Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

戸田先生生誕記念最高協議会  

2007.1.30 スピーチ(聖教新聞2007年上)

前後
1  遠いところ、またご多忙のなか、本当ご苦労さま!
 まもなく、戸田先生の生誕の日である2月11日が巡り来る。きょうは、その記念の最高協議会である。
 恩師・戸田先生の思い出は尽きない。
 夜中に突然、先生から電話がかかってきて、呼び出される。そんなことが何度もあった。
 本当に厳しく訓練していただいた。信心の偉大さはもとより、万般の学問を教えていただいた。
 だからこそ、今の私がある。
 私は、師匠の深い恩を片時も忘れたことはない。また、忘れることなど絶対にあってはならない。これが真実の師弟である。弟子の道である。
 偉大な、不世出の師匠の名を全世界に宣揚するのだ――私は、若き日から、そう決意し、行動してきた。
 各国のリーダーや知性とお会いした際にも、戸田先生、そして先師・牧口先生の偉大さを語ってきた。師の構想を、平和・文化・教育のあらゆる分野で実現した。
 そして今、全世界から戸田先生、牧口先生への賞讃が寄せられる時代となったのである。
 戸田先生の弟子の中には、師匠を侮り、小バカにした人間もいた。とんでもないことである。
 そうした連中は、結局は退転していった。最後は、惨めであった。
 この厳粛な事実を決して忘れてはならない。
 ここは創価の「家族の集い」である。「本当の同志の集まり」だ。
 嘘や形式などがあってはならない。未来のために、私は真実の歴史を語り残しておきたいのだ。
2  世界が讃える 神奈川の前進
 今年は、昭和32年(1957年)の9月8日、横浜・三ツ沢の競技場(神奈川区)で、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表されてから、50周年である。
 そしてまた、本年の4月2日は、先生の50回忌に当たる。
 きょうは、世界が讃える正義の大前進を成し遂げ、見事なる「創価の模範」「広布の模範」を示しゆかれる、誇り高き大神奈川の代表が参加してくださっている。
 戸田先生の生誕の日を祝賀しながら、皆さまとともに、「勝利のための協議」を進めてまいりたい。
 神奈川と東京――この2つの地域が発展を続ければ、学会は盤石だ。両者が力を合わせていくならば、大きな力を発揮することができる。
 神奈川の発展と大勝利を、私は真剣に祈っている。深く期待している。
 そしてまた、首都圏の発展の要は第2総東京である。東京の23区が倍の力を発揮するためにも、堅固なる第2総東京を構築しなければならないと、私は以前から考えてきた。
 まだ、第2総東京が今ほど発展していない時代から、この地域に焦点を当ててきた。将来は人口も増え、必ず発展すると思ったからである。
 今、八王子には平和と文化と教育の一大拠点ができあがった。
 私は立川にも何度も通い、第2総東京のすみずみまでを頭に入れながら、末来の発展への構想を練った。そして、一つ一つ手を打ち、現在の発展の基盤を築いてきたのである。
3  恩師の生誕日を 妻とともに祝賀
 戸田先生は、ちょうど西暦1900年のお生まれであったから、今年2007年が、生誕l07周年となる。
 先生のご生前も、そして、ご逝去の後も、この日を、私は妻とともに、最大の真心を込めて、お祝い申し上げてきた。
 55年前の「2月闘争」も、戸田先生の誕生の月を、広宣流布の拡大でお祝いしようとの決心で開始したものである。
 〈池田名誉会長は、1952年(昭和27年)2月、蒲田支部の支部幹事として弘教の指揮を執り、支部として1カ月で200世帯を超える折伏を成し遂げた。これは当時の限界を大きく打ち破り、戸田第二代会長の願業であった75万世帯の折伏への突破口を開くものとなった。
 戸田会長が逝去した翌年、1959年(昭和34年)2月11日の日記に名誉会長は綴っている。
 「二月十一日第五十九回目の恩師の誕生日。懐かしい。
 妻、赤飯を朝出す。
 師を思う、美しき一家。満願の財物より勝れ、輝く、黄金の心」
 また、1960年(昭和35年)の2月11日には、こう記している。
 「戸田先生のお誕生日である。ご生存なれば六十歳。還暦であられる。
 妻と共に、そのことを語り合う。先生の子供のごとく、娘のごとく」
 「妻、先生の誕生のお祝いとして、おはぎをつくる」「わが家の祝いを、最大に先生は、お喜びであろうと語る。幸せなる二人なり。美しき心なり、二人は」〉
4  イギリスの詩人バイロンは謳った。
 「ああ、幸い多い青春の日よ。若き日を再び願わないものがあろうか」(岡本成蹊訳「チャイルド・ハロルド世界歴程」、『バイロン全集第3巻』所収、那須書房。現代表記に改めた)
 青春時代ほど、尊きものはない。青年部の友は、この宝の時代を悔いなく生き抜いていただきたい。
 ここで、わが青年部の健闘を讃えて、ドイツの大詩人ゲオルゲ(1868〜1933年)の言葉を贈りたい。
 「あなたはあなたに相応しい戦いのなかで成長する」(富岡近雄訳『ゲオルゲ全詩集』郁文堂)
 その通りだ。
 青年は、使命の戦いの中でこそ強くなる。
 さらにまた、ゲオルゲはこうも述べている。
 「滔々と流れぬ限り水はともすれば濁るのだから/私たちの精神はしばしばおのれの限界を突破する」(同)
 わが青年部よ、ほとばしる若き生命力で、勇敢に壁を破れ! そして、新たな広宣流布の勝利の大河となれ! そう申し上げたい。
 この大詩人ゲオルゲを記念する展示会が、1995年、美しきライン川の流れを一望するSGI(創価学会インタナショナル)のヴィラ・ザクセン総台文化センターで行われた。
 私が親しく語りあった、哲人政治家のヴァイツゼッカー統一ドイツ初代大統領も、ご多忙のなか、駆けつけてくださった。忘れ得ぬ歴史である。
5  作家の長与善郎は名作『竹沢先生という人』のなかで綴っている。
 「生きるってことは畢竟(=つまり)理想をもって現実とたたかうこと」(潮文庫)
 また、古代ローマの大詩人ウェルギリウスは綴った。
 「わたしの意志はどのような力にも枉げられはしない」(岡道男・高橋宏幸訳『アエネーイス』京都大学学術出版会)
 この言葉のごとく、日本全国、そして全世界のあの地この地で、きょうも、創価の女性たちは、はつらつと、前進の歩みを踏み出しておられる。
 その英姿を、戸田先生も、どれほど喜ばれ、見守っておられることか。
 先生は言われた。
 「一歩また一歩の前進を大切にすることだ。この一歩の前進なくして、千里の道が達せられることはないからだ」
 偉大なる創価の女性の活躍を、私は最大に讃えたい。
6  力をつくして!
