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日蓮大聖人・池田大作

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首都圏代表協議会  

2007.5.19 スピーチ(聖教新聞2007年上)

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2  世界広布は今、花盛り!
 「広宣流布」の和合僧の集いほど、楽しく充実したものはない。
 「異体同心」の同志の語らいほど、朗らかで清々しいものはない。
 ここにこそ、久遠の家族の結合があるからだ。きょうも、大いに語り合いたい。
 日本だけではない。
 アメリカ、ブラジルをはじめ、南北アメリカ大陸でも、ヨーロッパ、ロシア、そして、アジアを擁するユーラシア大陸でも、アフリカ大陸でも、そしてオセアニアでも、広宣流布のリーダーたちは、私と同じ心で、見事なる大発展の指揮を執ってくれている。
 皆様方の輝く信念と、聡明にして尊き行動に、私は心から感謝申し上げたい。
 日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」と仰せになられた。
 まさしく今、この仰せ通りに、日本の広宣流布の晴れ姿とともに、「世界広布は花盛り」の時を迎えた。
 ともどもに、ますます希望に燃えて、新たな決意と力を漲らせながら、尊き使命の坂に挑み、広布第2幕の勝利と栄光の頂上へ向かって、愉快に登り切ってまいりたい。
3  「ただの島の長ではないか!」
 日蓮大聖人の御在世に退転した弟子に三位房がいる。
 これまでも、折々に語ってきたが、大事な教訓であるので、きょうは、そのポイントを確認し合いたい。
 三位房は、大聖人の御慈悲で、比叡山に遊学し、京に上った。
 そのとき、三位房は、“ある公家の持仏堂に呼んでいただき、説法をして、面目をほどこしました”などと、得意げに大聖人に報告してきた。
 それに対して、大聖人は厳しく戒められた。
 ──日本の権力者など、ただの「島のおさ」ではないか。その長に仕える者たちに「呼んでいただいた」などとは、なにごとか。「面目をほどこした」とは、いったい、どういうつもりか。おまえは、師匠の日蓮を卑しんで、このようなことを書いてきたのか──と(同1268㌻、趣意)。
 三位房の報告には、世界第一の仏法を行じる大聖人門下の誇りなど、いささかも感じられなかった。
 それどころか、表向きは師匠を尊敬しているようであっても、内心は権威の世界におもねり、自分が偉くなったと思いこんで、師匠をあなどる心があった。
 増上慢である。それを大聖人は鋭く見抜かれた。
 一番、師匠にお世話になり、一番、師匠に仏法を教わったにもかかわらず──。
 結局は、「師匠が中心」ではなく、「自分が中心」であった。「自分本位」であった。
 増上慢は、恩知らずである。恩知らずということは、道理が分からないということだ。道理が分からないということは、仏法が分からないということだ。
 三位房の本質──それは、傲慢であり、臆病であり、ずる賢さであった。
4  「京なめり」への厳しき戒め
 さらに大聖人は厳しく言われている。
 「総じて日蓮の弟子は、京に上ると、はじめは忘れないようであるが、後には天魔がついて正気を失ってしまう」
 「京に上って、いくらも経っていないのに、実名を(貴族風に)変えたということであるが、狂っている」(同㌻、通解)
 貴族社会と交わり、初心を忘れ、名前を飾り立て、言葉づかいまで変わってしまった。なんと哀れな弟子か。
 大聖人は、重ねて仰せになっている。
 「きっと言葉つきや発音なども、みやこなめり(なまり)になったことであろう。
 ねずみがこうもりになったように、鳥でもなくねずみでもなく、田舎法師でもなく京法師にも似ていず、(退転した)少輔房のようになってしまったと思われる。
 言葉は、ただ田舎言葉でいるがよい。(どっちつかずなのは)かえって見苦しいものである」(同㌻、通解)
 「京なめり」──華美に流され、魔性に生命を食い破られた三位房の姿を、大聖人は一言のもとに暴いていかれたのである。
 三位房が後に、大聖入の教えに背いて、退転し、惨めに死んでいったことは、ご存じの通りである。
 大聖人は、大慈大悲の御境涯から、もっともっと厳しく叱っていたならば、助けることもできたかもしれないと言われている(同1191㌻)。
 ゆえに、増上慢の人間を厳しく戒めていくことは、大聖人の御精神に最も適った、正義と厳愛の戦いなのである。
5  民衆と共に! 民衆の中へ!
