歴史です」と報告してくれた。その真心が何よりもうれしい。
 自分のことであり、大変に恐縮だが、江東の皆様への感謝を込めて紹介させていただいた。
 江東は、私が男子第1部隊長として指揮を執った、思い出多き天地である。江東の同志の幸福と勝利を、私は心から祈っている。
3  民衆利用の勢力とは猛然と戦え
 平和を阻む「一凶」とは何か。
 それは、「民衆を蔑視し抜くという権力の魔性」であると、戸田先生は喝破された。
 今は「主権在民」である。「民衆が主人」だ。
 権力者は民衆に尽くすべき立場である。
 それを忘れ、私利私欲のために民衆を利用する権力者に対しては、火ぶたを切って、猛然と戦わねばならない。
 「権力の魔性」から民衆を守るには、「力ある指導者」をつくるしかない。これが先生の結論であった。
 ゆえに、青年への薫陶は厳しかった。
 民衆の正義の連帯を破ろうとする者がいたならば、青年部が直ちに戦えと厳命された。
4  戸田先生「苦労した人を幹部に」
 私は青年時代、初代の渉外部長を務めた。悪意の中傷を行う者がいれば、即座に飛んでいって厳重に抗議した。
 きょうは関東の代表もおられるが、埼玉や栃木にも行った。無理解や偏見を、厳然と正した。相手が非を認めるまで一歩も退かなかった。
 師の心を、わが心として、動きに動いた。死にものぐるいで戦った。そして今日の「世界の大創価学会」を築き上げたのである。
 先生は「苦労した人こそを、幹部として登用していくのである」と、はっきり言い残された。
 ずる賢く苦労を避け、信心を失い、堕落する幹部が出たならば、皆で峻厳に戒めていくことだ。
 そうでなければ、どこまで傲慢になるか。仏子が食い物にされるか。断じて許してはならない。
 私は、今こそ、師弟に徹する「本物の人材」を育てたい。「本物の青年」を育てたい。
 そして「本門の池田門下よ、新時代を勝ちまくれ!」と声を大にして叫びたい。
5  相手に会った瞬間が勝負!
 いよいよ、全国で広布第2幕の大行進が始まった。
 私のもとには、決意の報告が、続々と届いている。一つ一つが、最高に尊い、永遠に残りゆく広布の歴史である。
 新しき「拡大」の根本の力は、何か。それは、祈ることだ。
 ──師匠がつくった組織です。広宣流布の組織です。同志のため、平和のため、世界のための組織です。
 御本尊様、どうか、わが組織を守ってください。増やしてください──そして、具体的に目標を掲げて祈っていくことだ。
 師匠のため、同志のため、広宣流布のために──この一点に心を定める。これが大前提だ。
 自分のための祈りだけでなく、「広宣流布のために」という大願に立ってこそ、偉大なる仏力・法力は涌現する。秘められた無限の力を発揮することができる。
 戸田先生は、心の壁を破る対話のポイントを、こう教えてくださった。
 「大確信で話すのだ。そして、相手に会った瞬間、まず『勝つ!』と腹を決めるのだ」
 人を動かすのは、形式ではない。肩書でもない。大事なのは、人の心に感動を与えることだ。
 「声仏事を為す」である。
 皆の心をつかみ、皆の心に入っていくような大確信の声で、広宣流布の勝利劇──「今生人界の思出」を幾重にも綴っていただきたい。
6  きょうは広布の花・女子部の代表もおられる。日本一の女子部をつくっていただきたい。
 若き女性が、哲学と友情のスクラムをがっちりと組んでいる。これが、どれほど尊いことか。
 広布に走る女子部の友に記念の句を贈りたい。
  誰人も
    見るも見ざるも
      我 咲かむ
 壮年部、婦人部も、女子部を大切に守り、支えていただきたい。
 女子部を大事にしたところが勝つ。女子部は学会の宝である。朗らかな前進を、皆で応援していきたい。
 師子となりて一人立て!
7  広宣流布──それは、ただひたすら、黙々と、人々の幸福のため、世界の平和のために戦い抜いてきた「陰の人」「無名の庶民」による、未曾有の大民衆運動である。
 だれも見ていないかもしれない。烈風の日も、嵐の日も、あるかもしれない。
 しかし、私は、自ら決めた道を行く。師子となりて、一人立つ。
 これが、学会魂である。私自身、こう決めて生き抜いてきた。
 あらゆる迫害を受けながら、陰で、戸田先生をお守りし、学会を守り抜いて、今日まで走り続けてきた。
 リーダーの気迫、勢いで決まる!
8  恩師を世界に宣揚したい──私の人生は、ただ、これだけである。
 師匠ほど大切な人はいない。師弟こそ仏法の魂である。師弟に徹し抜けば、打ち破れない壁などない。
 先生は断言された。
 「戸田の言う通りに実践すれば、必ず結果が出る」
 本当に、その通りだ。
 恩師のおっしゃる通りにすべて実践したから、今の私がある。
 逆に、表面では先生を尊敬するふりをして、いざ難を受けると、かえって師を罵倒する、毒蛇のような人間もいた。
 尊敬とは正反対のヤキモチである。人の心は恐ろしいものだ。
 戸田先生は鋭く見抜かれていた。
 「自分よりも勝れた者があると妬んだり、悪口を言ったりしがちなものだ。これは、すべての事業や企てを破壊する原因で、人柄の小さい、度量の狭い人間である」
 広布のために捨て身となり、生命をかける決心がなければ、真の仏弟子ではない。気取りや格好や口先だけでは法盗人である。諸天も動かない。
 リーダーの気迫、行動の勢い、心に響く訴えが本末究竟して、全軍が生き生きと前進していく。
 “殿様”などではなく、生涯“一兵卒”として、真剣に働くのだ。
 ともあれ、仏意仏勅の広宣流布の人生ほど、尊いものはない。
 その聖業を、真剣に実践されている皆様方は、まさしく世界最極の善人である。永遠の幸福者であり、勝利者である。
 ここ太陽の国・群馬をはじめ、大関東の皆様が大前進されている様子も、つぶさにうかがっている。本当にうれしい。
 広布の労苦には一切、無駄はない。
 さあ出発しよう! 自分のために! 人材を育てるために! 新しい希望の道を開くために!