 「力を尽して誠実に生きる」これは、国民的な日本画の巨匠として名高い、東山魁夷画伯が人生を回想した中にある一節である(『泉に聴く』講談社文芸文庫)。
 その通り、大誠実に徹して、偉大な芸術と人生の大道を歩み抜かれた方である。
 「誠実」ほど強いものはない。
 「誠実」に生き抜き、戦い抜いた人が、結局、最後には勝つ。
 これが、私が貫いてきた信念であり、結論である。
 東山画伯は、神奈川文化会館にほど近い、横浜市中区海岸通りのご出身であった。〈1908年生まれ〉
 私たち創価学会の平和と文化の運動に、深い理解と共鳴を寄せてくださった。
 作家の井上靖先生と東山画伯に、聖教新聞紙上で語り合っていただいたことも懐かしい。〈1971年7月18日付〉
 さらに、画伯ご夫妻のご厚情によって、私の小説『人間革命』『新・人間革命』などの装丁も、画伯の素晴らしい名画で飾らせていただいている。
 装丁された本をお届けすると、それはそれは大切にしてくださったと伺っている。
7  「苦難の連続」だったからこそ
 東山画伯も、あの戦争で苦しみ抜かれた。戦争中、父君を病気で奪われ、家を爆撃で破壊された。ご自身も召集され、病弱な体をおして、爆弾を抱えて戦車に体当たりする練習を、毎日、強いられたという。
 芸術の道どころか、生きゆく希望さえ見いだせなかった。
 戦争は、あまりにも残酷だ。
 ようやく終戦を迎えたと思うや、今度は、大切な母君を失い、さらに弟君にまで病で先立たれた。
 住む家とて定まらない。蓄えもなく、栄養失調で苦しんでいた。
 そうした渦中で描きあげた力作も、展覧会で落選してしまった。
 先が見えない労苦の日々。しかし、画伯は回想されている。
 「私の場合は、こんなふうだったから生の輝きというものを、私なりにつかむことが出来たのかもしれない」(前掲『泉に聴く』)
 自分が打ち砕かれ、死を身近に感ずる苦難の連続があったからこそ、心が澄みわたり、「風景の美しさ」「生命の輝き」に対して豁然と目が開かれた、というのである。
8  正義を叫び抜け
 東山画伯は、苦境の時代を振り返り、こう語っておられる。
 「これがどん底というものだ。これ以上落ちればとうてい、生きてはいられない。こうなったら絶望の底から何とか活路を見出してよじ登るより仕方がない。
 そう考えると少しずつどこからか力が湧いてくるのを感じました」(『美と遍歴』芸術新聞社)
 まことに味わい深い言葉である。
 私も、戸田先生の事業の蹉跌の折、「どん底」を痛いほど経験した。
 先生は、死さえ思い詰めておられた。20代前半の私は、この「どん底」から一人、立ち上がり、阿修羅のごとく、師を支え、お守りし抜いた。
 師匠を軽んじ、「戸田君」と呼ぷ人間もいた。
 「戸田の野郎」と吐き捨てる連中もいた。また牧口先生の時代にも、師を裏切る人間が出た。
 しかし、戸田先生が牧口先生に対してそうであられたように、私も、師匠に最敬礼してお仕えした。
 19世紀のスイスの哲学者アミエルは叫んだ。
 「人間を卑陋(=下劣)にし、その価値を減少し、束縛し、その本性を傷うものと戦え。人間を強固にし、高貴にし、向上せしめるものを守れ」(河野与一訳『アミエルの日記』岩波文庫。現代表記に改めた)
 この言葉通り、第一にも、第二にも、第三にも、戸田先生をお守りした。
 マスコミが戸田先生を中傷したこともあった。私は、新聞社でも、出版社でも、どこへでも、すぐさま飛んでいって抗議した。
 周囲には、師匠が悪口を言われているのに、我関せずと傍観している人間もいた。内心、せせら笑っている、卑劣な人間もいた。
 しかし、正義は正義である。
 学会再建の第一の功労者であり、善のスクラムを広げて社会に貢献する先生。その「大善人」であられる先生が批判されるのは、おかしいではないか――私は、正邪を明らかにするため、断固戦った。
 「正義は必ず勝たねばならぬという信念のみが、私たちを鼓舞する」
 このガンジーの言葉のごとく、私は奮い立った。あらゆる魔性を打ち破った。
