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2007.8.6 スピーチ(聖教新聞2007年下)

前後
2  「真剣」と「誠実」は勝利である。
 「真剣」とは、環境や状況がどうあれ、わが責任を果たし抜くことである。
 「誠実」とは、だれが何と言おうが、自分が犠牲になって、勝利に尽くしていくことである。
 その通りに、私は行動してきた。
 最も大変なところで、常に勝利の証しを打ち立ててきた。
3  苦労は自分が
 「要領」と「口先」は敗北である。叱ったり、号令をかけるのは、指導者ではない。親分だ。
 苦労は自分が背負って、皆は楽にさせてあげる。学会を守る。一生懸命に戦ってくださっている会員を大事にする。それが指導者である。この「正しき道」を最高幹部がつくっていってもらいたい。
 人を動かそう、人にやらせよう──その怠惰な命は叩き切っていく以外にない。根本の魂を変える以外にない。
 人の心をつかむ人が、指導者である。
 皆を喜ばせてあげる。元気にさせてあげる。それが本当の指導者である。
 指導者は同志に好かれることが大事だ。
 「いつもありがとうございます!」「本当にご苦労さまです!」と頭を下げて、同志を讃え、感謝を伝えていくことである。
 広布に戦う学会員ほど、尊い存在はない。
 だれもが等しく大切な「仏子」である。
 この尊き同志を守ろう! 真剣な同志に応える戦いをしよう!──その心がある人が伸びていくのだ。
 反対に、同志を軽んじたり、広布の和合僧である学会を私利私欲のために利用する人間の末路は厳しい。
 御聖訓に説かれている通りだ。
4  弟子が立て!
 「『師弟』を知った人は、真実の人間である。
 まっとうな人間の世界は、すべて『師弟』があるのだ。
 そして、その人は、勝利の人生を歩む。
 『師弟』をおろそかにする者は、畜生の世界である」
 これが牧口先生、戸田先生の確信であられた。
 私も青年時代から、戸田先生に仕え切った。
 戦後間もなく、戸田先生の事業が挫折。再建の見通しはなく、大勢の借金取りに追われ、先生のご心痛は、どれほどであったか。まさに地獄であった。
 その時、私が一人、師子奮迅で立ち上がり、戸田先生の事業を支えた。何カ月も月給はもらえない。もらえないどころか、私が何とか工面して、また、私と妻の実家にもお願いして、戸田先生をお守りしたのである。
 それから考えれば、皆は恵まれている。
 偉大な戸田先生を貶めようと、悪意のウソを書き立てる人間もいた。戸田先生を師匠と思えない慢心の幹部もいた。そうした輩と、一切の妥協なく、戦い抜いたのも私である。
 私は祈った。
 ──広宣流布の真実の指導者は、戸田先生しかいらっしゃらない。断じて戸田先生に次の会長になっていただくのだ。そのためなら若い私は、どんなに犠牲になってもかまわない。絶対に私が戸田先生を会長にするのだ──と。
 そして、昭和26年(1951年)の5月3日、戸田先生は、晴れて第二代会長に就任された。
 先生は勝った! 弟子も勝った!
 先生は、すべて分かっていてくださり、「悪いな、大作。ありがとう、大作」と涙を流されたのである。
 さらに私は、生涯をかけて、戸田先生の偉業を全世界に宣揚してきた。
 古代ローマの哲学者セネカは綴った。
 「賢者が偉大である理由は何か。偉大な魂をもっているからだ」(大芝芳弘訳『セネカ哲学全集6』岩波書店)と。
 創価学会の偉大なる「師弟の魂」を、心賢き皆さんに受け継いでいただきたいのである。
5  言葉の励ましから最高の力が
 青年時代、私は戸田先生のもとで多くの古典や文学作品を学んだ。
 吉川英治氏の『三国志』も、その一つである。
 ある時、先生が「諸葛孔明の、あの言葉はよかったな」と言われて、次の一節を紹介されていたことがある。
 「言葉をもって励まして、初めて責任も一層強く感じ、相手の認識も新たにすると申すものです」(講談社)
 孔明が、主君である劉備玄徳に対し、部下への接し方について述べた言葉である。
 「大丈夫だろう」「わかっているだろう」では危ない。大事なことは明快に声に出して伝える。励ましを送る。
 そうであってこそ、相手は深い責任感に立って、最高の力を発揮することができるのである。
 私は「その通りだと思います」とお答えした。
 どんな時でも、文学や哲学をめぐって、師弟の語らいは花が咲いた。
 知っていることは、すべて教えておきたい──先生は、そういう思いで私に万般の学問を授けてくださった。日々の語らいも、すべてが訓練であった。本当に偉大な師匠であった。
 青年を育てる。青年を偉くしていく。それが本物の指導者である。
 戸田先生は、徹して青年部を大事にされた。婦人部を大切にされた。
 若い人や女性を手下のように使って、軽んじる──それは真実の指導者とはいえない。
6  中国の古典である『貞観政要』には、こう記されている。
 「始めにおいて勤めなければ、終わりに悔いることがありましょう」(原田種成著『新釈漢文大系第95巻』明治書院)
 何事も、真剣に努力して取り組まなければ、満足する結果を得ることはできない。最後は後悔しか残らないであろう。
 特に青年部の皆さんは「私は全力を尽くした」と言える、完全燃焼の青春を生き抜いていただきたい。
7  行き詰まったら題目をあげよ
 現在、全国の会館や研修道場では「夏季フリー研修」が活発に行われている。また、各地で人材グループなどの代表による研修が予定されていると、うかがっている。
 夏の研修会は、創価学会の偉大な伝統となっている。
 牧口先生の時代には、昭和11年(1936年)8月に、第1回創価教育学会修養会(研修会)が開催された。
 以後、牧口・戸田両先生が投獄される前年の昭和17年の夏まで、毎年、行われたのである。
 この研修会では、朝はラジオ体操を行ったり、夜は座談会を開催したりするなど、心身錬磨の研修が活発に進められた。牧口先生にとって、本山(大石寺)で開催する研修会は、烈々たる「破邪顕正」の闘争の場であった。
 昭和16年の研修会では、牧口先生は「法罰論」を誹謗する宗門の坊主の邪義を、厳しく破折されている。
 先生は、宗門の坊主の臆病な主張を破折して、師子吼しておられた。
 「御本尊は偉大な力がおありになる。罰なくして、大利益があるわけがない」
 「御本尊をじっと拝んでみよ。『若し悩乱せん者は頭七分に破れん』との御本尊のおおせが聞こえないか。御本尊が罰をおおせではないか」
 烈々たる大確信の叫びであった。私たちには、偉大な御本尊がある。
 行き詰まったら、まずは題目をあげることだ。祈って、最高の智慧を湧きいだす。そして行動していく。乗り越えられない困難など、絶対にないのだ。
8  戸田先生もまた、出獄された翌年、昭和21年8月に戦後第1回となる学会の夏季講習会を開催された。
 ここでは御書講義、質問会、座談会などが行われている。
 以後、逝去の前年となる昭和32年の夏まで、毎年の伝統として、こうした講習会を実施された。
 この夏の研修を一つの前進のリズムとして、75万世帯の弘教達成への上げ潮はつくられていったのである。
 さらに戸田先生のもと、男子部の精鋭による「水滸会」の野外研修が行われたことも忘れ得ぬ思い出である。〈昭和29年9月、奥多摩の氷川キャンプ場、昭和30年6月、山梨の河口湖・山中湖で〉
 私は、こうした伝統をさらに発展させ、夏の研修や夏季講習会を通して、人材の育成に全力を注いできた。
9  原点に立ち返れ
 水滸会の野外研修の際、キャンプファイアーの燃え盛る炎を指さされ、戸田先生はこう語られた。
 「この燃える薪は、私たちの生命である。そして信心の炎であり、学会精神である」
 先生は、一回一回の研修に全魂を注いでくださった。“広宣流布の炎”を断じて青年に託すのだとの思いで、一つ一つ訓練してくださった。
 先生のご指導は、すべてが遺言のごとく、私の胸に焼き付いている。
 また、同じく野外研修の際に、バンガローや旅館では勤行・唱題が思うようにできないことから、「将来、思う存分に、信心と人生の鍛錬をする所が必要である」と述べておられた。
 現在、日本中、そして世界中に、数多くの学会の会館や研修道場が設立されている。
 私が、こうした施設の建設に力を注いできたのも、恩師の願いを実現したいとの思いからであった。
 いよいよ“鍛えの夏”本番である。
 まずは最高幹部が団結し、新たな勝利のために真剣に協議していくことだ。もう一度、原点に立ち返って、自身の信心を磨き抜いていくことだ。
 十分に英気を養いつつ、さらなる前進への万全の土台を築いてまいりたい。
10  「今こそ勇気が、今こそ確固たる心が必要だ」(大芝芳弘訳『セネカ哲学全集6』岩波書店)
 古代ローマの詩人ウェルギリウスの言葉である。
 人生には、さまざまな試練の時がある。
 広布の途上には、いくつもの困難な山がある。
 そこを勝ち越えれば、新しい世界が、大きく広がっていく。未来が、晴れ晴れと開けていく。
 そのために、最も大切なものは何か。それは「勇気」である。
 逆境に揺るがぬ「確固たる心」である。
11  未来は今の行動で決まる
 アメリカの人権闘争の指導者、マーチン・ルーサー・キング博士は、公民権運動の歴史を大きく開いたモンゴメリーのバス・ボイコット運動で、ともに戦ってくれた同志を見て、こう語った。
 「断乎とした勇気よりもすばらしいものは世に何もない」(雪山慶正訳『自由への大いなる歩み』岩波書店)
 いわんや私どもには、究極の信仰がある。宇宙大の仏法を持っている。何も恐れる必要はない。
 強く、強く、生き抜いていくのだ。攻撃精神を忘れてはならない。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「闘争を開始するからには、それだけの準備と決意と闘魂をもって、断じて勝つのだ!」
 インド独立の父、マハトマ・ガンジーは叫んだ。
 「未来は、私たちの今の行動にかかっている」
 「未来」のために「今」を勝とう! ともに、心新たに出発しよう!