9  軍事力による征服から法による統治へ!
 かつて、「王の中の王」と呼ばれた指導者がいた。
 彼は、仏法の思想を基調として、平和と福祉の政治改革を行い、人類史に名を留めた。その名は、インドのアショカ大王である。
 アショカ大王については、これまでも幾たびとなく語ってきた。
 東京富士美術館の創立者として、「アショカ、ガンジー、ネルー展」を開催したこともある。〈1994年10月から95年3月まで、東京・仙台・福岡・名古屋で行われた〉
 アショカ大王は、今から約2300年前、マウリヤ朝の王子として誕生した。
 イギリスの著名な作家H・G・ウェルズは、アショカ大王を「これまでに世界に現れた最も偉大な帝王の一人」と讃えている。
 私が対談した、「ヨーロッパ統合の父」クーデンホーフ・カレルギー伯爵も、「世界で最高に尊敬したい大王だ」と強調された。
 イギリスの歴史学者トインビー博士も、大王を讃嘆してやまなかった。
 また、フランスのアンドレ・マルロー氏、美学者のルネ・ユイグ氏、アメリカのポーリング博士、キッシンジャー博士とも、アショカ大王をめぐって語り合ってきた。
 大王は、自身の信念を直接、民衆に訴えるために、岩石や石柱に「法勅」を刻んで残した。この法勅文は、欧州の諸言語に翻訳されている。
 一地域にとどまらず、世界が、アショカ大王を理想の指導者として敬愛しているのである。
10  戦争の惨劇に直面し、改心
 アショカ大王の生涯は波乱に満ちていた。当初、彼は暴虐を極め、人々から恐れられる悪王であった。
 その大王の転機となったのは、カリンガ国(現在のオリッサ地方)との戦争である。
 カリンガ国では10万人の命が奪われ、15万人が捕虜になったといわれる。
 無数の民衆が家を焼かれ、親を失い、子どもを失った。嘆き、悲しみ、絶望、怒りが満ちた。
 まことに、戦争ほど残酷なものはない。
 アショカ大王は、こうした民衆の苦しむ姿を目の当たりにした。そして、痛切な悔恨にさいなまれた。
 そして、「軍事力による征服」から、「法(ダルマ)による統治」へと、大転換をしていったのである。
 この点をめぐって私は、インドのラジブ・ガンジー現代問題研究所の招聘で、講演も行った。
 〈池田名誉会長は19997年10月、ニューデリーのラジブ・ガンジー財団本部で「『ニュー・ヒューマニズム』の世紀へ」と題して講演を行った〉
 また、インドの哲学者ラダクリシュナン博士との対談でも、大いに論じ合った。
 ラダクリシュナン博士は語っておられた。
 「ガンジーはアショカ大王に、理想的な国家の統治者としての姿を見いだしました。
 大王が、戦争が無益であることを深く理解していたこと、そして彼がのちに国家政策として戦争を放棄したことに、ガンジーは強く惹きつけられたのです」
 「最初は暴君と恐れられたアショカ大王でさえ、平和の指導者へと変わることができた。自己を変革することができた。
 つまり“アショカ”は、一人ひとりの心の中にいる。だれもが自分を変えることができる──そうガンジーは見たのです」
 「ガンジーは、『征服王』が『平和の使者』に変わったことは、仏教の教えの偉大な勝利であると言っています。
 アショカ大王の偉大さは、彼が仏教の教えのなかに、変革、啓発、能力の強化のための、合理的で倫理的な原理を見いだしたことにあります」
11  アショカ大王が自らの過ちを悔い、改心するうえで、彼の甥ニグローダに大きな影響を受けたという伝承がある。
 はつらつと修行に励む若い生命が、王の胸を揺さぶり、暴虐の心に慈悲の光を灯したというのである。
 ニグローダは、今でいえば、ちょうど青年部か未来部の年代だったであろう。
 正しい信仰に励む「一人」が、どれほど大きな存在であるか。
 真面目に、希望をもって生きる青年の凛々しい姿は、人々にどれほどの感動を広げるものか。
12  戸田先生は、「一人の青年が命を捨てれば、広宣流布は必ずできる」と断言された。
 戸田先生にお会いしてより、60年。私は、その「一人」となることを深く誓願し、命を賭して戦い抜いてきた。
 今、本門の青年部の諸君に、私は「時代を変えゆく『一人』たれ」と呼びかけたい。
 君たちこそ、「法華経の命を継ぐ人」だからである。
13  無料の宿泊所や病院を充実
 アショカ大王は、自らの信念を現実の政治に反映していった。
 とくに、公共事業の発達は目覚ましかった。
 病院を充実させ、各地に薬草を植えた。暑さを防ぐため、道ばたに井戸を掘り、樹木を植えた。
 「女性のための奉仕者」という役職も新設。無料の宿泊所を作って、旅行者の便もはかっている。
 インドの歴史上、このように民衆のための公共事業を行ったのは、アショカ大王が初めてだったと考えられている。
 アショカ大王のメッセージ 「王は皆の模範たれ 道徳的実践者たれ」
14  「私は政務で満足したことはない」
 インド哲学研究の大家・中村はじめ博士は、アショカ大王の政治姿勢についてまとめておられる。
 「独裁的あるいは専制的傾向は排除され、大官のあいだではつねに会議を開いて事を決した。
 しかし、その会議において論争がおこり、あるいは修正動議が提出されてまとまらなかった場合には、王自身がこれを決裁した」
 合議を重んじ、自らの責任において決断する。
 名指導者の采配であったようだ。
 大王の法勅には、次のようにある。
 「わたしはみずからその精励に関しても、また政務の裁断に関しても、いまだかつて満足を感じたことがない」