 どうか青年部は、この破邪顕正の心を知っていただきたい。しっかりと団結し、師弟の正義を叫び抜いてもらいたい。〈青年部が「ハイ!」と力強く返事を〉
9  最も楽しい時代
 私は、青春を犠牲にして先生にお仕えした。通学も断念し、病弱な体を引きずるようにして戦った。
 火急の時には、ただちに戸田先生のもとへ馳せ参じた。
 スピードこそ、勝利の要諦である。
 フィリピン独立の父ホセ・リサールは、次の言葉を若き日に胸に刻んだ。「一生懸命努力して、どんなことでも慎重に成し遂げなさい。迅速かつ確実であるように」(カルロス・キリノ著『暁よ紅に』駐文館)
 私は師弟不二で大難に挑んだ。毎日が壮絶な戦いだった。激動だった。
 しかし、戸田先生とともに戦える日々は、最も楽しい時代でもあった。
 そして、すべてを跳ね返して、先生の第二代会長就任の5月3日を迎えたのである。
 戸田先生は、私に全幅の信頼を寄せてくださった。命をかけて、弟子を育ててくださった。
 ゆえに、私には、何も恐れるものはない。
10  尊き学会を守れ
 戦後、学会は貧しかった。同志も、まだ少なかった。しかし、そのなかで、真剣に努力し、懸命に、広宣流布の基盤を築いてきた。
 環境ではない。大事なのは、一人立つ信心である。
 この精神がなくなってしまえば、どんなにお金があっても、どんなに人がいても、やがて組織は衰退していく。
 ドイツの大文豪ゲーテ。大臣として、国家の困難の克服に挑んだ彼は、こう述べている。
 「仕事を取扱う場合には正しく核心を掴まなければならない。
 好き嫌いとか、愛著とか、依怙贔屓とかの人情を以て取扱ってはならない。
 ものの核心に依ること、即ち簡潔に厭應無しに正確に処理すれば仕事はより多く、より迅速に遂行することが出来る」(木村謹治訳『ゲーテ随聞記』桜井書店。現代表記に改めた)
 無駄をなくし、公正に、堅実に、賢明に、物事を進める。そのなかに、発展も勝利もある。
 ともあれ、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私、さらには、無数の尊き同志が、心血を注いで築き上げた学会である。
 もしも、この尊極なる学会の組織の上で、あぐらをかくような惰弱な幹部がいれば、皆で厳しく追及していくべきだ。
11  “これから歩む道を描きたい”
 さて、東山画伯は、若き日の苦闘の時代を乗り越え、やがて、世に大きく認められていく。
 そのきっかけとなった画伯の代表作に、名画「道」がある。昭和25年、42歳のときに発表された。
 〈名誉会長の小説『新・人間革命』の全面広告に、この作品「道」が掲載された際には、各界から大きな反響が寄せられた〉
 この「道」は、いかなる道か。それは「これまで歩んできた道」ではない。「これから歩もうとする道」なのである。
 画伯は語られている。
 「道は、歩いて来た方を振り返ってみる時と、これから進んで行こうとする方向に立ち向う場合がある。
 私はこれから歩いて行く方向の道を描きたいと思った」(前掲『泉に聴く』)
 夏の静かな早朝。
 ほのかに明るい空の下に、彼方へと続きゆく道。
 そこには、「ひとすじの道を歩こう」「未来へと歩み出そう」という、画伯の強い意志が凝結されている。
12  明日は新しい生
 私はかつて、この「道」の絵画に寄せ、句を詠んだ。
  この道は
    われら勝利の
      凱旋道
 私たちも、わが「ひとすじの道」を歩みたい。
 使命の道、対話の道、友情の道を!
 希望の道、明朗の道、幸福の道を!
 広宣の道、破邪の道、正義の道を!
 平和の道、文化の道、教育の道を!
 同志の道、師弟の道、そして勝利の道を!
 一日一日、胸を張って、生き生きと堂々と、朗らかに前進していきたい。
 東山画伯は言われている。
 「地上に生きる者にとっては一日は一日で終りであり、明日は新しい生である」(前掲『泉に聴く』)
13  魂の情熱を! 忍耐の力を!