 大聖人は、御自身のことを「遠い田舎の地の者であり、民の子どもである」(同1332㌻、通解)と、堂々と宣言されている。
 自分は、特別な生まれ、家系ではない。
 「民の子」である。それを、少しも恥じることなく、むしろ、誇りとされた。
 民衆の子であるからこそ、民衆の心が分かる。また、もしも高い地位にあれば、権力に守られて、あれほどの大難に邁われることもなかったであろう。
 御本仏は、どこまでも、民衆の子として、民衆のなかに分け入り、民衆の苦しみをわが苦しみとしながら、民衆救済の大仏法を弘めていかれた。
 そのように、わが身をもって、真実の広宣流布の道を教え残していかれたと拝察されるのである。
6  学歴ではない
 戸田先生は、「信心に学歴は関係ない」と断言された。
 当然、学問は大事にされた。しかし、学歴などを鼻にかける人間が幹部になれば、会員はだれもついていかないぞ、皆がかわいそうだ、と厳しく言われた。
 御書の教えは厳正であり、公平である。
 「法妙なるが故に人貴し」と仰せである。
 「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」と仰せである。
 大事なのは、広宣流布のために働く人である。
 大変ななかで、歯を食いしばって、妙法のために戦う人が一番尊いのである。
 有名な学校を出たとか、社会的な地位があるとか、そんなことは、信心には、まったく関係ない。
 なかんずく、学会の庶民の力で偉くしてもらいながら、大恩を忘れ、傲慢になり、最後は裏切って、反逆していく──そんな畜生以下の人間が出たならば、断じて許すな、その大罪を未来永劫に糾弾し抜いていけ、と恩師は厳命されたのである。
 「私がいなくなった後が怖いぞ」「増上慢に勝手きままにやられるぞ」「それをさせないために、私は厳しく言うのだ」と。
 学会を見下したり、学会利用に走る人間への先生の怒りは、すさまじかった。それこそ、命がけで叱ってくださった。皆が震え上がった。
 学校を出ていても出ていなくても、偉大な人は偉大であり、愚かな人は愚かである。
 このように「人間そのもの」を見ていくことが、仏法の眼である。
7  師弟の真実を叫び抜け!
 「師弟の道」を貫いていくことが、一番賢明な、一番正しい道であり、永遠の勝利の道である。
 私は、牧口先生、戸田先生の真実を叫び抜いて、その通りにやってきた。
 「先生!」「先生!」と叫んで、三障四魔、三類の強敵と戦いながら、一人、立ち上がって、師弟不二の学会を築いてきたのである。
 師弟という車軸があってこそ、異体同心の団結が生まれる。
 中心の幹部が、師弟を忘れ、師弟を軽んじ、その心が、ぶれてしまえば、団結することはできない。
 信心は心である。「心こそ大切なれ」である。
 だからこそ、幹部は、師弟不二を心の底から叫んでいくことだ。
 虚偽や見栄、増上慢は、敗北の道、滅亡の道である。そうならないために、断固、責め抜いていくことだ。
 破邪顕正といっても、破邪がなければ、顕正はない。
 邪悪を暴き、邪悪と戦い、邪悪を打ち破ってこそ、顕正がある。
 生涯、誉れの師弟の大道を晴れ晴れと歩み抜いていただきたい。
8  人生は闘いだ!
 フランスの行動する文豪ロマン・ロランは叫んだ。
 「生命、それは絶えざる更新であり、闘いである」(宮本正清訳「民衆劇論」、『ロマン・ロラン全集11』所収、みすず書房)。その通りだ。
 この生命の最高無上の更新と闘いの軌道こそ、皆様方の「人間革命」の自転であり、我らの「妙法広布」の公転なのである。
 さらにロランは断言した。
 「人生は仮借なき不断の闘いである。『人間』の名に値する人間であろうとする者は、目に見えぬ敵の大軍と絶えず闘わなければならぬ」(高田博厚訳「ジャン・クリストフⅠ」、『世界文学全集41』所収、筑摩書房)
 いわんや、広宣流布は、「仏」と「魔」との間断なき大闘争である。一瞬たりとも手をゆるめるわけにはいかない。
 またロランは記した。
 「陰謀は容赦なく打つべし!」(宮本正清訳「ロベスピエール」、『ロマン・ロラン全集11』所収、みすず書房)と。
 そしてまた、ロランは、音楽の大英雄ベートーベンを讃えて言った。
 「人生というものは、苦悩の中においてこそ最も偉大で実り多くかつまた最も幸福でもある」(片山敏彦訳『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫)と。
 一流の魂の次元は、仏法に一致している。
 たとえ、どんなことがあっても、師子のごとく悠然と進みゆくことだ。断じて負けてはならない。
 いかなることがあろうとも、必ず「変毒為薬」していけるのが、この妙法である。ゆえに何も恐れることはないのだ。
9  創価大学には、「中央アジアのゲーテ」と讃えられるウズベキスタンの大詩人ナワイーの像がある。
 〈このナワイーゆかりのナワイー市から、名誉会長に「名誉市民」の称号授与が決定。同市のバフチヨル・ハムダモフ市長から決定通知書が届けられている〉
 大詩人ナワイーは高らかに語っている。
 「自分の中に傲慢さが巣くう余地を打ち壊した者には、永遠の富が与えられる」
