Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「7・3」記念協議会  

2007.6.14 スピーチ(聖教新聞2007年上)

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2  不滅の金字塔
 昭和31年(1956年)の大阪の戦い。私が指揮を執り、「まさかが実現」と世間が驚く大勝利を収めた。
 決戦の日の朝5時頃のことである。私のいる、関西本部の電話が鳴り響いた。
 私は、東京におられる戸田先生からの電話ではないかと直感した。受話器を取ると、やはり先生からであった。
 「大作、起きていたのか」
 「はい」
 「関西はどうだい?」
 「こちらは勝ちます!」
 私は、即座に答えた。
 「そうか。……東京はダメだよ」
 戸田先生は言われた。
 東京は幹部が威張って、いい気になっている。だから負けてしまうよ──そう悔しそうに語っておられた。
 戸田先生の言葉通り、勝てる可能性が高かった東京は敗北した。そして、絶対に勝てないと言われた大阪が勝利した。
 もし両方とも負けていたら、先生はどれほど大きな衝撃を受けられたことか。
 先生は「大作のおかげで勝てた!」「うれしいな。うれしいな」と本当に喜んでくださった。
 あの大阪の戦いの時、旧関西本部は、軍艦のように揺れた。もとは音楽学校だった建物だ。
 ここを拠点に、愛する関西の同志とともに、私は戦って戦って、戦い抜いた。そして不滅の勝利の金字塔を打ち立てた。友の喜びは爆発したのである。
 その戦いから50年後、関西池田記念会館が誕生したことは、うれしい限りである。
3  創価菩提樹園に氏名を永久保管
 我らの創価の世界には、常に希望の建設の槌音が響いている。新しい会館も、着々と誕生していく予定である。
 この席をお借りして、広宣流布の大切な城を護り、荘厳してくださっている、すべての皆様方に、心から御礼申し上げたい。
 第三代会長の就任が決定して、私が最初にあいさつにうかがったのは、どこであったか。それは、学会本部の小さな管理者室であった。
 陰で、厳然と、広宣流布の本陣を護ってくださっている方々こそ、最も尊敬し、大切にしていくべきであるからだ。
 御聖訓には仰せである。
 「法華経を持つ人は、男性ならば、どんな身分の低い者であっても、三界の主である大梵天王、帝釈天王、四大天王、転輪聖王、また中国、日本の国主などよりも勝れている。
 ましてや、日本国の大臣や公卿、源氏や平家の侍、あらゆる人々に勝れていることは、いうに及ばない。
 女性ならば憍尸迦女きょうしかにょ(帝釈天の妃)、吉祥天女(インドの女性神)、あるいは漢の夫人(武帝の夫人)、楊貴妃などの無量無辺の一切の女性に勝れている」(御書1378㌻、通解)
 また伝教大師は、正しい仏法を求め、実践する人は「国宝」であると述べている。
 妙法を持ち、広宣流布に生きゆく皆様方こそ、人間として最も尊貴なのである。
 相手がいかなる権勢の人間であっても、何も臆することはない。
 「法華経を持る人」が集い合う広宣流布の会館を大切に護る方々は、生友世々、大宮殿に住めるような境涯に必ずなる。そう強く確信していただきたい。
 きょうの集いを記念して、私から提案を申し上げたい。
 それは、ここ東京牧口記念会館をはじめ、全国・全世界の「会館管理者」の方々、一日会館長である「創価宝城会」の皆様、そして、尊き「守る会」の皆様方の全員のお名前を、仏教発祥の地・インドの創価菩提樹園に、永久に保管し、永遠に顕彰させていただきたいということである。
 菩提樹園は、首都ニューデリーから車で約1時間。約20万坪の広さである。3,000本の菩提樹が林立し、100羽の孔雀も優雅に舞っている。
 まさに、現代の霊鷲山ともいうべき園林おんりんである。
4  今を大切に!