 独善を排して、常に向上、常に前進、常に変革──この大王の姿勢は、すべてのリーダーにとって、重要な手本であろう。
 大王は仏教に基づくダルマ(法)を広めるために、自ら各地に赴いた。また、遠くシリアやエジプト、マケドニアなどにも使節を派遣している。
 しかし、他の宗教を排斥することはなかったようだ。
 「一切の宗派のものが、一切処(=あらゆる場所)において住せんことを希う」との寛容の心で、宗教間の平等を重んじたのである。
15  アショカ大王の法勅には、次の文言が刻まれている。
 「実にわたしがなしたいかなる善いことも、すべて世人がすでにこれを遵奉実行し、また今これに随順している」
 この法勅について中村元博士は、「(アショカ大王は)帝王は人民一般の師範となり、世人が彼を模倣するであろうことを要求していたのである。
 そうして、帝王が自ら模範となりうる道徳的実践者であるべきことを、未来のすべての国王に要求している」と論じている。
 あらゆる指導者の条件は、自らが民衆の模範となることだ。そして、自身と同じ、否、それ以上の後継者を育てることだ。
16  「どのような時もどこでも報告を」
 アショカ大王は、大勢の人に分け隔てなく接する姿勢であった。
 ある時、仏教の修行者のだれに対しても差別なく礼拝する大王を、家臣が見咎めた。
 ──王よ、一切の階級からの出家者に礼拝するのはよくありません──
 大王は答えた。
 ──仏教の修行者たちの間では、生まれの区別は滅び去っているが、徳の区別は滅んではいない――すなわち、修行者の尊さは、身分で決まるのではなく、「徳」で決まる。これが大王の確信であった。
 広宣流布においても、まったく同じである。役職ではない。社会的な肩書でもない。
 「信心」が、どれだけ強盛であるか。「人格」が、どれだけ誠実であるか。そして、「広宣流布」のために、どれだけ苦労し、汗を流して戦っているか。これが絶対の基準なのである。
 さらに、法勅には刻まれている。
 「どのような時にも、どこにおいても、上奏官(=報告する役人)は人民に関することを私に奏聞しなければならない」
 いつ、いかなる時も、民衆の幸福のためには、わが身を惜しまない。これが、真の指導者の一念である。
 あの友は、元気だろうか。病気は治っただろうか。あの青年は、生活は大丈夫だろうか。悩んでいることはないか。ご家族の様子は、どうだろうか──。
 本当の指導者は、同志のことが、片時も心から離れないものである。
17  人間愛に燃えて
 法華経の寿量品には、「毎自作足念」(つねみずから是の念をす)とある。
 仏は衆生の成仏のために、常に心を砕いている、という意味である。
 日蓮大聖人は、「日蓮は、生まれた時から今にいたるまで、一日片時も心の休まることはなかった。ただ、この法華経の題目を弘めようと思うばかりであった」と仰せである(御書1558㌻、通解)。
 この御心に、まっすぐにつながって、広宣流布のため、「死身弘法」を貫いてこられたのが、初代・牧口先生であり、二代・戸田先生であられた。三代の私も、まったく同じ「不惜身命」の決心で、60年間、戦い抜いてきた。
 仏法の「慈悲」と「正義」の精神に目覚めて立ち上がったアショカ大王の生涯は、壮大なる「人間革命」の劇であったといえよう。
 大王の人徳と業績は、あらゆるリーダーの模範として、21世紀の指標として、ますます輝いている。
 私たちの「立正安国」の前進も、アショカ大王のような優れた指導者を輩出する「指導者革命」が重要な側面となる。
 今、私は何も欲しいものはない。欲しいのは、ただ「人」である。
 平和、文化、教育、ありとあらゆる分野で、正義と人間愛に燃える指導者よ育て!
 命を注いで民衆を守り、民衆の幸福のために戦い抜く大指導者よ、陸続と育て!
 これが私の祈りである。
18  悠然と朗らかに創立80周年へ!
 日蓮大聖人の仏法は、「立正安国」から出発し、「立正安国」に帰着する。
 60年前、私が戸田先生と初めてお会いした座談会で、先生が講義されていたのも「立正安国論」であった。
 「立正」──正しきを立てて、「安国」──国を安んずる。
 この「国」は、何を指しているのか。
 日寛上人は「安国」の両字について、「文は唯日本及び現世に在り、意は閻浮及び未来に通ずべし」と記されている(「安国論愚記」)。
 文の上では、日本および現在を指しているが、その真の意義は全世界、そして未来に通じている、との仰せである。
 創価の「立正安国」の行動は、日本一国にとどまらない。
 私たちの舞台は全世界だ。全人類が、私たちの友人である。
 「世界広宣流布」の雄大なスケールから見れば、島国の毀誉褒貶の風など、小さなことだ。
 広宣流布は「末法万年尽未来際」を目指す、長い長い、永遠の戦いなのである。目先の変転などに、一喜一憂する必要はない。
 アショカ大王は、自身の信念を法勅に刻んだ。
 「われわれは人びとの信頼を得なければならない。すべての人は私の子である。私は王子のためと同様に、〔かれらが〕現世と来世の、すべての利益と安楽を得ることを願う」
 創価の精神も同じである。
 3年後の2010年は、「立正安国論」の国主諫暁から満750年の佳節である。
 また、学会創立80周年、私が会長に就任してより50周年となる。
 悠然と前へ向かって、正義と平和の信念の行動を、一段と朗らかに進めてまいりたい。
 アショカ大王のごとき大指導者を育成しながら、威風も堂々と!