 指導者は、永遠に自分自身の人間革命に挑み、傲慢を排し、謙虚に誠実に成長していかなければならない。
 増上慢は、破壊であり、破和合僧であるからだ。
 ゆえに、厳重に戒め合っていく以外にない。
10  「法華弘通のはたじるし」
 きょう5月の19日は、創価学会の常住御本尊が認められた記念の日である。
 それは昭和26年(1951年)の5月19日。今年で、56周年となる。
 あの晴れわたる5月の3日に、第二代会長に就任した戸田城聖先生が、真っ先に請願なされ、そのお心に即座に応えられて、日昇上人が認められた。
 なお、私のお守り御本尊は、この昭和26年の「5月3日」のお認めである。
 戸田先生の会長就任の、その日の日付であり、先生も、しみじみと「不思議だな」と喜んでおられた。
 昭和52年の4月、中部に新文化会館が開館した際には、創価学会常住の御本尊を御遷座申し上げ、約1年間、同会館に御安置した歴史がある。
 大事な大事な中部の大天地の、広宣流布の進展を、深く強く願ってのことであった。
 その通りに、けなげな中部の友は戦ってこられた。
 今や、堂々たる世界広宣流布の大堅塁として、そびえ立っている。
11  この常住御本尊の向かって右には、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左には「創価学会常住」と認められている。
 まことに甚深の脇書であられる。
 日蓮大聖人は仰せになられた。
 「ここに日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹りゅうじゅ天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり
 「法華弘通のはたじるし」──この究極の深義が、そのまま脇書に厳粛に刻まれた御本尊が、創価学会の常住御本尊であられる。
 御本仏・日蓮大聖人の大誓願である「大法弘通慈折広宣流布」を、仏意仏勅の創価学会が必ず必ず成就していくことが、峻厳に刻印されているのである。
12  広布を推し進める人が尊貴
 この常住御本尊とともに、広宣流布の大師匠であられる戸田先生のもと、学会は大前進を開始した。
 翌月には、「慈折」──「慈悲」と「折伏」の最大の推進力である「婦人部」が結成。
 〈6月10日に第1回本部婦人部委員会が開催された〉
 さらに「大法弘通」の原動力たる「男子青年部」、「広宣流布」の永遠の門を開く「女子青年部」が結成され、「大願成就」への新たな布石が、具体的に一つ一つ打たれていった。
 「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」である。
 いかに偉大な御本尊があっても、黙って座していては、広宣流布は一歩も進まない。現実に広宣流布を推し進める人が尊貴なのだ。
 その人の生命に、御本尊の大功力が脈々と流れ通うのである。
 昭和26年の5月19日から、65日目に当たる7月22日に、御本尊の表装も整い、常住御本尊の奉戴式が、晴れ晴れと盛大に執り行われた。
 この昭和26年は、戸田先生の会長就任の5月3日を起点として、次のようなリズムで勝ち進んでいった。
 5月19日(土曜日)=創価学会常住御本尊が認められる。
 6月10日(日曜日)=婦人部の結成。
 7月11日(水曜日)=男子青年部の結成。
 7月19日(木曜日)=女子青年部の結成。
 そして、7月22日(日曜日)=常住御本尊の奉戴式。
 私は、戸田先生の不二の弟子として、その先頭に立った。
 まさに、この65日間は、今日の創価学会の勝利の基盤を築き上げた、1日また1日であったといってよい。
 今、56年の歳月を経て、不思議な勝ち戦のリズムで、きょう5月19日を迎えた。
 万年の未来を開くため、勝利そして完勝の大前進を開始してまいりたい。
13  御本尊の力用は勇気ある信心に
 大聖人は、真剣に仏法を信じ、行ずる日女御前に、こう仰せである。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
 広宣流布に生き抜く、皆様方の生命それ自体が、尊極の御本尊の当体なのである。
 この一点を深く自覚するならば、わが生命に「歓喜の中の大歓喜」がわき起こらないわけがない。「随縁真如の智」が流れ通わないわけがない。「三世十方の仏菩薩」が護りに護らないわけがない。
 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」である。勇気ある「信心」があれば、汲めども尽きない御本尊の力用が満ちあふれてくる。
 日寛上人の文段にも、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と、断言なされている通りである(「観心本尊抄文段」)。
 偉大なる信力・行力で、偉大なる仏力・法力を、わき立たせていきたい。
14  ここで、御本尊の絶対の功徳の力を教えられた、戸田先生のご指導を、いくつか確認しておきたい。
 「御本尊は、大宇宙の生命を最も強く結集された当体である。その御本尊と感応するから、こちらの生命力も最も強くなるのだ」