12  不正義に対する女性の怒りを!
 私は現在、アルゼンチンの人権の闘士で、ノーベル平和賞を受賞したエスキベル博士と対談を続けている。〈題名「人権の世紀へのメッセージ──“第三の千年”に何が必要か」。『東洋学術研究』で連載中〉
 博士は、女性の役割を重視し、SGI(創価学会インタナショナル)の女性の活動にも、平和建設への大いなる希望を見いだしてくださっている。
 対談で、博士は述べておられた。
 「不正義に対する女性の怒りほど強いものはありません」
 「女性が沈黙を破り、良心によって立ち上がれば、世界がよりよい方向へ変わっていくことは間違いありません」
 学会はさらに、婦人部、女子部が、大いに力を発揮できる環境をつくっていかねばならない。女性が伸びれば、学会は、もっと発展する。広布は拡大する。
 皆が同志として互いに尊敬し合い、楽しく前進していくのだ。
 一方、偉ぶる人間に対しては、厳しく戒めていかなければならない。
 大聖人は、池上兄弟に仰せである。
 「二人が一体で進む姿は車の両輪のようなものである。鳥の二つの翼のようなものである」(御書1108㌻、通解)
 異体同心の団結で進もう! 頑張ろう!
13  先日、フィリピンの国立南東フィリピン大学から、「名誉教育学博士号」授与の決定通知をいただいた。心から感謝申し上げたい。
 〈同大学のオルティス学長は語っている。
 「池田博士への名誉学位記の授与は、世界に向けての博士の有益なご貢献に対する賞賛にほかなりません。博士の国籍は『世界』であり、博士を顕彰させていただくことは、わが大学の最高の栄誉です」
 名誉会長が受けた世界の大学・学術機関からの名誉学術称号は、現在、218にのぼっている〉
 知性の世界からの顕彰は、最高の誉れである。
 私は、各国からの栄誉を、その国からの信頼の証しとして謹んで拝受している。
 また、それぞれの国で、懸命に社会貢献に尽くしておられるSGIの同志の励みとなれば、本当にうれしい。
14  「良き弟子を持って幸せだ」
 青春時代、私は学校での勉学を断念せざるを得なかった。師匠・戸田先生をお守りするために、すべてを捧げて尽くしたのである。
 戦後の最大の苦境の中で、戸田先生は、「私のそばにいてくれ」と言われた。そして、「そのかわりに、俺が全部、教えてやろう」と言ってくださった。
 そのお言葉通り、毎週、日曜日になると、先生のご自宅に呼ばれ、一対一の講義を受けた。勉強の合間には、先生自ら食事を用意され、ふるまってくださることもあった。
 私は、この「戸田大学」で、あらゆる学問を教わった。
 やがて日曜日だけでは時問が足りなくなり、戸田先生の会社で、毎朝の講義が行われるようになった。それは、先生のご逝去の直前まで続けられた。
 戸田先生は、ご自身の命を削られるように、自分の持てるすべてを、弟子である私に授けてくださったのである。
 師匠とは、なんと、ありがたいものか。師弟とは、どれほど麗しいものか。
 世界から贈られる知性の栄冠は、「戸田大学」で受けた訓練の結晶である。そう私は確信している。
 これが創価学会の師弟である。
 私は、戸田先生を仏のごとく敬い、先生に仕え抜いた。
 だれが大聖人の御遺命のままに、広宣流布を推進しているのか。だれが三類の強敵と戦っているのか。それは戸田先生だ! この偉大な師匠を命にかえてもお守りするのだ!
 それが私の固い決意であった。
 「先生!」「先生!」と叫んで最後の最後まで生き抜く。これが真の弟子の姿である。
 「私の人生は、良き弟子を持って、本当に幸せだった」戸田先生は、そう言ってくださった。
15  全部、自分のため
 戸田先生は、広宣流布の未来のために、一人一人の幸福のために、青年を徹底して訓練してくださった。
 「人材は訓練しなければ人材とはならない」
 これは、恩師・戸田先生の、絶対の確信であられた。
 こうも言われていた。
 「訓練なくして、偉大な人生を歩んだ人は一人もいない」
 「訓練を受けた人間、苦労した人間しか、信用できない」
 「苦労したほうがいい。苦労したほうが幸せである。全部、自分のためになる。苦労しない人は、鍛えられず、必ず最後は弱き人間になり、不幸に堕ちる」
 まったく、その通りである。
 人よりも苫労した人、求めて訓練を受けた人、その人が最後に光る。幸福をつかんでいける。
 訓練である。訓練を受けていない人は、いざという時に、力を発揮することができない。
 では、真の訓練とは何か。それは、信心を磨くことである。
 折伏の力、対話の力を鍛え抜くことが、最高の訓練である。
 戸田先生は言われていた。
 「信心、折伏、人材としての訓練や指導を、きちんと受けた者は、皆、立派に伸びている」
 「金剛石(ダイヤモンド)は、磨かなければ、それが金剛石であることすら、分からない。真剣勝負で、信心を磨くことだ。そうすれば、無量の福運を積むことは間違いない」
 信心を貫いた人は、まさに、ダイヤモンドのごとき不滅の大福運をつかんでおられる。
 反対に、責任ある立場にいながら、地道な信心の訓練を避け、戦いから逃げて、ずるがしこく振る舞う。そうした輩は、必ず、惨めな転落の人生となっている。
 もしも、そのようなリーダーが増えてしまえば、学会は衰退してしまう。断じて、そうさせてはならない。
 戸田先生は叫ばれた。
 「大聖人の弟子は師子王の子の如し」
 「師子の子は、鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」
 学会は、師子の集いである。
 困難があるほど強くなる。圧迫されるほど勢いを増す。それが、師子の生き方である。
 断固として一人立て! 「師子奮迅の力」を出せ!
 強き心を奮い起こし、わが「勝利劇」の火ぶたを切ってまいりたい。
16  未来のための連日の協議、本当にご苦労さま!
 後継の友に伝えるべき、一番、大事なことは何か。それは、崇高なる師弟の魂である。創価の師弟の誉れの歴史である。
 古今東西、正義の人は、正義なるがゆえに迫害されてきた。だからこそ、「正義が勝つ時代」を開かねばならない。
 迫害の構図を鋭く見抜くのだ。そこに渦巻くのは嫉妬であり、慢心であり、私利私欲である。
 昭和54年(1979年)の第1次宗門事件も、そうだ。堕落した坊主と、忘恩の反逆者が結託して、正義の学会を乗っ取ろうとした。
 どれだけ卑劣であり、陰険であったか。しかし、私は微動だにしなかった。
 ──私は師子だ! 戸田先生の弟子だ!