 芸術も、そして人生も、わが使命の道を、生きて生きて生き抜くことだ。
 あえて苦難を求め、それに打ち勝ってこそ、生命の真髄の光が輝く。
 御聖訓に「くろがねは炎打てば剣となる」と仰せの通りである。
 人権の指導者である、アメリカのキング博士は述べている。
 「死には驚くべき民主主義がある」
 「王も物乞いも、金持ちも貧乏人も、また老いも若きも死ぬ」(梶原寿監訳『私には夢がある M・L・キング説教・講演集』新教出版社)
 まったく、その通りである。
 万人に等しく訪れる生老病死――そこにどう立ち向かうかに、人の真価は表れる。
 対談集『健康と人生』をともに発刊したモントリオール大学のブルジョ博士は強調されていた。
 「重要なのは、『何年生きたか』ということだけではなく、豊かな希望をもって『どう生きたか』だと思います」
 生老病死の苦悩を打開した人こそ、生命の究極の勝利者である。
 ブラジルの作家アレンカールは断じている。
 「何事も、成し遂げる力は精神から生まれる。人間がその魂の情熱と忍耐強いエネルギーを用いれば、必ず困難に勝つのだ」
 中国のペンの闘士 青年の成長を見ると嬉しくてたまらない
14  権力の魔性と戦い抜け
 戸田先生と同世代であった、現代中国を代表する「ペンの闘士」巴金先生との語らいは、忘れ得ぬ歴史である。
 1980年(昭和55年)の4月に、静岡研修道場にお迎えして以来、4度の語らいを重ねた。
 巴金先生、また女性作家の謝冰心先生一行は、中等部員の歓迎の合唱を、ことのほか喜ばれ、「青年は人類の希望です」「若者の成長を見ると、嬉しくてたまらないのです」と、にこやかに語りかけておられた。
 以後の語らいでも、巴金先生はこの時のことを「非常に楽しいひとときでした」と振り返っておられた。
 今日まで伝統となっている、未来部や学園生による合唱などの歓迎は、来賓の方々の心のなかに、深く深く刻まれているのである。
 〈当時、巴金氏らの受け入れを担当し、この日も同行した、財団法人松山バレエ団理事長の清水正夫氏は後に、聖教新聞に次のような声を寄せている。
 「文革の弾圧をはねのけ、『中国の良心』ともいわれる作家の巴金氏は“友情というものは一つの感情の帯のようなものだ。私たちと日本の友人の心は堅固に結びついていく”とつづっています。真の友情こそ苦難を越える最大の力です。
 その巴金氏が、80年春、中国作家代表団団長として訪日しました折、池田名誉会長は、静岡研修道場で温かく一行をもてなしてくださいました。私は案内役を務めましたが、家族のように巴金氏を迎えられた心遣いを忘れることはできません」〉
15  1984年の6月には、巴金先生の上海のご自宅に、お招きいただいた。
 じつは、巴金先生は、横浜とも縁が深い。初めて巴金先生が日本を訪れたのは、戦前の1934年(昭和9年)11月。
 若くして、すでに作家として注目を集めていた巴金先生が、日本語を学ぶため、上海から横浜へ渡航したのである。
 この時、巴金先生は3カ月にわたって、現在の神奈川文化会館にも近い、横浜市中区本牧和田の丘の上の家に滞在されたという。
 この横浜の地で巴金先生が著した『長生塔』という作品がある。
 権力者が自らの長生不死を願い、民衆を虐げ、民衆を犠牲にして巨大な塔を築き上げる。
 しかし、最後、ついに権力者がその最上階に立った絶頂の瞬間に、塔は音を立てて崩れ去った、という物語である。
 巴金先生ご自身が、こうした権力の魔性と戦い抜いてこられた。だからこそ、創価学会に深い信頼を寄せてくださった。
16  先頭に立て!
 ともあれ、一番、大切なのは、健気な民衆である。尊い学会員である。
 一生懸命に弘教に励む人をバカにする。下に見る。それは仏をバカにすることにも等しい。とんでもないことだ。
 信心のある人、妙法を流布する人が一番、偉いのである。この学会員をいじめたり、苦しめたり、利用した輩が、「終にほろびざるは候はず」の末路を遂げていることは、厳然たる事実だ。
 御聖訓には「悪は多けれども一善にかつ事なし」と仰せである。
 悪と戦ってこそ善である。そして、一切の悪を打ち破っていけるのが日蓮大聖人の仏法なのである。
 巴金先生は語っておられた。
 「私は青年を信じている。それぞれの時代には、必ず、すぐれた青年が出てくるし、すぐれた思想が出るものだ。
 青年は、自分で、戦って、戦って、戦い抜いて、勝ちとったものを自分のものとすべきだ」
 広宣流布の戦いも、自分自身が先頭を切って戦い、勝ち抜くのだ。勝った分、自分自身の境涯が広がる。戦いの舞台も大きく広がっていくのだ。
 さらに、わが青年部に巴金先生の言葉を贈りたい。
 「人民の力は無敵であり、無窮でもあります」(石上韶訳『病中集』筑摩書房)
 「正義の私たちは最終的に必ず勝利を得られると信じている」(大林しげる・北林雅枝共訳『巴金写作生涯』文芸東北新社)
 神奈川の出身で、戸田先生も尊敬されていた日本の「憲政の父」尾崎咢堂は述べている。
 「大変革の時にはいつでも二十歳か三十歳位の人が先に立って働く」(『尾崎咢堂全集第7巻』公論社)
 またフランスの文豪ロマン・ロランは記した。「新しい人間なくして、新しい制度が何でしょうか?」(「戦時の日記」波多野茂弥訳、『ロマン・ロラン全集30』所収、みすず書房)
 大切なのは青年だ。青年に未来を託す以外にない。
 若き青年部の諸君は、「正義なればこそ、断じて勝つ!」との気概で、すべてに勝利、勝利の歴史を残していただきたい。
17  仏法を破壊する慢心と戦え!