 「いずこであれ、御本尊ましますところこそ、最高の聖地である。広宣流布への信心があるところが、仏の国土なのだ。そこにこそ、大聖人の魂は、おわします」
 「我々の五体そのものが、本来、御本尊と同じなのである。南無妙法蓮華経と認められた両側に、さまざまな菩薩の名が記されている。
 それは、我々の生命のなかに、その菩薩の力があるということなのだ」
 「御本尊を中心とした団結ほど、この世で強く、固く美しい団結はありません」
 私たちは永遠に御本尊中心の団結である。これが、あらゆる広布の戦いの、勝利の鉄則である。
15  だれもが等しく仏子であり宝塔
 さらに、戸田先生の叫びを、心に刻んでおきたい。
 「私たちには金剛不壊の御本尊がある。ゆえに、何を恐れることがあろうか。『魔の挑戦には、身命を賭して戦う』。ここに創価学会の使命があることを知らなくてはならない」
 「われ自ら南無妙法蓮華経なりと決めきって、広宣流布することだ」
 「御本尊を信じ、人生を生ききっていけ! これが一切だ。いくら愚痴をこぼしていても、つまらぬ事でくよくよしても、どうしようもないではないか。
 御本尊に題目をあげて、自分の境遇で、自分の立場で生ききっていけ!」
 まさに、このとおりの大確信で、先生は生き抜かれた。ゆえに、広布の基盤が、厳然と築かれたのである。
 また先生は、次のようにも言われていた。
 「将来のためにも、はっきり断言しておく。学会の信心以外に、大聖人の御心に適う信心はない。大御本尊の本当の功力もない」
 「御本尊に裁かれることほど、この世で恐ろしいことはありません」
 「誰もが等しく仏子である。また、宝塔である。これが、日蓮大聖人の大精神である。
 それゆえに、万人を救うことのできる、真の世界宗教といえる。そして大聖人は、全人類を救済するために、大慈大悲をもって大御本尊を御図顕あそばされたのだ。
16  時を逃すな 陣頭に立て
 きょう5月19日は、永禄3年(1560年)、戦国時代の乱世から天下統一への転機となった、「桶狭間の戦い」の日である。
 この日、尾張(現在の愛知)の若き織田信長(27歳)の軍勢は、宿敵・今川義元を討ち取り、その大軍を打ち破って逆転大勝利した。これを契機に、信長は自らの勢力を大きく飛躍させていったのである。
 まことに有名な歴史だ。
 この時、駿河から尾張に進攻してきた今川義元の軍勢は、2万余といわれている。
 一方、織田信長の軍勢は、わずか2,000。信長側は、敵側の、じつに10分の1程度であった。完全な劣勢である。
 では、なぜ、信長は勝つことができたのか。さまざまな角度から研究され、論及されているが、そのいくつかを「将軍学」「人間学」として確認しておきたい。
 まず信長は、籠城などの「守りの態勢」ではなかった。あくまでも自ら打って出て、断固、陣頭に立って戦う「攻めの姿勢」で臨んだ。
 信長は、前線からの情報や自分自身の目によって、敵の動きを冷静に確認していった。
 そして、迅速に行動し、ついに桶狭問(現在の名古屋市緑区・豊明市辺り)で、今川義元のいる本隊を直接、攻める機会を得たのである。
 信長が大変にお好きであった戸田先生は、「信長の兵法は時をつかんだものである」と言われていた。
 「攻め」の行動が、時をつかむ。「勝利のチャンス」を開く。
 そもそも信長は、天下統一への30年にわたる戦いで、受け身の「籠城戦」は1度もしなかった。
 むしろ、信畏は、敵の領域まで打って出て戦うのが、常であったという。
17  三障四魔に賢者は喜ぶ
 御聖訓には、「権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」と仰せである。
 この、徹底した広宣流布の攻撃精神こそ、学会精神である。
18  吉川英治氏は小説『新書太閤記』で、迫り来る今川の大軍との戦いを前に、気概に燃える信長の心境を、こう描いている。
 「按じるに信長には、今が逆境の谷底と見えた。おもしろや逆境。しかも相手は大きい。この大濤おおなみこそ、運命が信長に与えてくれた生涯の天機やも知れぬ」(講談社)
 さらにまた、主君・信長とともに「桶狭間」を戦った若き秀吉についても、こう描いている。
 「どんななみでものりこえて見せようという覚悟が、強いて覚悟と意識しないでも肚にすわっている。そこに洋々たる楽しさが前途に眺められた。波瀾があればあるほど、この世はおもしろく観じられるのであった」(同)
 青春には、そして人生には、大なり小なり、試練の決戦の時がある。それは、それぞれの「桶狭間の戦い」といってよい。
 大聖人は、「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く」と仰せである。
 いざという時に、いかなる「一念」で戦いに臨むのか。これが、決定的に重要なのである。
 すっきりした一念でなければ、戦いは勝てない。
 特に最高幹部は、皆が、からっと晴れ上がった青空のような、さっぱりとした気持ちで戦い抜けるように、常に心を尽くしていくのだ。
 清々しい自分を築いていただきたい。
19  進軍も攻撃も速かった信長 迅速に的確な手を