 師匠を信ずるということは、師匠の言う通りに実践することだ。師弟に生き抜けば、恐れるものなど、何もない。
 御聖訓には「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」と仰せである。
 私は訴えたい。後継の君たちよ!
 人ではない。自分だ。富士のごとき、不動の自分をつくるのだ。いかなる嵐があろうとも、師子として叫べ! 師子として戦え! 永遠に勝利の道を開きゆけ!
17  この世で最も誠実な関係
 現在、私は中国の著名な歴史学者で、「史学大師」と仰がれる章開沅しょう・かいげん先生(華中師範大学元学長)と対談を進めている。
 章先生の座右の銘の一つは、「薪火相伝」という言葉である。中国の古典『荘子』に由来する言葉で、「薪は自らを燃やすことによって火を伝えていく」という意義である。
 この言葉に触れ、章先生は、次のように語ってくださっている。
 「創価学会において、牧口先生から戸田先生へ、戸田先生から池田先生へと、三代の会長に平和の信念が厳然と受け継がれてきたことは、まさに『薪火相伝』と呼ぶにふさわしい壮挙であります」
 深いご理解に、心から感謝申し上げたい。
 章先生は、「師弟の精神」をこよなく大切にされている。対談の中でも、次のように繰り返し語っておられる。
 「人間を育てる教育にとって最も尊ぶべきは、師弟の間における思想の交流です」
 「師匠と弟子、教師と学生の関係は、この世で最も純潔にして、最も誠実かつ高尚な関係です」
 章先生の言われる通りだ。
 師弟が根本である。この精神が崩れれば、団体も、個人も、衰亡していく。反対に、師弟の精神ある限り、どこまでも発展し、成長していける。
 師弟の魂を失った者は、すでに心が死んでいるのである。
 「最も哀れなのは心の死である」との警句を章先生は綴っている。
 形式ではない。格好ではない。「心がどうか」なのである。
18  激動の時代を勝ち抜くには
 激動の時代の中で勝ち抜いていくための要件は何か。
 もちろん、さまざまに分析できるが、ポイントの一つは、「人に頼る心を捨てる」ことではないだろうか。
 運動会の伝統の競技「綱引き」に関連した興味深い実験がある。
 一人で綱を引く場合と、大勢で綱を引く場合とでは、力の出し方が、どう違っていくかを調べたものである。
 綱を引く人数が増えればどうなるか。結果は、人数が増えれば増えるほど、一人一人が出す力は減っていく。
 一人の時に出す力を「100」とすると、8人で綱を引く場合には、一人が出す力は「50」以下になってしまうというのである。
 共同作業をする人数が増えると、「一人」の出す力が減っていく。こうした現象を心理学用語で「社会的手抜き」と言う。実験をした人の名前にちなみ、「リンゲルマン効果」とも呼ばれる。
 “人に頼る心”がある限り、自分のもっている大きな力を出し切ることはできない。力を出し切ってこそ、厳しい現実に勝つことができる。
19  学園での思い出
 「綱引き」といえば、関西創価学園の健康祭(体育大会)を懐かしく思い出す。
 17年前の平成2年(1990年)10月のことであった。
 私が学園に到着し、グラウンドに入ったとき、ちょうど綱引きが始まろうとしていた。
 私はすぐさま、子どもたちのもとへ行き、一人一人を激励した。
 綱の最後尾まで、一人一人に声をかけて歩いた。そして、大熱戦に声援を送った。皆のきらきらした笑顔が、ひときわ印象的だった。
 この綱引きに参加していた児童は、今、公認会計士や、パイロット、母校の教員、さらに、新幹線の女性車掌など、各界に雄飛している。
 創価の青年リーダーとしても、多くの友が活躍している。これほど、うれしいことはない。
20  目の前の人に励ましを
 イギリスの大歴史家トインビー博士は述べている。
 「勝敗の定まっていない闘争においては、これに加わる一人々々が重要である。自分がすることあるいはしないことの結果はあまりにも小さいので目立った違いは生じないであろうという弁解のもとに、全力を尽くしておのが役割を演じることを免れる権利は、なんぴとにもないのである」(山口光朔・増田英夫訳『回想録1』社会思想社)
 「一人」が大事である。
 本物の「一人」が立てば、「万人」の勝利と幸福につながる。
 人数が多いかどうかではない。一人でも、二人でも、真剣な人がいれば、全体に大きな波動を起こすことができるのだ。
 リーダーは、目の前の「一人」、自分が縁した「一人」を、全力で励まし、伸ばしゆくことだ。
21  ほしいのは「人材」だけ
 今や学会は、平和を築く、世界一の民衆の連帯をつくり上げた。私は、何も、ほしくない。ほしいのは「人材」だけである。
 力あるリーダーが必要だ。リーダーが愚かであれば、インチキな悪人にたぶらかされる。怖いことである。
 これまでも、学会のおかげで偉くなりながら、社会的地位や権勢に目がくらみ、堕落し、反逆していった悪らつな人間たちがいた。
 彼らは皆、“自分は手を抜いて、楽をして、苦労は全部、人に押しつける”──こういう卑しい心根であった。
 その本性は、思うように他者を支配し、従わせようとする「権力の魔性」にほかならない。
 同志を苦しめる“地獄の使い”だ。広宣流布を妨げる“魔物”の存在である。
 そうした「一凶」の心を、徹して断ち切っていかねばならない。
22  人間革命の哲学
 先輩は、模範を示すことだ。人生は仕上げが大事である。途中で手を抜き、退転してしまえば、結局、後悔と苦しみの人生となってしまう。
 もう一度、若返って、青年とともに、青年の心で進むのだ。
 先輩が旧態依然とした姿では、青年部が伸びない。女子部がかわいそうだ。
 私は、これまで、いかなる戦いにおいても、全身全霊を捧げて戦ってきた。手抜きをしたことなど、一度たりともない。
 だからこそ、勝利の歴史を開いてくることができたのである。
 ともあれ、一人一人が、自分の力を思う存分に発揮する。皆が、自分らしく、最大限に光り輝いていく。それが、創価の世界である。
 勤行・唱題はもちろん、教学の研鑽、座談会、友との対話など、学会の活動は、「一人」を変革しゆく、尊き挑戦である。
 私たちは、一人が無限の力を発揮しゆく「人間革命」の哲学を掲げ、堂々と進んでまいりたい。
23  未来を開くのは、いつの時代も、勇気ある青年である。
 昭和25年(1950年)の7月31日。22歳の私は、日記に、こう記した。
 苦境にあった戸田先生の事業を、ただ一人、阿修羅のごとく支えゆく、大闘争の始まりの時であった。
 「炎暑の七月。この七月も、とうとう勝ち抜いた」
 「(八月は)吾等の月だ。再び、若き情熱をもって頑張ろう。理想に生きる青年らしく。歓喜に燃える青年らしく。人生、社会の波は高い。そして激しい。また、その山は嶮しい」
 「正法を受持した青年が、断じて、進めぬわけがない。行こう、勇敢に。そして、次の世界を開こう」
 前へ、ただ前へ、進み続けた青春であった。
 弟子の私は、命をかけて、先生をお守りした。偉大なる師を守ることが、学会を守り、同志を守ることであるからだ。
 私が22歳の時、戸田先生は50歳──。
 先生は、若い私を、それはそれは大事にしてくださった。地方へ行く飛行機の中でも、どこへ行くにも、一緒であった。
 一緒にお題目をあげ、一緒に御書を拝した。
 天才中の天才の先生から、万般の学問を教わり、広宣流布のあらゆる構想を教えていただいた。
24  勝利のリズムを
 先生への報恩の心で、私もまた、青年を懸命に育ててきた。
 その意義も込めて、きょうは、男子部、女子部、学生部の諸君に、新たに青年部独自の幹部会を行うことを提案したい。
 具体的には、「広布第2幕 全国青年部幹部会」との名称で、毎月の本部幹部会と同じ意義を持つ、最重要の行事として取り組んでまいりたい。
 第1回は、この9月に開催し、原則として、毎月行い、勝利のリズムを広げていってはどうだろうか。
 壮年部、婦人部の首脳も応援してあげていただきたい。
 この青年部幹部会に寄せて、私は、5つの指針を贈りたい。
 ①「破邪顕正」の青年部幹部会
 ②「広宣流布」の青年部幹部会
 ③「師弟不二」の青年部幹部会
 ④「全員指導者」への青年部幹部会
 ⑤「日本の柱」の青年部幹部会
 広宣流布の未来も、日本と世界の将来も、すべて青年にかかっている。青年の「熱」と「力」で決まる。
 私も青年部幹部会の大成功を祈り、期待し、見守っている。都合がつけば、ぜひ出席させていただきたいと願っている。
25  まことの時に本物が分かる
 「報恩抄」の一節を拝したい。
 「少しの罪もないのに、(法華経を弘めているために)たびたび大難にあう人こそ、仏滅後の法華経の行者であると知りうるであろう」(御書297㌻、通解)と。