 戸田先生は、本当に偉大な師匠であられた。時を経るごとに、ますます先生の大きさ、ありがたさを感じる。
 戸田先生のお誕生日をお迎えし、ますます師の大恩にお応えしゆくことを誓う日々である。
  偉大なる
    恩師と共に
      学会は
    三障乗り越え
      三類勝ちたり
 日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布に身命を捧げた戸田先生は、真正の「法華経の行者」として、あらゆる増上慢と戦い抜かれたご生涯であられた。
 広宣流布の実践には、必ず、三類の強敵(俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢)が起こる。
 この大確信で、戸田先生は一切の増上慢の勢力と戦われた。仏法に無智な衆生、邪智・慢心の坊主、そして、民衆を軽賎する権威や権力に決然と立ち向かわれた。
 そうした三類の強敵の難を受け切り、三障四魔と戦い、あらゆる増上慢を断固、打ち破っていくことこそ、創価の師弟の道であることを示された。これが、三代の誉れの大闘争である。
18  師子身中の虫
 とともに、戸田先生は繰り返し繰り返し、こう戒めておられた。――仏法者が一番、戦わなければならない、真の敵とは、いったい何か。それは、増上慢の「師子身中の虫」である――と。
 御聖訓にも、「師子の身中の虫が師子をくらうという通り、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こって仏道を減ぼすであろう。これが仏の遺言である」(御書1271㌻、通解)とある。
 また、「日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るようなものである」(同1337㌻、通解)と厳しく仰せである。
 仏法の和合僧の世界は、外敵から破られることはない。しかし、「師子身中の虫」が師子を食み、「城の人間」が城を破るように、慢心の者が仏法の世界を内から破壊するのである。
 「心こそ大切なれ」と結論なされているごとく、信仰で最も大切なものは「心」である。
 いかなる迫害や弾圧があっても、「心」が屈しなければ、破れることはない。しかし、悪知識(人々を迷わせ、仏道修行を妨げる者)は「心」そのものを破る。「心」が破壊されれば、もはや仏法の命脈は断絶してしまう。
 この「心」の世界を破る仏法破壊の魔性の生命が「増上慢」である。だからこそ、仏法者は、増上慢と戦わなければならない。
 これが、釈尊、大聖人の御遺誡であられる。そして、戸田先生の遺言であられた。
19  「慢」は、自身の生命を破るだけでなく、他者の生命をも破壊する。
 つまり慢心に囚われれば、成長は止まる。いな「進まざるは退転」であり、堕落が始まる。さらに慢心は、同志や後輩を苦しめ、その前進を妨げる。そして、ついには和合僧を破壊する。
 ゆえに、増上慢の人間は、峻厳に戒め、退けていかなければならない。その戦いを避けるのは、ずるい人間である。
20  法華経の会座と「上慢の四衆」
 法華経の会座でも、師・釈尊の教えを聞こうとせず、退座した五千の「上慢の四衆」がいた。
 〈「上慢」とは、増上慢。いまだ最高の法を得ていないのに得たと思い、傲りたかぶること。「四衆」とは、「出家した男女」と「在家の男女」の仏門の4種の弟子をいう〉
 御義口伝では、上慢の四衆についての天台大師の文を引かれ、さらに、次の妙楽大師の文を引用されている。
 「自らの疵をかくし、外面には徳のあるがごとき姿を示すのは上慢の姿であり、自ら省みることができないというのは我慢の姿である」(同718㌻、通解)
 自らの誤りや欠点を隠しだてしたり、見栄を張って自分を取りつくろったりする。反省もしない。そうした気取りは、自分を小さく窮屈に閉ざしてしまうだけだ。
 ありのままの姿で、自分らしく伸び伸びと向上していくことだ。そして師匠の指導を受け、よき同志と切磋琢磨しあいながら、自分自身の境涯を大きく開いていけばよいのである。
21  「自分」中心か「師匠」中心か
 信心の大敵は、「慢心」や「我見」である。
 牧口先生も厳しく言われていた。
 「我見の信心の人は、ちょうど尺八を逆に吹いているようなものだ。濁った音は出るかもしれないが、本来の美しい音色の功徳は出ない」
 「自分」中心ではいけない。どこまでも「法」中心、「師匠」中心で、最後まで生き抜くのが仏法の世界だ。また、正しい人間の世界だ。
 とくにリーダーは、この点を厳しく律しなければいけない。リーダーが自分中心になってしまうと、皆が本当にかわいそうだ。
22  他者の尊厳を認めない心
 慢心は、十界でいえば「修羅界」に当たる。この生命の魔性については、過日の「SGIの日」記念提言でも論じた通りである。
 「勝他の念(他に勝ろうとする心)」に支配されるあまり、人を下し、他を軽んじ、他者の生命に具わる尊極の仏性を認めようとしない。
 しかし仏法の最高峰の教えである法華経は、平等大慧の「万人成仏の法」である。すなわち、すべての人に仏性があり、どんな人も仏になることができると説いている。
 他者の仏性を認めず、我のみ尊しとする「慢心」は、仏法に対する違背となるのである。
23  五種の過失
 御書には、この万人の成仏を否定する慢心など、仏道修行を妨げる「五種の過失」が紹介されている(御書426㌻)。
 第1は、「下劣心」である。だれもが仏であるとの教えを知らず、自身に「下劣」の心を起こし、菩提心を起こせないことをいう。
 第2は、「高慢心」である。わかりやすく言えば、思い上がりである。自分は特別である、偉いとうぬぼれる慢心とも言える。