 トルストイは物語の中で論じている。──最も重要な時とはいつか。それは「今」である。
 最も必要な人とは、だれか。それは「今、出会っている人」である。
 そして、最も重要なことは、何か。それは「この人(今、出会っている人)に、善をなすこと」である。。
 確かに、その通りだ。
 今、この時を逃して、未来の勝利はあり得ない。
 今、縁を結びゆく一人一人を誠実に大切にすることだ。そして、今、なすべきことをなし、語るべきことを語り切っていくことだ。
 ともあれ、トルストイは結論している。
 「人生は、天国でもなければ、地獄でもない。戦いだ。絶え間ない戦いである。戦いにこそ人生がある」
 戦いこそ人生──その激流をくぐり抜けてこられた一人が、わが親友であるゴルバチョフ元ソ連大統領である。
 ゴルバチョフ氏とは、先日(11日)、4年ぶりに懐かしい再会を果たした。
 氏をはじめ、多くの世界の一流の知性が、創価の人間主義に深く期待し、信頼を寄せている。
5  わが人生の戦いに、絶対に勝利していく究極の力──これが仏法である。信心である。
 大事なことは、学会の世界、信心の世界から離れないことである。学会活動をやりきっていくことだ。
 見栄を張ったり、世間体を気にしたりして、信心から離れてしまえば、最後は不幸である。幸福の軌道から外れてしまうからだ。
 人生を勝ち抜き、絶対的幸福の境涯を築いていく。そのための信心である。学会活動なのである。
 「広宣流布は私の生命であり、使命である」とは、戸田先生の不滅の宣言であった。
 広宣流布の前進のためならば、いかなる労もいとわず、行動することだ。智慧の限りを尽くして、手を打つことだ。声を惜しまず、語り抜いていくことだ。
 その尊き模範こそ、きようお集まりの、わが第2総東京の婦人部の皆様方である。
 日本一、世界一の第2総東京婦人部の前進を、私は心から讃えたい。
6  悪を打ち破れ
 それは、55年前、昭和27年(1952年)の秋10月14日であった。
 この日、私は戸田先生と一緒に三鷹を訪問し、朝9時半より「仏教講演会」を行った。
 定員60人の会場は、満員となっていた。戸田先生の講演を前に登壇した私は、日蓮仏法の真髄を語り、強く厳しい破折の論陣を張った。
 先生が少しでも話されやすいようにと念じて、青年らしく叫び切った。
 悪を正し、打ち破る「破邪」があってこそ、初めて正義を明らかにできる。「顕正」となる。これが道理である。
 そして、その「破邪」の先鋒に立つのは、どこまでも弟子の責任なのだ。
 最後に戸田先生が「生命論」の講演を行われると、その場で16人の方が次々に入会を希望されたことを、今も鮮やかに思い出す。
 翌・昭和28年(1953年)には、福生の天地で、私は戸田先生の命を受け、同志を厳護しゆく破邪の法戦に走った。
 まさに、第2総東京には、その草創から、弟子の「破邪」によって、正義の拡大の道を開く、師弟不二の勝利の方程式が刻まれているのである。
 師匠のために戦い抜く。師匠を断じて守る。これが真実の弟子である。
 私は、戸田先生を侮辱する人間、中傷する人間は絶対に許さなかった。
 師匠が罵られ、辱められても黙っている──それは最低の弟子だ。畜生のごとき、卑怯な人間である。絶対に信用などできない。
 立ち上がるのだ。真実の弟子ならば! 叫び切るのだ。師の正義と偉大さを!
 そこにこそ、真実の師弟の大道が輝くのである。
7  誇りも高く!