 現代において、この蓮祖の仰せ通りに、妙法ゆえの大難を受けきった人はだれか。
 初代の牧口会長であり、第二代の戸田会長である。
 お二人は、国家神道を精神的支柱とする軍国主義と真っ向から対決し、牢獄につながれた。
 牧口先生は信念を貫かれて獄死。戸田先生は2年間の獄中闘争を耐えに耐え抜かれた。
 戸田先生以外の弟子たちは、皆、驚き、あわてた。多くは難を恐れ、退転していった。
 「まことの時」にこそ、本物が分かる。信心が試される。
 「石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる」と仰せの通りだ。
 日ごろは弟子を名乗りながら、手のひらを返すように、師を罵り、師が苦しむのを陰で笑った者もいた。臆病であり、増上慢であった。
 これが歴史である。
26  弾圧の魔の手
 戸田先生は鋭く語られた。
 「戦後、日本は民主主義の国家になった。私や牧口先生を逮捕するのに使った、不敬罪や治安維持法もなくなった。そして、信教の自由も保障されるようになった。
 しかし、権力の持つ魔性の本質は何も変わってない。それだけに、より巧妙な手口で、弾圧をすることになるぞ」と。
 昭和32年の「大阪事件」では、私も、事実無根の選挙違反の容疑で不当に逮捕され、2週間にわたって拘束された。
 権力の狙いは、戸田先生にあった。
 取り調べの検事は、“おまえが罪を認めなければ、戸田会長を逮捕するぞ”と陰険な恫喝を浴びせてきた。
 先生のお体は衰弱している。逮捕されれば命にかかわる。絶対に逮捕など、させてなるものか──。
 恩師をお守りするために、私は、ひとたびは検事の言い分を認め、あとは裁判で無実を証明しようと決めた。
 そして、4年半後、大阪で勝利の無罪判決を勝ち取り、すでに亡くなられていた恩師に、ご報告申し上げたのである。
27  歴史を忘れるな
 第1次宗門事件では、第三代会長を辞任した。〈昭和54年4月24日〉
 さらにまた、国家権力による宗教弾圧の嵐も吹き荒れた。
 多くの同志が心を痛め、私の正義を叫び、勝利を祈ってくださった。
 しかし、かっての最高幹部のなかには、嵐の時に戦わないどころか、敵と結託して、私を陥れようとした反逆者もいた。
 「怖いのは内部だよ」と言われた恩師の言葉を思った。この歴史の教訓を、青年部は、断じて忘れてはならない。繰り返してはならない。
28  “大難と戦う師匠”を守るのが弟子である。
 格好主義は、仏法の敵だ。戦っている格好をする幹部──それが一番ずるい。
 仏法は「不惜身命」である。死にものぐるいである。
 創価学会には、「上」も「下」もない。広布に戦う人が偉い。同志を守る人が偉い──これが出発であり、これが結論である。
29  学会を弾圧した者の末路を見よ
 御聖訓にいわく。
 「法華経には、(法華経の)行者に敵対する者は、阿鼻地獄に堕ちる人であると定めている」(御書1389㌻、通解)と。
 「法華経の行者」とは、だれなのか。総じては、日蓮大聖人の門下として、人々の幸福のため、苦難に耐え、勇敢に妙法を弘めゆく学会員である。我ら創価の師弟である。
 さらに、御書を拝したい。
 「仏の御使いとして、南無妙法蓮華経を流布しようとする人を、日本国の王臣ならびに万民などが、あるいは罵ったり、あるいは悪口を言ったり、あるいは流罪にし、あるいは打ち叩く。さらには、その弟子や眷属などを種々の難にあわせる。そのような人々が、どうして安穏でいられようか」(同265㌻、通解)
 学会を甘く見てはいけない。同志を甘く見てはいけない。
 学会は広宣流布の団体である。大切な仏の団体である。
 学会に弓を引くことは、大聖人に師敵対することに等しいのだ。
 さらに、御聖訓にいわく。
 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」、「彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし」と。
 大聖人は、法華経の行者を迫害した者の末路の厳しさを明確に説いておられる。
 そのままの現罰・仏罰が厳然とあらわれていることは、皆さんがご存じの通りである。
30  再びの登攀を!
 戸田先生は、権力をもって民衆をいじめる者には厳しかった。
 「極悪を世に知らしめて、責めて、責めて、責め抜け! 最後まで!」と。
 青年は強気でいけ! そして断じて勝て!
 青年の勇気が新たな勝利の道を開くのである。8月は青年の月だ。青年の戦う魂が燃え上がる月だ。
 わが青年部よ、私とともに、同志とともに、新たなる民衆勝利の峰へ、再びの登攀を開始しよう!
31  広宣流布のための協議会、ご苦労さま!
 いよいよ、これからが大事である。私は、次の学会をつくるために全力を尽くしている。
 大切な学会の同志が少しでも元気になり、生き生きと戦えるように、あらゆる手を打っている。
 尊き友の前進の力になればとの思いを込めて、懇談的にスピーチを行いたい。
32  19歳での出会い
 まもなく私の入信記念日である、8月24日が巡り来る。今年で、私は入信60周年を迎える。
 昭和22年(1947年)の8月14日。友人に誘われて参加した学会の座談会で、初めて戸田先生とお会いした。
 あの日の情景は、今も鮮やかに胸に焼き付いている。
 当時、私は19歳。
 戦後の混乱の中で、自分の進むべき道を必死に探していた。人生の師とすべき人を求めていた。
 “正しい人生とは何か”など、私の率直な質問に対して、先生は一つ一つ明快に答えてくださった。
 先生は戦時中、軍部政府と戦い、2年間の獄中闘争を貫かれた方である。
 その言葉には、深い信念が脈打っていた。確固たる哲学と人間性が光っていた。
 この人の言うことなら信じられる──私は、そう直感した。
 そして、その10日後に入信したのである。
 他方、妻の入信は昭和16年の7月12日。小学校4年生の時に家族とともに入信した。
 今年の7月12日で入信66周年となった。
 戦時中、妻の家では、牧口先生をお迎えして、特高刑事の監視のもと座談会が行われた。
 権力からの圧迫にも微動だにせぬ、師子王のごとき牧口先生の勇姿を、妻は幼い生命に焼き付けたのである。
 幼いころから学会の庭で成長した妻は、いわば未来部の“1期生”と言えるだろう。
33  「二人は満点の弟子だった」
 仏典には、「六を以て具足の義と為す」と示されている。「六」という数には「具足」──すなわち“すべて満足して具わる”との意義がある。
 私が入信した時、学会員は実質、わずか500人から600人ほどであった。まったく無名に等しい教団だった。
 しかし、この60年間、あらゆる難を勝ち越え、今や世界190カ国・地域に広がる、人類の希望と輝く大盤石の創価学会となったのである。
 大聖人は「如説修行抄」で仰せである。
 「真実の法華経の如説修行の行者として師となり、その弟子檀那となるならば、三類の敵人が必ず現れるのである」(御書501㌻na、通解)
 私と妻は、その覚悟で三類の強敵と戦ってきた。師匠・戸田先生を、命がけでお守りし抜いてきた。奥様をはじめ、先生のご家族にも最大の心を尽くした。
 先生の事業が挫折した時も、私は一切をなげうって先生を支えた。働きに働いて、莫大な負債を返済した。まだ20代の前半であった。
 夜中に突然呼ばれて、先生のもとへ駆けつけたこともあった。
 そして、弘教の戦いをはじめ、あらゆる広布の戦いで大勝利を収め、広宣流布の道を断固として開いてきた。
 先生は、本当に喜んでくださった。
 戸田先生はご逝去の前に、私と妻に、しみじみと語られた。
 「大作と香峯子は、本当に私に仕えてくれた。
 本当に私を護ってくれた。本当に広宣流布のために、命を賭して、戦い抜いてくれた。
 二人は、満点の弟子だったよ。俺の人生は、二人のおかげで大満足だった」
 そして今、この広宣流布の師弟の道を受け継いでくれるのが、わが青年部であり、わが未来部である。私はそう深く確信している。
34  入信3周年の日
 昭和25年、私の入信3周年の8月24日も忘れ得ぬ日であった。この日の夜、突然、戸田先生が学会の理事長を辞任することが発表されたのである。
 私は愕然とした。
 その後で、先生のもとへ行って、お聞きした。
 「先生が理事長を辞められると、これから、私の師匠は誰になるのでしょうか……」
 先生は、ニコッと笑って言われた。
 「苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は、この私だよ」
 当時、戸田先生の事業は最も困難な状況にあった。