 「慢心」の者は、仏法を正しく聞けない。他者の生命に仏性が具わることを信じられず、その可能性を疑う。ゆえに、人々を救っていこうという心を起こすこともできないのである。
 人を見下し冷酷に扱うのは、慢心の反逆者に共通した本性である。
 傲慢な人間は必ず威張る。しかし威張るだけでだれも救えない。現実に広宣流布を進めることもできない。
 第3は、「虚妄執」である。虚妄(うそ、いつわり)にすぎない我に対する強い執着をいう。
 「法」が根本でない人は、我見に走り、わがままになる。
 第4は、「謗真法」である。真実の法を謗ずることだ。
 慢心の者は、仏法の根本軌道から外れ、仏や法を誹謗し、師敵対する。
 第5は、「起我執」である。我執を起こし、自己中心で衆生を思いやる心がない。自分さえよければと、一切衆生を救う使命を忘れ去ってしまうことである。
 一方、慢心と対極にある心が、悟りを求め、修行に励み、人々を救っていこうとする「菩提心」である。
 人々を尊敬し、人々を信頼し、人々を大切にして、誠実に粘り強く働きかけて、ともに幸福になっていこうとする学会活動の中に、この生命は躍動していくのである。
24  不軽菩薩の実践
 神奈川の門下・四条金吾への有名な御聖訓を拝したい。
 「釈尊一代の説法の肝心は法華経である。法華経の修行という点で、その肝心をいえば、不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったというのは、どういうことを意昧するのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人としての振る舞いを説くことであった」(同1174㌻、通解)
 「賢いものを『人』と言い、愚かなものを『畜生』と言う」(同)
 ご存じの通り、法華経に説かれる不軽菩薩は、増上慢の大勢力が傲りたかぶる時代にあって、あらゆる人々に対して、礼して語りかける。
 「私は深く、あなた方を敬います。決して軽んじたり、慢ったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」と。
 大聖人は、この不軽菩薩の対話の行動こそが、「法華経の修行の肝心」であると断言なされた。
 それを、そのまま、現代に実践しているのが創価学会である。
 増上慢に対する究極の戦いが、ここにあるといってよい。
 それは、仏に等しい学会員に最敬礼し、合掌する思いで、その「仏の命」「仏の力」「仏の智慧」を、最大に引き出しながら繰り広げていく広宣流布の戦いである。
25  一人を大切にした2月闘争
 私は、あの55年前の「2月闘争」の時も、一人一人の同志を心から尊敬し、信頼し、大切にして、皆が誇りを持ち、希望に燃えて自信満々と力を発揮できるように指揮を執った。
 そして、師・戸田先生が願業となされた75万世帯への突破口を劇的に開いたのである。
 皆さま、ご存じの通り、その重大な電源地こそ、神奈川であり、川崎であった。
 蒲田支部の白木静子婦人部長とともに、川崎の地区拠点に行ったとき、集まったのは、お2人であった。人数が少ないので、婦人部長は落胆されたようであった。
 しかし、私は朗らかに「お元気ですか。ひとつ、頑張りましょう!」とねぎらい、励ましながら、一緒に朗々と勤行をした。
 たった一人でもいい。その人が真剣に立ち上がれば、どれほど大きな力を出して、広宣流布の波を起こしてくれることか。そのたゆみなき積み重ねから、巨大な勝利の勢いが生まれていくのである。
 幹部に慢心や威張りなど、微塵もあってはならない。みずみずしい初心を忘れないことだ。
 幹部を特別扱いしてはいけない。出迎えや見送りなど、形式張ったことも必要ない。あくまでも「会員第一」の学会である。そういう一つ、一つを大事にして、学会らしい伝統をつくってまいりたい。
 一人一人の戦う同志を、仏のごとく敬いながら、その力を結集していく“不軽の実践”こそが、広宣流布の法戦の勝利を決定づけていく。
26  「不知恩は地獄の苦しみに通ずる」
 あの「まさかが実現」と言われた大阪の戦いも、不軽のごとき実践に徹し抜いたから勝ったのである。
 当時、必ず勝てると言われていた東京が敗れた元凶が、上に立つ幹部の「慢心」にあったことは、ご存じの通りだ。
 あのソクラテスの弟子の一人であり、大歴史家としても名高い、クセノフォンは言った。
 「思慮ある人間は傲慢とはなれない」(佐々木理訳『ソークラテースの思い出』岩波文庫)
 さらにまた、ウクライナのソクラテスと謳われる大哲学者スコボロダの言葉に、こうある。
 「私が何をしているか?……友よ、私は感謝を学んでいるのだ。それが私の仕事だ」「不知恩は、地獄の苦しみに通ずる」
 愚かな「慢心」は、師匠の恩を忘れ去った「忘恩」の裏返しである。
 ゆえに、それは「破和合僧」そして「師敵対」という悪逆にも通じていく命だ。
 だからこそ、厳重の上にも厳重に呵責していかねばならない。
 大聖人は、佐渡御書に「日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのような大難(=佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような歪んだ心の者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不欄としか言いようがない」(同960㌻、通解)
 よくよく心肝に染め抜いていかねばならない御聖訓である。
27  無見頂相とは
 ともあれ、わが尊き同志は、来る日も来る日も、真剣に、ただ広宣流布のために、現実の人間群の真っ只中に飛び込んで、誠実に真心こめて、礼を尽くして、苦労しながら、人間外交を広げておられる。