 〈アショカ大王については編集部でまとめる際に、中村元著『インド史Ⅱ』春秋社、塚本啓祥著『アショーカ王碑文』第三文明社、山崎元一著『アショーカ王とその時代』春秋社、木村日紀蕎『アショーカ王とインド思想』教育出版センターなどを参照しました。獅子柱頭の写真は東京富士美術館「アショカ、ガンジー、ネルー展」の図録から〉
19  今年の夏は、例年にもまして暑い日が続く。これだけ暑さが厳しいと、何の話を聞いても、すぐに忘れてしまうかもしれないが、次の勝利のために、広宣流布の未来のために、少々、お話ししておきたい。
 東京牧口記念会館の顕彰室には、初代会長の牧口先生が生前に使っておられた御書が、大切に保管されている。
 牧口先生の御書には、たくさんの書き込みがある。
 有名な「声仏事を為す」の一節にも、傍線が引かれていた。この一節のままに言論戦を貫いた、尊いご生涯であられた。
 私たちも大いに「声」を使い、「声」を惜しまず進んでいきたい。
 「声を出すこと」は、健康にもよい影響を与える。
 声を出して話す時、空気の使用量は、ふだんの3〜5倍になるそうだ。
 そして、取り込まれた多くの酸素が、体内の細胞呼吸を、より活性化させる。
 活発に声を出し、人々を励ます。手を使い、足を使い、心をくだいて、広布を進める。「仏の仕事」を行う私たちは、自他ともに「生命の健康」を増し、威光勢力をいよいよ増していくのだ。
 恩師の魂魄を永遠に留めよ
20  戸田先生は、昭和28年(1953年)、学会本部が信濃町に移転した折、会長室よりも立派な一室を「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口先生のお写真を大切に置かれた。
 戸田先生は言われた。
 「ここには、牧口先生の生命が、おられる」
 「ここで私は、常に牧口先生とご一緒に、指揮をとっているんだよ」
 「『法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し』である。
 学会の創始者であられる牧口先生の精神を、学会本部にとどめ、讃嘆し、宣揚し、敬愛していくのは、当然ではないか。
 広宣流布の団体として発展していくための、基本中の基本である」
 そして戸田先生は厳命なされた。
 「将来、日本は当然のこと、全世界にも多くの会館をつくるであろう。
 その際に、『師とともに』という学会精神を根幹としゆく『恩師記念室』を設け、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくべきだ」
 これが、各地の会館に設置されている「恩師記念室」の淵源である。
 「恩師記念室」は、創価三代の師弟の魂魄を留める、学会永遠の記念室である。代々の会長は、この恩師記念室を大切にし、責任をもって厳護することだ。
 特別の会合の時には、恩師記念室に代表が集い、師弟の精神を受け継ぐ信心を厳粛に確認し、勤行をする。「広宣流布」と「死身弘法」を誓い合う、深き魂の儀式の場である。
 あらためて、こうした意義を確認しておきたい。
21  「島国根性」の嫉妬を打ち破れ
 イギリスの劇作家シェークスピアは綴った。
 「最大の逆境によって、真に精神が試されるのだ」(「コリオレーナス」)戦後の混乱期、戸田先生のもとで、襲いかかる苦難を乗り切っていった私の実感も、まさに、そうであった。
 先生は、学会の本格的な復興に取り組んでおられた。敗戦を経て、「いよいよ日本の宿命転換の時だ」という思いであられた。
 私の一生は、戸田先生のため、広宣流布のために捧げてきた。
 陰に陽に、重要な仕事を成し遂げてきた。20代、30代のころから、民衆の城である創価学会を守るために、全身全霊を傾けてきた。私の妻が、すべて知っている。
 フランスの女性作家ジョルジュ・サンドは「あらゆる中傷は迫害」であり、「あらゆる侮蔑的な言葉は侵害」であると述べている(加藤節子訳『我が生涯の記』水声社)。
 その通りだ。
 哲学者の内村鑑三は、ある女性記者を励まして、手紙を送っている。
 “滅亡に瀕している日本の社会では、何か他人の悪いところはないかとつけねらっており、ささいなことも、すぐに大げさに吹聴されます。
 お互いに、このような腐敗極まる社会で生きていくためには、十分な注意が必要です”と。
 もちろん、今とは時代が違う。しかし、日本の「島国根性」は相変わらずであると指摘する声は多い。
 正しいものを正しいと評価できない。優れたものに嫉妬する。そうした心の狭さは、海外から見ると、よくわかる。
 また、焼きもちを焼かれた当人が、どれだけひどい実情か、一番、よくわかっている。
 学会の前進も、一面から見れば、嫉妬との戦いであった。
 私は、大変な時も、苦しい顔など一切、見せなかった。難こそ仏法者の誉れであるからだ。
 あらゆる嵐を乗り越えて、今、学会は立派な広布の基盤ができた。しかし、それに甘えて、幹部が愚かになってはならない。一生懸命戦った人が損をしてしまう。恐ろしいことだ。
 「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」と仰せである。
 最高幹部でありながら、口ばかりで、現実に難と戦わない。難と戦う師匠を、さも当たり前のように傍観し、自分は安楽に生きる──そうした人間もいた。これほど卑怯なものはない。
 戸田先生が事実無根の中傷を受けたなら、私は、すべて抗議に行った。