 窮地に陥った先生を、罵る人間もいた。先生のもとを去っていった人も数多くいた。
 しかし、私にとって師匠は戸田先生お一人であった。
 どんな状況になっても師匠は師匠である。師の偉大さは変わらない──私は、この信念で戦い抜いたのである。
35  言論戦の時代
 実は、この日の昼前、私は戸田先生とともに、ある新聞記者との会見に臨んでいた。
 先生の事業の破綻を察知した新聞が、悪意と無認識の報道を行ったら大変なことになる。それを何とかして食い止めようとしたのである。
 記者との交渉が終わった後、私は戸田先生と二人で歩きながら、語り合った。
 その際、先生は言われた。
 「言論の自由の時代だ。一つの新聞を持っているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、新聞を持たなければならない。大作、よく考えておいてくれ」
 聖教新聞は、この8月24日の師弟の語らいから生まれたのである。
 広宣流布は、間断なき言論闘争だ。
 仏法の偉大さと学会の正義を、人々に教えていく。民衆を不幸にする誤った思想は、明快に破折する。
 「破邪顕正の言論紙」たる聖教新聞の拡大こそ広宣流布の命脈である。
 このほど、この聖教の拡大をさらに推進していくために、昨年、発足した「広布新聞会議」が新体制でスタートすることになった。
 同会議の議長には原田会長、副議長に正木理事長、原田副理事長が就任した。
 また総合議長に秋谷栄之助、最高参与に青木亨、両氏が就いた。
 さらに各方面や県の「広布新聞会議」も、各方面長や県長らを中心に、さらなる拡大の推進に取り組んでいく。
 どうか、はつらつたる大前進をお願いしたい。
 ともあれ、重要なのはリーダーが拡大の先頭に立つことだ。
 信心の世界において偉いのは、だれか。それは広宣流布のために戦った人である。実際に、広宣流布を拡大した人である。
 自分は号令だけかけて、皆にやらせるというのは最低だ。結局、「上」が動く以外にない。
 組織がよくなるのも、悪くなるのも、リーダーで決まるのである。
36  謗る者には大罰 信ずれば大福徳
 思えば、私が入信して以来の60年間は、大難また大難の連続であった。
 民衆勢力の台頭に恐れをなした権力者による、不当な弾圧もあった。嫉妬に狂った坊主らの卑劣な策謀もあった。
 自らの欲望に負けて同志を裏切り、学会に反逆した輩も出た。
 しかし、広宣流布の和合僧団である創価学会に仇をなした者たちは、最後は皆、敗れ去った。社会からも相手にされず、哀れな末路を歩んでいることは、皆様がご存じの通りである。
 御聖訓には厳然と仰せである。
 「日蓮は世界第一の法華経の行者である。この日蓮を謗り、怨む者の味方になるような者は、世界第一の大災難にあうであろう」(御書265㌻、通解)
 また、大聖人は、過去に仏法を迫害した者たちが厳しい現罰を受けた例を引かれ、次のように仰せである。
 「小事ですらこうした現罰があったのである。いわんやこの迫害の大悪事に、どうして現罰がないわけがあろうか」(同1525㌻、通解)
 末法において、法華経の行者を迫害する者には必ず現罰がある。そう断言しておられる。
 大聖人は、こうも仰せである。
 「すでに、法華経の大行者を謗る者に大罰があるのである。どうして信ずる者に大福がないことがあろうか」(同1039㌻、通解)
 法華経の行者を誹謗すれば仏罰がある。そうであれば、反対に妙法に生き抜く人々に、絶大な福徳があるのは当然ではないか。
 そう明快に述べておられるのである。
37  民衆勝利の詩 高らかに!
 戸田先生は指導しておられた。
 「正義の学会を弾圧し、迫害し、愚弄した権力者は、永久に忘れてはならない。
 とともに、善良な学会人を苦しめ、嘲笑い、侮辱してきた権力者を、断じて許してはならない。
 『仏法と申すは勝負をさきとし』である」
 正義なればこそ、断じて勝つ! 非道の輩は断じて許さない!──この決意で戦い抜いてこそ、勝利を得ることができるのである。
 “中央アジアのゲーテ”と讃えられた、15世紀のシルクロードの大詩人ナワイーは謳っている。
 「善を軽蔑するのが悪人の本性だ。そんな者など相手にせず、遠ざけよ」
 私は、光栄にも、この大詩人の名前を冠したウズベキスタン共和国のナワイー市から、「名誉市民」称号の決定通知をいただいている。
 ナワイー市はシルクロードの要衝として栄えた街であり、目覚ましい発展を続ける近代都市でもある。
 創価大学の記念講堂の前には、ウズベキスタン共和国から寄贈されたナワイーの像が、学生たちを見守っている。
 我らもまた、「新しき友情の道」を生き生きと進んでまいりたい。
 民衆勝利の詩を、高らかに歌いながら!
38  こまやかな気配り、温かな心遣いで、人々を包容していく。それがリーダーの務めである。
 「ここまでしてくれるのか!」と思われるほど、会員のことを考え、会員に尽くしてあげられる指導者になっていただきたい。
 とくに婦人部、女子部に対しては、本人には当然のこととして、ご家族に対しても、丁寧にお礼を申し上げていくのだ。
 皆、さまざまな家庭状況の中で、一生懸命、広布のために戦ってくださっている。そのことを絶対に忘れてはいけない。
 一人一人の苦労を、深く深く、わかってあげてほしい。冷酷な、無慈悲な幹部になってはいけない。
 うわべだけの言葉や、お世辞などではなく、まじめに、心を込めて、感謝を伝えていくのだ。
39  人生の最高学位
 仏法も、人間の生き方も、誠実が根本である。
 学歴や地位が何だというのか。そうしたものは、人間の偉さには、まったく関係ない。ましてや、仏法の世界は、平等な同志の世界である。
 広宣流布のために、どう働いたか。広布の団体である創価学会のために、どう尽くしたか。同志のため、民衆のために、どれだけ汗を流したか。
 それこそ、生命の学位であり、仏法の学位である。人生の最高学位である。
 「私は最高の人間学を修めている」との誇りを持って、勇んで広布に進んでいただきたい。
40  研修で心を磨く
 ここで、「研修」の意義について少々、触れておきたい。
 「研修」には、元来、「学問や技や芸などを、みがき、おさめる」との意味がある。
 「研」の字には、「みがく」「とぐ」「きわめる」、さらに「すべて精密にものを仕上げる」
 「研ぎ澄まして見る。汚れを磨きとって、本質を見きわめる」といった意味がある。
 「修」には「おさめる」「なおす」「ならう」「きよめる」、さらに「でこぼこを取り去り、整える」「欠けている点を補う」等の意味が含まれる。
 学会の研修会は、牧口先生、戸田先生以来の伝統である。
 正しき師匠に薫陶を受けてこそ、自分自身の心をまっすぐに正していける。
 師のもとで、わが生命を磨き、清め、正し、深め、広げ、強めていくことは、最極の研修である。
 戸田先生は、あるとき幹部にこう言われた。
 「君が同志だから、私は厳しく言うのだ。人間は、厳しく言われなくなったら、おしまいではないか!」
41  「最も尊敬する人物」の一人に
 きょうは責任ある最高幹部の集いである。
 28年前、私が第三代会長を辞任した当時の話をしたい。
 昭和54年(1979年)の4月24日、火曜日。私は、第三代会長の辞任を新宿文化会館で発表した。
 全国から集った代表幹部からは、「どうして先生が辞めなければいけないんですか!」「先生が辞められることは、納得できません!」との声があがった。
 その後、私は聖教新聞社のロビーで記者会見を行った。
 歩いて自宅へ戻ると、妻が、いつもと変わらず、微笑みながら、「ご苦労さまでした」と迎えてくれた。
 5月3日、創価大学で、会長辞任の本部総会を終えた後、私は、そのまま神奈川文化会館へ向かった。
 学会本部には、私の指揮を執るべき席はなかったからである。
 時として、小さな管理者室で執務することもあった。それほど冷たい執行部だった。
 この5月3日付の「読売新聞」の朝刊に、日米の国民の意識調査の結果が掲載された。
 そこには、日本人が「過去、現在を問わず最も尊敬する」日本人の名前が、上位20人まで挙げられており、第6位として私の名前が出ていると、ある幹部が教えてくれた。
 吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして昭和天皇と続き、その次が私であった。
 会長を辞任して迎えた5月3日の記事に、私は不思議な感慨を覚えた。
 無名の庶民の代表として、私の名前が出たことを、同志がどれほど喜んでくれたか。
 一方、その意義を感じられず、嫉妬の眼で見つめる愚劣な連中の心は、本当に浅ましかった。
42  世界広布へ!