 人生は戦いだ。生涯、前進である。
 ノーベル文学賞を受賞した、イギリスの劇作家バーナード・ショーは語った。
 「私は、完全燃焼して、死んでいきたい。激務であればあるほど、私はより生きるからである。
 私は人生そのものに喜びを感ずるのだ」
 桶狭間の戦いのドラマを、ある歴史書は、こう伝えている。
 織田信長が今川義元の軍勢を正面から攻めようとしたとき、家臣たちは“道が進みづらい”とか“味方が少ないことが敵にわかってしまう”などと、必死に止めた。
 しかし信長は、決然と前進した。この戦で、彼は叫んでいる。
 「小勢だからといって大敵を恐れるな」
 「何としても敵を圧倒し追い崩せ」
 「戦いに勝ちさえすれば、この場に参加したものは家の面目、末代までの高名であるぞ。ひたすらに励めよ」(太田和泉守牛一著、榊山潤訳『信長公記(上)』ニュートンプレス)
 じつは「小勢」とはいえ、信長が率いた2,000の軍勢は鍛え抜かれた精鋭であった。そのような薫陶を受けていない今川勢は、信長勢の一丸となっての猛攻に、大混乱となった。
 信長の執念の大音声を放っての陣頭指揮のもと、信長勢は今川義元の本陣をめがけて、猛然と攻めて攻めて攻め抜いた。
 戸田先生は、この一戦の勝因について、こう喝破されていた。
 「どんなに多勢でも、団結がなければ戦には負ける。信長軍は少数であったが、『敵の大将を討つ!』という明確な目標に向かって団結したから勝ったのだ」と。
 団結こそ、勝利の根本の力である。
 なかんずく、「破邪」の一念で一丸となった異体同心の団結ほど、強いものはない。
 大聖人は仰せである。
 「昔、中国の李広りこう将軍という武将は、虎に母を食い殺されて、虎に似た石を射たところ、矢は羽ぶくら(矢の先と反対側に付いている羽根形の部分)まで石に突き刺さった。
 しかし、あとで、それが石と知ってからは、射ても矢は石に立つことがなかったという。
 それからのち、人々は李広将軍のことを石虎せっこ将軍と呼ぶようになった」(御書1186㌻、通解)
 「破邪顕正」の執念の団結で戦い、幾たびも、広宣流布の勝利の歴史を打ち立ててこられたのが、わが誉れの中部の同志である。
20  天下統一の力
 桶狭間では、信長自身が集め、鍛錬した人材が活躍した。
 信長は、家柄や出身地にかかわらず、力のある者を用い、育て、生かしていったといわれる。
 「人材の登用」を原動力の一つとして、戦に勝ち、時代を変革し、天下統一を目指したのである。
 天下統一を成し遂げた太閤・豊臣秀吉も、後の加賀百万石の大名・前田利家なども、信長が抜擢した人材である。
 私が若き日に語り合った山岡荘八氏は、小説で「何よりも人材の発掘をもって第一とし、そこに革命の基点をおいている」と、信長について記されている(『織田信長』講談社)。
 戸田先生は、「身分・地位が大切な時代が終焉し、下から天下を取る事ができた。実力主義の時代である」「時代の転換期であった」と、信長の時代を俯瞰されていた。
 現在も、時代の転換期である。
 新しい人間を育てて、新しい学会をつくっていくのだ。
 人材を見つけ、人材を大切にし、人材を生かし切ったところが勝つ時代である。
21  一つがだめなら次へ、また次へ
 山岡氏の小説の中で、信長は戒めている。
 「油断をしてはならぬぞ。人間には気のゆるみがいちばん毒じゃ」
 さらに、「彼(信長)は、いかなる場合にも前進をやめないのだ。一つの道がふさがれると、次の通路を求め、さらにそれが塞がれると、以前に数倍する強烈さで第三の道をめざしてゆく」とも描かれている(同)。
 信長の生涯は、油断のできない戦いの連続であった。信長を敵視する包囲網が敷かれたこともあった。
 そうしたなか、一時の失敗や苦境に流されることなく、どんどん手を打ち、速やかに戦いを進めて、勝ち抜いた。
 約200年前の韓国の思想家である丁若鏞チョン・ヤギョンは、こう語っている。
 「貧しさと困窮と苦労は、人の心を鍛え、知恵と見識を広げてくれるものである。それは、世界や事物に対する真実と偽りを正しく見抜く力を与える長所をもっている」
 苦難の連続を生き抜いた信長。彼の戦いの特徴は「スピード」にあった。
22  関西と中部の“大連合”で前進
 さらに、戸田先生は、信長について「外交的にも手腕があった」とも評価されていた。
 信長は、あらゆる外交の方法を用いて、わが陣営を守り、広げている。
 とくに、1562年、三河(現在の愛知県の東部)の徳川家康と結んだ「清洲同盟」は有名である。
 じつは、信長と家康は、父同士が宿敵の関係にあり、「桶狭間の戦い」で家康は、信長の敵側にいた。
 そうした過去をもつ家康を味方にしたこの同盟は、乱世にもかかわらず、信長が亡くなるまで20年間、維持された。
 信長と家康は、中部、関西等を舞台に、ともに転戦した。そして、天下統一への流れが大きく進み、日本の歴史に影響を与えた。
 もとより次元は異なるが、2004年から始まった、わが学会の大関西と大中部の連合は、これまで座談会交流をはじめ、様々な角度で進んでいる。
 常勝・大関西と堅塁・大中部が一体となって、広宣流布の完勝の歴史を!