 医者から“30歳までしか生きられない”と言われた体であった。命がけで戦った。裸一貫で、口先でなく、学会のために戦ってきた。わが師と会員に仕えてきた。
 この心がなくなると、師弟を忘れた、情けない学会になってしまう。ゆえに、私は何度も言っておくのである。
22  先んじて動け 人民を労れ
 『論語』に、政治の要諦に触れた一節がある。
 弟子の子路し・ろが、政治の道について問う。
 孔子は「之に先んじ之を労す」と答えた。
 ──まずなさねばならぬことを、人民に先立ってせよ。そして人民を愛情を以ていたわれ。これが政治の根本だ──こういう意味である(吉田賢抗著、明治害院)。
 ポルトガルの大詩人カモンイスは綴った。
 「およそ手にする権力を利用して人によしなき侮辱を加えるものは勝者ではない、なぜなら真の勝利は正義の実行を知ることだからだ」(小林英夫・池上岑夫・岡村多希子訳『ウズ・ルジアダス』岩波書店)
 権力は、自分のためや強者のためにあるのではない。人のため、弱い立場の人のためにある。この一点に徹してこそ、政治における「正義」は実現する。
 指導者がこの原理を忘れた時、国は滅びる。そうならないために、賢明な庶民の監視が必要なのだ。
 戸田先生は語られた。
 「さまざまな世情に、学会幹部は一喜一憂して紛動されては断じてならない。そんな心弱い、惰弱なことでは、広宣流布の大業を遂行することは、決してできない」
 大事なのは、この巌の信念である。
 広宣流布の大道は、いささかも世情に左右されない。また、左右されてはならない。
23  リーダーは必ず「信義」を貫け
 日蓮大聖人は、題目の力用を讃えて、「太陽が東方の空に昇ったならば、南閻浮提の空は皆、明るくなる。太陽が大光を備えておられるからである」と仰せである(御書883㌻、通解)。
 題目は、無限の力を引き出す。どんな戦いであれ、真剣に題目をあげることだ。
 誰にでも、自分にしか果たせない使命がある。その使命を堂々と果たすための舞台を、御本尊からいただくのである。そして、断固勝つのだ。
 会合等で人が集まったら、幹部は皆を「喜ばす」のが使命である。決して「動かす」のではない。
 また、同志に対して、師弟の心を伝えようとせず、自分本位の意見を押しつけようとする。そんな話は駄目だ。真剣勝負で、人の心を打つ。その努力がなければ、新鮮味もなくなってしまう。
 討議では、頭を使い、知恵を出し尽くさねばならない。そして、決めたことは絶対に守るのだ。それが「信義」である。それを、他人にやらせて自分がやらなくなると、組織は潰れる。
 この点、戸田先生は実に厳しかった。
 その戸田先生に、私は仕え抜いた。先生の苦境を救うために奮闘した。
 「おれは大作という弟子をもった。それだけで満足だ」──そう言っていただけたことが、私の無上の誇りである。
24  ノーベル平和賞の受賞者である、ケニアのマータイ博士と語り合った際、博士は仰しゃった。
 「これから“何かを変えたい”と思うのであれば、まず“自分自身から”変えなければならない。そして、自分自身が先頭に立って変えなければいけない」
 「行動の人」の一言は重い。私も、博士の言葉に完全に同意する。
 学会の幹部は、心が遊んではいけない。陰日向があってはいけない。
 だれが見ていなくても、御本尊は厳しく御覧になっている。
 最高幹部は、皆が「あんなに働いてくれて、申し訳ない」と思うくらいに、飛び回って、いろいろな戦いをやるのだ。
 そうすれば、皆もうれしい。そして、勝てば皆が喜んでくれる。
 まだまだ暑さが続く。熱中症などにくれぐれも気をつけて、体を頑健にして、戦ってまいりたい。
25  いよいよ、新しい広布の戦が始まる。
 牧口先生は「われわれは、これからのことを考えて生きていくのだ」と語られていた。
 戦いの急所は何か。その一つが「責任者を明確にする」ことだ。そして最高の祈りと最高の作戦である。
 戸田先生は「想定されるあらゆる事態に備えて、的確な対策を立てよ」と教えられた。
 勝利を呼びこむ風がなければ、新しい風を起こすのだ。
 何より、皆をほめ讃えることである。同志がほっとして前進していけるよう、名指揮をお願いしたい。
 さらに、皆への話は、スカッとして明快でなければならない。くどい話は、だめだ。格好をつけた、偉ぶった話は、最低である。
 皆の胸に、自分の命が入るように、魂が響くように語るのだ。
 皆が「そうだ!」「やるぞ!」と奮い立つ。心と心が合致して、すっきりと戦える。そこに勝利への第一歩がある。
26  恩師の最大の苦境を一人、護る
 8月になると、思い出す。恩師・戸田先生の事業が行き詰まり、最大の苦境に陥ったのが、暑い8月であった。
 昭和25年(1950年)のことである。
 先生は、学会の財政的基盤のために事業に取り組まれた。しかし、前年の政府の緊縮財政が不況を呼び、窮地に追い込まれていく。
 戸田先生の信用組合に、大蔵省から営業停止命令が出されたのが、8月22日であった。
 この日、22歳の私は、日記に記した。
 「私は再び、次の建設に、先生と共に進む。唯これだけだ。前へ、前へ、永遠に前へ」
 8月24日。戸田先生は創価学会の理事長を辞任される。
 この秋から昭和26年の初頭が、最も厳しい絶体絶命の時期であった。
 多くの社員が去っていった。私は一人、先生をお護りし抜いた。
 耐えに耐え、時をつくった。一切を打開するために、駆け回った。
 どれほどの苦闘であったか。言語に絶する。
 そのなかで、ひたすらに題目を唱え抜いた。