 5月3日から6日までの4日間、私は、神奈川文化会館で指揮を執った。
 この折、神奈川文化会館の前の山下公園通りでは、横浜港の開港120周年を祝う「みなと祭」のパレードが盛大に繰り広げられていた。
 妻は「素晴らしい行事です。まるで、あなたを歓迎してくれたようですね」と言った。
 この間、幾千、幾万の学会員が、私を求めて、連日、神奈川文化会館へ来られた。
 私のいる窓に向かって、山下公園から手を振る同志に、私も、妻と共に手を振って応えた。
 広々と海が見える神奈川文化会館で、私は全世界の広宣流布の構想を練り、人知れず、手を打っていった。
 この時の戦いが因となって、当時、90カ国ほどであったSGI(創価学会インタナショナル)は今日、190カ国・地域への拡大という大発展を遂げたのである。
 5月5日、快晴。この日、私は「正義」の揮毫をしたためた。脇書には、「われ一人正義の旗持つ也」と記した。
43  陰で戦った人を決して忘れない
 当時、神奈川文化会館で、陰で戦ってくれた方々のことは、絶対に忘れない。
 代表の方々の名を挙げれば、婦人部では、大曽根洋江さん、岡本雅子さん、大場由美子さん、川井三枝子さん、さらに平塚貞子さんをはじめとする皆さんである。
 運転手の小早川欣也君も、変わらず、そしてひたむきに、奮闘してくれた。彼は平凡な人間だが、根性は立派だった。
 私の運転をしている間、ただの一度も、病気をしなかった。
 役員も、大石秀司君を中心に、本当に真剣に護ってくれた。
44  学会の常勝の道
 初代・牧口常三郎先生は、一生涯、会長であられた。第二代・戸田城聖先生も、一生涯、会長であられた。
 戸田先生は、遺言された。
 「第三代は、一生涯、会長として指揮を執れ! 第三代が、一生涯、会長として指揮を執ることこそが、創価学会の常勝の道である」
 第三代会長を、皆で一生涯、護れば、必ず広宣流布できる──これは、執行部が、皆、戸田先生から厳命された遺誠であった。
 しかし、名聞名利に溺れ、嫉妬に狂い、権力の魔性に屈した人間たちが、第三代の私を追い落とし、迫害し、学会を乗っ取ろうとした。
 その陰には、提婆達多のように卑劣な謀略の輩に誑かされた最高首脳がいたことは、よくご存じの通りだ。
45  昭和54年の5月6日、私はいったん信濃町へ戻った。
 そして5月11日からは、大東京の開拓の新天地・第2総東京の立川文化会館へ向かった。
 この日、私は一詩を詠んだ。
  西に 満々たる夕日
   東に 満月 煌々たり
    天空は 薄暮 爽やか
     この一瞬の静寂
      元初の生命の一幅の絵画
       我が境涯も又
        自在無礙に相似たり
 私は、いかなる嵐の中にあっても、御聖訓を拝し、日天・月天と対話するような心で、悠然と未来の勝ち戦の種を蒔いていった。
46  世界からの賞讃
 昭和54年の当時、私が受けていた名誉博士号は、「モスクワ大学名誉博士」の一つであった。
 以来、28年の歳月を経て、私は、皆様の代表として、世界の大学から多くの名誉博士号をお受けした。〈世界の大学・学術機関から名誉会長に贈られた名誉学術称号は、「218」を数える〉
 現在、我らの平和・文化・教育の運動と、人間革命の希望の哲学に、世界中から賞讃が寄せられている。
 透徹した仏法の眼から見れば、三類の強敵、三障四魔と戦い抜いた、創価の三代の正義を讃嘆する、厳然たる「普賢菩薩」の守護の象徴であり、「多宝如来」の赫々たる証明である。
47  学会厳護の矢面に立つ
 昭和30年(1955年)3月、身延派との「小樽問答」で私は司会を務めた。
 私は第一声から、身延派の信者が続々と学会に入会している事実を挙げ、身延派の誤りを鋭く指摘し、突破口を開いた。学会側の圧倒的大勝利は、この第一声で決した。
 昭和32年(1957年)の6月、北海道・夕張の炭鉱労働組合が学会員を弾圧した「炭労事件」では、戸田先生が、「行ってこい」と私を派遣された。
 そして、私が指揮を執り、完全に勝った。
 炭労事件を解決すると同時に、私は、大阪へ飛び、まったく無実の罪で逮捕された。露骨な宗教弾圧の陰謀であった。
 体の衰弱されていた戸田先生を、断じてお護りし抜くために、私は一身に難を受けきった。
 関西の同志は、私とともに、本当によく戦ってくれた。
 関西は、常に勝っている。師弟の精神で、真剣に尽くしている。
 西口総関西長、藤原関西長、中尾関西婦人部長はじめ、関西のリーダーは、私が先の先を見すえながら、手づくりで、全魂を注いで育て上げた一人一人である。
 今も、その活躍と成長と、人生の勝利を真剣に祈り、じっと見守り続けている。
 守ってあげよう。偉くしてあげよう。これが本当の指導者の心だ。
 私は戸田先生から師弟の血脈を受けた、真の弟子である。広布の指導者の魂を厳然と受け継いでいる。
48  宗教の弾圧は「人権の弾圧」
 ともあれ政治権力は、つねに宗教を弾圧しようと狙っている。とくに、日本の風土においては、そうである。
 宗教の弾圧は、人権の弾圧であり、民衆の弾圧である。
 宗教を蹂躙する人権破壊の勢力とは、断じて戦わなければならないし、戦わざるを得ない。
 とともに、宗教を理解し、その宗教の価値観を大事にする人々とは協力し、日本のため、世界のために、行動していくべきである。
 ともあれ、「信教の自由」は基本的人権の根本であり、それを死守することは、民主主義の根幹である。
 この基本に立ち、それに反する勢力とは、殉難の決心で、勇ましく、楽しく、戦い抜くことだ。
 事実、私は、そうして戦ってきた。後を継ぐのは、青年部である。
49  これからを生きる人々に、イギリスの大歴史学者トインビー博士が与えた“第一の助言”は何であったか?
 それは、「死ぬまで青年の精神を保て」であった(毎日新聞社外信部訳『未来を生きるトインビーとの対謡』毎日新聞社)。
 ひとたび決めたら、まっしぐらに突き進む!
 燃え立つ心で、新天地へ飛び込む!
 わが身をなげうって、希望の道を開く!