 この私の心を心として、今、新しい希望の大前進が始まっている。これほど頼もしいことはない。
23  「一閻浮提総与」が大聖人の精神
 さて、学会本部の第2別館には、「賞本門事戒壇正本堂建立」と認められた御本尊が御安置されている。
 御本尊の向かって左側には「昭和四十九年一月二日」の日付とともに「法華講総講頭創価学会会長池田大作」と、日達上人の筆で認められている。
 まさしく、「本門事の戒壇」たる正本堂が、創価学会の三代によって「建立」された功労が、厳然と刻まれ留められた御本尊である。
 これは、大聖人の御遺命を創価学会がすべて実現してきたという、あまりにも尊極な証しである。
 この「本門事の戒壇」たる正本堂を日顕は破壊したのだ。仏法史上、これほどの悪逆はない。永劫に裁かれ、「若悩乱者頭破七分(若し悩乱せん者は頭七分に破れん)」の断罪を受けていくことは、法華経と御書に説かれる通りだ。
 真実の歴史を消し去ることは、未来永遠に、絶対にできない。「建立」の大功徳も、金剛にして不壊である。
 「賞本門事戒壇正本堂建立」の御本尊は、その厳粛な証明である。
 「一閻浮提総与」。すなわち、全世界の人々に授与する──これが大聖人の御精神である。大聖人直結の学会に怨嫉し、この「一閻浮提総与」の道を閉ざそうとしたのが邪宗門である。
 ブラジルの著名な作家クーニャは述べている。
 「真実を偽造することは、公の精神を不安にすることである。私は、それを許すわけにはいかない」
 「私はただ真実と思うことを常に言い切っているのだ」
 大聖人の仰せ通り、正義と真実を叫び抜き、邪宗門を打ち破って、世界190の国や地域に「一閻浮提総与」の道を開き切ってきたのが創価学会である。
24  管理者の皆様に心から感謝
 戸田先生は言われた。
 「そもそも御本尊は、一閻浮提のための御本尊であられる。人々の闇を破る“全世界の太陽”である」
 「御本尊の絶大な哲理のお力を信ずることができるならば、世界の広宣流布も必然なことです」
 「やがて地球民族は、御本尊の存在に気づいて渇仰するに決まっている。その人びとを、いったい誰が指導するかといえば、まず諸君たちである。また諸君たちの後輩や、子孫のなかにしか指導者は育たない」
 その通りの時代が到来したのである。
 今や、日本はもとより、世界中に、広宣流布の大法城が次々と完成している。これこそ、正義の勝利の城である。
 この尊き会館を毎日また毎日、厳然と護り抜いてくださっているのが、管理者の皆様方である。
 きょうは、大変にお世話になっている管理者の代表の方々も出席されている。改めて、心から感謝申し上げたい。
25  「確信が大事だ」
 戸田先生は、力強く叫ばれた。
 「自分には、御本尊を信じているという偉大な力がある。どんな困難にぶつかっても、どんな境遇になっても、またどんな時代になっても、必ず乗り切っていけるという信心がある。
 この確信が大事だ。これが人生の宝である」
 わが関西の友も、御本尊への真剣な祈りを根本に、あらゆる戦いを勝ち越えてこられた。
 “まさか”を実現した、昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」も、師弟を貫く深き祈りから始まった。
 当時、関西本部に常住されていたのは、「大法興隆所願成就」とお認めの御本尊である。
 大法が興隆し、すべての願いも成就するそれが御本尊の大功力である。
 今、この御本尊は、昨年完成した関西池田記念会館の「池田記念講堂」に御安置されている。
 戸田先生は師子吼なされた。
 「宗教だけの道ならば、これほど気楽で安全な道はないといってよい。しかし、あくまでも社会に貢献する有能な社会人、妙法という偉大な哲学に目覚めた正真正銘の社会人に成長し、思う存分に活躍してもらいたいのだ。
 これが、乱れきった末法における民衆救済の大道だからである。この道だけが、御本尊の慈悲に通じているといってよい」
 この大道を真っすぐに戦い進む学会に、御本尊の仏力・法力は無量無辺である。
26  大難を越えて
 「仏」の別名は、パーリ語(古代インドの言語)で「ジナ」と呼ばれる。これは、まさしく「勝利者」の意味である。
 仏とは、あらゆる魔の軍勢に勇敢に打ち勝つ「勝利者」のことなのである。
 そして、正法を信受する人々を、パーリ語では「ジナ・プッタ」と表現している。
 これは、漢訳では「仏子」とされているが、直訳すると「勝利者の子」という意義になる。
 仏とは、「絶対に負けない」生命である。「断じて勝つ」存在である。
 そして仏は、その絶対勝利の力を、民衆に伝え譲りゆくのである。
 日蓮大聖人は、「仏法と申すは勝負をさきとし」と仰せだ。
 これは、730年前の建治3年(1277年)に、四条金吾にあてられた御手紙の一節である。
 この3年前の文永11年(1274年)、大聖人は過酷な佐渡流罪を勝ち越え、鎌倉に戻られた。そして、幕府の権力者であった平左衛門尉に対して、重ねて諫暁を行われたのである。
 私たちが忘れてはならないのは、大聖人が、御自身の勝利の御姿を通して、弟子一同に「仏法勝負」の真髄を教えておられることである。
 建治2年(1276年)には、四条金吾に対して、こう述べておられる。