 御義口伝には「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」と仰せである。
 私の思いは、何としても戸田先生に会長になっていただきたいただそれだけであった。
 そして翌26年の3月11日、組合員の総意により信用組合が解散。思いもよらなかった希望の活路が開かれたのである。
 この日、戸田先生は学会の総会に出席された。
 私は日記に記した。
 「吾れは泣く。吾れは嬉し。先生の師子吼に」
 晴れわたる5月3日、戸田先生は、ついに第二代会長に就任された。
27  「人間が目的」「国家は手段」
 私の胸には、戸田先生の烈々たる叫びが響いてくる。
 「民衆のため──この一点を忘れれば、必ず慢心となり、堕落する。そういう人間を絶対に許してはならない」
 指導者は民衆のためにいる。この思想を確立しなければ、愚かな歴史が繰り返されるだけだ。
 私も語り合った、シンガポールのナザン大統領が述べておられる。
 「人生で最も尊敬する人は、母です。母から学んだことは民衆の強さです。
 そして社会の指導者は、民衆の苦しみが分かる人でなければなりません。なぜなら、社会の力、国家の原動力は民衆です。この点を見失ってはならないのです。
 民衆に同苦し、常に民衆の味方として、民衆の幸福に尽くしていくリーダーこそが大切なのです。
 これが国家を、永遠に繁栄に導いていく最大の秘訣です。民衆の力を信じきることです」
 庶民のため、不幸な人のため、名もない人のためそのために、指導者はいる。一心不乱に人々に尽くすことだ。
 私と対談集を発刊した欧州統合の父、クーデンホーフ・カレルギー伯爵は記している。
 「国家は人間の為めに存在するが、人間は国家の為めに存在するのではない」「人間は目的であって、手段ではない。国家は手段であって、目的ではない。国家の価値は、正確にその人類に対する効能の如何に関する。即ちその人間の発達に貢献することが大なれば大なるほど善であるが──その人間の発達を妨碍ぼうがいするに至れば、直ちに悪となる」(鳩山一郎訳『自由と人生』鹿島研究所出版会)
 国家主義の悪に対しては、厳しく声をあげていかねばならない。
 戸田先生も愛読された作家に、山本周五郎氏がいる。
 庶民を愛した氏は「政治は必らず庶民を使役し、庶民から奪い、庶民に服従を強要する。いかなる時代、いかなる国、いかなる人物によっても、政治はつねにそういったものである」(『山彦乙女』朝日新聞社、現代表記に改めた)と警告した。
 民主主義の世の中で、これほどおかしなことはない。この転倒を根本的に正していくのが、私たちの戦いである。
28  大闘争の中で人格を磨け!
 創価の前進は、国家主義から人間主義へ、大いなる潮流を各界に巻き起こしていく。
 戸田先生が、「学会の革命は、広さは随一である。あらゆる部門にわたり、全民衆から盛り上がる力である」と言われた通りである。
 新しき広宣流布の歴史を開くには、まずリーダーが動くことだ。
 戸田先生は、こう振り返っておられた。
 「牧口先生は、寒くとも暑くとも、毎日、折伏にお出かけになる。どんな裏町までも、どんな家庭までも、折伏の陣頭に立って進んで行かれる」
 青年は、この先師のごとくに行動すべきだ。
 戸田先生は叫ばれた。
 「本陣のリーダーは、会員に尽くす先兵である。全責任をもって、広宣流布の人材と組織を護り、発展させゆく使命の人である。賢明で、力ある、模範の存在として選ばれた、広宣流布の闘士なのである」
 気迫みなぎる素晴らしい言葉である。
 さらに先生は「闘争の体験を生かし、より以上の信力・行力を奮い起こせ。仏力・法力は必ずこれに応えてくださる」と訴えられた。
 大闘争が人格を磨く。
 王者の風格をもつのだ。
 本当の誠実と責任感が響きわたるリーダーであってもらいたい。
 あの人に会えば、力が出る。話を聞けば、元気になる。そう言われる、力あるリーダーになっていただきたい。
29  攻撃精神で進め 戦う心を失うな
 さらに戸田先生の指導を紹介したい。
 「果たすべきことが重大であればあるほど、気ままな選択は許されない」
 「予想もしない大きな難にも遭遇するであろう。そのときこそ固い団結で、乗り越え、乗り越えて進まなければならない」
 「変毒為薬と口では簡単にいうが、よほどの信心と勇気と誠実がなければできないことだ」「本当の戦いはこれからだと立ち上がり、敢然と突き進もうではないか」
 我らは凡夫だ。いかなる戦いも、真剣でなければ、勝てるわけがない。
 勝利への先陣を切るのは青年部である。
 恩師の言葉を後継の若き友に贈りたい。
 「今日の人のそしり、笑い、眼中になし。最後の目的を達せんのみ。ただ信仰の力に生きんと心掛けんのみ」
 「どんな人間が立ちはだかろうと、青年は勇気で戦っていくことだ。攻撃精神でいくことだ」
 戦う心を失えば、もはや青年とはいえない。
 きら星のごとき指導者群へと、自らを鍛え上げていただきたい。
 戸田先生は「観心本尊抄」を拝され、こう述べられた。
 「さらにさらに広宣流布の仏意仏勅のままに日夜闘争する宿運(=宿命)を深く感じて、感謝と感激を新たにすべきである」
 感謝の心を忘れてはならない。創価学会員となって、最高の仏法を教わり、それを広めていける。子孫末代まで仏になる道を開くことができる──それが、どれほど素晴らしいことか。
30  戸田先生もお好きだったフランスの常勝将軍ナポレオン。
 「前進しようではないか」。彼は呼びかけた。
 「我々にはまだ行かなければならない道」があるのだと(井上一馬編著『後世に伝える言葉』小学館)。