 これが青年だ。
 事業の最大の苦境の時、戸田先生は、私に言われた。
 「広宣流布のために、大作、“男の生きざまとはこうだ”というものを、二人でこの世に残そうじゃないか」
 思えば、朝から晩まで戸田先生に仕えきる毎日であった。
50  阿修羅の如く!
 また、先生はおっしゃった。
 「大作、広宣流布のために、君は男として、阿修羅のごとく戦ってくれ。
 たとえどのような結果になっても、すべて御本尊におまかせしよう」
 私は戸田先生が逝去された年(昭和33年)の12月、男子部総会で、「天魔の働きや、三類の強敵がおそいかかってきたときには、阿修羅のごとく力を出しきって戦っていきたい」と叫んだ。
 私は、恩師の言葉のままに戦った。これが報恩の道であると信じて、戦い続けてきた。
51  戸田先生が愛した小説に、「巌窟王」がある。
 19世紀フランスの文豪、大デュマの傑作『モンテ・クリスト伯』を日本語に翻訳した際、名訳者の黒岩涙香が、「巌窟王」と訳した。
 主人公は、若き船乗りダンテスである。
 ダンテスは、周囲の悪党に陥れられ、冤罪で捕らえられる。そして、地中海に浮かぶイフ島の監獄、シャトー・ディフに幽閉されてしまう。
 かつて、このイフ島を、フランスの青年たちとともに、マルセイユの港から眺めたことは、懐かしい思い出である。
 監獄でダンテス青年は、師と仰ぐことになるファリア神父に出会い、万般の学問を授かった。とともに、モンテ・クリスト島に埋蔵された、膨大な宝の秘密を教わる。
 投獄から14年後、ダンテスは脱獄に成功し、「モンテ・クリスト伯」と名乗り、社交界に現れた。
 そして、知恵と巨万の富を自在に駆使して、かつての恩人に恩返しをしていく。
 さらに、自分を陥れた怨敵たちに次々と報いを与え、仇討ちを果たしていくのである。
 戸田先生は叫ばれた。
 「私は、宗教界、思想界の巌窟王である。広宣流布の巌窟王である。必ず必ず、獄死させられた牧口先生の仇を討ってみせる!」
 戸田先生が妙悟空のペンネームで書かれた小説『人間革命』の主人公は巌九十翁がんくつおという名前だ。
 言うまでもなく、戸田先生ご自身のことである。
 先生は、あるとき「大作、いよいよ、今度はデュマの『巌窟王』をやろうじゃないか!」と言われた。そして、私をはじめ青年部の精鋭が集う「水滸会」で、教材とされたのである。
52  今も世界中で愛読されている『モンテ・クリスト伯』。ダンテス青年は、師に対する感謝を述べている。
 「宝とは、あなたがわたしの頭にそそぎ入れてくだすった知識の光のことなのです」
 「これによって、あなたはわたしを富めるもの、幸福なものにしてくださいました」
 「わたしの得られる真の幸福、それはあなたのおかげなのです」(山内義雄訳、岩波文庫)
 師のいる人生は強い。師と弟子の交流こそ、幸福と勝利の源泉である。
 恩人の息子に、モンテ・クリスト伯は語りかける。
 「お嘆きになるのはたくさんです。男らしくおなりなさい。強くおなりなさい。希望をおもちなさい。わたしがついていますから」(同)
 また、小説の末尾の一節「待て、しかして希望せよ!」は、あまりにも有名だ。この一言に励まされた人は多い。
 戸田先生は、牧口先生の獄死を知った時の心情を語られた。
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
 この戸田先生の“巌窟王の執念”も、根底には「広宣流布」という、燃えさかる「希望」があった。
 戸田先生が、どれほど牧口先生を慕っておられたか。牧口先生の三回忌法要で、戸田先生は「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」とおっしゃった。
 生命の奥底から発せられた、この一言こそ、創価学会の実相である。また、学会の師弟論の真髄である。
 殉教の牧口先生にお仕え申し上げた戸田先生。その戸田先生が復興した学会の勢力を、私は、何倍にも発展させた。師の正義を世界に宣揚した。
53  平和と文化の言論紙・聖教新聞が創刊されたのは、昭和26年(1951年)4月20日。当初、月3回の発行で、部数は5,000部だった。
 記者も少なく、皆、素人だった。
 私は、戸田先生の事業を支える激務のなか、記事を書きまくり、創刊号から、聖教新聞を護っていった。
 学会本部は当時、西神田にあった。
 私は、神田中をまわって、聖教新聞を自ら拡大していった。
 「聖教新聞を、日本中の人に読ませたい」──師の夢の実現のため、足元から行動していったのである。
 昭和30年の1月。私は、「若き日の日記」に記している。
 「素人一名乃至二名で始まったこの紙弾(聖教新聞)。今、数十万部に近い勢力となる。人々は笑った。素人になにが出来るか、と。(戸田)先生のいわく“素人も、五年たてば玄人になってしまう”と」
 私と妻は、常に率先して、聖教新聞の拡大を行ってきた。
 御聖訓には、「仏は文字によって人々を救うのである」(御書153㌻、通解)、「(法華経の)文字変じて又仏の御意となる」などと説かれている。
 聖教新聞の拡大は、即、仏縁の拡大であり、広宣流布への大折伏の意義があることを、知っていただきたい。
 思えば戸田先生当時、学会の会館は5つであった。現在は1,200会館に発展した。SGI(創価学会インタナショナル)は、190カ国・地域に広がった。
 だれもできなかった広宣流布の実証を残してきた。
 勝負はこれからである。皆さんとともに、さらに盤石な、師弟勝利の歴史を築いていきたい。
54  「信心」で立て「信心」で戦え
 イタリァ・ルネサンスの大芸術家ミケランジェロは、味わい深い手紙を多く書き残している。
 ある時、ミケランジェロの甥から手紙が届いた。
 それは、甥の父親──すなわち、ミケランジェロの弟が亡くなったことを知らせる便りだった。
 しかし、便りの中身は粗雑で、肝心の、弟の臨終の様子などが、よくわからなかったようだ。
 ミケランジェロは返事のなかで、甥の杜撰な書きぶりをたしなめた後、「おまえのために働いてくれた人(甥の父親)の恩を忘れぬように気をつけるがいい」と綴っている(杉浦明平訳『ミケランジェロの手紙』岩波書店)。
 人の心というものは、細かいところ、思わぬところに、にじみ出るものだ。
 これまでの学会の歴史において、大恩ある師匠が迫害の集中砲火を浴びせられている時に、それをせせら笑っている人間がいた。後に退転した者もいた。
 そういう者たちは、最高幹部でありながら、だれ一人として「信心で立つ」「信心で戦う」という根本の姿勢がなかった。悪縁に紛動されたその姿には、信心のかけらもなかった。
55  リーダーは心と心を結べ!
 「師匠を護る」とは、どういうことか。それは大難の時にわかる。
 私と妻は、戸田先生ご一家を、現実の上で、徹してお護りした。口先だけの人間とは、天地雲泥であった。
 先生は、何かあるたびに、「大作!」と私を呼ばれた。その信頼にお応えし、活路を開いた。
 学会全体の弘教が、戸田先生の思うように進まない時があった。
 「このままでは、広宣流布は何千年もかかってしまう」。先生は深く嘆かれた。
 私は戸田先生からの命を受け、低迷している各地の組織に勇んで入っていった。
 そのなかに、東京の文京支部もあった。文京の折伏成果は、当時、最下位クラスだったが、私が支部長代理として戦い、一気に大躍進を遂げたのである。
 かけがえのない、青春の鍛えの日々であった。
 ともあれ、学会の幹部は、断じて偉ぶってはいけない。だれであっても、蔑んではならない。皆、同じ人間である。
 偉ぶるのは増上慢であり、増上慢は人を不幸にする。どんな人も、尊い仏の生命が具わっているととらえるのが、仏法である。
 皆さんは、どこまでも信心根本で、人の心のわかるリーダーになっていただきたい。そのために、どこまでも自分自身を鍛えていただきたい。
 常勝の伝統を築くには、核となる人間が「一緒に」進むことだ。
 「師匠と一緒に」「同志と一緒に」──その心があれば、強い。魔に、付け入るスキを与えない。
 離れ離れでは力が出ない。心と心を結ぶのがリーダーの智慧である。
 新しき常勝の歴史を、ともどもに築こうではないか!