 それが、いかに仏法の法理に則った行動であるか。
 仏が具える八十種好(八十種の好ましい相)の一つに「無見頂相」がある。
 これは、仏は仰ぎ見るほど高く、だれもその頭の頂を見ることはできないという意義で、仏の計り知れない尊貴な大境涯を表している。
 では、仏は、いかにして、この「無見頂相」を得たのであろうか。
 それは、師匠や父母など大事な人に対して、頭を地につけて、恭敬したゆえである。〈御書1122㌻〉
 この因果の理法に照らしても、仏法と社会のために懸命に戦っている、わが学会員が、生々世々、あらゆる人々から仰ぎ見られるような尊貴な境涯を開いていくことは間違いないのである。
28  同窓生から便り
 さて、日本全国の創価同窓生から、うれしい活躍の便りが届かない日はない。
 きょう代表が参加した東海道、関東でも、創価同窓の友の活躍が光っている。
 また遠いところから創価学園、創価大学に頑張って通学している現役生の皆さんも数多くいる。健闘を心から讃えたい。
 今、世界中から、創価教育へ期待と賞讃の声を寄せていただいている。
 アメリカ・デューイ協会のヒックマン会長は、こう語られている。
 「創価教育システムは、一本の共通の糸で結ばれています。
 その一本の糸とはきめ細やかな配慮です。個人としてまた広い社会の一員としての成長を促すように、生徒が才能と興昧を伸ばせるように、創価教育システムは隅々まで配慮しています」(月刊誌「潮」2006年8月号)
 また昨年、名誉教授称号の授与のため、来日してくださった中国・華東師範大学の羅国振副学長は、創価教育の「学生第一」の精神に共鳴して、語られた。
 「教師はつねに学生に心を寄せて、学生を守ることです」「力のない教師は、学生の才能を発見できません。教師は、自分自身が永遠に学び、あらゆる方法を用いて教え導いていくべきです」(月刊誌「灯台」2006年7月号)
 教師が学び続け、向上し続けてこそ、学生も伸びていく。創価教膏を支える教員の皆さま、そして、「教育の世紀」を担う教育部の皆さまへの期待は限りなく大きい。
29  連帯こそ力!
 昨年の11月、私は、ノーベル平和賞受賞者で、「世界子ども慈愛センター」のベティ・ウィリアムズ会長と東京牧口記念会館でお会いした。
 ウィリアムズ会長は、創価の婦人部、女子部との交流も、心から喜んでくださった。
 その後、会長は、取材に答えて、次のように語っておられたとうかがった。
 「創価学会は、女性のパワーを知っています。創価学会の女性たちは、平和のために献身する世界の女性たちとも精神的な連帯で結ばれています。それは、生命を育む『母』であるがゆえに分かり合うことのできる連帯であるといえましょう!」
 連帯こそ力である。
 世界に「平和の文化」を広げゆく尊き“創価の母”へのエール(声援)として紹介させていただいた。
30  前進、前進!
 中国の大文豪・魯迅先生の言葉に、こうある。
 「路とは何か。それは、路のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに開拓してできたものだ」(竹内好訳『魯迅作品集3』筑摩書房)
 この魯迅先生の一文を、私は、第三代会長に就任する前、日記に書きとめた。
 あの時、全国に先駆けて、会長推戴を叫んでくださったのは、わが埼玉の同志であった。そして私は、大いなる希望を胸に、新たなる創価の大道を、一歩また一歩と切り開いてきたのである。
 初訪中の折、魯迅先生が晩年を過こした上海の故居を訪ねたことも懐かしい。〈1974年6月〉
 簡素な部屋には、亡くなる2カ月前に記された文章が掲げられていた。
 それは、「もし、私が生きていることができるならば、もちろん、私は学び続けていく」との言葉であった。
 恩師・戸田先生の遺言の叫びが、わが胸に思い出された。
 「邪悪とは、断固、戦え! 一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!」と。
 広布を阻む邪悪な輩とは、火を吐く言論で戦い抜いていくことだ。
 戸田先生は峻厳だった。甘ったれは、微塵も許さなかった。
 仏法は峻厳である。
 師弟は峻厳である。
 この峻厳さがなくなったら、仏法はない。
 魯迅先生は、こうも綴られた。
 「いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにいない」(前掲竹内訳)
 前進! 前進! それが生命の本質である。
 さあ前進を開始しよう! 人を救い、法を救い、広宣流布に奔走する、われらの功徳は計り知れないのである。
 〈昨年10月、香港を代表する月刊文芸誌『城市文藝』(第9期)が魯迅を特集。そのなかで、中国作家協会会員の孫立川博士が記した、名誉会長の“魯迅学”に関する研究論文が紹介された。孫博士は、名誉会長の魯迅研究を「独特の風格を備えた『魯迅学』であり、唯一無二の『魯迅教室』」と評価している〉
31  世界平和のために戦われたアインシュタイン博士は、晴れ晴れと語った。
 「声を大にして叫べぱ、あらゆる問題のうち最大のもの――人々の間の善意と地球上の平和を助長することが、出来るでしょう」(金子敏男訳『アインシュタイン平和書簡1』みすず書房)
 今秋には、わが愛する神奈川青年部が「原水爆禁止宣言」の50周年を記念して、盛大に「神奈川青年平和総会」を開催する予定とうかがった。
 この1年、神奈川青年部の「正義」と「平和」の頼もしき連帯の拡大を祈りたい。
32  政治とは民衆を幸福にする技術