 我らの道は、「正義の道」「幸福の道」「平和の道」である。
 牧口先生が「善人の団結ほど、強いものはなし!」と言われたように、この道を「心を一つ」に進みたい。
 そして、徹して同志を大切にすることだ。
 ドイツの哲学者ライプニッツは言う。
 「慈悲心のないところに信仰心はない。親切心も情け深さもなくして誠実な信仰心などあろうはずがない」(佐々木能章訳『ライプニッツ著作集6』工作舎)
31  広布の同志を仏の如く敬え
 戸田先生は、尊き婦人部を、それはそれは大切にされた。
 新たな出発に際し、先生の婦人部への指針を、皆さまに贈りたい。
 「信心をすれば、苦しい時期が短くなり、苦しみ自体が、だんだんと浅くなる。そして、最後にぷつりと苦しみが断ち切れる。そのために、うんと、広宣流布のため戦って幸せになりなさい」
 深い慈愛にあふれた言葉である。
 また先生は、蓮の花を通して指導された。
 「泥沼が深ければ深いほど、大きな美しい花が咲く。人間もそうだよ。苦労が多ければ多いほど、幸福の大きな美しい花が咲くのだ」
 学会活動をやり抜くなかに、本当の女性の美と幸福が生まれる。
 また、「若草物語」で有名な女性の作家オルコットは綴っている。
 「美しくて善良な生活の生きたお手本を与えてくれる友をもったということはしあわせなことだった、それはことばにつくせないほど雄弁で力のあるものである」(吉田勝江訳『昔気質の一少女 下』角川書店)
 よき友、よき同志は、かけがえのない人生の宝である。
 「広布の同志を仏のごとく敬え! この姿勢がリーダーにあれば、世界広布は自然のうちに進んでいく」──この恩師の言葉を胸に刻みたい。
 今この時に歴史をつくれる。その深き喜びを胸に、壮大なる勝利の栄冠を晴れ晴れとつかんでいただきたい。
32  まだまだ暑い日が続く。
 インドの詩聖タゴールは綴った。
 「ひたむきに急ぐそよ風のように、生命と若さをもって世界のなかに飛び出していきたい」(森本素世子訳「ベンガル瞥見」、『タゴール著作集第11巻』所収、第三文明社)
 風は止まらない。風は動き続ける。
 広布に生きる我々は、あるときは爽やかにそよぐ涼風のように、あるときは鮮やかな旋風のように、生き生きと、人々の心に希望を広げてまいりたい。
33  ロシアは、偉大な文学者を数多く生んだ大地である。なかでも私が愛読したのが、トルストイだ。創価大学の記念講堂には、トルストイのブロンズ像がそびえている。
 『戦争と平和』は、昨年、新しい翻訳が発刊された(岩波文庫、全6巻)。トルストイ人気は衰えない。
 この訳業を成し遂げられたのは、創価大学名誉教授の藤沼貴博士である。藤沼博士は、日本トルストイ協会の会長も務めてこられた。
 創価大学は、立派な先生方に集っていただき、学生を薫陶していただいている。創立者として、これほどうれしいことはない。
 トルストイは、「あなたに起こる全ての出来事は、真実の精神的な幸福へとあなたを導くものであることを知り、信じよ」と訴えた。
 精神の巨人トルストイのごとく、すべてを自身の糧としていく原動力こそ、我々の信心である。
 ロシアの文豪ショーロホフ氏との出会いについては、これまでも何度か語ってきた。ロシアのロシュコフ前大使、ベールィ大使など、多くの方々とも、氏の文学の魅力について語り合ってきた。
 氏は私に言われた。
 「運命とは何か? 大事なのは、その人の信念です」
 ショーロホフ氏が代表作の一つ『人間の運命』を発表されたのは、1956年(昭和31年)。
 この年、私は大阪の天地に立っていた。
34  決戦の朝の電話
 昭和31年の大阪の戦いは、「“まさか”が実現」と日本中を驚かせた。勝てるはずがないといわれた関西が勝ったのである。そして、負けるはずのない東京が敗北した。
 決戦の日の朝、5時ごろ。関西本部の電話が鳴った。受話器を取ると、それは東京の戸田先生からの電話であった。
 「大作、起きていたのか」
 先生は、驚かれたご様子であった。
 「関西はどうだい?」
 「こちらは勝ちます!」
 私は、即座に答えた。戸田先生は、「東京はダメだよ」と、残念そうに言われた。
 当時、私が負けることを望み、苦しむことを望む、嫉妬の人間もいた。
 しかし、東京が負け、関西が勝った。あのとき、私が負けていたら、戸田先生は敗北の将となっていた。関西での勝利によって初めて、日本中に創価学会という名が通ったのである。
 当時の関西本部は、小さい建物だったが、まるで広宣流布の軍艦のように、勢いよく揺れていた。
35  「大阪の戦い」にすべてが要約
 広布の戦いは、観念ではない。計算でもない。努力、また努力だ。「絶対に勝つ」という祈りだ。
 真剣な祈りは、必然的に、行動を伴う。行動しない祈りは遊びである。ここを間違えては、絶対にならない。「動く」のだ。「ぶつかる」のだ。だから大阪は勝ったのである。
 あの戦いに、全部、要約されている。
 要領や計算ではない。真剣勝負で、だれが見ようが見まいが、人の何百倍、何千倍も戦う決心で動くのだ。
36  翌年の4月、再び大阪で、参院選の補欠選挙があった。
 東京の幹部が、戸田先生に進言して、急に支援が決まった。
 私も、関西の同志も、疲れ切っていた。
 しかも、東京から応援に来た幹部の何人かは、遊び半分だった。そのために歩調が乱れた。皆の心が合わなくなった。戸田先生は、無責任な幹部を厳しく叱られた。
 私が負けた戦いは、この、ただ一度である。