 釈尊の名高い十大弟子は、それぞれに「第一」と讃えられる力を持っていた。
 「これはだれにも負けない!」という自分の生命の持ち味を最大に発揮していたのである。
 なぜ、そうした金剛の実力を磨き上げることができたのか。
 それは、どこまでも師匠である釈尊を心から尊敬し、感謝を捧げ、師の教え通りに実践し、師のもとで戦い抜く、喜びと誇りと責任感に満ちていたからである。
 「智慧第一」といわれた舎利弗をはじめ、弟子たちは述べている(以下、早島鏡正訳「長老の詩」、『原始仏典』所収、筑摩書房を参照)。
 「わたしは、師〔ブッダ〕に仕え、ブッダの教え〔の実行〕を成しとげた」
 舎利弗は、極悪の提婆達多の陰謀を打ち砕いた弟子である。
 また、すべてを見通す力を持った「天眼第一」と謳われた阿那律は、釈尊を「無上の師」「なにものにも恐れぬ師」と讃えた。
 釈尊の説く教えを、常にそばで聞き続けたとされる「多聞第一」の阿難は語っている。
 「〔また、ブッダが教えを説かれているとき〕わたしに智慧が生じた」
 正しき師弟の道に徹していくなかにこそ、わが生命の悔いなき最上の開花があるのである。
 どうか、わが第2総東京は、広宣流布の「師弟の道」にあって「我ら第一なり」という誇りも高く前進していっていただきたい。
8  厳しき薫陶
 戸田先生と私は、一体不二の師弟である。
 私は、戸田先生の精神で、まっすぐに生きてきた。本当に天才中の天才の先生であった。
 相手が何を考え、何を思っているか。すべて、レントゲンのように見透かされた。
 広布の戦において、幹部に油断や遊びがあれば、雷鳴のごとく激怒された。皆、肝を冷やし、震え上がった。
 何の遠慮もされなかった。真剣勝負であった。
 そこに、本当の仏道修行の世界があり、信心の師弟の世界があった。
 その意味で、今の人たちは、守られ過ぎているのかもしれない。
 私は、19歳で戸田先生に出会い、21歳で先生の会社にお世話になった。先生の訓練は、それはそれは厳格であった。
 まもなく、先生の会社の経営は厳しくなっていった。何カ月も月給が出ない。社員は逃げていった。
 それでも私は、一生懸命、先生にお仕えした。
 右も左も、戸田先生を悪く言う人間ばかりである。悔しかった。我慢ならなかった。
 ただ一人で、敵陣に飛び込んで、正々堂々と師の真実を訴えた。
 初めは警戒していた相手も、語り合ううちに、次第に態度を変化させていった。
 「君の言うことは正しい」「私たちが誤解していた」と。
 そうやって、敵も味方に変えながら、一人また一人と、理解者を増やしていったのである。
9  ある時、先生が、ぽつりと漏らされた。
 「大勢の人間がいるが、信用できるのは大作だ」と。
 またある時、先生から、「君には苦労をかけてすまないが、進学を断念してくれないか」と言われた。「そのかわり、ぼくが、一生涯、君に教えるから」と。
 その言葉の通り、一対一の個人授業は、師の命の果てるまで続いた。
 約10年間。日曜日もご自宅に招いてくださり、自ら食事まで用意してくださった。本当に大事に育てていただいたのである。
 私は、先生のただ一人の弟子である。それが私の誇りである。
 師弟ほど有り難いものはない。また師弟ほど厳しいものはない。
 あの豪放磊落な戸田先生が、牧口先生には、ひれ伏すように仕えていかれたのだ。
 私も戸田先生に、青春のすべてを捧げて、仕えきった。真夜中に先生に呼ばれ、ご自宅に馳せ参じたことも、たびたびあった。
 戸田先生のもとで、かくも厳しき訓練を受けたからこそ、今の自分があり、今日の学会の発展がある。
10  真剣の一人を! 本物の一人を!