 私は、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長のウンガー博士と対談「人間主義の旗を――人間性・慈悲・寛容」を進めてきた。
 このアカデミーの本部は、オーストリア・ザルツブルクにあるモーツァルト広場のすぐ近くにある。ザルツブルクといえば、川崎市の友好都市である。
 ウンガー博士は語っておられた。
 「政治は、民衆に奉仕するための技術であるべきです」と。
 恩帥・戸田先生も「政治は技術である」と喝破された。それは、“民衆の幸福を実現するための技術が政治である”との意味である。
 対談では博士とオーストリアの作家ツヴァイクについても語り合った。ツヴァイクは、文豪ロマン・ロランについての評伝のなかで記している。
 「真の青年は一つの信仰なくしては生き得ず、希望を失った世界の道徳的な麻痺のなかに呼吸することはできない」「精神はその最高の段階においては常に宗教となる」(大久保和郎訳『ロマン・ロラン』慶友社)
 よくよく噛みしめたい言葉である。
 また、ツヴァイクは、別の作品のなかで、こう記している。
 「一個の人間がその全力を賭けるときにのみ、彼は、自己自身にたいしても、他人にたいしても、ほんとうに生きているのである」(古見日嘉訳『ツヴァイク全集18 メリー・スチュアート』みすず書房)
 戦いがあるから、人生はおもしろい。苦労が多い分だけ、人生は晴れやかに広がっていく。一生懸命に頑張るから、歓喜も感動もわき上がるのである。
 ともどもに、いい人生を総仕上げしていきたい。
33  戸田先生を偲んで、先生のご指導を確認しておきたい。
 「正義の民衆は、また正義の女性は、そして、正義の青年は、断じて負けてはならない。断じて勝たなければならない」
 さらに先生は、「大悪をこれば大善きたる」との御聖訓を引かれ、「最後は正しいものが勝つ。正しい信心をしているものが勝たないはずがない。われわれは堂々となすべきことをやっていくだけだ」と叫ばれた。
 正義は断じて勝つ!――この心意気でやろうではないか。
34  広布に励む婦人部、女子部を心から尊敬され、大切にされた先生であった。
 「婦人部に感謝できず、婦人部に傲慢な態度を示す幹部は、絶対に学会から去れ!」と厳しかった。
 また次のように婦人部の友に励ましを贈られたこともある。
 「苦しみや悲しみ、悩みもあろう。だが、じっとこらえて御本尊を仰いでみなさい。夜空には、無数の星が満天にきらめいているがごとく、御本尊の慈光もあまねく星のごとしなのだよ」と。
 ありがたいことに、先生は、会員の生活のことや、家族のこと、子どものこと、将来のことなど、細かいところまで考えて、面倒を見てくださった。それが、創価学会の会長の姿である。
 先生の「一人を大切に」とのお心を受け継いで、私は、今日まで同志のために走り抜いてきたつもりである。
35  恩師の叱咤
 何から何まで、厳格な先生であった。だからこそ、学会は、ここまで発展してきたのである。
 「戦いは真剣さが大事だ。真剣でなくては悔いが残るぞ」
 「『いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ』と!――この決心なくして、信心のリーダーとはいえない」
 また戸田先生は、私に語ってくださった。
 「人生、行き詰まった時が勝負だぞ! その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。この一念の分かれ目が勝負だ!」
 忘れ得ぬ恩師の叱咤である。
36  決然と立て!
 恩師とともに読んだ名作『スカラムーシュ』。このなかの親友の死の場面で、先生は、しみじみと語られた。
 「ひとかどの人物は、かならず何かのきっかけをつかんで、決然と立ち上がるものだ。特に人間の死というものに直面した時の決意は、最も強く大きいものがある」と。
 さらに、御聖訓を拝し、このように言われた。
 「『日蓮悦んで云く本より存知の旨なり』――もとより覚悟の上であると。これほどまでに腹がどっしり決まれば、何事も驚かないですむのだ」と。
 私は、若き日から、いつも戸田先生のことを語ってきた。
 “戸田先生は、こう言われた”“戸田先生は、こう行動された”と。
 恩師の話を、同志も一番喜んでくれたし、それが皆の爆発的な前進の力となってきたのである。
 師匠のことを語れぱ、その人自身が光っていく。それを幹部は忘れてはいけない。
37  先生が教えてくださった勝利への鉄則。
 それは、「最も行きづらい所にこそ、まっ先に行く。最も大変なことにこそ、まっ先に挑戦するのだ」とのご指導である。
 さらに先生は言われた。
 「10年、20年めざし、信心の苦労を噛みしめてごらん。必ず、世界に通用する見識、人格を培うことができるからな」と。
 その通りの人生を私は歩んできた。本当にありがたい先生であられた。
 そして、戸田先生は、大確信で宣言されたのである。
 「日蓮大聖人から最大に賞賛され、大功徳を受ける資格のある人は、大勇猛心の決意で戦い進んだ人である」と。
38  最後に恩師の生誕107周年を慶祝し詠んだ和歌を紹介させていただきたい。
  偉大なる
    恩師のもとで
      晴ればれと
    広布に走りて
      勝ちたる育春
  
  わが人生
    師弟不二なる
      正道を
    戦い勝ちたる
      名誉は永遠にと
  
  人生に
    ありて尊貴な
      生涯は
    師の恩 報ずる
      金の道かな
 全国、全世界の同志の皆さまのご健康とご活躍、そして、ご一家のご多幸を祈りつつ、記念のスピーチを終わります。
 長時間ありがとう! 風邪などひかないように。またお会いしましょう!

1
1