 この時の悔しさを忘れずに、関西は、私とともに、常勝の歴史をつくりあげてきた。
 私は、その後、幾千万の友と、日蓮大聖人の仏法を根本に、平和・文化・教育の大波を世界に広げてきた。
 今でも私は、あの日々を、ともどもに大阪で戦い抜いたすべての方々に、題目を送っている。
37  「高慢は無知と比例する」
 傲る心は、人を腐らせる。この、傲慢と戦う心について、御書と箴言を通して学びたい。
 若き日の愛読書であった『プルターク英雄伝』には、数々の人生訓がちりばめられている。そのなかに、アレキサンダー大王を描いた、次の一節がある。
 「アレクサンドロスは自分で鍛錬したばかりでなく他の人々にも勇気を養うための激しい練習をさせるに当たって危険を冒した。
 しかし友人たちは富と尊大のためにその頃は既に遊惰で閑な生活を欲していたから、彷徨や行軍を億劫がり、そのうち次第に大王を誹謗し悪口を言うようにさえなった」(河野与一訳、岩波文庫。現代表記に改めた)
 大王の真意を、友人たちは、近くにいるにもかかわらず、歪んだものの見方によって曲解し、逆恨みしたのである。
 御義口伝では、自分の欠点を隠して、よく見せようとするのが増上慢であるとの、妙楽大師の言葉を引いておられる。〈「疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す」〉
 “男は高慢から馬鹿になる”とは、ドイツの文豪ゲーテの言だ(『箴言と省察』)。
 数多くの看護師を育成したナイチンゲールは、自戒を込めて記している。
 「いったい私たちの高慢心というものは自分の無知と正比例しているとは思いませんか?」(湯槇ます監修・薄井坦子他編訳『ナイチンゲール著作集第3巻』現代社)
 アメリカの教育哲学者デューイは、国家を悪用する役人について述べている。
 「これら(=役人)の権力は私的利益へと向けられることもある。そのとき、政府は腐敗し、恣意的なものとなる。
 故意にわいろをとったり、私的な栄光と利益のために例外的に権力を用いたりすることは論外としても、高い地位につけば、精神が鈍り、振舞が傲慢になり、階級の利害や偏見に執着するようになる」(魚津郁夫編『世界の思想家20 デューイ』平凡社)
 一方でデューイは、官職に就くことによって、視野が広くなり、社会的関心が旺盛になる面も指摘している。
 そして、いずれにしても、「市民の絶えざる監視と批判」が不可欠であると論じるのである。
 傲り高ぶる人間は、いつの時代にもいる。傲慢の生命とは、戦い続ける以外にない。
 イギリスの詩人ミルトンは綴った。
 「〈悪徳〉が弁じ立てるのに
   〈美徳〉がその高慢をうち砕く弁舌を
    もたないのは私にはがまんができませぬ」(加納秀夫他訳『世界名詩集大成⑨イギリス篇1』平凡社)
 傲慢は、勢いのある言論で打ち倒すのだ。
38  若々しい生命で悠然と勝ち進め
 「師子吼」の意義について、御義口伝には、「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」と説かれている。
 すなわち、師匠と弟子とが、ともに心を合わせ、広宣流布の勝利へ、正義の声をあげるのだ。
 これほど正しく尊い、強い声はない。「百獣」を打ち破る、王者の声である。
 また、大聖人は「此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」と仰せである。
 戸田先生は、創価学会は宗教界の王者であると宣言された。
 牧口先生と戸田先生、戸田先生と私も、この「師子吼」「王者の声」で、すべてに勝ってきた。
 私と青年部も、同じである。
 若々しき生命の青年部の皆さんは、師子王のごとき、大鷲のごとき尊き存在なのである。
 「王者の中の王者」の風格をもって、我らの道を、何ものにも左右されず、悠然と、厳然と、勝ち進みゆくことだ。
39  「悩める人々のために闘おう」
 あるとき戸田先生は、草創期の学生部に対し、厳愛の指導をされた。
 「もしも一緒に仏法の真の探究者になるというのなら、私の本当の弟子になりなさい。他所から来て聴いているというような態度は、実によくないぞ!」
 戸田先生が逝去なされた直後に、私は日記に書いた(昭和33年6月19日)。
 「勝たねば、恩師が泣く」
 「悩める人びとのために、闘おう」
 「最高に尊き信心の結晶──。地味にして着実な努力をやりぬくのだ。限りなく、どこまでも。これが、われらの革命の軌道なのだ」
 また、この10日後、私は、学生部の第1回総会に出席した。
 日記には、次のように書いている。
 「午後一時──目黒公会堂にて、第一回学生部総会」
 「恩師の精神を、ただ叫び続けて、この生涯を送ろう」
 幾たびも、激流を乗り越えた。私は、若き日の誓いのままに、叫び続けてきた。結果を残した。今も、寸分も変わらぬ思いで進んでいる。
 昭和32年の12月。学会は、戸田先生の生涯の願業であった、75万世帯の折伏を達成した。
 この師走、戸田先生は、私に一首の和歌をくださった。
  勝ち負けは
    人の生命の
       常なれど
    最後の勝をば
       仏にぞ祈らむ
 これが、先生からいただいた、最後の和歌となった。
 断じて勝て! 最後に勝て!──これが、創価の師弟を貫く誓願である。勝利こそ、師匠への報恩だ。
 次は、青年部、学生部、未来部の諸君の番である!

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