 「日蓮もまた、(正法の力を根底に)この日天子を頼みとして、日本国に立ち向かって数年になる。すでに日蓮は『勝った』という気持ちである」(同1146㌻、通解)
 また、その前年、健気な信心を貫いていた女性の日妙聖人に送られた「乙御前御消息」では、こう仰せである。
 「日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一人の例外もなく害しようとしましたが、今までこうして無事に生きてくることができました。
 これは、日蓮は一人であっても、法華経を信ずる心の強いゆえに諸天善神が守護されたのであると思いなさい」(同1220㌻、通解)
 大聖人は、命に及ぶ数々の大難を厳然と乗り越えられた。仏典に示された通りの迫害を、すべて勝ち越えられた。
 師匠は勝った。この師匠に続いて、弟子も勝て! いな、必ず勝てるのだ!──この烈々たる大聖人の師子吼が、胸に響いてくる。
27  師と同じ心で
 現代において、創価の三代の師弟は、大聖人の仰せのままに三類の強敵・三障四魔と戦い、すべてに勝ってきた。
 反対に、正義の学会を弾圧した人間、大恩ある学会を裏切った人間たちが、どれほど無残な敗北の末路をたどっているか。
 例外なく、「日蓮を怨ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う」と仰せ通りの姿を示していることは、皆様がご存じの通りである。
 戸田先生は叫ばれた。
 「正義の学会を弾圧し、迫害し、愚弄した権力者は、永久に忘れてはならない。
 とともに、善良な学会人を苦しめ、嘲笑い、侮辱してきた権力者を、断じて許してはならない。『仏法と申すは勝負をさきとし』である。
 厳しき因果の実相を、明確に見抜き、そして圧倒的な創価の完勝をもって、末法万年尽未来際(永遠の未来)への鑑としていくべきだ」
 このご指導を、改めて確認しておきたい。
 悪と戦ってこそ、正義は明らかになる。勝利の旗を打ち立てることができるのである。
 戦うべき時に戦わない。戦えない。そん情けない弟子であってはならない。
28  大聖人が、「仏法勝負」の勝ち戦の要諦として教えられた急所は、何か。
 それは、毀誉褒貶の八風に侵されず、「師の言う通りに実践せよ」との一点である。
 〈「八風」とは人の心を惑わす8つの働き。すなわち、うるおいおとろえやぶれほまれたたえそしりくるしみたのしみのこと。
 大聖人は「賢人とは、八風と言って、八種の風に侵されない人を賢人と言うのである」(同1151㌻、通解)と仰せである〉
 大聖人は、四条金吾に述べておられる。
 「大学三郎殿や、池上右衛門大夫殿のことは、日蓮の言った通りにされたから、祈りが叶ったようです」(同㌻、通解)
 正しい師匠に心を合わせ、師の仰せ通りに実践する。その一点から、すべての道が開ける。
 同じ御書で大聖人は、「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(同㌻、通解)と、厳しく戒めておられる。
29  戸田大学の薫陶
 私は若き日から、師匠である戸田先生と同じ心で戦ってきた。生き抜いてきた。
 戦後、事業の挫折で苦境にあった先生を、私は一人、徹して守り抜いた。先生から夜中に呼び出された時も、飛ぶようにして駆けつけた。
 先生を支えるために、私は自分の夜学も断念した。その代わりに先生は、一対一の個人教授で万般の学問を教えてくださった。「戸田大学」での薫陶があればこそ、今の私がある。
 師弟の道は厳しい。簡単なものではない。しかし私は、戸田先生がおられたからこそ、最高に美しい「師弟の人生」を生ききることができた。
 第三代会長に就任してからも、私は学会のため、会員の皆様のために、すべてをなげうって戦ってきた。働いて、働き抜いてきた。
 著作の印税も、学会や創価学園、創価大学、アメリカ創価大学などに寄付してきた。自分のために何かを残そうなどとは一切、考えなかった。
 これまで私は、皆様を代表して、世界の諸大学等から213もの名誉学術称号を拝受した。
 こうした栄誉も、仏法の眼から見るならば、師弟の道に生き抜き、正義の道に生き抜いてきたことの厳然たる証明である。私は、そう深く確信している。
30  マルロー氏とのパリでの語らい
 5月の19日は32年前(1975年)、フランスの“闘う文化人”であったアンドレ・マルロー氏と、2度目の対談を行った日である。
 〈前年の東京・聖教新聞本社での語らいに続き、パリ郊外にあるマルロー氏の自宅で対談。名誉会長と氏の語らいは、対談集『人間革命と人間の条件』(聖教ワイド文庫)として結実した〉
 マルロー氏は、フランスを代表する作家であり、鋭い美術論でも、その名を知られていた。第2次大戦中はナチスへの抵抗運動を指導し、戦後はフランスの情報相、文化椙を務めるなど政治家としても活躍された方である。
 1970年代、私はアメリカ、中国、ソ連などをたびたび訪問し、平和と友好のための民間外交を大きく開始していた。氏との対談では自然と、日本と米中ソとの関係や、アメリカ、ソ連の実情などが話題になった。
 マルロー氏は深く慨嘆されていた。
 「現在、もっとも重要と思われる現象は、普遍的理想などというものが、もはやどこにも見あたらなくなってしまったということです」
 特に氏は、現代に、時代を画するほどの「歴史的政治」を行う信念の指導者がいないことを憂えておられた。