 戸田先生は言われた。
 「高杉晋作が民衆を陣頭とした軍勢を作り、一人立ち上がったから、100年の栄冠の歴史が開かれた」
 「ただ一人、確信をもって立つところに、一切の仕事ができあがる」
 「わが青年部は、高杉晋作であり、久坂玄瑞である。妙法蓮華経の力をもって立ち上がった青年たちに、偉大な革命ができないわけがない」
 「法華経の兵法」を掲げて、青年部が一人立つならば、必ず新しい歴史を開くことができる。断じて行き詰まることはない。
 牧口先生のときは、戸田先生が一人、立ち上がった。
 戸田先生のときは、私一人であった。
 今、その一人が、どこから出てくるのか。私はじっと見ている。
 「私が広宣流布の全責任を担います!」
 「だれが何と言おうとも、私が一人、立ち上がります!」
 こう天に向かって叫び抜き、祈り抜き、戦い抜いていく。その「真剣の一人」が必要なのである。「本物の弟子」を育てたいのである。
11  戸田先生は、青年の育成、指導者の薫陶には、徹して真剣勝負で臨まれた。
 「ちっぽけな、そして卑しい、我慢偏執の心を打ち破れ!」
 「多くの人々は、虚栄で、上手に人生を渡ろうとしている。皆、虚栄で、自分自身を、ごまかしている。真実の信仰には、虚栄はいらない」
 このように先生は強く叫ばれたのである。
 16世紀フランスの思想家モンテーニュの言葉を、私は思い起こす。
 「高慢は人類の破滅であり、堕落である」「おお、高慢よ、何とおまえはわれわれの妨げとなることだろう」(原二郎訳『エセー』岩波文庫)と。
 日蓮大聖人の御在世にあって、退転し反逆していった者の本質は、虚栄であり、増上慢であり、欲張りであり、臆病であった。
 蓮祖は厳と仰せである。
 「わが一門の中でも、信心を貫き通せない人々は、(初めから信じないよりも)かえって罪があるのである。(地獄に堕ちて、その時)日蓮をうらんではならない。少輔房、能登房ら(退転した門下の末路)を、よくごらんなさい」(御書1168㌻、通解)
 わが弟子は、一人たりとも地獄に堕としたくない。なんとか信心を全うさせて、人生を見事に勝たせてあげたい。
 それが、御本仏の大慈大悲であられた。
 しかし、その師の心が、愚かな弟子には分からないのである。
12  戸田先生 「恩知らずになるな」
 戸田先生は、人材の要件として、「知恩・報恩」という一点を深く重んじておられた。
 ここに、人間として踏むべき根本の正道があるからである。
 あるとき、戸田先生がよく知る青年が、地方から上京してきた。
 戸田先生は、その青年に「恩人には、お会いしてきたか?」と尋ねられた。
 まだであることを聞かれると、厳しく叱られた。
 「君の大恩人ではないか! 上京したら、お訪ねするのが本当だ。恩を知らない人間は、畜生だ」
 慢心、虚栄、自分勝手、名聞名利といったエゴや破壊の生命は、時として、「恩知らず」の形となって表れる。
 大聖人が喝破された退転・反逆の生命に共通するのが、「恩知らず」であった。
 恩を知る人は、謙虚である。まじめである。真剣である。
 恩を知る人は、成長がある。向上がある。勇気がある。
 恩を知る人は、人を敬うことができる。人に尽くし、人を育てることができる。
 「仏法を学ぶ人が、どうして恩を知り恩を報ずることがなくてよいだろうか。仏弟子は、必ず四恩を知って、知恩・報恩の誠を尽くすべきである」(同192㌻、通解)との御聖訓を、深く心に刻んでいかねばならない。
 この「知恩・報恩」の道こそ、我ら「創価の師弟」の進む道である。
13  戸田先生は、指導者の要諦を、このように教えてくださった。
 「いざという時、指導者は悪と戦う勇気がなくてはならない。そうでなければ、無責任である。最も大切な庶民を守れないからだ」
 本当のことを厳しく言い、責め抜いて、悪い人間は戒めていくことが、真の慈悲である。
 先生は、青年に未来を託して言われた。
 「私が大きく幕を開いた舞台で、活躍するのは、ほかならぬ君たちなのだ。しっかり頼むよ。