56  さあ、きょうも、新たな気持ちで出発しよう!
 昇りゆく太陽のように、わが生命を赫々と輝かせながら、生き生きと前進するのだ。
 一日一日が、勝負だ。一日一日が、研鑚だ。一日一日が、人間革命の闘争だ。
 戸田先生は語っておられた。
 「信心で、自身を磨いていけ! いい輝きが出るようになる」
 大事なことは、リーダー自らが日々、自身を磨いていくことだ。
 自身の弱さと戦い、自分の殻を一つ一つ打ち破っていくことだ。人間革命していくことだ。
 戸田先生は言われた。
 「生命力が弱っていては、戦は負けだぞ!」
 覇気のない幹部。惰性に流された幹部。自分は何もしないで、人にやらせてばかりいる幹部。
 そうした人間に対して、先生は本当に厳しかった。激しく叱咤することもあった。雷鳴のごとき師の叫びに、震え上がる人間もいた。
 多くの人を守り、支えていくリーダーなればこそ、先生は厳しかった。すべて、本人の成長を願っての厳愛の指導であった。
 先生はこうも語っておられた。
 「幹部が自らを指導し、自らが自己を磨いていけば、会員は自然と育っていくのである」
57  全員が尊き仏子
 皆さんは、同志に勇気と希望を送る存在であってもらいたい。
 「人々がどう自立し、生命力強く生ききっていけるか。宗教は、その点に鋭く目を向けねばならない」
 これも戸田先生の指導である。
 愛する同志と肩を組む。一人一人と固い握手を交わす──そういう思いで、最前線の友が安心し、自信を持って戦えるように、最大の励ましを送っていただきたい。
 そして、どこまでも謙虚に、誠実に、会員の方に接していくことだ。幹部だから自分は特別だと思ったり、威張ったりする人間は最低だ。
 広宣流布に生きゆく人は、全員が尊き仏子である。平等に偉大な存在なのである。
58  納得が力に!
 「二人の人間の間で交わされる、一対一の対話においてこそ、その内容は、最も高く、最も深いものとなる。我々の心は高揚し、そこから、内なる天空に輝き続ける思想はうまれる」
 これは、アメリカの思想家エマソンの卓見である。
 一対一の対話ほど、強いものはない。
 学会においても、幹部が一方的に「上から」話す時代ではない。
 大勢の前で話をして、拍手をもらって、広宣流布が進んでいると思うのは、幻想である。夢を見ているようなものだ。
 もちろん、会合には重要な意義があるし、大きな会合が必要な場合もある。
 しかし、それだけでは、「一方通行」になる。魂に入りにくい。
 牧口先生も、戸田先生も、座談会のような少人数の集いを重視された。
 そして、一人一人が、対話を通し心から納得して、行動を起こした。だから学会は、飛躍的に発展したのである。
 私自身、大人数の会合で話す際も、なるべく、一人一人に声をかけることを心がけている。
 一対一で語り合ってこそ、本当のことが分かる。
 一対一の触発があってこそ、一人一人の持つ「大きな力」を引き出していくことができるのである。
 すぐに「人を集める」のではない。
 幹部自らが「会いにいく」。
 友の励ましのために、一軒一軒、足を運ぶ。
 その地道な労苦によって起こした「一波」が、「万波」に広がっていくのだ。
59  善知識の集い
 きょうは、海外のSGI(創価学会インタナショナル)を担当する日本のリーダーも参加されている。
 とくに海外では、その人その人に応じた、柔軟な対応が大事になってくる。
 その意味でも、一対一の対話を地道に積み重ねていってもらいたい。
 また、どうしても、人数の多いところは、にぎやかだし、幹部も目がいきがちだ。
 しかし、同志の少ないところ、これからのところに、どのようにして活動の勢いを広げていくか。それが重要である。
 たとえば、会合に集ってきた人が一人であっても、「よく来てくださいました。きょうは、ゆっくりと二人でお話をしましょう!」と温かく包んでいく。
 弘教が進まなくても、「大丈夫ですよ。信心をしている、あなたが生き生きと輝いていることが一番の折伏なのです」と明るく励ましてあげることだ。
 励ましがあれば、相手の心に「張り合い」ができる。
 そこから、「やってみよう!」「がんばろう!」と前進の力がわいてくるものだ。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「木を植える場合には、大風が吹いたとしても、強い支えがあれば倒れない。もともと生えていた木であっても、根が弱いものは倒れてしまう。たとえ、ふがいない者であっても、助ける者が強ければ、倒れない。少々強い者であっても、独りであれば、悪い道では倒れてしまう」(御書1468㌻、通解)と。
 ゆえに「支える人」が大事だ。学会は、ともに仏道修行に励む“善知識の集い”なのである。
 戸田先生は言われた。
 「自分を大事にするのと同じくらいに、人も大事にしたら、人材も出てくる」と。
 ともあれ、メンバーが功徳をたくさんいただいて、一人一人が人生を楽しんでいくための仏法である。
 そうなるために、真剣に祈り、手を打ち、地道に行動していくことが、リーダーの戦いである。
 海外を担当する皆さん方は、使命ある世界広布のパイオニアである。苦労も多いと思うが、自分自身の大きな歴史をつくっていくのだとの強い気持ちで、勇敢に進んでいっていただきたい。
60  だれも見ていないところで、どれだけ真剣に祈れるか。広布のため、同志のために尽くせるか。指導者の真価は、これで決まると言っても過言ではない。
 私は見えないところで全同志の幸福のため、学会の発展のために、最大に力を尽くしてきた。命を削る思いで、あらゆる手を打ってきた。
 だれが知らなくとも、諸天善神は厳然と我々を見ている。御本尊が賞讃してくださることは間違いない。
 これが大聖人の仏法である。信心なのである。
61  平和を語り継ぐ
 ノーベル平和賞受賞者のロートブラット博士は、私との対談の中で述べておられた。
 「若者の情熱はとても大切です」
 「青年の情熱、力、意気込みは、時には過激すぎたり、極端になったりしますが、それでも重要です。
 私はいつもそれを、広い心で包み込み、踏みつぶしたり、消沈させたりしないように努力してきました。反対にその情熱を燃やし続けるよう激励してきました」
 博士は90歳を超えてなお世界を飛び回り、平和のため、核兵器の廃絶のために戦っておられた。自身が青年のごとく戦うとともに、若い世代の育成に全力を注がれた。
 同時多発テロ事件から間もない2001年10月、私が創立したアメリカ創価大学を訪問し、1期生たちを前に記念講演を行ってくださったことも忘れられない。
 若き世代に、平和への思いを語りたい。青年に、すべてを託す以外ない──そういう思いで、生命を振り絞るようにして講演してくださったのである。
 青年が大事だ。
 青年こそ世界の宝である。平和への希望なのである。
 大きな事業を完成させるために、必要なものは何か?
 ドイツの詩人ゲオルゲは、それは「若い力」と「大胆な企てを敢行する新鮮な精神」であると綴っている(富岡近雄訳『ゲオルゲ全詩集』郁文堂)。
 新しい人材を見つけ、育てていく。不屈の闘争精神みなぎる青年を育成していく以外に、学会の未来もない。
 指導者の皆様は、この一点を深く命に刻んでいただきたい。
62  勝ち戦の指揮を
 この協議会には、信越の代表も参加しておられる。
 先月の新潟県中越沖地震で被災された皆様に、改めてお見舞いを申し上げたい。
 また、地震の直後から青年部を中心として、多くの友が被災者の救援活動に全力で取り組んでくださった様子は、詳しくうかがっている。
 私は妻とともに、愛する新潟の同志が雄々しく立ち上がり、幸福の大道を歩みゆくことを真剣に祈っている。お題目を送り続けている。
63  ともあれ、いよいよ新たな戦いのスタートである。戦うからには、断じて勝つことだ。勝ち戦をすることだ。
 そのための最高の作戦と行動をお願いしたい。
 各地では猛暑が続いている。体調にも十分気をつけて、充実した毎日を過ごしていただきたい。
 各地域に戻られましたら、尊き同志の皆様に、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 新たな歴史を断じて勝ち開こう! また、お会いしましょう!

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