 例えば大国の政治についても、「なによりもまず、千差万別の権力があるといえます。個人的、集団的権力、また、政治家、国会議員の権力といったもので、これらの相矛盾する権力が歴史的意志に達するということは、まず、めったにありません」と語っておられた。
31  人間の内面に権力の歯止めを
 また、マルロー氏との対談では、現代社会が抱えるさまざまな問題と、政治のあり方などが話題となった。
 私は申し上げた。
 「民衆を手段化するのではなく、民衆を目的として、あらゆる政策なり外交が行われなければなりません」
 「なによりも民衆が目覚め、この民衆の意識で権力をコントロールして、その暴走を抑えていく以外にないでしょう。あなた(マルロー氏)は、政治家は遠からずいなくなるだろう、といわれました。それに代わるものはこうした民衆であるべきでしょう」
 さらに、私は訴えた。
 「これまでの歴史は、一つの体制の悪を打倒しても、つぎの体制がまた悪を露呈していくという繰り返しであったともいえます。新しい体制は、また新しい悪を生むというこの悪循環に終止符を打つのは、体制がもつ権力に、積極的な意味での歯止めをかける以外にない。それには、権力者自身の内に、そしてさらにすべての人間の内に、権力にたいする歯止めをもつことでしょう」
 マルロー氏が、「たしかにそうでしょう」と深く頷いておられた姿が忘れられない。
 氏との語らいでは、私とトインビー博士との対談も話題になったが、博士もまた「権力とはそれ自体、常に腐敗する」と語っておられた。
 だからこそ、「権力の魔性」と戦いゆく不断の「人間革命」が重要になってくるのである。
 チェコの哲人政治家マサリクは述べている。
 「恐らく、人を知るということほど、政治にとって重要なことはないでしょう。これは人生にとっても重要なことです。事情に通じたまことの人物を認知すること、また、不当に公衆の前にしゃしゃり出ようとする、偽りの者を見抜くこと」(K・チャペック著『マサリクとの対話──哲人大統領の生涯と思想』石川達夫訳、成文社)
 悪い人間にだまされてはならない。民衆が賢明になり、鋭く虚偽を見破っていく──そこに真の民主主義の発展がある。
32  学会の発展に心から期待
 対談の中で、私は、仏法が生命の永遠性と絶対的尊厳を説いていることを語った。
 仏法の生命観、生死観を聞かれたマルロー氏は、仏教がヨーロッパの精神風土に新たな展開をもたらす可能性を指摘し、こう述べておられた。
 「あなたがたの成功を祈っていることをご承知おきください。現在から将来にかけて、創価学会には多くの期待が寄せられており、たいへん大きな運命が創価学会を待っていることを知っていますし、それを喜んでもおります」
 氏は、学会の発展に、大いなる期待を寄せてくださったのである。
 今、新しい時代を創りゆく創価の前進をご覧になったならば、マルロー氏も、心から喜んでくださるに違いない。
 私と妻は、このマルロー氏の伴侶であり、同志であったマドレーヌ夫人とも、交流を深めさせていただいている。
 〈2004年12月、東京富士美術館で開催中だった「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」のカタログを見つめながら、ユゴーに造詣の深いマドレーヌ夫人は、次のように語っていたという。
 「ユゴーと同様、マルローは他の多くの作家とは違い、社会に深く関わりました。“行動する人間”でした」
 「19世紀におけるユゴーの思想と行動を、20世紀ではマルローが継承し、その流れは現代では、池田SGI会長のような方に生きていると言えましょう」〉
33  一心不乱に! 真実の人生を
 ともあれ、時代はますます乱世である。
 大聖人は仰せである。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 私も、妻も、この御聖訓を拝しつつ、大切な大切な全同志が、絶対に事件に巻き込まれたり、事故に遭われることのないよう、真剣に祈り抜いている。
 すべてのリーダーの皆様も、どうか、そうあっていただきたい。
 「自分中心」ではいけない。師匠に呼吸を合わせ、同志のことを真剣に考え、祈っていく。一つ一つ手を打っていく。
 そして、学会の興隆を祈っていく。すべての勝利を祈り抜いていく。それが本当のリーダーである。
 会議や打ち合わせのもち方も、価値的であるべきだ。戸田先生は、歩きながらでも“会議”をされた。行動する中で、的確に、迅速に手を打たれた。
 「どうしたら、皆がやりやすいか」「最大の力を引き出せるか」を考え抜くのだ。
 皆のことを考えてあげる人が偉い。それが先輩の役目である。
 結びに、婦人部・女子部の皆様方に、次の句を贈りたい。
  勝ちまくれ
    女性の智慧は
      菩薩なり
 さらに、わが青年部に贈りたい。
  青年部
    立ちて創価は
      勝ちにけり
 そして、わが門下生に「勝利は光、敗北は闇。人生は一心不乱に戦い勝つことだ。それが真実の人生だ」と申し上げ、私のスピーチとしたい。
 長時間、ご苦労さま! きょうは、本当にありがとう!

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