 ひとたび、広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。
 戦いを起こしておいて、負けるのは、人間として最大の恥だ」
 この戸田先生の師子吼を胸に、私は、あらゆる戦いを、断固として勝ち抜いてきた。
 広宣流布のために断じて勝つことが、師匠への最大の報恩となるからだ。
14  苦難が人を偉大にする
 スイスの思想家であり、法学者であったヒルティは語る。
 「わたしの理想は、たくさんの人間の役に立つ友人となることだ」(国松孝二・伊藤利男訳『ヒルティ伝』白水社)
 さらに、このヒルティの揺るがぬ信念とは、何であったか。それは、「真理はおそかれはやかれ、かならず勝利をうる」(同)ということであった。
 ヒルティは、「善人の勝利と無尽蔵の力」を信じ、さらに「悪が無価値で必ず滅びる」と信じて行動せよ、と訴えていったのである(斎藤栄冶訳「病める魂」から、『ヒルティ著作集第8巻』所収、白水社)。
 その通りである。いな、そうであらねばならない。
 正義なればこそ、真理なればこそ、善の「無尽蔵の力」を発揮して、悪を打ち破っていかねばならない。
 牧口先生も厳然と戒めておられた。
 “悪人の傍若無人の振る舞いに、善人が大変な迫害を受けているのを、何もしないで傍観していてはならない。羊の群れのような臆病な小善人になるな!”と。
15  さらにヒルティは語った。
 「偉大な思想は、大きな苦悩のすきが深く掘りかえした、心の奥底からのみ生まれる」「苦しみにもかかわらず、というのではなく、苦しみのうちに苦しみを通して、幸福になることができる」(前掲『ヒルティ伝』)
 味わい深い言葉である。まさに、仏法の「煩悩即菩提」「生死即涅槃」に通ずる。
 苦難が人間を大きくする。苦労が人間を高める。障害が人間を深める。
 マハトマ・ガンジーも語っている。
 「反対にあってこそ人間ができる」
 「反対なくして、だれ人にも前進はない」
 さらに、ガンジーは、こうも言った。
 「これから進まなければならない距離が1マイルであっても、または、1,000マイルでも、第一歩はどこまでも第一歩であり、第一歩が踏み出されなければ第二歩はない」
 いかなる道も、一歩また一歩と進んでいくことだ。いかなる戦いも、一つ一つ、手を打っていくことだ。
 その地道な忍耐と執念こそが、偉大な勝利を可能にする。
16  「学会が日本の民主化を推進」
 アメリカの若き思想家ボーンは言った。
 「詭弁やいい抜けを嫌い、あるがままのものを主張する青年の抑えがたい活動がなかったら、社会はまったく衰弱して滅びてしまうであろう」(井上謙冶訳「青春」、『アメリカ古典文庫20』所収、研究社)
 正義と真実を恐れなく叫び切っていく青年の声こそが、時代を動かしていくのである。
 私が対談集を発刊した、アメリカの著名なジャーナリスト、カズンズ氏も言われていた。
 改革者は「歴史上の大きな発展、変化がみな意見の主張から始まる」と信じていた、と(松田銑訳『人間の選択』角川選書から)。
 さらにまた、創価教育学に深く共鳴された、忘れ得ぬデラウェア大学のノートン教授は明言されていた。
 「(私は)創価学会は、戦後日本の民主化の運動を強力に進めてきた団体である、と評価しております。
 私が言う“民主化”とは、人々の内発の力を育み、自立の心を磨く運動のことであります」
 「内発と自立に根ざした“自己統治”の運動を進める創価学会が、真の民主主義を、良き政治の意義を、社会に堂々と訴えていくべきである、と思います」
 これが、世界の良識の声である。
 全国各地で、立正安国の気高き行動を、勇敢に貫いておられる、尊き正義の中の正義の誉れの同志に、健康あれ! 幸福あれ! 勝利あれ! 栄光あれ! と、心からお祈り申し上げ、私のスピーチといたします。
 長時間、本当にありがとう! またお会いしましょう!

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